あも&サチアキの交換日記

どうやら交換日記が続いているようです(祝何年目?

思想を語りたいわけじゃないんだけど

2019-02-28 | from:sachiaki
どうもうっかりするとそちらにブレがちなsachiakiです。

え?いまさら?
と思われる人もいるかな。
日記はそんな話かアホ話しか書いてないですもんね……。

この日記はあくまでも
私があもさんに対してラブコールしているようなものだから
思想家になりたいとかそういうんと違うんだよ?









たぶん。







それはそれとして、
あもさんが正道を歩いて家族を持ち、
真面目に生きているというのに私ときたら
ますますワイルドサイドを歩けみたいなことになってきてしまって
そりゃアウトサイドを歩いていたつもりで
完全に正気なパンダ氏には私がおっかねぇってなるのも分からなくもない。

鬱って認知の歪みの極みにいるように見えるけれど
どちらかといえば鬱の人のものの見方が正解なんだよね。
だけど、普通はそんな正確にものを見続けると
なにもできなくなってしまう。

外に出れば車が走っていて、そいつがいつ歩道に突っ込むのかわからないし、
電車の中にいるどうかしている人に突然胸ぐら掴まれて大変な目にあうかわからないし、
外食先で変なものを混入されてバカになるかもしんない……等々。

だけど、それを私たちは認知の歪みで
強引にポジティブシンキングして
誰かが災害にあうとしても自分だけは大丈夫。
って思い込むことで外に出ていけるんですよね。

だから私が減っているお仕事の補填もせずに
むしろこれをきっかけに自分で仕事を生み出そうとしていることは
パンダ氏にとって恐ろしいことにしか見えず
そりゃ私の分も未来を見越して寝込んでしまうのも仕方ないって感じです。

しかもお金持ちになるようなルートを選ぶのではなく
二言目には出家したい、なんてことを言うんだからねぇ
安心させてあげたいけれど、多分もう無理なのよね。

最近パンダ氏に
「君はどんどん狂ってきている。とても正気とは思えない。
 だから哲学方面に進む人は怖いんだ」
って言われまくっているのでな。。。

そんなことを言われているけれど、
昨日もレヴィナスの本を買おうと本屋をさまよっていたけれど
全然見つからなくてへっちょりしてました。

今密林で検索してみたけれど、
アホほどたけえぇ!!!
「ウィトゲンシュタインとレヴィナス 倫理的・宗教的思想」

古い話だけど、私は私を”ここ”につなぎとめるのが苦手だから
飛び出そうとしたらついてきて欲しいと前連れに言った時に
「バカじゃないの?(意味がわからん)」って言われたんだよなー、と遠い目。

とりあえず少しでも前に進まないとなーということで
2回ほど1人しゃべりをしてみました。
うまくしゃべれれるようになりたい。。

あと聞いてもらうってすげー難しい。
ゲスラジは友達とやっているから心折れずに済むけれど
一人でやるのはすごい大変。そういや
でもこれをやらないと次に進めないので、砂を噛む気持ちで進めていきますよ。

そういやこの日記にもリンク貼っとくか。
こんなのを喋ってました。
赤鬼ちゃんかく語りき
12分の短いおしゃべりなので、暇つぶしにでもどうぞ。
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ツイてるツイてる〜!っていう波が来た!

2019-02-27 | from:sachiaki
と感じただけかもしんないけれど、
昨日書いていた「場所さえ良いところが…」の件が無事に通り、
恐ろしいことに六本木の見晴らし位の良いビルにて
撮影することができることとなりました!

いうだけ言ってみるもんだ……と背筋をあわ立たせながら
今度は自分がその期待に応えられるのか?
とオエェエェってするくらいに緊張してしまっているのですけれど
なんとか乗り切ったるわい!とそんな気持ちでいます。

どーも、被写体になんてなったところで
どうなるもんでもなくね?なんて思いつつ、
頑張れって声に気圧されているsachiakiです。

ついでに裏政治として良くしてくれている(?)おじさんたちにも
こんなことを企画してるんでシクヨロでやんす!
ってアナウンスもしているので、
あとは野となれ山となれで頑張る。。。
おじさんたちの中で食いついてくれる人はちょいちょいいるし。。

とにかく良いものを作ろう。
そして自分がなにを作り上げたいのか、
何度もなんども見直しながら
たとえ明日この世が滅びるとしてもリンゴの苗を植えるように
希望を忘れずに種をまき続けよう。

そんなことを思いました。

やってること

ただのコスプレ的な哲学カフェやんけ

って思うけれど、奇抜でもなんでも
斜に構えていてても何も始まらないしねぇ。
サロン夜学だって同じようなことしているけれど、
さらにポップ(?)にできたらいいな。

そんな感じ。
撮りたい写真のイメージはムーランルージュだよ。
退廃的なエロスに寄せて、ロートレックの絵のようなものが作れたらいいなと。
とりあえずフレンチカンカンができそうなレースがボワッボワなスカートか
かっちょいいコルセットボンデージを探すわ。
あ、この写真はオープンにできるものではないので
撮ったよ〜というお知らせはしますけれど
どんな写真を撮ったか気になる人はそのお知らせの内容を見てくださいませ。

そんじゃ今日はこの辺にて。モイモイ
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人に甘えてみないと他人も甘えてくれない

2019-02-26 | from:sachiaki
3月のラインオンで桐山くんが言われていたやつです。
人と関係を作るってことは「お互い様」ということだ
みたいな話です。

んなこと誰でも知ってるし、やってるよ。
って人は多いと思うんですけれど
私はけっこうできないタイプなので
なんとか人に甘えることに慣れたいなぁと思っているsachikaiです。

アダム・スミスが『国富論』の中で述べていた

 私たちが呼びかけるのは、彼らの人間性に対してではなく、
 彼らの自己愛に対してであり、和足たち自身の必要について彼らに語りかけているのでなく、
 彼らの利益について語りかけているのである。
 同胞である市民の慈愛心に主としてすがろうとする者は、乞食以外には誰もいない。

っていうのから、私たちは利益に基づくものでないと人は動かないと思っているし、
実際そんなもんだし、
母が子を思うように、無償のものなどはないのですよなぁ。
(その母ですら、「子がかわいい」という対価を得ていることについては傍に置いておきます)

てことでね、とくに長女育ちの私からしてみたら
他の人がなにかをしてくれるなんてことは期待できないし
むしろ弟たちが出来ないことについて
やかましくも口出しをしながら後ろをちゃんと付いてくるか
そういった心配をしながら常に与える側でしかなく
”してもらう”ということに耐性がないのですよね。
両親からの期待には応えるものだと思っているし
弟たちにとって頼りになる姉であるポジションであることを
どこかで勝手にしょいこんでいる。

だから苦しくてもしんどくても「〜して欲しい」というのができないし、
「〜して欲しい」には対価が必要だと思っている。

でもはたと気づくわけですわ。
弟たちにしてきたことについて、なにか恩返しが欲しくてしてきたわけでもないし
弟たちが「ねーちゃん、あれが欲しい」と言った時に
しょーがねーなって言いながら出してきたことについて
別に嫌な気持ちもなんもないし、
対価としてもらったといえば
姉としての尊厳をもらったというものがありますね。

ウィークポイントを晒して「助けて欲しい」と言った時に
それを拒む人はそれなりにいるだろうけれど
捨てる神あれば拾う神ありってことで
助けてくれる人もいるってことなんでんな。

「きっと助けてくれる」と信じ抜くのはとても難しいけれど
自ら動いて真摯に向き合えば意外なところから手が差し伸べられたりするものですよなぁと。

人にものを頼むのは怖くてこわくて仕方がないけれど
言うだけいってみて、100回に1回のOKを取りにいきましょうかね
とかそんな気持ちです。

とりあえずうまくいったらどえらい見晴らしのいい場所にて
そこそこいい写真を撮りにいけそうです。
ていうか、写真はどういじっても良いのが上がってくる人にお願いしているので、
場所、場所さえOKが出ますように。

私ができることなんて祈ることくらいしかないんじゃよ。。

というわけでこの辺にて。モイモイ
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sachiakiは混乱している

2019-02-25 | from:sachiaki
お昼にね、日記をiPhoneのアプリを使って更新したんですよ。
「公開する」を押して「見る」というボタンでも確認して
よしよしアップされたね。(・∀・)ニヤニヤ
なんて思ってたのですけどね……。

今もう少し修正しようかな?
ってこちらの編集フォームに来てみたら
該当記事がなくなっていてめちゃくちゃ混乱しています……。

え!?

もしかして私は今日幻の投稿をしていたってことですか?

それとも私の記憶が間違っているってこと??

夕方に猛烈な頭痛とともに眠気が来たので
オフトゥンで横になっていたのですけれど、
そのせいで私の時間軸に歪みができて
別の世界線に移動しちゃったりしてるのかしら???

なんてふざけたことを言っていないで
どうして消えたのかを考えてみると





「ヒト○しをしても構わない」という論を張っていたのが原因かも。
ちょっとアレな話なので、規約かなにかに引っかかってしまったのかもしんない。

ちゃんと読めば、そんなものを推奨しているものではないし、
むしろ人でいつづけられるように、帰れる人や場所を作って
闇に飲み込まれないようにしようね、って話を書いたんだけどなぁ。

高性能な節穴AIで管理されているのかしらね。

とにもかくにも日記が消えてしまったので
ここではそういった日記はもう書かないと思います。
それこそnoteとかにしたためるか、
別の方法で読んでもらえる方法を模索してみます。

明日は書いた投稿が消えるなんてことがありませんように。
そんじゃまた!モイモイ
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お金についての才能

2019-02-23 | from:sachiaki
があまりに乏しいので、
やっぱ出家しようかな?
と、過去何度目だ??という自問自答にうぐぐとなっているsachiakiです。

昨日はロボットアニメソング縛りでカラオケをしてきたのですが
これがもうめちゃくちゃ楽しくて
めっちゃ大満足!!!!!
ってことにはなってウッキウキで帰ろうと思ってたんだけど、
私がやりたがっている「哲学について」のあれこれにて
少しでもお金の流動化をしていきたいと考えていたので
そのアドバイスを伺いにお金持ちのおじちゃんとお話をしてきたのですわ。
できればそのやりたいことについて面白がってもらい
投資しようか?
って言ってもらえたら良かったんだけど、
面白がってもらう段階の前で
足りてないことがたくさんあることに気づかされまして

そうだよなぁ。
お金の匂いが少しでもしてなかったら
そりゃぁ投資なんてしたくないよなぁ
ってショゲってなっていました。

お金持ちたちが大好きな
”囲い込み”と”考えさせないでお金を払わせる方法”とは真逆の話をしていたので
そりゃまぁそうだわなぁとも思ったり。

大きなお金になる匂いをさせないと
やっぱり難しいのですよなぁ。。

ヒントはもらったけれど、
とても一人では無理だわってなったのと
やっぱり問答が好きな人は小さな庵を作って
そこで人が来たなら問答をして
それ以外は質素に暮らすのが最も良いのだろう
なんてことを思ったりしていました。

やっぱねぇ、私が求めているものは
多くの人を呼ぶようなものじゃないし、
どうしてもこじんまりとしてしまうのですよね。

世界の粋を極めているわけでもないし……。

イベントみたいにして、
毎回人がくるかどうかを心配するのも煩わしいし。

基本系が引きこもりみたいなものだから(意外かもですが)
オープンな人間じゃないのよね。

とりあえず来月もアニメカラオケはやる予定なので
それのためだけのWEBページ作ってきますわ。

そんじゃまた。モイモイ
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葛飾北斎はヤバイ

2019-02-22 | from:sachiaki
今日はねぇ、自分が担当しているアート施設を巡るイベントこと
『アート探訪と異文化カフェトーク』というものを行ってきたsachiakiです。

このイベントは私が関わっている団体さんの中で
芸術に触れる機会を増やすためにやっているものなのですが…
一緒に担当をしてくれているお兄さんがなかなか土日休みがない方なので
先月に引き続き平日の開催となってしまいました。

が!

六本木の森センターアーツにて開催中に『新・北斎展』
マジでやばかったです!!

なにがやばいって、

まずはその点数!!

師匠から名前を分けてもらった春朗期のデビュー時代からの役者絵から始まり、

宗理・北斎宗理・画狂人北斎・画狂北斎・可侯・北斎辰政と
画号を変えていた時代の狂歌本、絵本、美人絵などが勢ぞろいして

かつしか北斎時代の吉原遊郭の景や
為一と名乗り70代からの「富嶽三十六景」と「諸国瀧廻り」と
誰しもが「浮世絵」で思い出すあのメインの絵たちを
これでもか!と見せつけられ

死ぬ直前になる九十老人卍時代の「弘法大師修法図」「雨中の虎図」「雲龍図」と
最後まで見きった時には、もうヘトヘトになってしまいましたw

真剣に見すぎだったのw

北斎の時代は江戸の後期で平和な時代なので
絵に没頭できたのは良いことのようですが
平和が続き過ぎると色本なども行き過ぎる傾向があるようで
お上から締め付けがキツくなり、
まったく発行できなくなることもあったそうで
なんだか時代が違うというのに他人事じゃないなぁって思ったりしてきました(ノ∀`)アチャー

他にもいっぱいいっぱい書きたいことがあるというか
消化してないことがたくさんあるのですけれど、
とにかく脳みそがいっぱいいっぱいなのでこの辺にて(゚∀゚)アヒャ

今日は疲れてしまったので、もう少ししたら寝ますにだ。
ほんじゃーね!モイ
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ウォーターメロントルマリンを手にいれた!

2019-02-21 | from:sachiaki
パワーストーンは好きですか?
私は綺麗な石が好きなので好きです。

はい。
綺麗な石って程度のことしか思ってない人の日記なので
うっかりスピリチュアルは解散!
どうも今日も今日とて謎のとがりっぷりを発揮しているsachiakiです。

尖ってるなんて、うそうそ。
自分の指輪はブルームーンストーンが入ったものだし、
手首にはアクアオーラのブレスをつけてますからね。
なんやかやで好きなんですよ。

こういう奴が一番やっかいw

てなこったでね、
なんだかんだで好きなパワーストーンのね
ウォーターメロントルマリンってのを
弟がアフリカに出張へ行くって言った時に
あったらで良いから買っといて。
ってお願いしたんですわ。
それが1年半前くらいかな。

帰国後に忘れてるんだろうなって思って聞いてみたら
やっぱ忘れてたので、別にいいからって言ってみたんだけど
「一応取引先に聞いてみる!」って言ってくれたので
あてにせずにお願いしていたんだけど
まー、待てども暮らせども手にいれた話はなく、
自分でもパワーストーンを扱うところなどに行った際には
ちょろっと気にして見ていたわけです。

それでもなかなかみつからなくって
ずっと気にかけながら過ごしていたんですけれど、
この間ひょんなことからジュエリー原石フェアみたいなのに行く機会があったので
ブースの中をウロウロしていたんですね。

1周まわってみても見当たらず、まぁそんなもんよね。
なんて思ってさて帰るか〜なんて思っていたんだけど、
そういやザルの中に入ってる雑なところがあったぞ
ってもう一度展示会の中央にあるブースへと近寄ってみて
ちょろちょろとあさっていたら
ブーススタッフに呼び止められて「探し物はなんですか?」と。
「見つけにくいものですか?」と聞かれたので
「ウォーターメロン…」って言ってるそばから
「ウォーターメロンこれ」ってめっちゃ手元のザルを指差され
Oh…灯台下暗し…ってなってしまいましたww

ちなみにウォーターメロントルマリンはけっこう希少な石らしく、
見つかるか見つからないかは運によるものだそうです。

小さいけれどしずく型の可愛い石をゲットできて
あたいのテンション爆上がりです☆

あとは身につけるために小細工をしないとならないのですけれど
それようの材料を買いに行かなくちゃって感じ。

小細工も終わったらちょいちょい身につけていると思うので
あぁとうとうやりやがったな、
と思ってニヤニヤしてやってくださいw

さて、今日は書類をワシワシ進めていきたいのでこの辺にて!モイ
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神と呼ばれるものの不在と奇跡について

2019-02-20 | from:sachiaki
神は死んだ!(ドシャーン!!!と雷が落ちる背景をご想像ください)

なんて昔の偉い人は言いました。

そして
神様はたぶんいる!(ピシャーン!!!以下略)

なんてことを言いだそうかどうか考えているsachiakiです。

いや、正確には一般的に信じられているような
奇跡を都合よく起こしてくれる神様はいなくて、
なんかよく分からない歴史的ミッシングリンクはあったりするけれど
どうひっくり返っても思いつかない
原始スープから生命が産まれたことや
人間に進化したこと、それらを説明するには
やっぱり「神」的な概念を用いらないと説明ができない
っていうものならいる(=ある)と思っています。

なので一生懸命に念仏を唱えたり、
神様に感謝する祈りを捧げることには
甚だ疑問ではあるものの、
その儀式的な行いのおかげで
人間が人間たりえる集団行動をできることなどは
一定の説得力があるなぁなどと思ってもいます。

私は宗教的なことを考える時に
カラマーゾフの兄弟を読んだ時のことを思い出します。

「敬虔な愛」を盲信的に信じるアリョーシャは
聖人のように描かれるけれども
人々のことをなにも知りません。
汚い本能のことや、卑劣なまでの生活への渇望などから目をそらし、
一途に「神の愛」を信じて禁欲的に暮らしているけれど、
教会の長であるゾシマ長老は「世に出なさい」と
寺院を出ることを勧めます。
俗世間では欲があり、人々に罪があること、
汚いことを見ないで済むようなことを
長老は見てこいというわけです。
そしてアリョーシャは自分の兄イワンと宗教観について戦いもします。
超絶リアリストであり皮肉屋でもある兄のいう
神がいったいなんであるのか?
信仰とはなんなのか?

カラマーゾフの兄弟はとても長い小説で未完のものですが
宗教を扱いながらも
”実際に目の前の人を愛するといった実行的な愛”について
とても深く深く言及しているものなのだと思います。

”罪”を”罪”のままにするのではなく
”愛と赦しの道”を示し、
それは夢幻なんかではなく、実効的でなくてはならないと
指し示しているわけです。

そういやこの前の日記にもエントリした
エーリッヒ・フロムの「愛するということ」にも
実行的なものが愛なのだと書いていましたわ。

と、話が逸れてしまった。
ほんなわけでな、「神様私をお救いください」みたいなものは
信仰でもなんでもなく、強いていうなら精神的に依存することで
ギリギリ人間ぽい振る舞いができるっていうもので、
本当になにかを信仰するなら、
”愛する”という行動を起こした方がいいってことなのでえしょうなぁと。
その時の行動というものがそれぞれにあるので
細かいことは書きませんが、行動に移したものだけに真実が宿り、
そこに”まるで奇跡”のようなこと、ってのが起こるんじゃないのって思ったりもするのです。

まぁ偶然の産物に違いなく
統計で考えても0ではない限り、必ずそれは起こるってことなので
諦めずに頑張れってことだったりします。

あー、また長くなってるな。
そして何が言いたいんだっけ?
ばあさん、飯はまだかい??

とりあえず今日も「死んでしまいたい」というところからギリギリ生還した人の話を聞いていて
「生きたいと思ってもらえてよかった。でも自殺を選んでしまっても仕方ない」
なんて話をしていました。
神様なんてものがいるのか分からないけれど
人が一人今日も生還してくれた。
それだけでもすごい奇跡よね。
って感じのことを書きたかっただけです。

 生きることをあきらめてしまわぬように

それにすがってでも生き延びれられるのなら
それを神様と呼んでも構わない。

そんな日記でした。

あたしゃ神様よりも
眠ってる間に確定申告の書類を上げてくれる小人さんの方が切実に欲しいよ。
まったく毎年こんだけ苦しむのわかっているのに
過去の自分を蹴り飛ばしたいわ。。。モイモイ
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まかり間違っていたら大悪党だったと思う

2019-02-19 | from:sachiaki
おはこんにちは。
昨晩は頭痛もあったので、さっさと寝ようと思っていたのに
やっぱりビルダーズの沼に浸かって寝不足になってしまったsachiakiです。

まぁそれはさておいて。
今日の私の戯言は、

被害者の気持ちよりも加害者の気持ちを知りたくなる
もしくは、
悪堕ちする理由に深く共感するという話についてです。

わたくしスターウォーズの新作は全然見ていないので
旧作の三部作しか知らないのですけれど、
ダースベイダー卿の悪堕ちの話はぬる〜と知っている感じです。

ダースベイダーはさすがに話が広すぎるというか、
デカイ悪堕ちだなーと思うけれど、
マギに出てきたマグノシュタット編に出てくる学長の悪堕ちとか、
まどか☆マギカのさやか&ほむらとか、
聖闘士星矢のサガ様とかね、
むしろ人間味があるし、
清濁合わせ飲むことが出来ないことや、
そのピュアピュアっぷりや信念の強さゆえに潰れる弱い人というイメージがあるなと。

この間、長電話に付き合わされた時に
信念が強い人は弱い人だという話をしていて、
相手はキョトンとしていたけれど、
"人間は一人で生きているわけではない"という話をして、
ベルセルクでグリフィスが仲間を贄にする気持ちは痛いほど分かるけれど、
それでも選ばない勇気が彼にあれば良かったのにね、
なんて話をしたら納得してくれました。

信念は素晴らしい力だし、
ストイックに生きている人の美しさは格別なものがあるけれど、
どうしたって人は一人で生きていくには弱すぎるし、
世界は広くて深すぎるのだと思う。

家族を持てとか恋人を作れとは言わないけれど、
帰ってこれる人や場所は必要だと思う。

闇に飲み込まれそうになる時、
引きずり込まれた時に、
呼吸が出来る所にそれらは助けになると思います。

私は元来倫理観が緩い上に、
人の為になるだったり、
自分の信念の為なら多少の犠牲は付き物だ、
という考え方であるのに、
綻びもありつつギリギリ人の形を成しているのは
帰って来られる人がいるからなのだと思うのです。

「ヒトを殺しをしても構わない」とのたまわく私にとって
それでも殺さずに済んでいるのは
失う物の大きさを知っているからなだけだし、
ブレーキとしてこの上ないものだとも思います。

そんな感じ。
銀行の窓口待ち時間があまりに長いので
闇落ちしそうになりましたが
そろそろ順番がくるのでこの辺にて!

そんじゃーね。モイモイ
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内側と外側と<コミュニティとはなんぞや>

2019-02-19 | from:sachiaki
ほうぼうに針を立てる癖もどうにかした方がいいんじゃないか?
それこそ
 ♪ ふてくされてばかりの10代をすぎ 分別もついて歳をとり

って歌われてもいるんだから、
良い加減にどこかへ迎合して自分と他人との絆を深めてもいいんじゃないか?

そんなことを思ったりもするんだけど、
「sachiakiさんはその青臭いままがいいんじゃない?」
って言われたので、
まだ少し怯えながらもツンツンしてて良いらしい、
なんて勝手に良い方へ解釈をしたsachiakiです。

すでに昨晩noteである程度書いてしまったので
それほど書くこともないのですけれど、
私って 誰かが決めたルールのもとを歩くのが嫌い
という性分がありまして、
それでもまぁ中学高校時代なんかは
そのルールの元に沿っていた方が便が良いから乗っておく
みたいなところがあり、
それがいわゆる”良い子”側に振れていたので
あまり小うるさく言われることがなかったのですよね。

スカートの丈を短くしようなんてあまり思わなかったし、
リボンを改造しようとか、
制服にちょっとしたものを取り入れようとかそういうのがあまりなく
その代わり自分がやりたい髪型とかは取り入れていて
一風変わった格好をしていた覚えがあります。
そういやヒラメってあだ名をつけれてていたな。。
後ろ髪だけ長めだったから、カイト(凧)みたいな変な後ろ姿だったのですよねぇ。

今さら言うけれど、
あれは乙女カットをやりたかったのにうまく伝えられなくて
いつも後ろ髪の一部だけ長いというようなもので
うっかりしていたらジャンボ尾崎だったなとハラハラしてしまいますわ。

そんなわけで比較的コミュニティ流儀というものを意識せずに育ち、
20歳そこそこで入社した会社では社長に意見して出ちゃったり
30歳では上取引先の部下があまりに可哀想だったので、その人の代理喧嘩したり、
いろいろ面倒な性格を引きずったまま今に至っています。

大人になったら丸くなるものだと思っていたけれど、
そういうもんでもないみたい。

人が2人以上集まればなんとなく空気と呼ばれる
暗黙のルールなどができたりするけれど、
その人数が膨れ上がってきた時に
それぞれが思っている方向が違うことは多分にあり、
それがどうでも良いルールであったり、
重要だったりと状況によって変わるものだったりするけれど、
少なくとも「このコミュニティに入りましたが、私はいつでも抜ける権利があります」
という当たり前のことができないコミュニティが多すぎる気がします。

そんなわけで、”人が集まらないとどうにもならない”
というものよりも、”人が集まらなくてもどうにかなる”
方法はないかと常に模索しているわけです。

まぁ、日本ってなんだかんだで生活保障とか手厚いはずなので
そういったことの入り口とか窓口にうまく辿り着ければ良いんですけどね。

一つのコミュニティに依存せずに、
いくつものコミュニティに属し、
ゆるやかに渡り歩くことが許される
それこそ憧れの対象として持ち上げられるスナフキンのように
生きていけば良いんじゃないかな?とか思いました。

小学生の時に「さっちんはスナフキンみたいだね」と言われていたのは
-人とうまく溶け込めない悪口なのか?-とか思っていたことがあるけれど
あれはそうではなかったのかもしれない。
その頃からすでに一つのグループにいるのではなく
かといっていくつものグループに足掛けしている器用な子とも違い、
ゆるっと一つのグループに顔出しつつ、
図書室の住人であり、屋上の昼寝人だったから
いつも給食を食べ終わるといない人ってイメージだったのだと思う。

まぁスナフキンって名言ばっかり言ってるイメージあるけれど、
あいつ気ままな分、かなりの傍若無人っぷりを発揮してますけどねw

ともかく私たちは自由であることには違いなく
コミュニティに所属するもしないも自由なんだってこと。
だけど”自由が幸せだとは限らない”
ってことだけは忘れちゃならないのだろうね。
かつての心理学者(精神分析・哲学者)であるエーリッヒ・フロムも
『自由からの逃走』って本を書いてますしね。

最後にそのフロムの『自由からの逃走』より引用して終わりにします。

 自由というものは本来はそれが与えられることに対しての
 孤独や責任を受け止めるということが求められるわけであり、
 その覚悟を持った上で自由を希求して得た者によって構成される社会こそが
 望ましい社会の形態といえるわけである

孤独や責任を受け止められる覚悟ができたなら
自由を謳歌しようじゃないですか。
春になったら仲間のところにやってきて
冬になれば別のところへ流れているスナフキンのように。
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