群裏好の打ち倒し日記

昭和の時代から叩き続ける老スロッターの戯言集。ですが5号機になってから打つのはパチンコばかりでして。。。

初パチ屋の思ひ出1

2007-04-15 07:40:50 | 思ひ出
突然ですが、皆さん最初にパチやスロを打ったときのこと覚えてますか?。
4月ということで新たに進学や就職した方も多い時期ではありますが、この時期をきっかけにパチ・スロを始めた方も多いと思います。
先輩・親・友人に連れられて足を踏み入れたホールは、ネオンできらびやかに飾られた新たな世界。運がよければお金までもらえるという魅惑の遊技場。
でも実態は・・・

ということで今回は私群裏好が初めてパチ屋に行ったことを少々。
私の馴れ初めは確か高校2年の時に親父に連れられてデジパチを打ったのが最初でした。当時の親父は時折デジパチを打ちに行っていたようで、大勝した時に5千円や1万をくれるのが通例となっておりました。ハナ垂れだった群裏は親父がパチに行った時は「勝ってくれ!!!」と心底応援してたものでした。
そんな状況のある週末の夕方、突然親父が「お前も行くか?」と言い出しました。恐らく前日にかなりの大勝してたので気分を良くしてたんでしょう。それにしても現役高校生を普通に連れて行くかね。。。

嬉しさ半分、緊張半分、初めて触れるパチンコ台・・・。その時行ったのが「パチンコ坂東」という国道17号線沿いにある古びたホールでした。この時に打ったのは大一の「ニュービッグセブン」だったと記憶しています。恐らく看板機種だったのでしょう、店の中央に位置する島に20台程度が並んでいます。客付きも良好。ここで親父に打ち方のレクチャーを受けます。
「いいか?、ここに入るとこの数字が回って3つ揃うと大当たり!そんでな、この下のがあの人みたいに開くからな!」と大当たりしている人を指差します。「そしてここの表示が”0”になったら打ち出し止めろ!、くれぐれも打ちすぎるなよ、打ちすぎた玉は損になるからな!」と言い残し、15枚程度の100円玉を渡されました。

ここで当時のホール遊戯状況を補足します。
あの頃は今のように全台に玉貸器が常備されている訳では無く、2台に一つの玉貸器が通例。玉を借りるのも100円玉でした(というか500円硬貨がこの世に誕生する前の話ですね)。100円入れて両手で水をすくう様にして玉を受け取り台の上皿に入れる作業。そしてドル箱はというと台上の棚に800個くらい入る小箱がありまして大当たりした場合はまずその箱に出玉を入れる。そしてその間に店員が足元に大箱を持ってきてくれるので、小箱から大箱に自分で玉を移すという作業があるのです。この簡単な大当たり時の作業がまた何ともいえない優越感のある作業なんですよw。今みたいにほぼ店員任せというのも味気無いと思うのは私だけかな。。。

また当時のデジパチはというと「10カウントX10ラウンド+αの出玉」が常識の時代。大当たりのアタッカーが開くと上手い具合にそのアタッカーに弾かれた玉がオマケチャッカーといわれる入賞口へ次々と入る仕組み。オマケチャッカーといいますがほとんどの玉はここに流れ、釘の調整にもよりますが2500~3500発程度の出玉が期待出来ました(実質オマケどころの騒ぎではないw)。また正規アタッカーのVゾーンに入らないとパンクするというのは今と変わりませんが、クギ調整次第ということもありパンクも頻繁にありました。その頃の交換率は40玉=100円が主流でしたから一度の大当たりで6000~8000円位出る仕組みでした(一回交換もデフォ)。今よりず~っとクギの役割が重要でした。(今みたいに大当たり一律1800個程度というルールは何てつまらないんだろう、ストローク調整で出玉が増えるなんて攻略の楽しみも昔のパチンコにはあったのですよ)

前置き長すぎ、続きは明日で。。。
コメント (9)
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