次郎長をたずねに、清水へいってきました。
詳しい地図(Mappinのキョリ測)は↓をクリックしてください
▲注意 クリックすると、赤い線のルートしか表示されませんでした(^_^;
改めて下記の色別のリンクを貼ります
実はちょっと失敗しまして「壮士の墓」へは行っていないのですが、万が一患者様の中でこれを参考に歩いてみる人がいるといけないので、壮士の墓も含めたものになってます。
■赤い線─はJR清水駅から歩いて「河岸の市」の前を通りつつ、エスパルスドリームプラザ経由で清水次郎長の船宿「末廣」を見学してから「壮士の墓」までの道。(このルートは上の地図をクリックしてください)
■緑の線─は末廣を出てから港橋を渡り、次郎長通り商店街を歩きつつ次郎長生家へ行く道。(ここのルートはこちら)
■青い線─は次郎長生家から次郎長の眠る「梅蔭禅寺」までの道。(ここのルートはこちら)
清水次郎長についてはわたしの認識では「博打大好き、やくざの大親分」というのが8割を占めてました。
でもこれほど人気があるのは何故だろうと思っていたときに東海道を歩き出したのです。
東海道には次郎長がときどき登場します。
江尻宿を抜けて追分にくると「都田吉兵衛の供養塔」があるのですが、これは森の石松をはめて殺した都田吉兵衛が、ひょこひょこ江尻に来た(フグにあたったと噂の次郎長一家をたたくために来たとの話もある)ものだから次郎長一家に成敗されちゃったところですね。
東海道沿いの由比から薩た峠にさしかかるところに「間の宿」だった西倉沢の集落があります。
そこには絶景の眺めと評判の「望嶽亭 藤屋」という茶屋(茶屋の脇本陣を勤めていたらしい)がありました。
今も建物は当時のまま残され、静岡では有名なイラストレーター、故松永宝蔵氏はここの二十三代目の当主でした。故松永宝蔵氏は「由比おもしろ宿場館」のやじきた人形のデザインをした方です。
ここ↓に出てるイラストが彼のものです。
http://plaza.across.or.jp/~kakusa/omoshirokan.html
今は未亡人となった松永さだよさんが「望嶽亭 藤屋」の話を聞かせてくれるそうです。(見学には予約が必要)
「望嶽亭 藤屋」の話とは、山岡鉄舟が江戸城無血開城のために西郷隆盛と会見するために府中へ向かっている時、さった峠あたりで官軍に見つかり追われて望嶽亭へ逃げてきたときのことです。
当時の望嶽亭の当主が山岡鉄舟をかくまい、妻おかくに命じて官軍からの質問に答えさせ(これもかなりの命がけのやりとり)その隙に地下へ通じる階段から鉄舟を抜けさせ、漁師に変装させ、清水次郎長へ手紙を書いて、次郎長のボディガードで久能海岸から府中へ届けました。
そして無事に伝馬町で西郷隆盛との会談ができたということです。
これがどこまで事実かはわからないのですが、望嶽亭の当主の賢さはもちろんのこと、次郎長をよく知らない私にとって「次郎長親分、やるじゃん!」という認識が生まれます。
事実かどうかは別として、ただのやくざの大親分だとしたらここで名前が出てくるわけがありません。
そして野蛮なだけの男であったなら、こんなに人気者とはならないはずです。
行きたいと思ってから何年か寝かせたのですが、次郎長親分をちよっとだけ知る旅にでかけることにしました。
清水駅から東口(みなと口)へ出てすぐの魚市場に寄り道しつつ港方面へ向かうと、歩行者自転車道路があるので、ずっと道沿いに進みます。
そのうち遊歩道っぽくなると、すぐにエスパルスドリームプラザです。
▲土肥桜が咲いてました♪
船が平気な方は魚市場(河岸の市)から水上バスがエスパルスドリームプラザまで出ていますので、それに乗るのもおもしろいかもしれないですね。
エスパルスドリームプラザをすぎたら、船宿を復元した「末廣」はもうすぐそこです。
一階には徳川慶喜にもらった熨斗目(のしめ)紋服がある。
徳川慶喜が絵画や写真を趣味としていたことは、静岡の人間にとっては周知の事実ですが、よく清水港へは写真を撮りに来ていたそうです。その時警護にあたっていた次郎長は、慶喜からお礼としてこの紋服を贈られたそうな。
意外と気前がよかったのな、慶喜さん。
一階に展示されているところの説明文を読むだけで、次郎長の人柄がわかってきます。
義理と人情に厚い・・・と一言で片付けてしまうにはあまりにも言葉足らずかもしれないけれど、本当にそういう人だったことがわかります。
二階も見学できます。
「これからは英語くらい話せなくっちゃいけねぇ」と、東京から英語教師を招いて若者に英語を習わせていた親分。
二階はそんな様子が人形によって再現されていました。
▲え?怖い?
また一階に戻りますが、ここは抹茶セットやコーヒーセット(まんじゅうつき)がいただけますので、ちょっと休憩できます。
休憩ついでに本を購入。
そして本来、次は「壮士の墓」へ行くのが「次郎長をたずねる」旅には欠かせないコースです。
・・・全くの無知のため、寄りませんでした_| ̄|○
「壮士の墓」とは、明治維新の最中に起きた咸臨丸事件でのこと。
官軍に滅ぼされた咸臨丸の乗組員(死体はその海に浮かんだままにされ、手を出せば敵に味方する不届き者として処罰されると脅されていた)を、次郎長は処罰を怖れず手厚く葬ったところです。
詳しくは次郎長通り商店街のサイトへ
http://www2.ocn.ne.jp/~jirocho/town/sousi.html
▲この事件での次郎長のたんかには、誰しも感動してしまうところです。
咸臨丸の事件のことさえも、「末廣」で初めて知りました。でもそれと「壮士の墓」の関連がわかっていなかったため、飛ばしてしまったのです(^^;←説明をよく読んでなかったのか?
無知ってやーね。
で、壮士の墓を飛ばしたわたしが次に向かった先が「清水次郎長の生家」でした。
船宿「末廣」を出てすぐに港橋があるので渡り、次郎長通り商店街を通って
すぐ着いた。
ここも入場無料です。
ここには、前述の故松永宝蔵氏のイラストで綴る「絵で見る次郎長の歴史」が展示されてます。
これがまたわかりやすい。次郎長を知らないわたしにとっては最高♪
これで絵本を出版してほしいぐらいです。
この次郎長生家は間口が狭く、奥行きがあるという昔よく見られた建物の造りとなっています。
今でも蒲原、由比などにはこのような建物が多く残っています。(間口の広さによって税金が決まったから)
展示物をみながら奥へ進んでいくとお土産コーナーがあり、なにやら寒い・・・と思ったらそこは中庭なのでした!
スタッフの方の話では、昔の家の造りはこうだったそうです。
寒い中庭にお土産コーナーとレジがある・・・スタッフさん風邪ひかないでね(^^)
さて、生家を出たわたしが次に向かう先は次郎長のお墓がある「梅蔭禅寺」です。
船宿「末廣」で購入した次郎長伝はこの梅蔭禅寺で生まれた田口英爾氏によるものです。
とちゅう、和菓子屋さんがあります。
風月堂さんです。
写真にもあるとおり、「次郎長笠」というジャンボどら焼きが一押しの商品です。
(▲梅蔭禅寺のお土産コーナーで撮影したサンプル)
どんくらい大きいかってーと、まんなかに挟まってる栗の大きさから想像してほしいところです。
なんと直径15センチ!
それに甘そうな餅までもがはさまっている!
きっと食べればおいしいのでしょうが、このときのわたしは「甘いもの食べたくない」気分だったので、見ただけで口から胃までが甘くなってしまって買いませんでした・・・。
こんなん無理・・・_| ̄|○ よって味の感想はナシということでカンベンしてくらさい。
和菓子に気を取られていないで、梅蔭禅寺へ行きます。
見学料は300円。
次郎長と子分たちの墓があります。
そして奥には次郎長の像があるのです。これに会いたかったのです♪
山本長五郎さん(次郎長の本姓)。
は・・・初めまして(^_^;おひけぇなすって・・・なんて挨拶は要らないですね。
彼は堅気の人間には優しく、子どもたちが大好きだったやさしいおじいさんだったようです。
子どもたちが後をついてくるとからかいながら自分の家に駆け込み、奥さんに「菓子だ、菓子をくれてやれ」とお菓子やらお小遣いやらをふるまっちゃうぐらいだったそうです。
またこの像の奥には次郎長遺物館があり、咸臨丸事件の後、次郎長の行動に感銘を受けた山岡鉄舟から贈られた「精神満腹」の書も見ることができます。
精神満腹・・・わたしもまさにそんな気分で梅蔭禅寺を後にしました。
次郎長の人柄に、すっかり心を洗われてしまった気分です。
「梅蔭寺 次郎長伝」を読んでみるとよくわかるのですが、侠客時代はたしかに褒められたものではないかもしれないけれど、その時でさえ次郎長親分の姿勢は、気持ちのいいほど筋が通ったものだと思うのです。
けっして堅気の者には乱暴しない、いつも弱い者の味方だったから亡くなった後も庶民にこれほど愛されていたのではないでしょうか。
やくざから足を洗ってから、清水港の復興に力を尽くしたり、農民の暴動を食い止めて丸く収めたり、富士裾野を開墾したり・・・数え尽くせぬほどの働きをしています。
国民栄誉賞ものです。
わたしはどうして今の今までこんなにすごい人を知らないでいたのか・・・反省しました。
まだ清水次郎長をあまり知らない方がいらっしゃいましたら、ぜひ会いに行ってください。
▲娘が買ってた根付け♪
詳しい地図(Mappinのキョリ測)は↓をクリックしてください
▲注意 クリックすると、赤い線のルートしか表示されませんでした(^_^;
改めて下記の色別のリンクを貼ります
実はちょっと失敗しまして「壮士の墓」へは行っていないのですが、万が一患者様の中でこれを参考に歩いてみる人がいるといけないので、壮士の墓も含めたものになってます。
■赤い線─はJR清水駅から歩いて「河岸の市」の前を通りつつ、エスパルスドリームプラザ経由で清水次郎長の船宿「末廣」を見学してから「壮士の墓」までの道。(このルートは上の地図をクリックしてください)
■緑の線─は末廣を出てから港橋を渡り、次郎長通り商店街を歩きつつ次郎長生家へ行く道。(ここのルートはこちら)
■青い線─は次郎長生家から次郎長の眠る「梅蔭禅寺」までの道。(ここのルートはこちら)
清水次郎長についてはわたしの認識では「博打大好き、やくざの大親分」というのが8割を占めてました。
でもこれほど人気があるのは何故だろうと思っていたときに東海道を歩き出したのです。
東海道には次郎長がときどき登場します。
江尻宿を抜けて追分にくると「都田吉兵衛の供養塔」があるのですが、これは森の石松をはめて殺した都田吉兵衛が、ひょこひょこ江尻に来た(フグにあたったと噂の次郎長一家をたたくために来たとの話もある)ものだから次郎長一家に成敗されちゃったところですね。
東海道沿いの由比から薩た峠にさしかかるところに「間の宿」だった西倉沢の集落があります。
そこには絶景の眺めと評判の「望嶽亭 藤屋」という茶屋(茶屋の脇本陣を勤めていたらしい)がありました。
今も建物は当時のまま残され、静岡では有名なイラストレーター、故松永宝蔵氏はここの二十三代目の当主でした。故松永宝蔵氏は「由比おもしろ宿場館」のやじきた人形のデザインをした方です。
ここ↓に出てるイラストが彼のものです。
http://plaza.across.or.jp/~kakusa/omoshirokan.html
今は未亡人となった松永さだよさんが「望嶽亭 藤屋」の話を聞かせてくれるそうです。(見学には予約が必要)
「望嶽亭 藤屋」の話とは、山岡鉄舟が江戸城無血開城のために西郷隆盛と会見するために府中へ向かっている時、さった峠あたりで官軍に見つかり追われて望嶽亭へ逃げてきたときのことです。
当時の望嶽亭の当主が山岡鉄舟をかくまい、妻おかくに命じて官軍からの質問に答えさせ(これもかなりの命がけのやりとり)その隙に地下へ通じる階段から鉄舟を抜けさせ、漁師に変装させ、清水次郎長へ手紙を書いて、次郎長のボディガードで久能海岸から府中へ届けました。
そして無事に伝馬町で西郷隆盛との会談ができたということです。
これがどこまで事実かはわからないのですが、望嶽亭の当主の賢さはもちろんのこと、次郎長をよく知らない私にとって「次郎長親分、やるじゃん!」という認識が生まれます。
事実かどうかは別として、ただのやくざの大親分だとしたらここで名前が出てくるわけがありません。
そして野蛮なだけの男であったなら、こんなに人気者とはならないはずです。
行きたいと思ってから何年か寝かせたのですが、次郎長親分をちよっとだけ知る旅にでかけることにしました。
清水駅から東口(みなと口)へ出てすぐの魚市場に寄り道しつつ港方面へ向かうと、歩行者自転車道路があるので、ずっと道沿いに進みます。
そのうち遊歩道っぽくなると、すぐにエスパルスドリームプラザです。
▲土肥桜が咲いてました♪
船が平気な方は魚市場(河岸の市)から水上バスがエスパルスドリームプラザまで出ていますので、それに乗るのもおもしろいかもしれないですね。
エスパルスドリームプラザをすぎたら、船宿を復元した「末廣」はもうすぐそこです。
一階には徳川慶喜にもらった熨斗目(のしめ)紋服がある。
徳川慶喜が絵画や写真を趣味としていたことは、静岡の人間にとっては周知の事実ですが、よく清水港へは写真を撮りに来ていたそうです。その時警護にあたっていた次郎長は、慶喜からお礼としてこの紋服を贈られたそうな。
意外と気前がよかったのな、慶喜さん。
一階に展示されているところの説明文を読むだけで、次郎長の人柄がわかってきます。
義理と人情に厚い・・・と一言で片付けてしまうにはあまりにも言葉足らずかもしれないけれど、本当にそういう人だったことがわかります。
二階も見学できます。
「これからは英語くらい話せなくっちゃいけねぇ」と、東京から英語教師を招いて若者に英語を習わせていた親分。
二階はそんな様子が人形によって再現されていました。
▲え?怖い?
また一階に戻りますが、ここは抹茶セットやコーヒーセット(まんじゅうつき)がいただけますので、ちょっと休憩できます。
休憩ついでに本を購入。
梅蔭寺 清水次郎長伝 | |
田口 英爾 | |
みずうみ書房 |
そして本来、次は「壮士の墓」へ行くのが「次郎長をたずねる」旅には欠かせないコースです。
・・・全くの無知のため、寄りませんでした_| ̄|○
「壮士の墓」とは、明治維新の最中に起きた咸臨丸事件でのこと。
官軍に滅ぼされた咸臨丸の乗組員(死体はその海に浮かんだままにされ、手を出せば敵に味方する不届き者として処罰されると脅されていた)を、次郎長は処罰を怖れず手厚く葬ったところです。
詳しくは次郎長通り商店街のサイトへ
http://www2.ocn.ne.jp/~jirocho/town/sousi.html
▲この事件での次郎長のたんかには、誰しも感動してしまうところです。
咸臨丸の事件のことさえも、「末廣」で初めて知りました。でもそれと「壮士の墓」の関連がわかっていなかったため、飛ばしてしまったのです(^^;←説明をよく読んでなかったのか?
無知ってやーね。
で、壮士の墓を飛ばしたわたしが次に向かった先が「清水次郎長の生家」でした。
船宿「末廣」を出てすぐに港橋があるので渡り、次郎長通り商店街を通って
すぐ着いた。
ここも入場無料です。
ここには、前述の故松永宝蔵氏のイラストで綴る「絵で見る次郎長の歴史」が展示されてます。
これがまたわかりやすい。次郎長を知らないわたしにとっては最高♪
これで絵本を出版してほしいぐらいです。
この次郎長生家は間口が狭く、奥行きがあるという昔よく見られた建物の造りとなっています。
今でも蒲原、由比などにはこのような建物が多く残っています。(間口の広さによって税金が決まったから)
展示物をみながら奥へ進んでいくとお土産コーナーがあり、なにやら寒い・・・と思ったらそこは中庭なのでした!
スタッフの方の話では、昔の家の造りはこうだったそうです。
寒い中庭にお土産コーナーとレジがある・・・スタッフさん風邪ひかないでね(^^)
さて、生家を出たわたしが次に向かう先は次郎長のお墓がある「梅蔭禅寺」です。
船宿「末廣」で購入した次郎長伝はこの梅蔭禅寺で生まれた田口英爾氏によるものです。
とちゅう、和菓子屋さんがあります。
風月堂さんです。
写真にもあるとおり、「次郎長笠」というジャンボどら焼きが一押しの商品です。
(▲梅蔭禅寺のお土産コーナーで撮影したサンプル)
どんくらい大きいかってーと、まんなかに挟まってる栗の大きさから想像してほしいところです。
なんと直径15センチ!
それに甘そうな餅までもがはさまっている!
きっと食べればおいしいのでしょうが、このときのわたしは「甘いもの食べたくない」気分だったので、見ただけで口から胃までが甘くなってしまって買いませんでした・・・。
こんなん無理・・・_| ̄|○ よって味の感想はナシということでカンベンしてくらさい。
和菓子に気を取られていないで、梅蔭禅寺へ行きます。
見学料は300円。
次郎長と子分たちの墓があります。
そして奥には次郎長の像があるのです。これに会いたかったのです♪
山本長五郎さん(次郎長の本姓)。
は・・・初めまして(^_^;おひけぇなすって・・・なんて挨拶は要らないですね。
彼は堅気の人間には優しく、子どもたちが大好きだったやさしいおじいさんだったようです。
子どもたちが後をついてくるとからかいながら自分の家に駆け込み、奥さんに「菓子だ、菓子をくれてやれ」とお菓子やらお小遣いやらをふるまっちゃうぐらいだったそうです。
またこの像の奥には次郎長遺物館があり、咸臨丸事件の後、次郎長の行動に感銘を受けた山岡鉄舟から贈られた「精神満腹」の書も見ることができます。
精神満腹・・・わたしもまさにそんな気分で梅蔭禅寺を後にしました。
次郎長の人柄に、すっかり心を洗われてしまった気分です。
「梅蔭寺 次郎長伝」を読んでみるとよくわかるのですが、侠客時代はたしかに褒められたものではないかもしれないけれど、その時でさえ次郎長親分の姿勢は、気持ちのいいほど筋が通ったものだと思うのです。
けっして堅気の者には乱暴しない、いつも弱い者の味方だったから亡くなった後も庶民にこれほど愛されていたのではないでしょうか。
やくざから足を洗ってから、清水港の復興に力を尽くしたり、農民の暴動を食い止めて丸く収めたり、富士裾野を開墾したり・・・数え尽くせぬほどの働きをしています。
国民栄誉賞ものです。
わたしはどうして今の今までこんなにすごい人を知らないでいたのか・・・反省しました。
まだ清水次郎長をあまり知らない方がいらっしゃいましたら、ぜひ会いに行ってください。
▲娘が買ってた根付け♪