智徳の轍 wisdom and mercy

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◎執着を超えた仏陀の境地

2005-08-05 | ☆【経典や聖者の言葉】

三五 比丘達よ、これがすなわち、彼ら沙門や婆羅門が、常住論として、四種の根拠により、我と世界とを常住であると説くものなのである。比丘達よ、どのような沙門もしくは婆羅門であっても、常住論として、我と世界とを常住であると説くものは、すべてこの四種の根拠によるものであるか、もしくは、これらのいずれかの根拠によるものであって、この他に別の根拠があるということは決してないのである。
三六 比丘達よ、これに関して、仏陀は次のことを知るのである。
『このようにとらわれ、このように執着している状態は、これこれの趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう。』
 また、仏陀は単にこれを知るだけではなく、さらに、これよりも優れたことをも知るのである。しかも、その知に執着するということはない。執着していないがために、内心において、寂滅を知り尽くしている。すなわち、比丘達よ、仏陀は受の集と滅と味著【みじゃく】と過患【かかん】と出離【しゅつり】とを如実に知り、執着なく解脱しているのである。

【解説】
◎執着を超えた仏陀の境地
 ここは重要なポイントだ。
 これまで、沙門や婆羅門が常住論を唱える四種の根拠が紹介されてきたわけだが、仏陀釈迦牟尼は、これに対して次のように述べている。
「このようにとらわれ、このように執着している状態は、これこれの趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう」と。
 つまり、彼らは自分達の知り得たこと、そして自分達の持っている見解にとらわれているというのだ。そして、その状態は趣に生まれ変わるという来世をも作り出してしまうのであると。
 それに対して、仏陀釈迦牟尼は、単にそれを知るのみでなく、それ以上に優れたことをお知りになっていて、かつとらわれていない。これは、すべてを知る“如実知見【にょじつちけん】”を得、その上で執着せず、“遠離”“離貪【りとん】”、そして“解脱【げだつ】”するという、仏陀の状態を表わしているのである。

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