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Boise on my mind

ウェブサイト「Boise on the Web アイダホ州ボイジー地域情報」の作者短信、運営裏話など

余談:日本語フォントの「画面上で読みやすい文字サイズ」

2005-08-22 | ウェブサイト運営論
あくまで私見ですが、日本語のある程度長い文章をストレスなく「画面上で読める」ようにするためには、フォントサイズは16ピクセル以上(Windowsで画面解像度が 96dpi なら12ポイント以上)が理想的で、小さいほうの限界は14ピクセルだと思っています。「字が小さい」ブログのテンプレートの多くは、これを満たしていません。

パーソナルコンピュータで本格的な日本語処理が可能になったのは、1982年ごろ、NEC の PC-9800 シリーズの登場によります。そして、PC-9800 シリーズが本体に内蔵していた日本語フォントのサイズが「16ピクセル」だったのです。
「16」という数字の意味するところは何か? 2のべき乗はコンピュータとの親和性が高い、当時の PC-9800 の標準画面サイズであった「640×400ピクセル」との親和性も高い(行間ゼロなら40字×25行)、などの理由もありますが、もうひとつ、「多くの漢字の字形を『ウソ字』にせずに表現するためには最低16ピクセル必要である」という、当時の設計者の見識を反映しているようにも思えます。
16ピクセルの漢字フォントにも『ウソ字』は存在します。憂鬱の「鬱」や親鸞上人の「鸞」は言うまでもありませんが、もっと一般的な漢字の中にも、横線を間引かないと16ピクセルに納まらない字がけっこう多くあります(たとえば「量」は横線が9本あるので16ピクセルでは表現不可能)。16ピクセルでさえ『ウソ字』が発生するのですから、12ピクセルぐらいに小さくなってしまうと、まともに字形を反映できる漢字はごく一部で、ほとんどの漢字が『ウソ字』になってしまいます。
字が小さいことの問題点は、単に「目が悪いと読みにくい」だけでなく、「文字を表現するピクセル数が少なくなるために、字形が極端に潰れる」という点にもあるのです。これは「スクリーンが解像度の低いメディアである」「漢字は字画が多いために、字形を表現するためにより多くのピクセルを必要とする」という事実からくる制約ともいえます(アルファベットなら、少ないピクセル数で字形を表現できるので、「字が小さい」ことの読みやすさへの影響は、日本語よりは少なくなるでしょう)。

ともかく、PC-9800シリーズの時代からPCでの日本語処理に接してきた私にとって、画面表示用の日本語フォントといえば「16ピクセル」が常識で、その「大きさ」と「字形」(正確には「字形表現力」)にすっかり慣れ親しんできました。
Windowsでは文字サイズは自由に変更できるようになり、16ピクセルより小さな文字を自由に使えるようになりましたが、14ピクセル未満で表示された漢字の字形は、やはり「読みづらい」と感じます。字の大きさだけでなく、字形表現力が乏しくて字形が潰れるからです。読みやすさを損ねない最小のサイズは14ピクセルで、それ未満のサイズはもはや「読んでもらうための長い文章」には適さないと思います。

続続・ブログの文字サイズ

2005-08-22 | ウェブサイト運営論
今回は技術論ではなく、一気に精神論に話が飛躍します。

ブログの既製テンプレートの文字サイズについてウェブ検索でいろいろ調べてみたら、どうも、「字は小さいほうがかっこいい」という意見が優勢で、大きい字のテンプレートは評判が悪いようです。
その一方で、「字の読みやすさ」については、当然のように「小さすぎる字は読みにくい」という意見が多く、字が大きいことに対して「読みにくい」という批判はありません。ただ、字が大きいことの結果として「1行あたりの文字数」「一度に画面に表示できる文字数」が少なくなることへの不満はあるようです。
とはいえ、小さい字が好まれる理由は、多くの場合「1行あたりの/1画面あたりの文字数を多くする」ことではなく「見た目のかっこよさ」であることは、間違いなさそうです。これは何を意味するか?? 多くのブログ作者は、「読みやすさ」より「かっこよさ」を優先して文字サイズを選んでいる、つまり、「かっこよさ」のために「読みやすさ」を犠牲にしているのです!!
「文字が小さい」ことと「かっこいい」ことの関連についての議論は、「デザイナーがウェブの文字サイズを小さく固定したがる理由 (絵文録ことのは)」に譲ります。

それで、「字が小さい」傾向について、私は
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字が小さいブログが流行るのは、「文章を書く」という文化の未熟さの現れである!
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と主張します。

書くことは考えること」で、私は
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ウェブサイトやブログの文章というのは、他人に読んでもらうために書くものです。
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と主張しましたが、その一方で、
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現実の個人ウェブサイトやブログの世界はどうでしょうか。残念ながら、真剣に考えて書かれた文章で構成されたものはごく一部で、書き手が好き勝手に書き散らかしているだけのウェブサイトやブログがあまりにも多いと感じています。ブログの流行とともに「ブログ=個人日記・私生活露出」という認識が広まっていることで、「書き散らかし」の傾向はますます強まっているように思えます。
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と現状分析しています。

ここまで書けば、もう説明は不要かもしれませんが、「ブログの文字サイズを小さくする」というブログ作者の傾向は、「他人に読んでもらうために文章を書き、公開する」という姿勢とは正反対であると、私には思えます。
スクリーンに表示される文字というのは、元来、印刷物などと比べて、読みづらいものです(そもそも印刷物とスクリーンでは解像度が全く違います)。したがって、自分の文章が「画面に表示された状態で読まれる」ことを想定するのであれば、表示結果が読みやすくなるように、十分に配慮する必要があります(文字サイズをある程度以上大きくする、行間を十分広くする、文字色と背景色のコントラストを適切に設定する、など)。
画面上の文字サイズをあえて小さくする、ということは、「読み手への配慮」という方向に全く反する行為です。「見た目のかっこよさ」のために「読み手への配慮」を犠牲にしているのです。それは何を意味するか? そのブログ作者は、「ブログ」という形態のウェブ上の場所を確保して、それをテンプレートでかわいらしく装飾して、日記でも何でもいいから文章を書いてそこに表示させる、ということだけを目的としていて、「文章の内容を読んでもらう」「自分の意見を主張する」ことなど、作者にとってはどうでもよい、ということです。

ブログという自己表現手段の出現に対して、「文章を書く」という文化の成熟が追いついていない、だから「文章の内容なんてどうでもいい、見た目がかっこいいことのほうが大事」という流れになるのだと、私は考えています。多くのブログ作者は、単に「自分のブログを持って、それをかわいらしく装飾する」こと自体が目的化してしまい、文章の内容をもって自己を表現しているのではないのです。

こういう傾向は、ブログの流行以前の「個人ホームページ」の時代からありました。「ホームページを持つ」こと自体が目的化してしまって、内容は「自己満足」や「家族・友人間の内輪受け」に終始する、というものです。そういう「ホームページ」に限って、派手な色使いやアニメーションの多用で画面の見やすさを損ねている、という点で、「字が小さいブログ」と共通の傾向がみられます。
そこに、ブログという表現手段が出現したことで、個人がウェブ上に表現手段を持つことの技術的障壁が取り払われ、多くの人が(文章による自己表現能力の有無とは無関係に)ブログに飛びつきました。その一方、ブログはテキスト中心の表現手段で、「個人ホームページ」よりも文章の比重が格段に大きくなり、文章による自己表現能力がより厳しく問われます。それで、多くのブログ作者が「見た目が大事、内容はどうでもいい」という方向に走り、「文章を書く」という文化の未熟さが一気に露呈する結果になったと考えています。

多くのブログ作者の「文章を書く」という行為に対する認識はしょせんこの程度なのか、それとも、長い目で見ればブログの流行が「文章を書く」という文化の成熟を促すのか… 希望的観測としては、後者であってほしいと思います。

続・ブログの文字サイズ

2005-08-21 | ウェブサイト運営論
前記事「ブログ・ウェブページの文字サイズ」およびBoise on the weblog の記事で、ブログのデフォルトテンプレートの文字サイズの「小ささ」に言及しましたが、その後、gooブログのテンプレートの中に「文字が小さくない」ものがあることを知りました。「植物」「家具」「パセリ倶楽部」の中に、文字が小さくないテンプレートがわりと多くあります。
いろいろ見てみたところ、私の好みに近いのは

植物: みどりクローバー
パセリ倶楽部: パステル4

あたりですが、これらにも欠点、というか、私の好みに合わない部分があるので、このブログで採用するには至りませんでした(具体的には、サイドバーの右左が選べない、ページ横幅が固定されている、など)。それに、自分の好みに近いものを選んだとしても、そのうちにきっといじりたくなるでしょうから、当面は今のまま、カスタム可能なスタイルを使い続けることにします。

「パセリ倶楽部」については、なんでも、パソコン教室とのコラボレーションで、受講者の年齢層が50~60代であることに考慮したとのこと。なるほど。(→スタッフブログ: 「パセリ倶楽部」コラボレーションテンプレートにつきまして

スタッフブログ: 「植物」テンプレート公開しました!」には、文字サイズに関するコメント・トラックバックが多数つけられています。それだけ、文字サイズに対するブログ作成者の関心は高いということなのでしょうが、そのわりには、アクセシビリティ・ユーザビリティの観点が抜け落ちていたり、ウェブサイトデザインの本質論から全く外れた議論が多いのが気になります。

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(訂正)コメント・トラックバックで文字サイズに関する議論がなされていたのは、次の記事でした。あらためてトラックバックを送信します。
スタッフブログ: テンプレート10枚追加しました!総計223枚!

ブログ・ウェブページの文字サイズ

2005-08-18 | ウェブサイト運営論
Boise on the weblogのほうで「ブログのデフォルトテンプレートの文字サイズはどうしてこんなに小さいのか!!」という不満を述べましたが、これについて、まさに「わが意を得たり」のブログの記事を見つけました。

ブログの文字サイズ (DIVINERS - 片桐智のタロット占い)

ちょっと思いついたのですが、ブログのデフォルト文字サイズが小さいことのひとつの理由として、「ブログのシステム自体が英語圏からの舶来であるために、アルファベットを基準とした文字サイズの選択がそのまま修正されずに輸入された」ことが考えられるのではないでしょうか。アルファベットは漢字やカナより小さい文字サイズでの可読性が高いでしょうから。もっとも、ブログ以外の個人ウェブサイトでも文字が非常に小さいものが多いので、理由付けとしては不十分でしょうが…

もうひとつのブログ記事

デザイナーがウェブの文字サイズを小さく固定したがる理由 (絵文録ことのは)

では、「文字が小さい」傾向について、示唆に富む考察がなされています。

「私」的な部分と「情報」的な部分を分けるのは当然

2005-07-31 | ウェブサイト運営論
すっかり遅きに失したと思いますが、個人ウェブサイト運営と「文楽の人形遣い」に対するよしみさんのコメント(の一部分)に反応します。

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私は、読者のこういう反応をしてほしくなかったから、つまり扱う情報を「私」という一個人から切り離したかったから、別館という形にしました。だから、ある意味ストイックに情報を扱えるし、個人だとか団体だとかいう範疇で捕らえないようにやってこれました。嘉田さんも同じような感じではないですか?「私」的な部分と、「情報」的な部分を、分けて作られていますよね?
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アメリカ在住日本人のウェブサイトに思う」でも述べたことの繰り返しになってしまいますが、私は、ウェブサイトで「情報」を扱うのであれば、それを「私」という一個人から切り離すのは、むしろ「そうするのが当たり前」だと思っています。
ウェブサイトの「情報」の部分に「私」はいらない、しかも、いらないだけではなくて「邪魔」なのです。「情報」の部分に無節操に「私」を混入させてしまったら、それはもはや「情報提供」でなくなってしまい、ウェブサイトの目的そのものが「情報提供」から「私情の露出」に変質してしまう、言い換えれば、「私」が「情報」を巻き込んでウェブサイト全体を変質させてしまうのです。

私は、ある時期に、アメリカ在住日本人による地域情報・生活情報ウェブサイトを集中的にリサーチしたことがありますが(最近は新たなリサーチはしていません)、その過程で、「情報」と「私」のどっちが主なのかはっきりしない、何が言いたいのかわからないウェブサイトをさんざん見てきました。「情報」を求めてリサーチしていた私から見て、こういうサイトは、はっきり言って「しらけ」ます。
べつに「私」を露出するのが悪いのではなくて、それが「情報」の部分に入り込んで、「情報」が「私」に巻き込まれて変質してしまっているのが見苦しいのです。作者自身の私情を露出して読者の同情を得たいのなら、それはそれで、「情報」とは切り離したところで存分にやってくれればよいのです。

私がこれまでに作ってきたウェブサイトについては、Boise on the Webを含め、さまざまな変遷を経てきましたが、私は「テーマごとにウェブサイトを分離する」「テーマのある情報と私的な情報を分離する」ことを一貫して意識してきました。以前は、「嘉田 勝のWebコンテンツ一覧」というページを作って、私が運営する各ウェブサイトへのリンクを設けていたのですが、それもやめてしまいました。

「知る」ことへの姿勢

2005-07-29 | ウェブサイト運営論
今回は何を語っても屋上屋を架すことになりそうなので、あえて多くを語りません。「情報提供」を自覚するウェブ作者の方々に、次の2稿を読んで、そして考えていただきたいです。ものごとを「知る」とは、こういうことではないでしょうか? そして、「情報提供」を標榜するためには、まず自分自身が「知る」ことについて、こういう姿勢で臨むべきではないでしょうか?

きょうのつぶやき: 同士たちより(文中強調は嘉田による)
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さて、ずーーーっと、気になっていたことがありました。私がMercer Co-opを始めるときから、気になっていたこと。
それは、「NJ中部に住む日本人・日系人って、一体どのくらいいるのだろう?」ということ。
(中略)
そして今回、たまたまラトガース大学の図書館を訪れた(日本人初の留学生である、日下部太郎とグリフィスについての資料を閲覧しに行った)とき、その資料があったのがたまたまニュージャージーにまつわる資料室だったので、司書さんに「どうしたらニュージャージーに住んでいる日本人の数を調べることができますか?」と聞いてみました。すると「Censusのwebサイトで検索できるんじゃない?」と教えてくれたのですが、そのときにはCensusの意味がわかりませんでした(情けない・・・)。
家に帰って、早速webサイトを検索したら、米国国勢局(US Census Breu)のwebサイトが見つかりました。すぐに州ごと、カウンティごとの人種グループの人数を調べることができました。でも、どうしても「単一人種」の数、つまり「日本人のみ」の数しか、わからなかったのです。他のwebサイトで発見したアジア系アメリカ人に関するレポートで使われている数は、単一人種もしくは混合人種(In-Combination)の数でした。プリンストンには日本人とその他の人種(アメリカ人など)との国際結婚の家庭も数多く見られます。その子ども達の数が抜け落ちてしまうのはいやだ!と思った私(そういう風に思ってしまうところがやっぱり日本語学校幼稚園の教師ですね・・・)は、なんとしてもこの数を調べてみよう、と躍起になりました。そして昨日の夜数時間と、今日の夕方から数時間を費やし、Census Data相手にああでもないこうでもないと言いながら奮闘した結果、ようやくその数を探し当てることができました!!
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シンシナティの風: このサイトと私
個人ウェブサイト運営と「文楽の人形遣い」へのコメントでよしみさんが言及しています)
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ちゃんとしたことを書くために、英語のガイドブックや資料を読むことが必然となりました。おかげで、結果的には何よりも自分の英語の勉強になりました。(知識という意味でも、もちろんです。)
 そして、サイトに書くネタになりそう、と思うと、テレビでも新聞でもコミュニティペーパーでもチラシでも人の話でも、はたまた、スーパー、銀行、自分の住むアパートの中など、日常生活全てにおいて何にでも好奇心を持って接することができました。
昼間一人でスーパーやファストフードに行った時も、周りのアメリカ人の他愛無い会話に耳がダンボになっていることもたびたびでした。…もっとも、そういう時に内容がちゃんとわかるのは半分もないかもしれませんけれど(笑)。
そんな様子は、ほんの少しだけ記者やライターの真似事ができたような気持ちです。(もちろん及びもしませんが…。)
そのため、ともすれば慣れない生活の中で消極的になりがちなことにも、あえてトライしてみるという、前向きな過ごし方がちょっとだけできたかもしれません。
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私が「ガクッときた」掲示板投稿

2005-07-02 | ウェブサイト運営論
前回の記事で、「Web更新作業」(キマグレ ヒトリゴト)の「ガクッときた」にコメントしましたが、最近考えが変わって、chaiさんの「ガクッときた」気持ちがわかったような気がしました。

掲示板への投稿を掲示板外で批判するのも気がひけますが、きっかけは、Boise on the Webメッセージボードの記事#486です。この投稿を読んで、私はガクッときました。どうしてこの掲示板でこういう内容の質問をするかなぁ、という、疑問・不満・いらだち・失望… そんな入り混じった気持ちで、この投稿に接しました。

何が不満かというと、それは、投稿者が「Boise on the Webがいかなるウェブサイトであるかをわかったうえでの投稿とは思えない」、というか、「Boise on the Webがいかなるウェブサイトであるかを気にせずに投稿している」ということです。
こういう投稿やメールでの質問は以前にもありました。ひところ多かったのは運転免許関係(現在はありませんが、以前は運転免許関係情報のコンテンツがありました)と留学関係の質問。ほかには、航空券関係、ボイジーとは関係ないアイダホ州の都市・観光地関係、現地ガイドの紹介依頼など、いろいろありました。
掲示板への投稿で、もうひとつ気になるのは、そういう質問投稿の多くは、質問のみが目的の一方的な投稿でコミュニケーションの意図が感じられないこと、そして、回答が得られてもお礼の投稿がないことです。
ひどい投稿になると、メッセージボードを検索エンジンで見つけたのか、Boise on the Webのコンテンツを読んでいないのが投稿内容から明らかにわかったり…
もっとも、こういう「困ったちゃん」の質問に悩まされるのは、ウェブサイト運営者共通の悩みのようですが。

それで、chaiさんのブログの記事を思い出して、「もしかして、『ガクッときた』というのは、こういう失望感のことだったのかな」と思い始めました。
つまり、「個人が非営利で運営している」ことをわかってもらえないのでなく、「そのウェブサイトが何を目的に運営されているか」をわかってもらえないために、期待はずれの反応をされてしまったことに「ガクッときた」というのが、chaiさんの真意ではないか、と思い至ったのです。
ただ、そうだとすると、それはやはり「運営者が個人であるか団体であるか」「利益があるかないか」とは違う問題でしょう。chaiさんの記事ではその点の区別があいまいなので、私はchaiさんの意図を読み取れずに混乱したのです。
もっとも、chaiさんの真意はさらに別のところにあって、私はまだそれに気づいていないのかもしれませんが…

ところで、件のメッセージボード投稿については、無視するのは後ろめたく思えて、「それなり」の返答をしておきました。皆さんは、私の返答のしかたをどう思われますか?

1. 不親切。もっと親身になって返答すべきだ。
2. 妥当。ちょうどよい手加減のあしらいだ。
3. 質問者に甘すぎる。もっと冷たい返答でもよかった。
4. 返答すること自体がお人好し。無視すべきだった。

個人ウェブサイト運営と「文楽の人形遣い」

2005-06-23 | ウェブサイト運営論
情報提供を目的とする個人ウェブサイトの運営論について、「キマグレ ヒトリゴト」のchaiさんの記事「Web更新作業」の内容に触発されて、コメント欄で議論を試みたのですが、どうも、chaiさんと私の問題意識にズレがあるようで、議論がかみ合わないまま立ち消えになってしまいました。
ここでは、chaiさんの真意からはさらに離れていくかもしれませんが、私自身の意見として書いていきます。

発端は、chaiさんご自身が運営するウェブサイト「シンシナティの風」について記した次の記述です。

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その反面、サイトも私も「有名人化」しすぎて、私が一個人でないと思っている人も割と多いらしい。もはや本人を知る人がほとんどいないため、偶像化してしまったんだろうと思う。
サイト作成も掲示板の運営も、どこかの会社や雑誌社などの担当者がメルマガを書いたり雑誌の投稿欄で返事をしたり…みたいな感じに捉えている人が結構いると聞いた。
個人がやっているとは理解していても、どこかから何がしかの収入やアドバンテージがあるはずだと固く信じている人もいるという。
これらを耳にして、正直私はかなりガクッと来た。
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これを読んだ当初、私はchaiさんがなぜ「ガクッと来た」のか、わかりませんでした。
いや、心情的にはわかるんです。個人が限られた時間と労力の範囲でウェブサイトを維持することの苦労を知ってほしい、それを知ったうえでウェブサイトの情報に接してほしい、という気持ちは、運営者の本音として、理解できます。
でも、それを読者に期待するのは、「間違っている」とまでは言わないものの、「無理」というか「無意味」ではないかな、という気がするのです。

アメリカ在住日本人のウェブサイトに思う」で、私は「ウェブサイト作者は『文楽の人形遣い』を目指すべし」という持論を述べました。「シンシナティの風」に対する読者の評価というのは、まさに、その目標を達成したことを意味する、名誉なことだと思うのです。
「名誉」という見方については、chaiさん自身も
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これについてのウチの夫のコメントがいい。
「個人レベルじゃないと思わせるほど出来がいいって思えば良いじゃん。」
これで全てがすっきりしてしまった。
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と記して、肯定しています。でも、私の意見はこれとも微妙に違います。私は、情報提供を目的とするウェブサイトは、そもそも作者が個人とか団体とか、利益があるとかないとか、そういうことを読者が意識(詮索?)すること自体が「無意味」になるような状態を目指すべきであって、「シンシナティの風」はそれをも達成している、と思うのです。

念のため繰り返しますが、心情的にはわかるんです。たいていの人は、そう簡単に「人形遣い」になりきれるものではありません。自分自身が観客の意識から消えてしまうことに「むなしさ」「孤独感」を感じるのが普通だと思います。
でも、あえてそれを目指すのが、情報提供ウェブサイト運営者の宿命ではないかと感じています。

私はずっと、「Boise on the Webを『嘉田さんのホームページ』とは呼んでほしくない」と思ってきました(私の本業を詮索されて「嘉田先生の…」なんて呼ばれるのは、なおさら忌避したいです)。それじゃ、何と呼ばれたいか? そりゃ、当然「ボイジーのウェブサイト」です!

このテーマについては、まだまだ書き足りませんし、私の考えも十分に煮詰まってはいません。そのうちに、さらに考えをまとめて、続きを記します。

書くことは考えること

2005-05-29 | ウェブサイト運営論
以前、「完全主義」と題してウェブサイト運営論を記しましたが、Mercer Co-op NJ中部生活情報サイトを運営しているよしみさんの完全主義は、並大抵ではありません。「きょうのつぶやき: あぁもう」では、よしみさんが取り組んでいるガイドブック改訂版執筆の苦労を語っていますが、いやはや恐れ入りました! アメリカ生活・地域情報関係の個人ウェブサイトは数え切れないほどありますが、いったい、そのうちのどれだけが、よしみさんほど徹底した完全主義で作られているでしょうか。

中でも、よしみさんのウェブサイト運営・執筆活動について、私が最も敬服するのは、「書くことに対する真摯さ」です。それも、単に「書くこと」でなく、特に「読んでもらうために書くこと」に対して、です。その真摯な姿勢は、「きょうのつぶやき: 物書きという人」に顕著に表れています。

ウェブサイトやブログの文章というのは、他人に読んでもらうために書くものです。情報提供を目的とする記事であれば、その文章は必要な情報を的確に伝えるための文章でなければなりません。意見表明や評論を目的とする記事であれば、事実の正確な把握、冷静な立場での論点整理、そして理路整然たる意見陳述がなされなければなりません。
いずれにしても、ただ書き手が好き勝手に書いただけでは、他人に読んでもらうための文章にはなり得ません。「読んでもらうために書く」ためには、その準備として、まずは情報の収集、分析、整理を行い、そのうえで自分の意見や著述の方針を固め、そして最後に、読んでもらうための「適切な作文」を行わなければなりません。

この一連の「書く」ための作業で、最も労力を費やすのは、「考える」ことだと思います。その意味で、私は「書くことは考えること」だと思っています。

個人ウェブサイトやブログの文章でも、新聞・雑誌・文芸書などの文章でも、それを書いた人がどれほど「考えて書いたか」ということは、ちょっと読めばすぐにわかります。そして、考えられずに書かれた文章というのは、すぐに読む気を失います。逆に、書いた人の「考えの深さ」が伝わってくる文章に出会ったときには、読むことに熱中し、そして、読み手である自分自身も、そのテーマを深く考え始めます。
私が「きょうのつぶやき」の同じ記事にしつこく言及し、トラックバックを送り続けているのはなぜか? それは、よしみさんの文章には「考えの深さ」があり、読み手として考えさせられることがあまりにも多いから、そして、「物書きという人」に、よしみさんの「考えの深さ」が特に強く表れていると思ったからです。

私は、ウェブサイトでもブログでも印刷媒体でも、そういう「考えの深さ」のある文章をこそ読みたい、というより、自分が読むかどうかは別として、「考えの深さ」のある文章が世の中に増えてほしいと願っています。
現実の個人ウェブサイトやブログの世界はどうでしょうか。残念ながら、真剣に考えて書かれた文章で構成されたものはごく一部で、書き手が好き勝手に書き散らかしているだけのウェブサイトやブログがあまりにも多いと感じています。ブログの流行とともに「ブログ=個人日記・私生活露出」という認識が広まっていることで、「書き散らかし」の傾向はますます強まっているように思えます。
よしみさんは「物書きという人」で、
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人様の前に文章を出す限りは、もちろん表現や内容には十分気をつけてはいましたが、
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と、当然のようにさらっと述べていますが、その意識すら欠如したウェブサイト・ブログ作者さえ、あまりにも多いと思っています。

もうひとつ重要な点は、文章を公表することの「影響力」を意識する、ということです。情報提供であれ意見表明であれ、ウェブに公表された文章は、公表された直後から、そのテーマに対する影響力を持ち始めます。同時に、その文章に対する書き手の「責任」が発生します。書き手がこの「影響力」と「責任」を意識しているなら、ウェブに公表する文章は考え抜いて書くはずで、生半可な気持ちでは書けないでしょう。
「影響力」「責任」という考えは、「物書きという人」の
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この数ヶ月で私は、好きなように書くことと、物書きとして書くことは、同じネット上に文章を出すとしても全く違うことだと思い至るようになりました。…(中略)…文章を書くことは簡単なことだけど、ことばの力を感じつつ文章を書くことは単に書くことと全く異なる作業であり、自分にとっても他の人にとっても本当にすごい力となることを、知ったのです。そして私は、ごくプライベートなことは、自分のために、ノートに手書きで書くようになりました。これは自分のさまざまな思いを昇華させ、自分を深く知り、癒すためです。一方たんぽぽなどで文章を書くときやネットに文章を書くときは、外にいる読者を意識し、一つの作品として大切に文章を書くようになっていました。
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という一節にも表れていると思います。

私が「あぁもう」の文中で注目したのは、
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やればやるほど、調べないといけないことや書かないといけないことがでてきて、アリ地獄状態なのです。だからときどき書く時間があっても、書き始めてからの苦しみに恐れおののいて、なかなか手がつけられないときもあります。
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という一節です。「書き始めてからの苦しみ」とは、まさに、「考えて書く」ことの労力の膨大さであり、そして、「書くことの産みの苦しみ」でもあると思います。
よしみさんが書くことに対して真摯な姿勢を貫いているから、そして、産み出そうとするものが大きいからこそ、その苦しみに直面しているのだと思います。

Boise on the Web 作者としての自戒もこめて、世間のウェブサイト・ブログ作者の皆さんに問いかけます。
これほどまでに真摯に考え抜いてものを書いたことがありますか?
書くことの産みの苦しみを味わったことがありますか?
自分が書いて公表した文章の「影響力」と「責任」を自覚していますか?

トラックバック機能の本質 --- 「言論ツール」としてのブログ

2005-05-21 | ウェブサイト運営論
先ほどの記事で「トラックバック=言及自己申告」という見解を述べたついでに、ブログのトラックバック機能について、私の考えを述べておきます。

私は、ブログの本来の姿は、「日記ツール」ではなく「言論ツール」だと考えています。そして、トラックバックという機能は、ブログを言論ツールとして捉えたときに、最もその本質がはっきりします。

ブログAのライターa氏と、ブログBのライターb氏が、それぞれ自分のブログに自分の意見を投稿し続け、それぞれの「論陣」を張っているとします。
あるとき、b氏はブログAに載せられたa氏の記事を読み、a氏の意見に反対する感想を持ちました。
そこで、b氏はどうやってa氏の記事に対する反対意見を表明するか? ひとつの方法は、ブログAの当該記事に反対意見をコメント投稿すること、そして、もうひとつの方法は、ブログBに反対意見を載せて、ブログAの当該記事にトラックバックを送ることです。
後者の方法が前者より優れている点は何か? それは、b氏が自分のブログBに意見を表明することによって、a氏に対する意見表明と、b氏自身の論陣の強化が同時になされることです。同様に、a氏がb氏への再反論を行うときにも、ブログAに再反論の意見を投稿し、ブログBにトラックバックを送ることで、b氏への再反論とa氏自身の論陣の強化を同時に実現できます。
そして、議論を追ってブログを読む第三者にとっても、すでに張られているa氏とb氏の論陣から、両者の基本的立場を知ったうえで、議論を観察することができるというメリットが生じます。
さらに、意見表明を「相手の場所」に乗り込んで行うのではなく「自分の場所」で行うことで、発言者は自分の発言により慎重になるでしょう(その発言も自分の論陣の構成要素になるのですから)。そのことによって、議論の過熱が抑制され、健全で正々堂々たる議論が行われることが期待されます。トラックバックによる意見交換では、某掲示板のような罵詈雑言の応酬になることはまずないでしょう。

そもそも、多くのブログツールにおいて、コメントとトラックバックは明らかに異なる性格づけがなされています。コメントは基本的には「短い」メッセージの投稿を想定していて、本格的な意見表明を行う場としては適切ではありません。それに対して、トラックバックなら、相手のブログには「私の意見はここに書いたぞ」というポインタだけ置いて、自分の意見を思う存分「自分のブログで」披瀝することができるのです。(逆に、記事に関する質問、ミスの指摘、賛意表明のメッセージなどには、コメントのほうが適しています。)

マスコミなどの論調では「ブログ」=「個人日記」という見方が主流のように思えますが、私はあえて、「ブログは日記でなく言論ツール」という立場を明確にします。そして、トラックバックという機能こそが、言論ツールとしてのブログの本質を最も顕著に表していると考えます。

ここで述べた「トラックバックの本質」に鑑みれば、トラックバックスパム、すなわち、当該記事への言及を伴わないトラックバックが、いかに「許しがたい」行為であるかがはっきりするでしょう。私が先ほどの記事のタイトルに「怒り!」という言葉を使った理由は、まさにこの点にあります。

ついでに言うと、「トラックバック=言及自己申告」が私の立場ですが、「トラックバック=リンク自己申告」である必要はないと考えています。トラックバックが伝達するメッセージはあくまで「言及しました」であって、トラックバック元記事の中にトラックバック先記事への「リンク」が存在するかどうかは本質的ではない、という考えです。
もっとも、WWWの意義はハイパーリンクにあるのですから、言及するからにはリンクするのが自然だと思いますけどね。

「ウェブサイト運営論」というより「ブログ運営論」になってしまいましたが、新たにカテゴリを設けるほどでもないでしょうから、このまま「ウェブサイト運営論」でいきます。

無意味トラックバックに怒り!

2005-05-21 | ウェブサイト運営論
数日前にこのブログ(Boise on my mind)の更新情報を goo ブログに送信する設定をしましたが、その後のわずかな期間に、記事内容に無関係なトラックバックを複数回受けました。その一部は明らかに「いたずら」です。

はっきり言います。記事内容に無関係なトラックバックを送信するのは「迷惑行為」です。この記事を読んだブログ作者は、無意味なトラックバックの送信を厳に慎んでください。(もちろん、このブログに対してだけではなく、あらゆるブログに対して、です。)

トラックバックとは「言及自己申告」、すなわち、「この記事に言及しましたよ」と知らせることを意味します。記事Aに記事Bからのトラックバックが送られていれば、当然、記事Aを投稿したライターも、記事Aを読んだ第三者も、「記事Bは記事Aに言及している、ということは、記事Bには記事Aに関連する情報があるはずだ」と期待して、トラックバックをたどって記事Bを参照します。
ところが、その期待に反して、記事Bは記事Aに一切言及していない、これは何たることか! まじめに記事Aを記したライターばかりでなく、まじめに記事Aを読んでトラックバックを見つけた読者をも欺瞞する行為です!

トラックバックの実験をしたいなら、「トラックバック練習板」で存分にやってください。ブログの宣伝をしたいなら、それ相応のまっとうな告知手段を使ってください。いたずら、練習、宣伝などの目的でトラックバックを送ることは、堅くお断りします。

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…と、ちょうどこの記事を書いた後に、goo スタッフブログの記事「トラックバックスパム・規約違反ブログのご連絡窓口を設けました」を見つけました。やっぱり goo さんもトラックバックに関する迷惑行為の存在を認識して、きちんと対応してくださるんですね。心強いです。

相互不干渉主義

2005-05-18 | ウェブサイト運営論
今回は、「狭く深く!」の記事の最後で触れた「相互不干渉」について、私の考えを述べます。

まず、議論の前提として、すでにさんざん語り尽くされた「リンクは自由!」の考え方を確認しておきます。
そもそも、WWW (World Wide Web) とは何か、それは強いて日本語で言い表せば「相互参照情報網」、すなわち「参照」を自在に行うためのシステムなのです。WWWでアクセスできる情報というのは、別のWWW上のドキュメントから参照されるのが当たり前、むしろ、WWWに情報を載せること自体が「どんどん参照してください!」と意思表明しているのと同じことなのです。

そのうえで、私がここで主張するのは、個人ウェブサイト相互間の「棲み分け」「リンク」そして「相互不干渉」です。
すなわち、テーマが近接するウェブサイトが並存する場合や、すでに存在するウェブサイトのテーマに近接するテーマを設定して新たにウェブサイトを作る場合には、

1. それぞれのサイトがカバーする情報の範囲が重ならないようにする(棲み分け)
2. 自分のサイトの情報に関連する情報が相手のサイトにある場合は、リンクによって参照する(リンク)
3. 相手サイトがカバーする範囲の情報については、自分では情報提供を行わない(相互不干渉)

という方針でサイトを運営すべきである、ということです。
以下、1~3 のそれぞれを詳しく述べます。

1. これは、「狭く深く!」で述べたことと同じです。すでにWWW上に存在するウェブサイトの情報と重なる情報を提供するのは、全体の情報量を増やすことにつながらず、労力と資源の無駄です。それぞれの個人ウェブサイトが価値を発揮するためには、それぞれに違った情報を提供しなければならず、そのためには、近いテーマを扱うサイト同士の「棲み分け」がなされていなければなりません。

2. 繰り返しますが、WWWで参照可能な情報というのは、「参照する/されるのが当たり前」です。だから、自分のサイトの守備範囲外だけれど、自分のサイトの情報に関係する情報は、どんどんリンクによって参照すべきです。
逆に言うと、リンクを自由に行ってよいからこそ、自分ひとりで広い範囲をカバーしなくてよい、自分は狭い範囲に集中して、範囲外の情報はリンクによって堂々と他人に依存できる、すなわち「棲み分け」が可能になるのです。

3. これが私の主張の核心なのですが、「棲み分け」を有効に機能させるためには、他人のウェブサイトがカバーする範囲に「干渉」すべきでない、すなわち、他人のウェブサイトの守備範囲に属する情報を自分が持っていたとしても、むやみに自分のサイトの守備範囲を広げて自分でその情報を提供しようと考えてはいけない、その領域は潔く相手に譲るべきである、と考えています。

個人ウェブサイトの並存によって有効な情報提供がなされるようにするためには、境界領域で「競合」してはいけないのです。個々の境界領域で「そっちはあんた、こっちはあたし」という暗黙の境界線をすばやく画定してしまって、「そっち」について自分が情報を持っていたら、惜しみなく「あんた」に与えて、「あんた」のウェブサイトに任せてしまえばよいのです。逆に、「こっち」については、堂々と「あんた」に情報提供を要求すればよいわけです。
「相互不干渉」の立場は、個々のウェブサイトのコンセプトを明確にし、テーマの散逸を防ぐうえでも重要だと考えます。(「テーマの散逸を防ぐ」については別記事であらためて論じます)

Boise on the Web の場合、「こっちはあたし」として主張するのは、

1.ボイジーの基本情報、都市紹介
2.ボイジーおよび周辺地域の観光情報

です。そして、「そっちはあんた」として潔く放棄するのは、

1.在住者のための生活関連情報
2.留学情報
3.アイダホ州一般の情報・ボイジー以外の都市・地域の情報

です。
「そっち」をカバーするウェブサイトが充実するのは、まさに私の望むところであり、私は干渉する気はありません。その一方で、「こっち」については、Boise on the Webと競合するのではなく、Boise on the Webの該当部分に自由にリンクしてくださるか、あるいは、Boise on the Webに情報をお寄せいただいて、Boise on the Webを通じた情報提供に協力していただきたいと願っています。
私が主張する「相互不干渉」とは、そういうことです。

完全主義

2005-05-12 | ウェブサイト運営論
前回の記事で「完全主義」という言葉を使ったので、それについて「釈明」(^^;)しておく必要があるでしょう。

Boise on the Web のような地域ガイドのウェブサイトについては、「これで作り終えた、あとは何も付け加える必要なし!」という意味での「完全」はありえません。なぜなら、実態のほうが時間経過とともに変化していくので、最新の情報に基づく改訂が常に必要になるからです。
また、「何もかもが含まれている、欠けているものは何もない」という「完全無欠」の意味での「完全」も、個人ウェブサイトでは実現不可能でしょうし、Boise on the Web もそれを目指してはいません。日本人生活互助のための情報は、「欠けている」どころか「意図的に外している」わけですし、ビジターズガイドとしても、スキー・ゴルフ・ラフティングなど、本来は載せるべきだろうけれど載せていない(私の知識では書けない)情報はたくさんあります。

それでは、私が考える、ウェブサイト作成における「完全主義」とは何か?
それは、ウェブサイトを公開する以上、それは常に「ある段階での完成形」でなければならない、ということです。
言い換えれば、「いろいろ作っているうちにこうなりました」というものを人目にさらすのではなく、「こういうものを作りたい!」という意思のもとに作り上げて、自分自身が「ある段階で」満足できる域に達したものを公開すべきである、ということです。
「工事中」のコンテンツを残したまま公開するのは論外ですが、そうでなくても、いかにも「作りかけ」あるいは「気まぐれで『建て増し』を繰り返している」と見えるウェブサイトを公開するのは、やはり、みっともないと思います。

「ボイジーの観光・ドライブガイド」を最初に作り始めるときに意識したのは、単に「自分がたまたま知っている見どころやお店を紹介する」という姿勢ではいけない、最低限、ガイドとしての体裁が整うだけの情報を盛り込まなければならない、ということです。
ですから、ボイジー市内の博物館は、私自身が入館したことがない施設も含めて、ガイド公開当初からすべて項目を設けて紹介しています。また、レストラン情報も、紹介するお店の絶対数は少ないながらも、「アメリカン」「日本料理」「各国料理」「カフェテリア」「コーヒーショップ」のカテゴリに分けて、バランスよく紹介するように心がけました。

もちろん、ウェブサイトを運営しながら情報を追加・拡充することは否定しません。でも、情報を逐一追加するとしても、そのあらゆる途中段階が、やはり「完成形」であるべきだと思います。拡大しながら完成を目指すのではなく、最初からひとつの完成形であって、何かを追加したとしたら、その結果もやはり新たな完成形になっている、そういう意味で、公開されているウェブサイトは常に「完成している」べきだと考えています。

現在の Boise on the Web は完成しているか? 少なくとも、「ボイジーの観光・ドライブガイド」のウェブコンテンツとPDF版は、ひとつの完成の域に達していると自負しています。
PDF版に値段をつけてオンライン販売を開始したのは、「小金稼ぎ」もさることながら、自分が作った作品の「完成度」に対するプライドのためでもあります。

個人ウェブサイトは「狭く深く!」

2005-05-11 | ウェブサイト運営論
このカテゴリでは、個人ウェブサイトの運営のありかたについて、私の考えや立場を述べていきたいと思います。アメリカ地域情報・生活情報ウェブサイト関係の話題が多くなると思いますが、別にそれに限らず、個人ウェブサイト一般についても論じていきます。

今回はタイトルだけで話が終わってしまいそうですが、個人ウェブサイトに関する私のポリシーは、とにかく「狭く深く!」です。
個人の情報収集能力の範囲で「広く」「深く」の両方を同時に追求するのは不可能でしょう。それなら、「広く浅く」か「狭く深く」のどちらを選ぶべきか? 私は迷わず「狭く深く」をすすめます。
なぜか? ウェブの上には無数の個人ウェブサイトが並存します。「広く浅い」ウェブサイトがたくさん集まったらどうなるか? 結局、全体としても「広く浅い」ままです。同じテーマについて浅い情報がたくさん集まっても、その情報の深さが増すことは期待できないからです。でも、「狭く深い」ウェブサイトがたくさん集まって、全体として広い範囲をカバーできれば、「広く深い」情報提供が実現するのです! そのことこそが World Wide Web の真価と言っても、過言ではありません。

Boise on the Web は、当初から「狭く深く」の方針で運営してきました。同じアイダホ州でも、北部や東部は最初から眼中にありません。それから、都市紹介に特化して、日本人生活互助という目的は最初から捨てています。そのかわり、狭く絞り込んだ守備範囲に関しては、完全主義に徹しているつもりです。

「狭く深く」との関連で、「テーマを散逸させない」「相互不干渉」も私のウェブサイト運営ポリシーです。これらについてはあらためて別記事で論じます。