先日、競馬で大穴を当て60万円ほど手に入れたお客さんがいた。
50代後半の独身男性である。田舎から大阪に出てきて40年来、ずっと1人で生きてきた人だ。
年齢と彼女いない歴は同じというその彼は、人は良いのだろうが、男の私から見てもまぁ女性とは縁の無さそうな雰囲気が染み付いてしまっている。
たまに今回のような嬉しい入金があるとルンルン気分で遊びに出かけるところがあるようだ。遊郭である… 彼も久しぶりにお大尽遊びができそうである。
▼写真は明治初期の吉原遊郭

手前に並んでいるのが遊女…後ろに並んでいるのが客と交渉する「やり手婆」
▼明治初期、門司の遊郭

遊郭など日本にはもうないと思う人もいるだろうが、大阪は特殊な街である。今日では色々な種類の風俗産業があるが、所謂、売春防止法が施行されてからもずっと同じ形態で商売をしている場所が少なくとも大阪市内だけで3箇所はある。
昭和21年にはGHQの政策により公娼制度が廃止されるが、カフェーや料亭などと看板を変えて、ほぼそのまま「赤線」の通称で呼ばれる地域になった。昭和31年、売春防止法が成立し、昭和33年3月31日、同法の施行と共に公娼地域としての遊廓の歴史は、建前では完全に幕を閉じることになった。
したがって現在公認の娼婦街はないが、大阪の飛田新地など、表向き料理旅館に転向したものの、客と仲居との個室内での自由恋愛の名目の元に、昭和33年以前と変わらない営業を継続している地域もいくつかある。
▼有名な飛田新地の「鯛よし百番」

飛田新地は大正時代に築かれた日本最大級の遊廓と言われた。
現在料亭(本来の料亭)として営業している鯛よし百番は、大正中期に遊郭として建てられた建物を使用しており、平成12年に国の登録有形文化財となった。
売春防止法施行以後は料亭街『飛田料理組合』となっているが、現在も当時の雰囲気を伝えている。なお、ほとんどの「料亭」は看板は料亭であるが、営業内容は昭和33年以前と何ら変わりがない。
▼ズラッと並ぶ「料亭」・・・こういう筋がいくつかあるらしい…(私は行ったことがない)

表向き料亭に転向することにより、料亭内での客と仲居との自由恋愛という脱法行為として売春防止法を逃れられたためである。同様に大阪市内には松島新地(西区)や今里新地(生野区)等、現代に生き残った旧赤線がある。なお、大阪府は条例でソープランドを許可していない。かつてはこの地区にもソープランドが存在したが、大阪府下の他のソープランド同様、一斉摘発により廃業に追い込まれている。
また、東京の吉原のように、かつての公娼街がその後もソープランドや風俗営業の多く集まる地域となり、公娼地域まがいに営業を続けている所などもある。
一般婦女に害が及ばないように、こうした欲望の息抜きの場所を設けるのは、必要悪とでも言うのかお上は見てみぬふり、知らんぷりを決めてお目こぼしをしているのである。世界的にもよくある話だ。
権力の統制と保護を受け、遊郭として1箇所に集められるのは、安土桃山時代のことである。豊臣秀吉の治世に、遊郭を設けるため京の原三郎左衛門と林又一郎が願い出を秀吉にしており許可を得ている。1589年(天正17年)には、京都、二条柳町に遊廓が作られた。大阪と京都の遊廓は17世紀前半に、それぞれ新町(新町遊廓)と朱雀野(島原遊廓)に移転。
江戸に遊廓が誕生したのは1612年(慶長17年)である。駿府(今の静岡市)の二丁町遊郭から遊女屋が移され、日本橋人形町付近に遊郭がつくられ吉原遊廓と呼ばれた。
大阪の夕霧太夫のいる新町、京都の吉野太夫のいる島原、江戸の高尾太夫のいる吉原の遊廓は、三大遊廓(長崎・丸山を入れる説もある)と呼称された他、江戸時代には、全国20数カ所に公許の遊廓が存在した。当時最大の遊廓は江戸の吉原で、新吉原ができた頃には300軒近い遊女屋があったと言われている。
▼横浜の明治初期の遊郭…世界的にも有名だった神風楼「ネキタリン・ナンバー9」という店。この店をめざして世界中の男が横浜に用事を作ったとか??(笑)


50代後半の独身男性である。田舎から大阪に出てきて40年来、ずっと1人で生きてきた人だ。
年齢と彼女いない歴は同じというその彼は、人は良いのだろうが、男の私から見てもまぁ女性とは縁の無さそうな雰囲気が染み付いてしまっている。
たまに今回のような嬉しい入金があるとルンルン気分で遊びに出かけるところがあるようだ。遊郭である… 彼も久しぶりにお大尽遊びができそうである。
▼写真は明治初期の吉原遊郭

手前に並んでいるのが遊女…後ろに並んでいるのが客と交渉する「やり手婆」
▼明治初期、門司の遊郭

遊郭など日本にはもうないと思う人もいるだろうが、大阪は特殊な街である。今日では色々な種類の風俗産業があるが、所謂、売春防止法が施行されてからもずっと同じ形態で商売をしている場所が少なくとも大阪市内だけで3箇所はある。
昭和21年にはGHQの政策により公娼制度が廃止されるが、カフェーや料亭などと看板を変えて、ほぼそのまま「赤線」の通称で呼ばれる地域になった。昭和31年、売春防止法が成立し、昭和33年3月31日、同法の施行と共に公娼地域としての遊廓の歴史は、建前では完全に幕を閉じることになった。
したがって現在公認の娼婦街はないが、大阪の飛田新地など、表向き料理旅館に転向したものの、客と仲居との個室内での自由恋愛の名目の元に、昭和33年以前と変わらない営業を継続している地域もいくつかある。
▼有名な飛田新地の「鯛よし百番」

飛田新地は大正時代に築かれた日本最大級の遊廓と言われた。
現在料亭(本来の料亭)として営業している鯛よし百番は、大正中期に遊郭として建てられた建物を使用しており、平成12年に国の登録有形文化財となった。
売春防止法施行以後は料亭街『飛田料理組合』となっているが、現在も当時の雰囲気を伝えている。なお、ほとんどの「料亭」は看板は料亭であるが、営業内容は昭和33年以前と何ら変わりがない。
▼ズラッと並ぶ「料亭」・・・こういう筋がいくつかあるらしい…(私は行ったことがない)

表向き料亭に転向することにより、料亭内での客と仲居との自由恋愛という脱法行為として売春防止法を逃れられたためである。同様に大阪市内には松島新地(西区)や今里新地(生野区)等、現代に生き残った旧赤線がある。なお、大阪府は条例でソープランドを許可していない。かつてはこの地区にもソープランドが存在したが、大阪府下の他のソープランド同様、一斉摘発により廃業に追い込まれている。
また、東京の吉原のように、かつての公娼街がその後もソープランドや風俗営業の多く集まる地域となり、公娼地域まがいに営業を続けている所などもある。
一般婦女に害が及ばないように、こうした欲望の息抜きの場所を設けるのは、必要悪とでも言うのかお上は見てみぬふり、知らんぷりを決めてお目こぼしをしているのである。世界的にもよくある話だ。
権力の統制と保護を受け、遊郭として1箇所に集められるのは、安土桃山時代のことである。豊臣秀吉の治世に、遊郭を設けるため京の原三郎左衛門と林又一郎が願い出を秀吉にしており許可を得ている。1589年(天正17年)には、京都、二条柳町に遊廓が作られた。大阪と京都の遊廓は17世紀前半に、それぞれ新町(新町遊廓)と朱雀野(島原遊廓)に移転。
江戸に遊廓が誕生したのは1612年(慶長17年)である。駿府(今の静岡市)の二丁町遊郭から遊女屋が移され、日本橋人形町付近に遊郭がつくられ吉原遊廓と呼ばれた。
大阪の夕霧太夫のいる新町、京都の吉野太夫のいる島原、江戸の高尾太夫のいる吉原の遊廓は、三大遊廓(長崎・丸山を入れる説もある)と呼称された他、江戸時代には、全国20数カ所に公許の遊廓が存在した。当時最大の遊廓は江戸の吉原で、新吉原ができた頃には300軒近い遊女屋があったと言われている。
▼横浜の明治初期の遊郭…世界的にも有名だった神風楼「ネキタリン・ナンバー9」という店。この店をめざして世界中の男が横浜に用事を作ったとか??(笑)

