情報提供を目的とする個人ウェブサイトの運営論について、「キマグレ ヒトリゴト」のchaiさんの記事「Web更新作業」の内容に触発されて、コメント欄で議論を試みたのですが、どうも、chaiさんと私の問題意識にズレがあるようで、議論がかみ合わないまま立ち消えになってしまいました。
ここでは、chaiさんの真意からはさらに離れていくかもしれませんが、私自身の意見として書いていきます。
発端は、chaiさんご自身が運営するウェブサイト「シンシナティの風」について記した次の記述です。
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その反面、サイトも私も「有名人化」しすぎて、私が一個人でないと思っている人も割と多いらしい。もはや本人を知る人がほとんどいないため、偶像化してしまったんだろうと思う。
サイト作成も掲示板の運営も、どこかの会社や雑誌社などの担当者がメルマガを書いたり雑誌の投稿欄で返事をしたり…みたいな感じに捉えている人が結構いると聞いた。
個人がやっているとは理解していても、どこかから何がしかの収入やアドバンテージがあるはずだと固く信じている人もいるという。
これらを耳にして、正直私はかなりガクッと来た。
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これを読んだ当初、私はchaiさんがなぜ「ガクッと来た」のか、わかりませんでした。
いや、心情的にはわかるんです。個人が限られた時間と労力の範囲でウェブサイトを維持することの苦労を知ってほしい、それを知ったうえでウェブサイトの情報に接してほしい、という気持ちは、運営者の本音として、理解できます。
でも、それを読者に期待するのは、「間違っている」とまでは言わないものの、「無理」というか「無意味」ではないかな、という気がするのです。
「アメリカ在住日本人のウェブサイトに思う」で、私は「ウェブサイト作者は『文楽の人形遣い』を目指すべし」という持論を述べました。「シンシナティの風」に対する読者の評価というのは、まさに、その目標を達成したことを意味する、名誉なことだと思うのです。
「名誉」という見方については、chaiさん自身も
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これについてのウチの夫のコメントがいい。
「個人レベルじゃないと思わせるほど出来がいいって思えば良いじゃん。」
これで全てがすっきりしてしまった。
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と記して、肯定しています。でも、私の意見はこれとも微妙に違います。私は、情報提供を目的とするウェブサイトは、そもそも作者が個人とか団体とか、利益があるとかないとか、そういうことを読者が意識(詮索?)すること自体が「無意味」になるような状態を目指すべきであって、「シンシナティの風」はそれをも達成している、と思うのです。
念のため繰り返しますが、心情的にはわかるんです。たいていの人は、そう簡単に「人形遣い」になりきれるものではありません。自分自身が観客の意識から消えてしまうことに「むなしさ」「孤独感」を感じるのが普通だと思います。
でも、あえてそれを目指すのが、情報提供ウェブサイト運営者の宿命ではないかと感じています。
私はずっと、「Boise on the Webを『嘉田さんのホームページ』とは呼んでほしくない」と思ってきました(私の本業を詮索されて「嘉田先生の…」なんて呼ばれるのは、なおさら忌避したいです)。それじゃ、何と呼ばれたいか? そりゃ、当然「ボイジーのウェブサイト」です!
このテーマについては、まだまだ書き足りませんし、私の考えも十分に煮詰まってはいません。そのうちに、さらに考えをまとめて、続きを記します。
ここでは、chaiさんの真意からはさらに離れていくかもしれませんが、私自身の意見として書いていきます。
発端は、chaiさんご自身が運営するウェブサイト「シンシナティの風」について記した次の記述です。
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その反面、サイトも私も「有名人化」しすぎて、私が一個人でないと思っている人も割と多いらしい。もはや本人を知る人がほとんどいないため、偶像化してしまったんだろうと思う。
サイト作成も掲示板の運営も、どこかの会社や雑誌社などの担当者がメルマガを書いたり雑誌の投稿欄で返事をしたり…みたいな感じに捉えている人が結構いると聞いた。
個人がやっているとは理解していても、どこかから何がしかの収入やアドバンテージがあるはずだと固く信じている人もいるという。
これらを耳にして、正直私はかなりガクッと来た。
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これを読んだ当初、私はchaiさんがなぜ「ガクッと来た」のか、わかりませんでした。
いや、心情的にはわかるんです。個人が限られた時間と労力の範囲でウェブサイトを維持することの苦労を知ってほしい、それを知ったうえでウェブサイトの情報に接してほしい、という気持ちは、運営者の本音として、理解できます。
でも、それを読者に期待するのは、「間違っている」とまでは言わないものの、「無理」というか「無意味」ではないかな、という気がするのです。
「アメリカ在住日本人のウェブサイトに思う」で、私は「ウェブサイト作者は『文楽の人形遣い』を目指すべし」という持論を述べました。「シンシナティの風」に対する読者の評価というのは、まさに、その目標を達成したことを意味する、名誉なことだと思うのです。
「名誉」という見方については、chaiさん自身も
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これについてのウチの夫のコメントがいい。
「個人レベルじゃないと思わせるほど出来がいいって思えば良いじゃん。」
これで全てがすっきりしてしまった。
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と記して、肯定しています。でも、私の意見はこれとも微妙に違います。私は、情報提供を目的とするウェブサイトは、そもそも作者が個人とか団体とか、利益があるとかないとか、そういうことを読者が意識(詮索?)すること自体が「無意味」になるような状態を目指すべきであって、「シンシナティの風」はそれをも達成している、と思うのです。
念のため繰り返しますが、心情的にはわかるんです。たいていの人は、そう簡単に「人形遣い」になりきれるものではありません。自分自身が観客の意識から消えてしまうことに「むなしさ」「孤独感」を感じるのが普通だと思います。
でも、あえてそれを目指すのが、情報提供ウェブサイト運営者の宿命ではないかと感じています。
私はずっと、「Boise on the Webを『嘉田さんのホームページ』とは呼んでほしくない」と思ってきました(私の本業を詮索されて「嘉田先生の…」なんて呼ばれるのは、なおさら忌避したいです)。それじゃ、何と呼ばれたいか? そりゃ、当然「ボイジーのウェブサイト」です!
このテーマについては、まだまだ書き足りませんし、私の考えも十分に煮詰まってはいません。そのうちに、さらに考えをまとめて、続きを記します。