智徳の轍 wisdom and mercy

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◎肉体対象の推論・審察の限界

2005-08-13 | ☆【経典や聖者の言葉】

一三 さらに第四に、尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、一分常住一分無常論として、我と世界とを一分は常住であり一分は無常であると説くのであろうか。
 さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、推論家・審察家である者がいる。彼は推論に練られ、審察に従って、自ら弁知したことを、次のように言うのである。
『この眼とも、耳とも、鼻とも、舌とも、身ともいわれている我は、すべて不常・不堅固・無常であって、転変の性質があるものなのだが、これに反して、この心とも、意とも、識ともいわれている我は、すべて恒久・堅固・常住であって、転変の性質がなく、このように常住にとどまっているのである。』
 比丘達よ、これがすなわち第四の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、一分常住一分無常論として、我と世界とを一分は常住であり一分は無常であると説くのである。

【解説】
◎肉体対象の推論・審察の限界
 ここでは、沙門や婆羅門が、欲界の色(肉体)を対象に推論・審察することによって得た見解により、一分常住一分無常論を説いているという第四の立場を述べている。
 「この眼とも、耳とも、鼻とも、舌とも、身ともいわれている我は、すべて不常・不堅固・無常であって、転変の性質がある」――まあ、これはだれにでもすぐ理解できることである。
 それに比べて、意識や心は肉体に比べると、一見永続しているかのように感じられるので、「恒久・堅固・常住であって、転変の性質がなく、このように常住にとどまっている」と思ってしまう。そこから、この一分常住一分無常論が出てくるのである。
 一方仏陀の方は、単にこれらを知るのみではなく、さらに、これよりも優れたことをも知っている。しかも、その知に執着しない……と、解脱というステージの高さ、素晴らしさをこの経典は称【たた】えている。

◎意憤天――仏陀釈迦牟尼のとらえ方

2005-08-13 | ☆【経典や聖者の言葉】
一〇 さらに第三に、尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、一分常住一分無常論として、我と世界とを一分は常住であり一分は無常であると説くのであろうか。
 比丘達よ、意憤【いふん】といわれている天界がある。彼らは大変長い間、お互いに嫉妬【しっと】し合っている。彼らは大変長い間、お互いに嫉妬し合い、お互いにその心が憤っている。このように、お互いにその心が憤っているので、身体は疲労し、心は疲労する。そして、彼ら諸天は、その天界から死没するのである。
一一 比丘達よ、しかし、その中のある有情が、その天界から死没して、地上のこの生に生まれ変わり、この生に生まれた彼が、家を捨てて出家するということがある。家を捨てて出家した彼は、熱心・精勤・修定・不放逸・正憶念によって、その心が三昧に入っているとき、先に述べた前生の生涯を思い出したとしても、それ以上は決して思い出さないような心三昧を得るのである。
一二 そして、彼は次のように言うのである。
『本当に、意憤天ではない尊敬すべき諸天は、大変長い間、お互いに嫉妬し合うということはないのだ。このように彼らは、大変長い間、お互いに嫉妬し合うということがなく、お互いにその心が憤るということがない。そして、彼らはお互いにその心が憤るということがないので、身体は疲労しないし、心も疲労しない。したがって、彼らはその天界から死没するということがなく、恒久・堅固・常住であって、転変の性質がなく、このように常住にとどまっているのである。しかし、我々意憤天は、大変長い間お互いに嫉妬し合っているのであって、このように大変長い間、お互いに嫉妬し合っている我々は、お互いにその心が憤っている。そして、お互いにその心が憤っているので、身体は疲労し、心は疲労する。このようにして、我々はその天界から死没し、無常であって、堅固ではなく、寿命も短く、死去すべき性質のものとして、この生に生まれ変わったのである。』
 比丘達よ、これがすなわち第三の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、一分常住一分無常論として、我と世界とを一分は常住であり一分は無常であると説くのである。

【解説】
◎意憤天――仏陀釈迦牟尼のとらえ方
 意憤天というのは、オウムでいう阿修羅【あしゅら】界のことである。
 ここで注目しなければならないのは、阿修羅界を人間界よりも下の世界だとする日本の密教とは異なり、仏陀釈迦牟尼が、オウムの教義と同じく、阿修羅界を人間界よりも上の世界だとしていることだ。それは、阿修羅界を意憤天と呼び、天界の一つとしてとらえていることから明らかになる。