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Boise on my mind

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「誰でも捨てるな」!?

2011-04-23 | アカデミック
堺市内某所の小さな事務所ビルで見かけた張り紙.
「誰でも捨てるな / ○○ビル専用」と書かれています.

この張り紙の文言を見て,私はしばらく頭を抱えて悩んでしまいました…

張り紙は倉庫の外壁に張られていて,その下方の路上はネットが設置された簡易なゴミ集積場になっています市のゴミ回収日に限ってゴミ置き場として使われています.
張り紙の意図が「ここは自分たちのビル専用のゴミ置き場だから他の人(近隣住民など)はここにゴミを置くな」というメッセージであることは,周囲の状況から判断できますが,文言だけから解釈するのは困難です.

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x を人を表す変数として,否定を¬で表すことにします.
さて,「誰でも捨てるな」の述語論理的解釈は

(1) ∀x ¬(x は捨ててよい)
(2) ¬∀x(x は捨ててよい)[ ⇔ ∃x ¬(x は捨ててよい)]

のどちらでしょうか!?

もし,文言がちょっと違って「誰も捨てるな」だったら話は簡単,「誰も寝てはならぬ」( ⇔ ∀x ¬(x は寝てよい))と同じで,解釈は(1)のほうに確定します.
でも,この張り紙の状況を考えると,(1)とは考えられません.(1)だとすると,○○ビルの当人も捨ててはいけないことになってしまいます.
そうすると,「誰でも捨てるな」は(2)に解釈せざるを得ませんが,それにしても,日本語としてものすごく違和感があるだけでなく,「ここに捨ててはいけない人は誰なのか」について何も語っていないので,意図されているであろうメッセージとはかけ離れた意味しか持たないことになります.

《本》数学基礎セミナー / 日本大学文理学部数学科

2011-04-23 | アカデミック
数学基礎セミナー / 日本大学文理学部数学科 編(日本評論社)

この本は知りませんでした.さっそく入手して勉強したいところです.

ところで,静岡大学理学部数学科の「新入生セミナー」では,上記の本を教科書に採用していますが,ありがたいことに,参考書としてこの本を指定してくださっています.

Wikipediaの「ベン図」

2011-04-03 | アカデミック
以前の記事で,「Wikipediaの『ベン図』の項目の記述は気に入らない,全面的に訂正されるべきだ!」という主張をしましたが,先ほど,思い立って自分で編集しました.

「論理演算とベン図」の節は,編集前は文章がなくて図だけでしたが,図の前に文章を挿入しました.その中で,「ベン図を論理演算を表すのに使うのは誤用というべきものだ」と明言したうえで,「でも,現実には…」という立場で説明を加えてみました.

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(追記)その後,どなたかによる編集が加わって,ベン図を論理演算の表現に使うことについて,「誤用」→「本来の使い方ではない」と,穏当な言い方に変更されています(→差分).

ご愛読,ご参照御礼

2011-03-28 | アカデミック
数学:物理を学び楽しむために田崎晴明さんのページ)

ありがたいことに,「最近の主要な更新履歴」に次の言及があります.

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時間をかけて作業したのは、2.1.1, 2.1.2, 2.1.3 節の命題と論理の部分。構成も全面的に変えたし分量もかなり増えた。一般的な命題論理の話をする部分と、述語(変数が入っている命題)の部分をすっぱりと分けた。これまでは、(そういう解説が多いのだけど) 何となくいっしょくたに議論して、場合に応じて、述語を念頭に置いたり、一般の命題を念頭に置いたりしていた。さらに、述語についての「ならば」の文には「任意の変数の値について」が暗黙のうちに省略されているということを明示的に書いたし、必要条件、十分条件という言い方は述語についての命題に限って使うことにした(このあたりは、嘉田勝「論理と集合から始める数学の基礎」(日本評論社)の影響を受けた。もちろん、この本を熟読して理解したというわけではないし、書き写したわけでもない。ぼくの書いた物がおかしければ、ぼくの責任です)。かなりすっきりしたのではないかと思う。と言っても、専門外もいいところなので、ちょっと不安はある。
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日々の雑感的なもの ― 田崎晴明 2011/3/26(土)に,さらに詳しい言及があります.

例の本では,命題の同値性を「≡」,何らかの変数についての述語の同値性(たとえば「x^2=4」と「x=2 または x=-2」)を「⇔」で表すという記号の使い分けをしていて,田崎氏のテキストもこの流儀に従っています.この使い分けは私自身の「なんとなく…」という使い分けの感覚を(執筆を機に)ルール化しただけで,数学関係者一般に受け入れられるかどうかは不明ですが…

ご愛読御礼,でも素直には喜べない…

2011-02-18 | アカデミック
関数fが無限大に発散する
二次元ベクトルが平面空間を生成する定義

見るからにこの本の演習問題を解こうとしている方の質問で,「ご愛読御礼」と言いたいところですが,質問内容を読むと素直には喜べなくなってしまいます.

演習問題を解くのはいいけど,その前に,ちゃんと本文を熟読してくれたらなぁ,と思います.そうでないと,演習問題の意味がない…

これらの演習問題は,べつに実数論や線形代数の内容を理解してもらうために出題したのではありません.そこに現れる述語の論理的構造を正しく分析し,その論理的構造に適合する論証の形式を正しく運用できるようになってもらうのが,この演習問題を含む章全体の目的なのです.なにしろ,本のタイトルが「論理と集合から…」ですから.
でも,件の質問者がその理解に達しているとは思えないのが残念,というより,忸怩たる思いです.

まあ,本に限らず,そもそも創作とか表現というものは,いったん世に出てしまったものは作者の手を離れてしまうのですけれどね.

順序数横断ウルトラクイズ(!?)

2011-02-10 | アカデミック
2011年2月9日(水) - て日々
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最小の順序数 0 から出発して, 最初の不可算順序数 ω1 へ向かう各駅停車の長距離列車がある. 各可算順序数 α が駅である. 始発駅の 0 では空っぽの車両に可算無限人の乗客が乗り込む. その後, 各駅に停車する段階で, 車両が空でなければ, 乗客が誰か一人だけ降りて, そのあとに可算無限人が新たに乗り込む. 駅に着いたとき列車が空でも, やはり可算無限人が新たに乗りこむ. 一度降りた人は二度と乗車しない. さて, 終着駅 ω1 に到着したとき, 列車はどうなっているだろう.
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このネタで私が連想したのが,往年のテレビクイズ名番組「アメリカ横断ウルトラクイズ」.

「オメガワンへ行きたいかぁ~~っ!」
『おぉ~~っ』
「どんなことをしても,オメガワンへ行きたいかぁ~~っ!」
『おぉ~~っ』
「罰ゲームは怖くないかぁ~~っ!」

順序数横断ウルトラクイズの挑戦者一行は,各可算順序数 α のチェックポイントでクイズに挑み,敗者一人を振り落とす.ところが,各チェックポイントでは,罰ゲームが終わった後に,新たに可算無限人の挑戦者が参入してくる.さて,決勝戦の地 ω1 にたどり着けるのは…

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ちなみに,集合論で長距離列車といえば,アムトラックにはCardinalという列車があります(シカゴ~ニューヨーク).1年前にアムトラックでニューヨークに行ったときにはLakeshore Limitedに乗りましたが,どうせならCardinalに乗ればよかったかな…

The Pigeonhole Principle (「鳩」じゃなくて「分類棚」!)

2011-02-03 | アカデミック
この本の第11章(有限集合の要素の個数)に,次の記述があります.

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コラム[23] 「鳩の巣箱」は誤訳?
「鳩の巣箱の原理」はpigeonhole principleの訳語ですが,pigeonholeには「鳩の巣箱の出入り穴」や「鳩小屋の中の仕切り巣箱」のほかに,それから派生した「分類棚」「分類のための小仕切り」などの意味があります.また,鳩の巣箱の原理はディリクレ(P.G. Dirichlet)が初めて用いたといわれていますが,ディリクレはこれをドイツ語でSchupfachprinzip(引き出しの原理)と名づけています.これらのことから,英語のpigeonhole principleは「鳩の巣箱」というよりむしろ「分類棚」を意図して名づけられたと想像されます.
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で,先日,アメリカの離散数学の教科書を読んでいて,この説を裏付ける記述を見つけました.
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Where did the name come from? Old style desks often had an array of small horizontal boxes for storing various sorts of papers ― unpaid bills, letters, etc. These were called pigeonholes because they often resembled the nesting boxes in pigeon coops. Imagine slips of paper, with one element of S written on each slip. Put the slips into the boxes. At least one box must receive more than one slip if there are more slips than boxes ― that's the pigeonhole principle. After the slips are in the boxes, a partition of the set of slips has been defined. (The boxes are the blocks.)

(E.A. Bender and S. G. Williamson. A Short Course in Discrete Mathematics. Dover)
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ちなみに,pigeonhole を電子辞書で調べてみたら,主要な英和辞典および Oxford Dictionary of ENGLISH では「書類分類棚」と「鳩の巣穴」の両方の意味が載っていますが,コウビルド英英辞典だと,
(1) N-COUNT 書類分類棚(の,ひとつの区画)
(2) VERB 分類する
(3) N-COUNT 分類された特定のカテゴリ
で,「鳩」はどこにも出てきません.

続:命題も述語も集合もベン図も,何もかもぐちゃぐちゃ,何とかして!

2010-10-31 | アカデミック
以前の記事でぼやいた件について,また某所で悩ましい「初学者の質問」を見かけてしまったので,放っておけずに応対してしまいました.某所に書いた文章を再掲します.

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「命題をベン図で表す」流儀は,是非はともかく,現実にはかなり広く流布しています.
特に,公務員試験対策本にはこの流儀がかなり広まっているいるようです.
Wikipediaのベン図・論理演算関係の項目にも,そのような例はたくさんあります.

結論を先に述べます.「命題をベン図で表す」ことについて,私の見解は次のとおりです.
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(1) 「正しい」か「正しくない」かについては,ノーコメント.
(2) 初学者に数学の論理を教えるメソッドとしては著しく不適切であり,推奨すべきでない.
(3) 私自身は,数学の論理を教えるメソッドとしては絶対に採用しない.
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「命題をベン図で表したもの」を観察すると,次のようになっています.

(a) マルはP,Qなどの命題変数に対応づけられている.
(b) マルで区切られた領域は,「命題変数への真理値の割り当て」を表現している.
(c) マルの内部/外部は,それぞれ,対応する命題変数に「真」/「偽」の真理値を割り当てた状況に対応づけられている.

つまり,明確に「集合ではないもの」をベン図で表しています.
「ベン図とは集合を表すものであって,それ以外の解釈はあり得ない」という立場を明言するなら,「命題をベン図で表す」ことは誤りです(Wikipediaでは「ベン図」の項目で「複数の集合の関係や,集合の範囲を視覚的に図式化」と明言しているので,命題をベン図で表すことは自己矛盾で,全面的に訂正されるべきだと思います).

ところで,「ベン図とは集合を表すもの」という先入観からいったん離れて,「命題をベン図で表す」とはどういうことか? と冷静に観察すると…
実は,それは「真理値表」あるいは「カルノー図」の表現形態のひとつと思えば,妥当な解釈が可能です.また,命題演算と集合演算は代数系として同じ構造なので,集合演算をベン図で視覚的に把握するのと同じ要領で,命題の真理値の演算をベン図で視覚的に把握することも,やはり妥当に実行可能です.
したがって,「ベン図の解釈を拡張して『命題をベン図で表す』という流儀を正当化して,論理の教育に積極的に取り入れるべし」という意見も,あるかもしれません.

以上の観察をふまえての私の意見は,やはり,最初の(2)で述べたとおり「『命題をベン図で表す』メソッドを論理の教育に持ち込むことは著しく不適切であり,反対」です.
「ベン図は集合を表すもの」という認識はあまりに広く普及しているので,「命題をベン図で表す」という流儀は(たとえ,それなりの妥当性を認めうるとしても),命題・述語・集合の区別に無用の混乱を持ち込み,初学者が数学の論理を正確に理解することを妨げるからです.

ただし,上述の議論をすべて完璧に理解できる人が,自分自身の思考のためだけに「命題をベン図で表す」のは,その人の自由だと考えます.
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本橋信義「新しい論理序説」 (すうがくぶっくす 16)

2010-09-16 | アカデミック
本橋信義(著) 新しい論理序説 (すうがくぶっくす16) 朝倉書店
朝倉書店によるページ

教科書かと思ったら,どうやら「筑波大学での教育実践記録」のようで,ちょっと興味があります.

9.誤った定義~「新しい論理序説」より~

この本では「通常様々な教科書で使われている群の定義は誤っている」という大胆な主張がなされているようです.このページで例示されている,実在の本から採った群の定義の(誤った)例は論外ですが,「通常様々な教科書で」同種の誤りが犯されているとは,にわかに信じ難いです.

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(追記)
図書館で見てきました.群の定義の「誤り」は,私の予想とは異なる論点での誤謬の指摘で,なるほどたしかにその誤謬は大半の本が犯していると納得できるものでした.というわけで,「にわかに信じ難い」は私の早とちりでした.

定義とは何か,定義と公理の違い

2010-07-16 | アカデミック
某所で,「定義と公理の違いは何?」という問いかけをきっかけに,ある人が

「定義は公理の集合です.これは基礎論での標準的な考え方です」

と主張しました.
私は「おいおい,そりゃ無茶な主張だろ!」とツッコミを入れたのですが,当人とはぜんぜん話が通じません.
で,よくよく氏の主張を分析してみると,どうやら,氏の念頭にある「定義」は「ベクトル空間の定義」のような数学的体系の構築としての定義だけのようで,数学で頻繁に行われる「新たな用語や記号を導入するための(言い換えとしての)定義」は眼中になかったようです.

で,私としては,「新たな用語や記号を導入するための定義に対してまで『定義とは公理の集合』という説明を持ち出すのは無茶だ」と最後に主張して,その議論からは撤退することにしました.

それでは,「ベクトル空間の定義」のような,公理主義的立場での数学的体系の構築としての「定義」に限って言えば,「定義は公理の集合である」という主張は適切でしょうか? ここでは,この視点で考えてみます.

まず,純粋に公理主義的な立場で「ベクトル空間の『公理系』」を設定したとしましょう.このとき,「ベクトル」とか「ベクトル空間」というのは「無定義術語」であって,そもそも「ベクトル空間の『定義』」などというのは存在しえないはずです.つまり,公理主義に没頭した立場では,数学的体系の構築のために公理系を設定する行為は,もはや「定義」ですらないのです.

そこで,もう少し普通の数学者のセンスに近づいて,「ベクトル空間の定義」と言ったら何を意味するかを考えてみましょう.
ベクトル空間をどう定義するかというと,8つぐらいの数学的性質(定式化のしかたによって数は異なるかも…)を書き並べて「これらの性質をみたす数学的構造をベクトル空間という」と宣言するわけです.このとき,書き並べた性質のひとつひとつを「公理」と呼んで,それらを全部ひっくるめて「公理系」と呼ぶのは,それほど違和感はありません(もっとも,私の感覚では,「定義」という意思をもって数学的性質を並べるのなら,個々の性質は単なる「定義の条文」であって,それを「公理」と呼ぶのはどうかなぁ,という気もします).

でも,この立場では,公理系そのものは,単に数学的性質を記述した文(論理式)が並んでいるだけです.それ自体が何かを生み出すわけでも,何かにルールを与えるわけでもありません.「これらの性質をすべてみたす数学的構造を考えて,それらをベクトル空間と称する」という宣言が伴ってはじめて,ベクトル空間を「定義する」という行為が成立するのです.
また,「ベクトル空間とは何か」と問われたとして,単に公理をすべて読み上げるだけでは,答えたことになりません.「ベクトル空間とは,これらの性質をすべてみたす数学的構造のことです」と答える必要があります.この意味で,ベクトル空間の「公理系」そのものは,「定義内容」という意味での「ベクトル空間の定義」にさえなっていません.「…をみたす数学的構造」という文言が欠落しているからです.「ベクトル空間の定義」を述べるためには,公理系には現れない「…をみたす数学的構造」という文言を補わなければなりません.

私の感覚では,「公理」「公理系」と「定義」は,意識の中で異なるレイヤに属するように思えます.
「公理系」は何らかの意図で集められた「公理」の集合ですが,それ自体は単なる論理式の集合でしかありません.一方,「定義」というのは,「これこれの性質をもって数学的体系を『定めます』」と宣言する「行為」であって,その行為者の視点に立ってはじめて「定義」という言葉が意味を持つわけです(公理主義に没頭する立場ではこの視点は持ちえません).
だから,「公理系」は「数学的体系の定義」のために利用可能な論理式の集合ではありますが,「公理系」そのものが「定義」とは,私には思えません.

「定義は公理の集合」という件の発言でいう「公理の集合」は,たぶん「公理系」と呼ぶのが適切で,それを「定義」と呼ぶのはやっぱりヘンだと思います.

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(追記)あとで見たら,氏の主張に「一時的な記号の置き換えであってもそれはベースとなる理論に公理を付け加えて体系を拡張しているのだ,だから理論の構築も用語記号の導入も区別なく扱うべきだ」が付け加えられていました.
私の知る限り,数学基礎論でもそういう立場はとりません.理論のベースの公理に現れない記号を導入するときは,それはあくまで「human-readability確保のための略記」,すなわち,非形式的な人間の思考の側で議論を加速するためのマクロとして導入します.新たな記号を定義するというのは「その気になればマクロを展開することで『新たな記号』を消去して形式に落とせる」という前提での非形式的な議論なのです.そういう非形式的な議論のための略記の規約を「公理」とは呼びません.したがって,新たな記号を導入するために「公理を追加する」ということは,数学基礎論においてさえ,(通常は)ありません.
少なくとも,公理的集合論のスタンダードははっきりこの立場です.ZFC公理系自体の記述に使われる唯一の関係記号∈を除いて,あらゆる集合に関する記号は「非形式的な略記」です.最も権威ある教科書のひとつ(これこれ)がこの立場を明示的に表明しています.
たぶん,「定義は公理の集合」を主張する某氏は,やたら「基礎論」を連発するわりには,数学基礎論の実際の研究内容を知らない人なんだろうなぁ… 困ったものです.氏の言うところの「基礎論」は,たぶん「形式主義」の彼なりの解釈(曲解?)であって,現実の数学基礎論研究とは別物なのでしょう.そう思って,この件にはこれ以上粘着しないことにします(というか,当初の質問者さんを巻き込むのが気の毒で続けられません).

(追^2記)やっぱり書いときます→某所

記号 f^{-1} の憂鬱

2010-07-11 | アカデミック
数学における用語や記号の使われ方について,慣行の力をある程度高く評価せよという意見に楯つく気はありませんが…

写像にまつわる記号の慣用で,f^{-1} (f の右上に小さく -1,)という記号が「全単射 f の逆写像」「写像 f による集合の逆像(inverse image)」の両方の意味で使われうるのは,数学における不合理な慣用がもたらす弊害の中でも最悪の部類に属すると思っています.

以下,f は U から V への写像とします.
U の部分集合 A について,「f による A の像」という概念(V の部分集合)がありますが,この本ではそれを f[A] と記しています.世間では f(A) と書かれることが多いですが,私は f(x) と明確に区別することが重要と考えて,異なる形の括弧を使う記法を採用しました(ブルバキ流の(訂正)集合論研究者の間で用いられている f''A ()という記法は教科書に使うにはちょっと…).

同じ理由で,V の部分集合 B について「f による B の逆像」(U の部分集合)は f^{-1}[B] ()ですが,やはり世間では f^{-1}(B) が多いです.
この記法の問題は,f^{-1} という記号が文脈によって「逆像」にも「逆写像」にも用いられることです.これに混乱する学習者はあまりにも多く発生し続けています.私は異なる形の括弧を使うことでそれらの混同の可能性を少しでも減らそうとしていますが,世間での書き方はわざと初学者を混乱に陥れているようなものです.
これも,分野によっては,f^←B(f の右上に小さく←,それら全体の右に B,)という記法を使うようで,その記法に統一したいぐらいです(が,さすがに教科書で採用するのはちょっと…).

もっとひどいのは,B={b} (シングルトン)の場合に,f^{-1}[{b}] ()を f^{-1}(b) ()と書くという,なんとも横着な(記号の見た目だけでは逆写像と区別できない)略記が横行していることです.
代数とかの人に言わせれば「そうすることで逆写像の自然な一般化が得られる」と正当化するかもしれません.でも,それははっきり業界のジャーゴンと認識して,学部3年次以下の学生が読む可能性のある教科書からは排除してもらいたいです.学習途上の学部学生にとっては混乱の原因を増やすだけでメリットはありません.

はっきり言って,こんないい加減な記法を蔓延させて初学者を(わざと,と言っていいほど)混乱に陥れているのは,学習者にとって理解しやすい記法の整理をしてこなかった過去の数学者の怠慢だと思っています.あるいは,もっと悪く,昔の数学者が参入障壁として意図的に(意地悪く)混乱を招く記法を作ったとさえ思えます.現にこれらの記法を授業で教えて困難に直面している数学教員は怒るべきだと思います.

で,私は,怒りを表明する代わりに,この本の執筆過程で考え抜いて,集合や論理についての用語や記法について「数学や情報科学におけるあいまいな慣用を見直し,一貫した流儀の確立を試み」(まえがきより)て,世に送り出したわけです.
こういう努力を,数学の教育を仕事とする多くの人がすべきです.さらに,多くの人が議論して,高い教育効果が得られる合理的な流儀が確立されることを望みます.

受験勉強は終わりです(根上生也)(数学セミナー2009年5月号)

2010-07-03 | アカデミック
とある筋から入手した数学セミナー2009年5月号をひさびさに取り出して,特集「大学で身につけたい数学リテラシー」の第1記事,根上生也氏の「受験勉強は終わりです」を読み返してみました.

…うーん,なんというか,私の頭の中でもやもやしている考えを,そっくりそのまま言語化して代弁してくれている感じ.

この記事では,多くの大学生が試験答案に論理的に破綻した議論を平然と書いてしまうという現象について,根上氏は「自制力」「整合の世界」というキーワードを使って持論を展開しています.
「自制力」とは「苦し紛れに当てずっぽうを言ったりしないで,本当に分かったことだけを言う,そういう態度を保とうと自分を律する力」と説明されています.そして,自制力の足りない大学生は,「試験問題に解答する」という「特殊な状況」に揺さぶられると,間違ったことを平気で書いてしまう,というわけです.
それでは,自制力を身につけるには? という次の問いに,根上氏は「自力構成した整合の世界を持つことだ」と答えます.自制力を発揮するには何が正しいのかを判断する確固たる基準が必要で,それは自力構成した整合の世界にほかならない,というわけです.
そして,与えられた問題の解法を覚えることを目的とする受験勉強の姿勢では,自制力の基盤となる整合の世界は構成できない,だから受験勉強の姿勢から脱却しなさい,と締めくくっています.

私は1年次の授業「集合と論理」で,たぶん,すでに10回ぐらいは次の説教を口にしました.
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数学の論理に習熟するために必要な態度は,【最も単純な基本原則にだけ従う】,そして【変なこと,勝手なことをしない】ことだ.それをできる人は,少しの練習で数学の論理に習熟できる.数学の学習でつまずく人というのは,何かが「わからない」のでもなく,「能力が足りない」のでもなく,「変なこと,勝手なことをする」人だ!
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でも,はっきり言って,この説教が真に必要な学生に対しては説教は無力です.そして,根上氏の説のとおり,「ペーパーテスト」という試験形態は,学生に「余計なこと,変なこと,勝手なこと,的外れなこと」を平然とさせるように仕向ける魔力を持っているのです.なんというか,受験勉強を通じて,学生はペーパーテストを目の前にしたとたんに「自制力」が無効化される,そんな刷り込みをされているように思えてなりません.

で,自分の1年次授業ではどうしたものか,と考えてみるのですが… うーん,結論はなかなか見出せなくて悩んでいます.