あも&サチアキの交換日記

どうやら交換日記が続いているようです(祝何年目?

イブの夜に脱兎について考える

2021-12-25 | from:sachiaki
私のちょっと古めになりつつある友人の一人に
あべあゆみさんという舞台女優さんがいらっしゃるのですが
彼女がなかなかにインパクトのある個性の塊のような方でして
そんな彼女の魅力に取り憑かれて、
彼女がお芝居をすると聞くと
できるだけ万難を排して観劇に向かうことにしているsachiakiです。

とはいえ、万難に負けて刀折れ矢尽きる時もあったりして
時には観劇できていないことになっています。
そんな時は悔し涙でお布団がびしょ濡れだし、
悔しいと歯噛みした歯もボロボロになってしまうので
なるたけ万難に負けないように
マネーの力をもっとちゃんと身につけたいなと
そんなことを思ったりもしています。

それはさておき観劇してきたお話。
今回は日暮里繊維街にあるd-倉庫という小劇場が
長い歴史の果てに今年の12月に閉館するとあり、
その小劇場の最後の舞台公演があべあゆみさんの出演される
楽園王さんの「脱兎を追う」でした。

劇中劇なところがあり、最初タイプライターを打ち込む姉のもとに
妹が「悪夢を見た」と言って真夜中に相談にくるところから物語はスタートするのですが
この「悪夢を見た」という妹が実はすでにこの世界にはいない人であり、
そのすでにこの世界にいないことから、別の世界なら生きているかもしれない
という願いを込めて作家である姉が妹の残したメモをもとにして
虚構の「こうだったかもしれない」を作り上げるという物語でした。

こう書くと、なんていうか、作家と呼ばれる人たちは
いつでも時間を超えて様々な人を呼び戻し
いろんな生かし方があるよね、って話で終わってしまうのですけれど、
私が昔見た「青森県のせむし男」で見事な舞台を完成させた楽園王さんですので
そんなありきたりな方法で出演するキャラクターは動きません。

”エッシャーの絵本のよう”というご案内をいただいていただけに
妹役の女性がとある不名誉なことで有名な団地の屋上で下を見ながらしぶっていると
その妹役の女性と入れ替わって彼女の人生の続きをやるという
妹役の女性と似ている女性から申し出をされるという
素っ頓狂な話がメインで進んでいきます。

そこから妹の過去にあった述懐が挟み込まれ
妹が見た飛び降りてしまった級友の話とクロスするように
妹役の女性と似た女性が、
飛び降りてしまった級友は妹役の女性にも非があることを糾弾したり
そうかと思えばその二人とは別の「人生が虚無であることに疲れた」
とあるキャラクターとそれに感づいたという二人が出てきて、
片方の自死をしようとする子を引き止めようとする話が出てきたり。
(そこがまたコミカルでたまらなく愛おしいシーンでした)

年末というと死亡率が上がり、
選ばなくとも死にやすいシーズンであることには違うないのですが
その死亡者数に加わるように自殺率も上がるのが年末でして
”節目”という言い訳が嫌な方面で背中を押してしまうのでしょうけれど
そのことについても、そのとあるキャラクターが説得するときに
「死は個人にとっては大きなものであるけれど
 社会の中ではただの数字にしかならない」と説き
「そんな喜劇の一つにならないで」という話にはグッと心を動かされました。
悲劇は客観化すると喜劇になってしまう。
あなたの悲劇は悲劇でいつづけたいなら客観化させてはいけない。
そういう感じでしょうか。
そしてどうしても死にたいというのなら
あなたは私の命の恩人に相当する人だから
私の命はあなたにもらったものだから
私を殺してから死んでくれと拳銃を取り出すのです。
書いてるとすごくシリアスなシーンなんだけどね…
そこはもうなんていうか、キャラクターがアレなので
どこまで本気で、どこからが笑わせたいものなのか
不可思議な感情で頭がグルグルになって
とにかくめちゃくちゃ笑ってしまいました。

人が「死にたい」って考える時、
実は「死にたい」のではなく、別の人生であったなら……
というものが実情のようで、それがあらゆる意味で叶わないので
最後の切り札を選んでしまうものなのだそうです。
というよりも、「死にたい」って思うほど追い詰められている時
それは心に余裕がない時でもあって、視野狭窄に落ち入り
「別の人生もあるかもしれない」という細い糸が見えなくなってしまっている時なんですよね。
もともと細い糸なんて暗闇にいては見えにくいものだけど
実はずっと目の前にぶら下がっていて
その糸を引っ張ると自分が引っ張りあげられるのと同時に
別の自分に生まれ変わることがある。
それが他の人から見たら別人のようでもあり、
そもそも別人が自分と入れ替わっていたとしても
そんなことは他人から見たら大した違いなどなく……。

私たちはたぶん自分というもののアイデンティティを重視し過ぎてて
自分が別人である可能性について考えないようにできている。
それは存在というものが時間に縛られていて
その時間の連続から逃げることができないからなんだけど
時間をたくさんぶった切って繋いでいくと
アイデンティティなんてものはあまりにも簡単に崩壊してしまう。

ーあの時あの場所で私はたしかに存在した。

それが記憶という曖昧なもので担保されているだけに過ぎないのに。
(記録はあってもそれはけっして確証にはならないでしょう)

妹の記憶にあった、妹に「自分も死にたい人」だと自覚させた
自死を選んでしまった同級生。
その同級生は変わった子だったからこそいじめられていて
そんな子が自死を選ぶ前に「飼育室のウサギを逃す」のですけれど
そのウサギはあまりに増えやすいことから害獣指定されていて
自治体で年に何度も捕縛作戦が決行されるにもかかわらず
逃げてしまったウサギはどんどん増殖し、
人々は困らせ続けているというのです。
そんな愉快な世界に生きる妹役は
自分と似た人と入れ替わったことで
死んでしまった同級生の名残に対してエールを送るのです。
逃げるウサギに「がんばれ」と。
自分たちを苦しめる存在に対して
ちょっとした意趣返しをしたって良いし
それが他の人たちにとって困らせることであっても
それらがあったところで世界は問題なく回っていく。
そういうもののイメージとしての「脱兎」だったのだろうと
私は思いながら見ていました。

だからそんな深刻にならずに
この世界に対して意趣返しをし続ければいいし
恩返しをしていったって良いんです。

他にも細々とそれぞれのシーンに対しての感想はあるんだけど
大きな筋に対しての感想はこんな感じです。
読んでも、見てない人にとってはサッパリな感想になっちゃってると思います。
なんせ”エッシャーの絵本”のようにどこから書いても
着地点は見つからないし、どこからスタートさせても
それが終わりの部分であるような
どこまでも迷路なお芝居だったので
感想を書こうとすると支離滅裂になってしまうのです。

それでもこのお芝居を見ることで
水の中で溺れているような気持ちになってる人たちの
なんらかの救いとなる”小さな手”となるかもしれないし
「わかったふりが一番ムカつく!」ってなるかもしれない。
ともかく心が動くきっかけとなるような気がします。
錆び付いて動かなくなってしまった心でも
動きさえすれば目の前の細い糸がみつかるかもしれません。

ニーチェが残した「永劫回帰」に照らし合わせるなら
私たちは選べるのであるのなら、こんな人生を選ばなかったと言いながら
実は一生というものを何度も何度もやり直していて
それでもなおこの人生を歩んでいるのかもしれず
だったらそんなに真剣に人生を間違えないようにと意気込むのでなく
莫迦みたいにチャラく生きられるような選択を
一回ぐらい選んでみるのも一興でしょう。

そんなことを思ったりしたのでした。
さて、今日も今日とてこれからパーリータイム。
身内のような仲間たちとのんびりと過ごしてきます。

そんじゃまた!モイモイ。
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