一三 さらに第四に、尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、一分常住一分無常論として、我と世界とを一分は常住であり一分は無常であると説くのであろうか。
さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、推論家・審察家である者がいる。彼は推論に練られ、審察に従って、自ら弁知したことを、次のように言うのである。
『この眼とも、耳とも、鼻とも、舌とも、身ともいわれている我は、すべて不常・不堅固・無常であって、転変の性質があるものなのだが、これに反して、この心とも、意とも、識ともいわれている我は、すべて恒久・堅固・常住であって、転変の性質がなく、このように常住にとどまっているのである。』
比丘達よ、これがすなわち第四の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、一分常住一分無常論として、我と世界とを一分は常住であり一分は無常であると説くのである。
【解説】
◎肉体対象の推論・審察の限界
ここでは、沙門や婆羅門が、欲界の色(肉体)を対象に推論・審察することによって得た見解により、一分常住一分無常論を説いているという第四の立場を述べている。
「この眼とも、耳とも、鼻とも、舌とも、身ともいわれている我は、すべて不常・不堅固・無常であって、転変の性質がある」――まあ、これはだれにでもすぐ理解できることである。
それに比べて、意識や心は肉体に比べると、一見永続しているかのように感じられるので、「恒久・堅固・常住であって、転変の性質がなく、このように常住にとどまっている」と思ってしまう。そこから、この一分常住一分無常論が出てくるのである。
一方仏陀の方は、単にこれらを知るのみではなく、さらに、これよりも優れたことをも知っている。しかも、その知に執着しない……と、解脱というステージの高さ、素晴らしさをこの経典は称【たた】えている。