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元VSやんちゃ隊のスカウターのボログです(笑)

何故という疑問を持つことから始まる楽しさを知ろう(^_^)v
色々とご意見をお待ちしています

※THE PATROL LEADEWRS’ HANDBOOK第2章ギャングとしての班※

2015-11-14 20:38:16 | さとぴょん

やんちゃ隊諸君

今回は、班長の手引 第2章からだよ、長文だけどスカウトたちだけでなく指導者にも読んでほしい(^_-)-☆

イギリス版毛利の三本の矢のたとえ話そっくり。こういう例話は,イタリアにもある。いわゆるリットリオ(団結〉の話も紹介しているよ(^_-)-☆

B - P は”スカウティング・フォア・ボーイズ”中で,いとも明快に班のことをギャングと呼んでいるが、もちろん,それは40 年も前の話であった。その後月日を経るにつれギャングという語はあまり芳しくない意味に―乱暴者や不良が感覚の集まり―よく使われるようになってしまった。さて明らかに,ギャングといっても班は良いギャングであるに違いないが,悪いギャングと共通の要素を持っている。いっぱしのギャングであれば,いろいろのことをみんなでしなければならないし,ギャングの一員はその首領に服従しなければならないし仲間同士が互いに信頼し合わなければならない。非常に明らかなことではあるが言わなければならないと思うからあえていうが諸君の班が持たなければならない資質の一つは「良いギャング精神」すなわち班員は、まず第一に互いに堅い友情で結ばれた友達であり共通の興味を分かち合う者であり,一諸に物事をやり同じような事をする連中の群であるということである。ギャングの一員であるということは一つの特権であり, 班の一員であるということはそれ以上に大きな特権である。しかし権利にはすべて責任が伴うものである。諸君が班長であろうが新入りのほやほやであろうが,諸君はいつも班の名誉と願わくば栄光に対して責任があることに変わりない。なんでも一緒にするという意義は何なのだろうか? 重要な事の一つは,班員が互いに近くに生活しているということである。もちろん,学校隊とか閑村地方という例外はあろうが,一般的に班は班員が互いに,しばしば顔を合わせることができるような範囲内におかれるべきであるという。狭い意味では, 彼らは必ずしも一緒にスカウティングをしているわけではない。私がここで狭い意味といったのは, 彼らは必ずしもスカウトクラフト〈作業〉を実行しているのではなく,ギャングとして他のここと―写生にいくこともあるだろうし,フットボールをしたり,みんなと誰かのクリスマスパーティーに出席したり―をしているためである。私は始めてギャングの仲間入りをしたときのことを思いだす。それは6 歳くらいだったと思う。どうしてそうなったのかまるっきりわからなかったいいまでもがてんがいかない。しかし確かにギャングの仲間入りをしたことに大変誇りを感じていた。実際私が仲間入りできたのは私のせいではなく,私の物わかりのいい叔父が無分別にも私にくれた空気銃のせいだった。とにかくこのギャングのリーダーは私が空気銃を持っているのは非常に危険だと決めつりですぐに自分が管理することに決めてしまった。〈空気銃は一体どうなってしまったのだろうか,それが空気銃の見納めだった〉しかしこのことで大切なのは,私がギャングの一員であることに誇りを持っていたことである。私は喜んでリーダーに従うつもりだったし,事実,何かとてつもないことをする覚悟でいた。このギャングにはいろいろな儀式があったが,その一つに,新入りはわらじ虫を食べることになっていた。こんなことを諸君の班に取り入れることをすすめる気はないが―きっと諸君にだってそんな気はないだろうが―スカウトというものはどんな命令にも進んで従うことを班長に対して証明しなければならないものである。もちろん,班長にもよろうが,かつて私がもった班長のようなでたらめな命令を出したり不愉快な命令を出したりする班長はいない。諸君の班はまとまっているという意味でギャングぶりを発揮してほしい。すなわち物理的にはまとまって種々なことを行い,他の点では互いに助けあって困難をぬけだすことによって―要するに一つのチームとして行動することによって。ここで私は指導ということについてもう少し話をしたいと思う。指導の方法には三種類がありその内の二つは悪い方法であり,あと一つは良い方法である。悪い指導方法の一つは,全く指導力がない,すなわちいつもめちゃくちゃにやることである。誰一人として発言をしないし,誰も決定を下さないしまるっきり指導する者がいない。この方法は全く見込がありません。班長は全〈無気力で,無能力で責任感などは持ちわせていない。誰にでも気に入られたいという気持は本能的に起きるものであるが,班長という者はすべて,いつも誰かれなくみんなを満足させることは不可能なことを知っているべきである。どうにか幾人かの人を満足させることができれば,それで万事申し分ないのである。次に悪いのは,独裁的な指導方法である。この場合,班長は決して誰にも相談をしないし,アイディアを求めようとしないし自分一人ですべてを決定し,自分が間違っていることがはっきりしたときでさえも,「僕は班長なのだ,君たちは正しかろうと間違っていようと僕の命令どおりに実行しなければいけない」といったようなことを口走って,無理を押し通そうとする。これは,いわゆる「地獄の底行き」という方法である。誰にも相談をしないような班長には班員やギャング仲間はすぐ見切りをつけるものであるから,この方法はあまり効果的ではない。いつもいざこざがたえない班は長続きしない。また当然のことだが独裁的な班長は,あまりいい奴とはいえないし,班員がついていこうとは思わない類のものである。第三番目は最高であり,スカウティングのみならず人生一般に通ずる唯一の指導方法であると私は考えるものであるが,納得させて指導するやり方である。すなわち班長である諸君は,仲間が諸君を受け入れ尊敬し,指導を望んでいるために指導するのである。少しばかり他の人々と協議するという問題に話を戻そう。8 人ぐらいの編成の隊では, 8 人の違った人間がいることをいつも頭におかなければならない。中にはある点に非常に優秀だが他の点には,あまりよくない者がいるし,中には年は下であるけど料理や開拓作業とか漕艇とかウッドクラフトに異常な才能を示すスカウトもいることだろう。ある者は他より観察にすぐれていたり,その他の感覚が非常に発達した者もいよう。班長としての諸君の任務は個々のスカウトの才能を班全体のために役立たせるように使うことにある。誰も諸君が完全であることを期待してない。必ずしも諸君が実技の面で,班において最高のスカウトであることを期待しない。班の2番,4 番スカウトの方が,ある特殊なスカウト活動においては班長よりすぐれていることも正しく,よくあることである。いいかえれば,諸君がいま指導している班員に,諸君がよりすぐれているから,指導の任にあたっているのではない。最も優れた班長にしても―あるいは他の社会の指導者にもあてはまるが―活動面では特別に精彩は放ってはいないが,人を指導する方法を知っている者たちである。すなわち彼らは活力を呼び起こす方法や自信を高めさせる方法を知っていて,それによって各人の能力を最高に発揮させ,班全体に役立つように各班員の才能や技能を生かす方法を知っている。諸君は、三銃士、の話を知っていると思う。彼らは班を作っていたともいえよう。彼らがなした事には我々がそのまままねをしてはいけないようなこともあるが,彼らのモットーである”一致団結”は班が当然採り入れるべき類いの考え方であると思う。不思議なことに団結の力について私が最も良く思い出すのは私がまだ幼なかったときに読んだ話である。実は,その話は私が本を読めるようになって最初のころに持っていた本の1 冊に載っていた。多分その話を読むのに,苦労したことや,短い物語ではあったが読むのに非常な時間がかかったので,それを覚えているのだろう。諸君はその話を耳にしたことがあると思うが,いずれにしても,その話はここで披露する値打ちがあると思う。生涯一生懸命働いたおかげで立派な成功をおさめた一人の老人が,病いに倒れ余命がいくばくもないことを知った。老人には三人の丈夫で立派な息子がいた。彼らは父親のために働いてきたし,だいたいにおいて老父に服従してその教えを忠実に守っていたが,息子同士はあまり仲が良くなかった。自分が死んだあと,息子たちはたぶん喧嘩し,農園は分割され,せっかく皆で築き上げた財力もうしなってしまうように老父には思われた。老父はこのことを大いに心配した。誰だって自分が一生懸命働いて作りあげた物がなくなろうとしているのを見過ごすわけにはいかないだろう。そこで,ある朝,老父は三人の息子たちを呼びにやり自分の枕元に集まらせた。老父は1 メートルくらいの長さで,太さで2 ~ 3 センチくらいの棒の堅く縛った束を床から取り上げた。三人の息子たちは非常に力が強かった,とくに上の二人は近所で評判の力持ちであった。老父は年下の弟lζ様の束を渡していった。「おまえは兄たちほど力は強くないと思うが,この棒の束を折ってごらん」年下の息子は棒の束を取り上げ一生懸命に折ろうとしたが折れなかった。次に二番目の息子に様を渡していった。「おまえは弟より力が強い,さぁ折ってごらん」そこで,彼は汗を流しながら一生懸命がんばったが彼の努力もむだだった。そこで非常に力が強く自信満々の長男の番になった。彼は棒を取り上げ,ひざにあてて全体重を様にかけて折ろうとしたがそれでも棒は折れなかった。そこで老父は様の束を取り、縛ってある紐を切った。そして息子たち一人一人に様を一本ずつ渡して「さあ,折ってごらん」と言った。なんの苦労もなく,三人の息子たちは棒を折ることができた。そこで老父は言った。「ねえ,わかっただろう。棒が束ねられていた間は,おまえたちの強い力をもってしでも,折ることができなかったが,いったんその紐を切ってしまえばもはや簡単に折ることができる。わしの生命はそう長くはない。わしが死んだら,いいかい,兄弟が力を合わせるより他にないのだ。もしおまえたちが力を合わせれば,いつまでも強く,栄えるであろうし,分かれてしまえば,おまえたちはこの棒の一本の力さえないのだ,そして没落してしまうだろう」スカウティングは,われわれを, 特に班員を一つに結ぶ独特の組がある。これはただスカウトの、ちかい、と、おきて、を実行するだけである。との事については,後で詳しく述べるが,スカウトの、ちかい、と、おきて、は我々スカウトを強める紐であり,心から打算を捨てて受け入れなければならない紐であることを考えていただきたい。我々の班が成功か失敗かは,「我々の責任なのであって,けっして私〈班長〉の責任ではない」という覚悟を常に持ちたいものである。

〇班員より, すぐれているから班長になったのではない。
〇人を指導する方法を知っているからなったのだ。
〇活力を呼び起こす方法を知っているからなったのだ。
〇自信を高めさせる方法を知っているからなったのだ。

スカウティング誌(S.58(1983)- 7 月号より


※ボーイスカウト雑学・アケイラ※

2015-11-04 17:42:10 | さとぴょん

やんちゃ隊のみんな

今回は、君たちにはちょっと早いかもしれないが、雑学としてアケイラバッチの話しをしよう(^^)/

リーダーになるには、ボーイスカウト説明会→研修所(基本訓練)→実修所(上級訓練)があるんだ!

基本訓練終了でウォッグル 

上級訓練終了でウォッグル・ギルウェルチーフ・ウッドバッチの着用が認められるんだ(^^)/

今は、ウッドバッジしかないけれど、ある一時アケイラハッジというものがあっただよ。

それは、初期の短い期間、ウルフカブのトレーニング(日本で云う月の輪)には、別のシステムがありました。1922 年から1925 年まで、ウルフカブトレーニング完修者には“狼の牙”または班長章が与えられました。そして、“狼の牙”は革紐にビーズの代わりに一つの牙を吊るしました。ウルフカブ・トレーナーは、2 つの牙を着用しました。これらの牙は骨歯牙または木の複製でしたが、現在そのものはわずかに現存だけなんだ。

アケイラバッジ

アケイラは、Packの頭で、大変賢い、年寄のオオカミの事だよ(^0_0^)

ジャングル ジャングル おいらの世界 おいらのお国
頭領アケイラ おさめるジャングル
おれはモーグリはだかではだしおれの先生はバルーにバギヤー
ジャングル ジャングル おいらの世界 おいらのお国
頭領アケイラ おさめるジャングル 

 


※言葉の表記から活動内容が分かる※

2015-11-01 08:42:32 | さとぴょん

やんちゃ隊のみんな

各隊の表記だよ(^^)/

この言葉の意味違いが分かれば、活動内容も分かってくるんじゃないかな!
もう一度、今の活動を見直してみよう(^^)/

Beaver Scout Colony (コロニー)集団

Cub Scout Pack    (パック)群れ

Scout Troop            (ツループ)分隊

Venture scout Unit  (ユニット)基本単位

Rover Scout Crew    ( クルー)乗務員・仲間・ 隊・班

このことは、スカウトたちだけでなく、よき指導者になるために理解してほしいことかもしれないね(^^)/


※THE PATROL LEADEWRS’ HANDBOOK 第一章※

2015-10-29 18:02:33 | さとぴょん

やんちゃ隊の諸君

今回は、THE PATROL LEADEWRS’ HANDBOOK(班長の手引)からスカウティング始まりついての話だよ!

班(PATROL )の成り立ちや、何故成人指導(隊長)が必要なったか、そして隊長の役目は何なのかを詳しく書いてあるよ(^^)/

ちょっと長文だけど、君たちや成人指導者には、知っておいてほしいことがたくさん書いてあるよ!

諸君は,フットボールの規則を知らなかったら, フットボールの名主将にはなれない。エンジンの動かし方を知らずに、電車を運転することはできない。また,菓子の材料の選び方を知らずに,おいしい菓子を作ることはできない。これと同じように,班制度を理解せずに、正しい班長になることができないことは明らかである。もちろん,諸君が遊び半分でサッカーの主将を務めたり,電車を運転したり,菓子を焼いたり〈多くの炊事当番がやっているように〉,班長をやったりすることはできょう。しかし,仕事の仕方を勉強していなければ,自分にとっても,諸君を信頼している班員にも,みじめな結果を与えるだけである。班長の任務でもっとも大切なのは,班員が諸君を信頼していること、よきにつけあしきにつけ諸君の行動は班員に影響を与えること、よい感化を班員に与えることが諸君の務めであることを,いつも忘れないことである。最近,「あまり気にしないよ」ということばがはやっているが、これは班長にとって, もっとも悪い考え方である。このことばを本気で使うような班長は、すぐに班長章を返上すべきである。班長には,自分に対しでも,班のスカウトに対しでも,また,誰に対しでも「もっと用心しなくては」という態度が必要である。何度も耳にしたことであろうが―私自身耳にたこができるほど聞かされたことだが―「ささいなことが重要なのだ」という諺がある。そう、諸君にも覚えがあるだろう。見かけがどんなに退屈で、とるに足らないつまらない事でも、すべての事には意味がある。ことに、ささいな事はいちばん起とりやすいし、より多くの人に影響を与えるものなのでもっとも重要な意味を持っているといえる。これも聞いたことがあろうが、「ささいな事はわれわれを試すために、この世に送られたものだ」いうことばある。諸君は,私と同じ人間であるから、もっとわかってもらえると思うが、われわれはささいな事に悩み、ささいな事をたいへんな問題だと思っている。班制度は「たくさんのささいな事」からできている制度である。班制度にまつわる問題点,諸問題,難解さはここに原因がある。この本を読むことによって,諸君が班制度の姿意味、機能を正しく理解するように希望する。私は班制度が容易でないことは喜ぶべきことだと思っている。隊本部の入口に「班制度」と書いた札をかけておけば、おまじないがかかって万事がうまくいくとしたら、あまりにも簡単すぎて悩みどころがない。幸運にも、まったく幸運にも、なかなか手ごわいのが班制度である。時代が進むにつれ、容易になるということはない。これが班制度の秘密であり,魅力であり,有用性である。班制度は,つねに2 つの特質を持っている。―すなわち,常識と努力である。諸君が前者(常識というと誰にでもあるように思われるが、決してそれほどありふれてはいない)を持ち、後者に心がけていることを私は希望する。というのは,すべてのことはと2つの特質を基盤に成り立っているからである。私たち,おとなのできることは諸君に.簡単に説明をし、あれこれと提案し,ときには忠告をし,たえず激励することであり,班制度を動かすことができるのは班長の諸君たちだけである。班制度の成否は、ひとえに、諸君にかかっている。班制度は諸君の舞台であり,諸君はその主役である。40 年以上前にスカウティングが出発したとき,班制度という考え方は,まったく革新的であった。事実,多数の人がこれを悪評し、創始者B - P 対し、危険だとか、使い物にならないとか、混乱を起こすつもりかとか、少年たちから排斥されるだろうとか、いろいろな悪口をいった。しかし、ときがたつにつれ,班制度の方式は広〈うけ入れられるようになり,学校・学校外を問わず、すべての少年活動の作業やスポーツなどにあらゆる面で活用注されるようになった。もちろん,スカウティングとは関係の薄い職業や市民生活の面―爆撃隊,歩兵小隊、特別な計画にたずさわっている科学者陣の間にも,班制度は使われた。われわれの運動は歴史のある古い運動であり,歴史から何かを学ぶことは賢明であると思うので、ここでスカウティング発生期のことを少し書こう。スカウティングの初期、英国および世界各地の少年たちは「スカウティング・フォア・ボーイズ」を買って、自分たちで班を作った。「自分たちで班を作った」ということに着目していただきたい。このことは、誰かが上からの命令で頭になったのではなく、仲間が自分たちの意志で頭を選びだし、その頭を中心にスカウ卜になりたい少年たちが集まって群れを作ったことを意味する。少年たちは班を作り、「スカウティング・フォア・ボーイズ」を唯一の指導者として、自分たちの訓練をはじめたのである。しかし、ご多聞にもれず、少年たちにはわからないこと、解決できないこと、おとなの助けが必要なことが、たくさん起こってきた。そこで、いくつもの班が寄り集まり、隊を作り、隊長をおくようになったのである。1908 年のこと、お小遣いを持ちよって1 冊4 ぺンスの「スカウティング・フォア・ボーイズ」2,3 冊買い求めた一群の少年たちがあった。彼らは、'古い納屋に集まって、B-P が暗示したことを、あれこれとやってみた。彼らは、大いに楽しみ、たくさんのことを学び、またいくつかの試練にぶつかった。ある日、とうとう野営の章にきた。これまでに本に書いてあることをすべて試みてきたので、彼らはこの少しばかり難しそうにみえる問題にも敢然ととり組んだ。ところが,彼らは1 人として野営を経験した者はないし、野営のやの字も知らない者ばかりだった。しかし,彼らは諸君の班と同じように「真の冒険心」に富んでいた、彼らはどんなことでも一度の失敗にこりず正しくできるまでやりとおす覚悟であった。だから彼らは全般的な計画を話し合い、必要と思われる用兵を調達する手配をした。ビル,ジャック, 卜ムの3 人は,食糧調達係―調達方法などは誰も心配しなかった―班長のマーテンはテントを調達することになり,最年少のアレックは「手押し車を持って、こられると思う」といった。班長は,またアレックになべの入手を命令し、全員に自分の寝具は自分で持ってくるよう指示した。こんなふうにして、6 月はじめのある土曜日、彼らは同じ納屋に集合し、出発の準備を整えた。質問する者はなかった。ただ、アレックが赤ん坊の弟からおもちゃの手押車をとりあげるのにとても苦労したといったことと,班長がテントだといって持ってきた古ぼけたターボーリン布〈タール塗り防水布〉にジャックが非常な不満を示したほかは,目立ったことはなかった。しかし,彼らは, l 人残らず,食糧の分量には大いに驚き,かつ満足した。今日の基準で計ればゆうに、1 か月分はあった。ともかく,積めるだけ手押し車に積みこみ、食糧を積んだらほとんど余地がなかったといった具合だが、残りは担いでいくことにした。彼らは,目的地を決めたわけでも、地図を持っているわけでもなかった。おそらく、地図など見たこともなかったろう。彼らは、文字どおり,青空に向かつて村を出発し,野を渡り,山を越えていった。彼らは,できるかぎり道路を歩かないことにした。しかし、準備にあまり時聞を使いすぎたので、宿泊地に到着したときには,だいぶんおそくなっていた。この場所は,いなか道と小さな川にはさまれた気持のよいところだった。流れて・洗い物はできるし、炊事の水もえられるから便利だと彼らは思って、この場所を決めたのだった。まったく,非衛生的な水ではあったが,彼らはいき健康―向とんちゃくしなかった。マッチを2 本以上使ったが、勉強したとおりにすぐたき火を起こした。彼らはアメリカインディアンの諺―インディアンは小さなたき火を起こし火の回りに近寄るが、白人は大きなたき火をするから遠まきに火にあたらなければならない―を知らなかった。それから食事の仕度にとりかかった。いろいろな物をいいかげんに混ぜあわせて、火でこってり焼いた。この年頃の少年はまずいものなしだから,味などどうでもよかった。それから,少しおそくなったが,テントをたではじめた。班長はナイフをとり出して、若木を2 本倒し、縄を器用に使って,なんとかテントらしいしい物をターポーリン布でつくった。暗くなったし,疲れも出てきたのであるが,しかし、うきうきしながら,テントにもぐりこみ床に入った。彼らはグラウンドシートなど思いもよらなかったが―幸いにも地面は乾燥していた。彼らは寒気は地面からのぼることを知らなかった。たしかに、彼らは知識に乏しかったが、実行により知識を広めていった。開拓者になったような気持で,テントの中で話をしていたが,やがて1 人2 人と眠りにおちていった。しかし,特別な責任を感じている班長は眠ることができなかった。誰にも打ち明けなかったが一晩中目をきましているつもりだった。まるっきり真夜中ではないかと班長には思えたが、実は10 時ごろにしかなっていなかったが,外で足音がピタリととまった。班長が聞き耳をたてていると,懐中電燈が光った。外をのぞくと、大きな靴が一足、目の前に立ちふさがっていた。視線を上へ上へとたどると,紺の長ズボンが見え,はるか上の方から太い声が響いた。「いったい,何の遊びをしているつもりかね」。その声に、他の連中が目をさました。困ったことに、そこに立っていたのは警官だった。班長は「僕たちはスカウトで,野営をしているのです」と答えたが. 1908年にスカウトのことを知っている警官は少なかったし、この人も例外ではなかった。「ことから,家に帰るんだ」といわれてしまった。まったく残念だったが,道具をまとめて、警官のあとに従うよりしかたがなかった。驚いたことに,家からたいして離れていないところだった。地図は持たないし,方向感覚がまるっきりなかったから,彼らは円を描いて歩き、家からたいして離れていないところに野営したのだった。家に帰ってから、彼らがどんな罰をうけたかはいわないことにしよう。しかし、彼らは、少こしも、ひるむことなく、次の晩にまた納屋に集会することにした。日曜の晩,納屋に集合するまでに,班長は時間を有効に作って「スカウティング・フォア・ボーイズ」を読み返した。だから全員が集合すると,まず口を開いた。「おいみんな,僕はこの本を読み返したんだ。そうしたら隊長のことが書いてあるんだ。どうやら僕たちに必要なのはこれじゃないかと思う。この人なら警官を追っ払ってくれるだろう」そう、これは隊長の任務の1 つであり,諸君の班や隊が, 隊長を必要とする理由の1 つである。隊長は他からの干渉をうける心配なく,諸君がスカウティングを続けられるように骨を折ってくれる人である。の班が,自分たちの力で出発したことを忘れないでほしい。少年たちが,この班を作り,班にとって隊長が必要なことに気づき,自分たちの力で隊長を見つけてきた。こういう隊は,いつまでも続いていく―おそらくその理由は正しい精神で出発したからである。今日では,隊長が班を作り,スカウトが加入するのが普通であろう。古い方法における重要な点は、最初から班長が班全体の鍵を握る地位にあることを自認していたことである。もし班長の認識が不足していれば,班は自滅してしまったであろう。班長は,知らないのや、できないのが当たり前なこと以外で,隊長の力を借りたり,おとなの助力を求めたりはしなかった。今では,本当に班らしい班はなくなった。班はただスカウト隊の手ごろな1小隊としてしか活用されていないようである。班には,隊から全く独立した班本来の行き方があるはずである。スカウト隊は、班の集合体にすまない。班が班員を掌握したりゲームをするために便利な単位としか役立たないならば、それはとうてい班とはいえない。隊集会は各班が互いに競争し合い、激励し合い、集会で学んだことを班が実行し経験を深めていく1 つの場であるべきだ。隊集会はよくやるが,班集会はあまりやらないという現象がわが国や世界の各地にみられるのはまことに残念なことである。諸君は諸君の班を隊長なしに指導し、指導と援助が必要なときは隊長に助けを求めるようにしなさい。賢明な隊長は隊長の職分をわきまえているが、ときには班長があまりにも隊長に依存したがるために、隊長の本分を越えてまで指導しているが、これは班長の責任である。今晩、との章を書きはじめる前にラジオでなじみの友だちの話を間いた。私は諸君に,班長として記憶しておいてほしいと思う1 つのキャッチフレーズを被の話から思いついた。―それは,いつでも「隊長,いいことを思いつきました」ということである。諸君は考えの沸き上がる泉である。幸い,諸君は考えついたことを実験する場である班を持っている。スカウティングには、1 つの考えがよいものか,実行する価値のあることかを計る尺度がある。それは実に簡単な尺度である。すなわち,「それがスカウトのおきてに反しないか」ということである。おきてに反しないならぜひとも実行しなさい。おきてに反するなら,他
の方法を見つけなさい。諸君が班長に選ばれた理由は2 つある。第1 の理由は、諸君自身を伸ばすためである。諸君は、この機会に技能を学び、仲間を指導する方法を会得できる。これはスカウティングにおける最高の名誉であり、絶好の機会である。雄も今の諸君を一人前の指導者だとは思わない。しかし、班員を指導しながら指導法主任学びとり、諸君が将来りっぱな指導者
になることを皆が期待してる。班長になる前,諸君はおそらく普通の班員だったはずだ。このことは,諸君が班長に従うことをすでに勉強したことになる。上の者を敬う心を持たない者は指導者になる資格はない。第2 の理由は,諸君の隊長も班員も諸君の指導力に信頼をおいていることである。班長の任務の第1 は,班員がスカウティングをするようにすなわち,少なくともスカウティングのもっとも重要なちかいとおきての実践だけは守るように,班員の監督をすることである。これはユニフォームを着ているときだけではない。家庭でも、仕事場でも、学校でも、どこで何をしていようとも、いつでも守るよう監督することである。班長の指導で、もっともたいせつなのは,自分の行動に気をつけ班員によい手本を見せることである。たびたび聞いたことで、またかとうんざりするかもしれないが、たいせつなことは何度きいてもよいものだし、人間である以上諸君だって忘れるということもあろうから、繰り返しいうが、諸君は火曜の集会のときだけ、キャンプにいったときだけ班長らしくすればよいのではない。要は毎分を班長らしく行動し、物事を処理しなければならない。これは班長にとってたいせつな心構えである。諸君の班員が、諸君の前でも、いないところでも、いつでも諸君の命令を守るようでなければならない。班長章を隊長から授与されたときに、諸君はこの責任をしっかり胸にたたきこまなければならない。隊によっては,班長任命式をするところがある―これは規約にはないが―。班長になる者はスカウトのちかいを復唱し、その他にも少しちかいをたてる。それは、こんなふうなものだろう。「私は班に服従し、私の班は隊に服従することをちかいます」「私は班に服従することをちかいます」。班長は没我の精神を持つ者でなければならない。世界史に名を残した指導者はみな、この精神がいかにとうといものであるかを立証している。南極で命を落としたスコット・オーツは指導者の鏡である。ギルウェルにキャンプにきた班長にもりっぱな少年がいた。ある晩おそく、やぶに落ち込んで全身傷だらけになった班長が、管理人の小屋にとびこんできた。「いったい,どうしたんだい」と聞くと,「僕じゃないんです。次長が、次長が火傷をしたんです」といって気絶してしまった。これは班長の鏡といえる。班長には勇気が必要である。なかなかこんなふうに犠牲を払うことはできない。諸君たちの払う犠牲は,せいぜい犠打を打ってクリケットの打撃成績を悪くしたり, 班野営でケーキのいちばん大きいのを遠慮したり,ケーキを食べるのをあきらめることぐらいだろう。根本の精神は同じなのだから、後者ができれば、もしそういう状況にいたれば、前にあげたこともできるし、やる気持にもなると思う。悪い班長の例を2つあげよう。l つは,大きなことをいう班長,いいことは自分の成績にし,悪いことは人のせいにする者である。まあ「調子のいい」男である。「いいから,いいから―おれにまかしておけ」といったタイプの班長はなんの役にもたたない。もうl つは,もっと程度が悪い。いばりちらす班長だ。だいたい,班長は年上の者がなるので,年が上
なだけに体も他の班員より大きいから班の統制をとるには班員,特に、新入りの班員をおどかすに限ると思っている班長だ。考え違いをしないようにしてほしい。よい班には規律が必要だが,規律は「班長の行動を手本にし,班長のような人間になろう」という気風からできあがるのであって、「班長のいうとおりにやれ」という気風から生まれるのではない。大口たたきと空いばりが、よい班長になれない理由だ。このような班長は人間の悪い手本であるから,組長がいなくなると班員はまったく何をしてよいのかわからなくなる。こんな班長はなんといっても最低である。最後に班についてB-P が残されたことばを1 つ紹介しよう。「班長に多くを期待すれば,10 中8.9班長はその期待こたえる活躍をするが,班長を甘やかしたり,その手腕を信頼しないと,班長は積極的に行動しなくなる」ということばである。とれは隊長に与えたことばであるが,私はこのことばをそっくりそのまま諸君に与えたい。諸君の班員は諸君に大きな期待をかけている。諸君は自分を甘やかすことなく、班長に探せられた信頼と責任を自覚して,精神的に自分の創意をいかし,隊長の助けを得ながら班員を訓練しなければならない。

スカウティング誌(S.58(1983)- 6 月号)より

 

1. “ Scouting is a Movement, not just anOrga-nization”―「スカウティングは運動である。組織だけのものではない」

2. スカウトたちは,実行することによって知識を広める―つまり,行うことによって学ぶ―Learning by Doing をするものだが,その実行くDoing)のためには,組織が必要となる。それが班というものなのだ