Boise on my mind

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余談:日本語フォントの「画面上で読みやすい文字サイズ」

2005-08-22 | ウェブサイト運営論
あくまで私見ですが、日本語のある程度長い文章をストレスなく「画面上で読める」ようにするためには、フォントサイズは16ピクセル以上(Windowsで画面解像度が 96dpi なら12ポイント以上)が理想的で、小さいほうの限界は14ピクセルだと思っています。「字が小さい」ブログのテンプレートの多くは、これを満たしていません。

パーソナルコンピュータで本格的な日本語処理が可能になったのは、1982年ごろ、NEC の PC-9800 シリーズの登場によります。そして、PC-9800 シリーズが本体に内蔵していた日本語フォントのサイズが「16ピクセル」だったのです。
「16」という数字の意味するところは何か? 2のべき乗はコンピュータとの親和性が高い、当時の PC-9800 の標準画面サイズであった「640×400ピクセル」との親和性も高い(行間ゼロなら40字×25行)、などの理由もありますが、もうひとつ、「多くの漢字の字形を『ウソ字』にせずに表現するためには最低16ピクセル必要である」という、当時の設計者の見識を反映しているようにも思えます。
16ピクセルの漢字フォントにも『ウソ字』は存在します。憂鬱の「鬱」や親鸞上人の「鸞」は言うまでもありませんが、もっと一般的な漢字の中にも、横線を間引かないと16ピクセルに納まらない字がけっこう多くあります(たとえば「量」は横線が9本あるので16ピクセルでは表現不可能)。16ピクセルでさえ『ウソ字』が発生するのですから、12ピクセルぐらいに小さくなってしまうと、まともに字形を反映できる漢字はごく一部で、ほとんどの漢字が『ウソ字』になってしまいます。
字が小さいことの問題点は、単に「目が悪いと読みにくい」だけでなく、「文字を表現するピクセル数が少なくなるために、字形が極端に潰れる」という点にもあるのです。これは「スクリーンが解像度の低いメディアである」「漢字は字画が多いために、字形を表現するためにより多くのピクセルを必要とする」という事実からくる制約ともいえます(アルファベットなら、少ないピクセル数で字形を表現できるので、「字が小さい」ことの読みやすさへの影響は、日本語よりは少なくなるでしょう)。

ともかく、PC-9800シリーズの時代からPCでの日本語処理に接してきた私にとって、画面表示用の日本語フォントといえば「16ピクセル」が常識で、その「大きさ」と「字形」(正確には「字形表現力」)にすっかり慣れ親しんできました。
Windowsでは文字サイズは自由に変更できるようになり、16ピクセルより小さな文字を自由に使えるようになりましたが、14ピクセル未満で表示された漢字の字形は、やはり「読みづらい」と感じます。字の大きさだけでなく、字形表現力が乏しくて字形が潰れるからです。読みやすさを損ねない最小のサイズは14ピクセルで、それ未満のサイズはもはや「読んでもらうための長い文章」には適さないと思います。

続続・ブログの文字サイズ

2005-08-22 | ウェブサイト運営論
今回は技術論ではなく、一気に精神論に話が飛躍します。

ブログの既製テンプレートの文字サイズについてウェブ検索でいろいろ調べてみたら、どうも、「字は小さいほうがかっこいい」という意見が優勢で、大きい字のテンプレートは評判が悪いようです。
その一方で、「字の読みやすさ」については、当然のように「小さすぎる字は読みにくい」という意見が多く、字が大きいことに対して「読みにくい」という批判はありません。ただ、字が大きいことの結果として「1行あたりの文字数」「一度に画面に表示できる文字数」が少なくなることへの不満はあるようです。
とはいえ、小さい字が好まれる理由は、多くの場合「1行あたりの/1画面あたりの文字数を多くする」ことではなく「見た目のかっこよさ」であることは、間違いなさそうです。これは何を意味するか?? 多くのブログ作者は、「読みやすさ」より「かっこよさ」を優先して文字サイズを選んでいる、つまり、「かっこよさ」のために「読みやすさ」を犠牲にしているのです!!
「文字が小さい」ことと「かっこいい」ことの関連についての議論は、「デザイナーがウェブの文字サイズを小さく固定したがる理由 (絵文録ことのは)」に譲ります。

それで、「字が小さい」傾向について、私は
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字が小さいブログが流行るのは、「文章を書く」という文化の未熟さの現れである!
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と主張します。

書くことは考えること」で、私は
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ウェブサイトやブログの文章というのは、他人に読んでもらうために書くものです。
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と主張しましたが、その一方で、
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現実の個人ウェブサイトやブログの世界はどうでしょうか。残念ながら、真剣に考えて書かれた文章で構成されたものはごく一部で、書き手が好き勝手に書き散らかしているだけのウェブサイトやブログがあまりにも多いと感じています。ブログの流行とともに「ブログ=個人日記・私生活露出」という認識が広まっていることで、「書き散らかし」の傾向はますます強まっているように思えます。
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と現状分析しています。

ここまで書けば、もう説明は不要かもしれませんが、「ブログの文字サイズを小さくする」というブログ作者の傾向は、「他人に読んでもらうために文章を書き、公開する」という姿勢とは正反対であると、私には思えます。
スクリーンに表示される文字というのは、元来、印刷物などと比べて、読みづらいものです(そもそも印刷物とスクリーンでは解像度が全く違います)。したがって、自分の文章が「画面に表示された状態で読まれる」ことを想定するのであれば、表示結果が読みやすくなるように、十分に配慮する必要があります(文字サイズをある程度以上大きくする、行間を十分広くする、文字色と背景色のコントラストを適切に設定する、など)。
画面上の文字サイズをあえて小さくする、ということは、「読み手への配慮」という方向に全く反する行為です。「見た目のかっこよさ」のために「読み手への配慮」を犠牲にしているのです。それは何を意味するか? そのブログ作者は、「ブログ」という形態のウェブ上の場所を確保して、それをテンプレートでかわいらしく装飾して、日記でも何でもいいから文章を書いてそこに表示させる、ということだけを目的としていて、「文章の内容を読んでもらう」「自分の意見を主張する」ことなど、作者にとってはどうでもよい、ということです。

ブログという自己表現手段の出現に対して、「文章を書く」という文化の成熟が追いついていない、だから「文章の内容なんてどうでもいい、見た目がかっこいいことのほうが大事」という流れになるのだと、私は考えています。多くのブログ作者は、単に「自分のブログを持って、それをかわいらしく装飾する」こと自体が目的化してしまい、文章の内容をもって自己を表現しているのではないのです。

こういう傾向は、ブログの流行以前の「個人ホームページ」の時代からありました。「ホームページを持つ」こと自体が目的化してしまって、内容は「自己満足」や「家族・友人間の内輪受け」に終始する、というものです。そういう「ホームページ」に限って、派手な色使いやアニメーションの多用で画面の見やすさを損ねている、という点で、「字が小さいブログ」と共通の傾向がみられます。
そこに、ブログという表現手段が出現したことで、個人がウェブ上に表現手段を持つことの技術的障壁が取り払われ、多くの人が(文章による自己表現能力の有無とは無関係に)ブログに飛びつきました。その一方、ブログはテキスト中心の表現手段で、「個人ホームページ」よりも文章の比重が格段に大きくなり、文章による自己表現能力がより厳しく問われます。それで、多くのブログ作者が「見た目が大事、内容はどうでもいい」という方向に走り、「文章を書く」という文化の未熟さが一気に露呈する結果になったと考えています。

多くのブログ作者の「文章を書く」という行為に対する認識はしょせんこの程度なのか、それとも、長い目で見ればブログの流行が「文章を書く」という文化の成熟を促すのか… 希望的観測としては、後者であってほしいと思います。

続・ブログの文字サイズ

2005-08-21 | ウェブサイト運営論
前記事「ブログ・ウェブページの文字サイズ」およびBoise on the weblog の記事で、ブログのデフォルトテンプレートの文字サイズの「小ささ」に言及しましたが、その後、gooブログのテンプレートの中に「文字が小さくない」ものがあることを知りました。「植物」「家具」「パセリ倶楽部」の中に、文字が小さくないテンプレートがわりと多くあります。
いろいろ見てみたところ、私の好みに近いのは

植物: みどりクローバー
パセリ倶楽部: パステル4

あたりですが、これらにも欠点、というか、私の好みに合わない部分があるので、このブログで採用するには至りませんでした(具体的には、サイドバーの右左が選べない、ページ横幅が固定されている、など)。それに、自分の好みに近いものを選んだとしても、そのうちにきっといじりたくなるでしょうから、当面は今のまま、カスタム可能なスタイルを使い続けることにします。

「パセリ倶楽部」については、なんでも、パソコン教室とのコラボレーションで、受講者の年齢層が50~60代であることに考慮したとのこと。なるほど。(→スタッフブログ: 「パセリ倶楽部」コラボレーションテンプレートにつきまして

スタッフブログ: 「植物」テンプレート公開しました!」には、文字サイズに関するコメント・トラックバックが多数つけられています。それだけ、文字サイズに対するブログ作成者の関心は高いということなのでしょうが、そのわりには、アクセシビリティ・ユーザビリティの観点が抜け落ちていたり、ウェブサイトデザインの本質論から全く外れた議論が多いのが気になります。

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(訂正)コメント・トラックバックで文字サイズに関する議論がなされていたのは、次の記事でした。あらためてトラックバックを送信します。
スタッフブログ: テンプレート10枚追加しました!総計223枚!

ブログ・ウェブページの文字サイズ

2005-08-18 | ウェブサイト運営論
Boise on the weblogのほうで「ブログのデフォルトテンプレートの文字サイズはどうしてこんなに小さいのか!!」という不満を述べましたが、これについて、まさに「わが意を得たり」のブログの記事を見つけました。

ブログの文字サイズ (DIVINERS - 片桐智のタロット占い)

ちょっと思いついたのですが、ブログのデフォルト文字サイズが小さいことのひとつの理由として、「ブログのシステム自体が英語圏からの舶来であるために、アルファベットを基準とした文字サイズの選択がそのまま修正されずに輸入された」ことが考えられるのではないでしょうか。アルファベットは漢字やカナより小さい文字サイズでの可読性が高いでしょうから。もっとも、ブログ以外の個人ウェブサイトでも文字が非常に小さいものが多いので、理由付けとしては不十分でしょうが…

もうひとつのブログ記事

デザイナーがウェブの文字サイズを小さく固定したがる理由 (絵文録ことのは)

では、「文字が小さい」傾向について、示唆に富む考察がなされています。

小泉解散と「ポータブル国会」

2005-08-10 | Weblog
郵政法案否決・解散のドタバタ劇に、ふと「ドラえもん」の「ポータブル国会」のエピソードを思い出して、ちょっとウェブ検索してみたら… やっぱり、私が思ったことをそっくりそのまま代弁してくれたブログの記事がありました。

ポータブル国会 (飲む鬱飼う?いいえ。呑む飲むのむです。陽気な飲兵衛日記。)より
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…おいらがここ最近の国会事情を見るとどうもこのノリで運営されている様な気がしてしょうがない…
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このくだりにはまさに同感。というより、「ポータブル国会」のエピソード自体が、単なる子供だましの漫画を超えた、藤子氏流の政治風刺なのだと思います。

「ポータブル国会」の初出は1977年だそうで、「国鉄の値上げのために北海道のおばさんが来られなくなり、お年玉を期待していたのび太が国鉄値上げを決議した国会を逆恨みする」という物語の始まりが、いかにも時代を反映しています。というのは、

1. 北海道から東京への交通手段として、飛行機でなく鉄道が選択されている
2. 当時、国鉄運賃の大幅な値上げが繰り返されていた
3. (国鉄民営化によって忘れ去られてしまったが)国鉄運賃は国会決議によって決定されていた

という当時の事情が織り込まれているからです。

ところで、「お年玉一人1万円以上」は、今なら法制化(笑)するまでもなく実現しているような気がします。

「改革」という言葉への猛烈な嫌悪

2005-08-10 | Weblog
郵政法案否決・衆議院解散・総選挙という流れの中で、「改革」という言葉がいっそう激しく飛び交うようになりました。しかし、私の中では、ここ数年の間に「改革」という言葉に対する嫌悪が著しく強まって、今に至っては、「改革」と聞いただけで反吐が出るほどになっています。

改革することが悪いとは決して言いません。しかし、真に必要なのは、物事を「よくする」ことであって、物事を「変える」ことではありません。物事を変えることが善で変えないことは悪であるという考えは、全くもって愚かです。物事をデタラメに変更して悪い方向に向かわせるよりは、何もしないことのほうがずっとマシです。
物事をデタラメに変更することを「改革」と称することは間違いです。「改革」を声高に叫ぶ権力者の多くは、それがデタラメであろうと無内容であろうと、ただただ権力をふりかざして突き進み、「改革」という言葉をおとしめる一方だったのではないか? そして、大衆は、変更の中身を全く理解せずに「改革」の美名に目をくらまされているのではないか?

あなたは道を歩いていて、転んで額を擦りむいた人と出会いました。額の傷は軽いかすり傷で、わずかに血がにじんでいます。あなたはこの人をどうやって助けますか? (消毒薬や絆創膏を持っていれば最も効果的に助けることができるでしょうが、あいにく、あなたはそのようなものを持っていません。)
ほうっておけば、傷口はかさぶたになって出血が止まり、数日ですっかり治るでしょう。ですから、「何もしない」というのは適切な判断です。でも、傷口の出血を見て「たいへんだ、血を止めなきゃ、たしか、出血を止めるには根元の動脈を…」と慌てふためいて、その怪我人の頚動脈を圧迫したら、どうなりますか!?

「改革」を叫ぶ権力者が実際に行っていることは、実は「額を擦りむいた人の首を絞める」ことと同じかもしれない、そのように考えたことが一度でもありますか? 彼らが通り過ぎたあとには、額を擦りむいただけで絞殺された罪のない人々の屍累々… 私には、そんな光景が目に浮かびます。

「自分が間違っているかもしれない」と思ったことがあるか?

2005-08-09 | Weblog
タイトルは、今はなきチャールズ・M・シュルツ氏の漫画「ピーナッツ」で、神学の本を書いていたスヌーピーが「完璧なタイトルを思いついたぞ…」と念じながらタイプライタで打った言葉です。残念ながら、オリジナルの英文を完全には覚えていませんが…

このブログでは、時事評論的な記事は極力書かないつもりでしたが、昨日の郵政法案否決・解散のドタバタ劇を見て、ちょっと書きたくなってしまいました。

《リンク》脱!教えて君同盟

2005-08-03 | リンク
私が「ガクッときた」掲示板投稿」で言及した「教えて君」の問題に関連して、↓↓こんなウェブサイトを見つけました。

脱!教えて君同盟

このサイトは、「教えて君」への非難や揶揄ではなく、むしろ「啓蒙」を意図しています。すなわち、教えて君自身には「自ら調べる(特にウェブ検索によって)」ことと「質問の礼儀をわきまえる」ことを促す一方で、サイト管理者などに教えて君への啓蒙を勧め、非難や揶揄を戒めています。
私のスタンスは「脱!教えて君同盟」とほぼ同じです。「私が「ガクッときた」掲示板投稿」で言及した質問者への返答も、そのスタンスで行ったつもりです。