一四 比丘達よ、これがすなわち、彼ら沙門や婆羅門が、一分常住一分無常論として、四種の根拠により、我と世界とを一分は常住一分は無常であると説くものなのである。比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、一分常住一分無常論として、我と世界とを一分は常住であり一分は無常であると説くものは、すべてこの四種の根拠によるものであるか、もしくは、これらのいずれかの根拠によるものであって、この他に別の根拠があるということは決してないのである。
一五 比丘達よ、これに関して、仏陀は次のことを知るのである。
『このようにとらわれ、このように執着している状態は、これこれの六趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう。』
また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたことをも知るのである。しかも、その知に執着するということはない。執着していないがために、内心において、寂滅を知り尽くしている。すなわち、比丘達よ、仏陀は受の集と滅と味著と過患と出離とを如実に知り、執着なく解脱しているのである。
これがすなわち、比丘達よ、仏陀自らが証知し現証して説く、甚だ深遠で見難く覚え難く、しかも寂静で美妙であり、尋思の境を超えることができ、極めて微細で、賢者だけが理解することができる諸法なのであり、これによってのみ、諸々の人は仏陀を如実に賛嘆して、正しく語ることができるのである。」
一六 「比丘達よ、沙門や婆羅門の中には、辺無辺論を抱く者がいる。彼らは、四種の根拠により、世界が辺無辺であると説くのである。それでは、彼ら尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、辺無辺論として、四種の根拠により、世界が辺無辺であると説くのであろうか。
一七 さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、熱心・精勤・修定・不放逸・正憶念によって、その心が三昧に入っているとき、世界に関して有辺であるという想を抱いてとどまっているような、心三昧を得る者がいる。そして、彼は次のように言うのである。
『この世界はその周囲において有辺である。それはどうしてかというと、私は熱心…(中略)…正憶念によって、その心が三昧に入っているとき、世界に関して有辺であるという想を抱いてとどまっているような心三昧を得た。そして、これによって、私はどのようにしてこの世界がその周囲において有辺であるのかを知ったからである。』
これがすなわち、比丘達よ、第一の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、辺無辺論として、世界が辺無辺であると説くのである。
【解説】
◎辺無辺論――空無辺処定の瞑想体験
瞑想技術に熟達してゆくと、空無辺処定という状態を経験するステージがある。空無辺処定では、その空(空間)の広がりから、世界(宇宙)を有辺と感じたり、無辺と感じたりする。ここでは、沙門や婆羅門が自分の瞑想経験から、それぞれ辺無辺論を唱えているところである。
なお、オウムの大師【たいし】方の多くも、この空無辺処定を経験している。