昨晩は毎月行われているオンラインでの読書会にて
小林秀雄著作の「本居宣長」の上巻最終章を読んできたsachiakiです。
この話をする前に、読んできた本のことに触れなくては……と思ったので
その話を少し置いておきますね。
毎月行われているオンラインの読書会ですが、
以前はお茶室でお茶を最後に一服して帰るという
お茶の代わりに本を回して読むような音読会だったのですけれど、
今はオンラインなので一節ごとに誰かが音読をし、
順番で次の方がその次の節を読むよいうことをしています。
こうすることで
一冊の本をめぐって読むだけでなく
声に出すことで内容が残りやすく
意見交換の時の発話がしやすくなるようです。
さて、そんな一風変わった読書会で最初に読んだ本が
「茶の本」であり、次にぶ「武士道」そして「代表的日本人」と
進めてきたわけです。
私が欠席していた回の中では「風姿花伝」も読まれたみたいですね。
これらを読み進めてきて気づいたことは
日本ならではの感覚かどうかは脇に置いておいて
「ものごと(茶道しかり、言語習得しかり)を習得する時
そのものに同化しろ」的なものがとても多いんですね。
例えば本居宣長は「古事記伝」を書き記すまで
古人がどういった心持ちで歌を読んだのか、
ということをしつこく丁寧に資料にあたり
彼独特のインスピレーションで当て字にされていた
訓読み漢字を説き解しているんですけれど
例:波夜久阿礼袁斯泥登夜阿淤母富須良牟
→ ハヤクアレシネトヤオモホスラム)
この部分と後に出てくる
淤母富志売須那理祁理 → オモホシメスナリケリ
この二つを比べて「良牟(ラム)」から「祁理(ケリ)」に
至る心情は訓み(よみ)聞こえるものだと書き記してあって、
後世の人間からすると「なんでそうだと言い切れるんだ?」
って思ったりもするんですけれど、
それは彼が師事した賀茂馬淵から教えてもらった
日本語独特の助詞「てにをは」からくる柔らかなものの言いざまや
弱さやありのままを記そうとする飾らない言葉を
彼(宣長)は源氏物語から感じ取り、
そういった古人の心をインストールしたからこそ
訓みざまというものが聞こえてくるのだと確信しているようです。
言い換えると「阿吽の呼吸」というものが
ものから感じられるようになるというようなことなのでしょうか。
そしてこういった「なりきれ」というものの言い方は
本居宣長だけでなく、岡倉天心の「茶の本」の中にもあるし、
「風姿花伝」の中でも絶えず出てくる話でもあります。
物事を見たり聞いたりする時、
人は誰しも自分の持っている潜在的なフィルターを通してでしか
見ることができないので、
同じものを見ても全く同じことを見るのはほぼ不可能であるってことは
現代の認知(心理)に関する話だけでなく、
科学的な方面でもそうだと肯定されているようなので
古くは哲学的な問題としても「見ているものはなんぞや?」という問いは
常につきまとい、それに対するアンサーとして
東洋では「禅」と呼ばれるような
「そのものをあるがまま見ろ」というものに収束したように思います。
と、意味がわからんっていうような内容の日記になってしまったけれど、
「ものをみる」ことの難しさについて思うところがあったってことで。
さて、いったん切り上げてお店に集中してきます。
そんじゃまた。モイモイ。
小林秀雄著作の「本居宣長」の上巻最終章を読んできたsachiakiです。
この話をする前に、読んできた本のことに触れなくては……と思ったので
その話を少し置いておきますね。
毎月行われているオンラインの読書会ですが、
以前はお茶室でお茶を最後に一服して帰るという
お茶の代わりに本を回して読むような音読会だったのですけれど、
今はオンラインなので一節ごとに誰かが音読をし、
順番で次の方がその次の節を読むよいうことをしています。
こうすることで
一冊の本をめぐって読むだけでなく
声に出すことで内容が残りやすく
意見交換の時の発話がしやすくなるようです。
さて、そんな一風変わった読書会で最初に読んだ本が
「茶の本」であり、次にぶ「武士道」そして「代表的日本人」と
進めてきたわけです。
私が欠席していた回の中では「風姿花伝」も読まれたみたいですね。
これらを読み進めてきて気づいたことは
日本ならではの感覚かどうかは脇に置いておいて
「ものごと(茶道しかり、言語習得しかり)を習得する時
そのものに同化しろ」的なものがとても多いんですね。
例えば本居宣長は「古事記伝」を書き記すまで
古人がどういった心持ちで歌を読んだのか、
ということをしつこく丁寧に資料にあたり
彼独特のインスピレーションで当て字にされていた
訓読み漢字を説き解しているんですけれど
例:波夜久阿礼袁斯泥登夜阿淤母富須良牟
→ ハヤクアレシネトヤオモホスラム)
この部分と後に出てくる
淤母富志売須那理祁理 → オモホシメスナリケリ
この二つを比べて「良牟(ラム)」から「祁理(ケリ)」に
至る心情は訓み(よみ)聞こえるものだと書き記してあって、
後世の人間からすると「なんでそうだと言い切れるんだ?」
って思ったりもするんですけれど、
それは彼が師事した賀茂馬淵から教えてもらった
日本語独特の助詞「てにをは」からくる柔らかなものの言いざまや
弱さやありのままを記そうとする飾らない言葉を
彼(宣長)は源氏物語から感じ取り、
そういった古人の心をインストールしたからこそ
訓みざまというものが聞こえてくるのだと確信しているようです。
言い換えると「阿吽の呼吸」というものが
ものから感じられるようになるというようなことなのでしょうか。
そしてこういった「なりきれ」というものの言い方は
本居宣長だけでなく、岡倉天心の「茶の本」の中にもあるし、
「風姿花伝」の中でも絶えず出てくる話でもあります。
物事を見たり聞いたりする時、
人は誰しも自分の持っている潜在的なフィルターを通してでしか
見ることができないので、
同じものを見ても全く同じことを見るのはほぼ不可能であるってことは
現代の認知(心理)に関する話だけでなく、
科学的な方面でもそうだと肯定されているようなので
古くは哲学的な問題としても「見ているものはなんぞや?」という問いは
常につきまとい、それに対するアンサーとして
東洋では「禅」と呼ばれるような
「そのものをあるがまま見ろ」というものに収束したように思います。
と、意味がわからんっていうような内容の日記になってしまったけれど、
「ものをみる」ことの難しさについて思うところがあったってことで。
さて、いったん切り上げてお店に集中してきます。
そんじゃまた。モイモイ。