智徳の轍 wisdom and mercy

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◎甦る神通の世界――仏陀への道を記す

2005-08-01 | ☆【経典や聖者の言葉】

 ここで取り上げたのは、仏陀釈迦牟尼【ぶっだしゃかむに】の宇宙観、世界観と、その当時一般に普及していた宇宙観、世界観を対比しながら、仏陀釈迦牟尼がいかに素晴らしい教えを説いていらっしゃったのかを語っている部分である。これによって、仏陀釈迦牟尼のお説きになった真理だけでなく、その当時の婆羅門【ばらもん】の姿、当時の代表的な思想を知ることができよう。
 また、当時の釈迦牟尼の教団が、いったいどういう生活をしていたのか、どんな戒律が定められていたのかということも知ることができて興味深い。
 それらを通して、私が一番皆さんに読み取っていただきたいと望んでいるのは、宗教というもの、仏教というものは、三昧【さんまい】に入らなければ無価値なんだということである。これによって、なぜオウムが皆さんに激しい修行をさせ、三昧に入らせようとしているのかということをご理解していただけよう。
 また、この経典は明らかに神通【じんつう】の世界を表わしている。例えば、一生、二生、五生、十生、千生、一万生、あるいは一カルパ、二カルパといったように、三昧に入ることによって得ることのできた宿命通【しゅくみょうつう】という神通力を使って知り得た世界が記されている。そのことから、この『南伝大蔵経』は、仏陀釈迦牟尼在世の当時、修行者は実際に神通力の付く修行をしていたんだということ、神通力を肯定していたんだということの一つの証明となると私は考えている。
 本来仏教には二つの根本があったのだということを忘れてはならない。二つの根本とは、仏陀の教えと仏陀になるための道である。
 しかし、今の仏教は、身を全部削り落として骨だけになってしまっている。仏陀の教えはある程度存在しているのだが、神通力を持つ仏陀になるための道は存在していない。だから、今の仏教の修行体系では神通力が付かないのである。これは真の仏教とは言えない。
 それでは、オウム真理教の教えはどうであろうか? 仏陀の教えと仏陀になる道が説かれているではないか。つまり、オウム真理教の教義と仏陀釈迦牟尼の説かれたことは同じなのである。それもこのお経で、ある程度証明することができよう。


◇第一誦品

一 このように私は聞いた。
 あるとき、仏陀は五百人の比丘【びく】によって構成された大きな比丘サンガを伴って、ラージャガハよりナーランダーに至る大道を進んでおられた。遊行者【ゆぎょうしゃ】の一人であるスッピヤもまた、その弟子ブラフマダッタを伴って、ラージャガハよりナーランダーに至る大道を進んでいた。その道すがら、遊行者スッピヤは、種々様々に仏陀を非難し、法を非難し、サンガを非難したが、これに反してその弟子ブラフマダッタはまた、種々様々に仏陀を称賛し、法を称賛し、サンガを称賛した。このように、この遊行者の師弟は、お互いに正反対のことを言いながら、仏陀と比丘サンガの後に従っていったのである。
二 そのとき、仏陀はアンバラッティカーの園の中にある国王休憩堂で、比丘サンガと一緒に一夜の宿をとられた。遊行者スッピヤもまた、アンバラッティカーの園の中にある国王休憩堂で、弟子ブラフマダッタと一緒に一夜の宿をとった。そこでもまた、遊行者スッピヤは種々様々に仏陀を非難し、法を非難し、サンガを非難したが、これに反して、その弟子ブラフマダッタは、また種々様々に仏陀を称賛し、法を称賛し、サンガを称賛した。このように、この遊行者の師弟は、お互いに正反対のことを言いながら、滞在していたのである。
三 さて、その夜が明けてから、目覚めて講堂に集まり座っていた多くの比丘の間に、次のような話題が持ち上がった。
「不思議なことだ、友よ。珍しいことだ、友よ。私達がいつもお仕えし、よく存じ上げている、阿羅漢【あらはん】、等正覚者【とうしょうがくしゃ】であられる仏陀は、衆生【しゅじょう】が優れた理解力を持っているかどうかの本性をよく見通していらっしゃることだなあ。なぜなら、あの遊行者スッピヤは種々様々に仏陀を非難し、法を非難し、サンガを非難したが、これに反して、その弟子のブラフマダッタは、また種々様々に仏陀を称賛し、法を称賛し、サンガを称賛するというように、この遊行者の師弟は、お互いに正反対のことを言いながら、仏陀とその比丘サンガの後に従っていったからであり……。」
四 そのとき、仏陀はこれらの比丘の間におけるこの話題を知り、その講堂にいらっしゃった。そして、設けられた席に座られた。座ってから、仏陀は比丘達にこうお告げになったのである。
「いったいどういう談話のために、比丘達よ、今君達はここに座っているのか。そして、私に遮られてしまった君達の無駄話とは、いったい何なのかな。」
 このように言われて比丘達は、仏陀に申し上げた。
「今、尊師よ、夜が明けてから、目覚めて講堂に集まり座っていた私達弟子の間に、次のような話題が持ち上がりました。『不思議なことだ…(中略)…従っていったからであり』と。そのとき、仏陀がいらして、私達のこの無駄話が遮られたのです。」
五 「比丘達よ、他の人が、もし私を非難し、あるいは法を非難し、あるいはサンガを非難することがあったとしても、君達はこのことに心を痛めてはならないし、これを憂えたり、恨んだり、また心の中でひどく怒ったりしてはならない。比丘達よ、他の人が、もし私を非難し、あるいは法を非難し、あるいはサンガを非難することがあり、君達が、もしこれに対してひどく怒ったり、あるいは歓喜したとしたら、これは君達の障害となるに違いない。比丘達よ、他の人が、もし私を非難し、あるいは法を非難し、あるいはサンガを非難することがあり、君達が、もしこれに対してひどく怒ったり、あるいは歓喜したとしたら、君達は他の人が正しい説を唱えているか、誤った説を唱えているかの判定をすることができるであろうか。」
「尊師よ、それはできません。」
「比丘達よ、他の人が、もし私を非難し、あるいは法を非難し、あるいはサンガを非難することがあったとしたら、これについて、君達は事実ではないことを事実ではないこととして、弁別しなければならないのである。
『これこれの理由でそれは事実ではなく、これこれの理由でそれは真相ではない。我々の間にはこのようなことはなく、またこのようなことは存在しない』と。
六 比丘達よ、他の人が、もし私を称賛し、あるいは法を称賛し、あるいはサンガを称賛することがあったとしても、君達はこのことに歓喜したり、これをうれしがったり、心の中で楽しんだりしてはならない。比丘達よ、他の人が、もし私を称賛し、あるいは法を称賛し、あるいはサンガを称賛することがあり、君達が、もしこれに対して歓喜したり、うれしがったり、楽しんだりしたとしたら、これは君達の障害となるに違いない。比丘達よ、他の人が、もし私を称賛し、あるいは法を称賛し、あるいはサンガを称賛することがあったとしたら、これについて、君達は事実を事実として、認定しなければならないのである。
『これこれの理由でそれは事実であり、これこれの理由でそれは真相である。我々の間にはこのようなことがあり、またこのようなことが存在する』と。
七 比丘達よ、実際に凡夫が仏陀を賛嘆して語っていることといえば、ただささいなことについてだけであり、ただ通俗的なことについてだけであり、ただ戒に関することについてだけなのである。それならば、比丘達よ、凡夫が仏陀を賛嘆して語っていることとは、どういったささいなことについてであり、どういった通俗的なことについてであり、どういった戒に関することについてなのであろうか。」

【解説】
◎ありのままに見るために
 仏陀釈迦牟尼は、ここで他人の言っていることについて「ありのままに見なさい。ありのままに見るためには、心を動かしてはいけない」と言っていらっしゃるわけだ。
 例えば、非難中傷されたとしても、それに対して心を動かしてはいけない。悲しんでもいけないし、憂えてもいけない。例えば誉められたとしても、それに対して喜んでもいけないし、歓喜してもいけない。ただ、あることはあると考え、ないことはないと考えなさいと。
 また、全体を通して言えることは、他人の言っていることは、本質的には全部大したことではないのだということだ。そして、他の人、つまり修行者以外の人は、自分達の観念によって、自分達が見ている部分だけで物事を判断しているということも言外に含んでいると私は思う。だから、「ささいなこと」という言葉が出てきているのだ。
 それでは、いったい何を“ささいなこと”と言っているのだろうか? そして、“ささいでないこと”とは何か?
 凡夫は、仏陀と一般人、あるいは修行者と比較してあれやこれやと言うわけであるが、そのどれもが、ただささいなことについてだけであり、ただ通俗的なことについてだけであり、ただ戒に関することについてだけであるという。だが、本当に仏陀が賛嘆に値するのは、いろいろな前生の体験を超越した体験を持っているところなのだ。それを示すために、これからの経は展開していく。

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