三二 さらに第二に、尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、常住論として、我と世界とを常住であると説くのであろうか。
さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、熱心・精勤・修定・不放逸・正憶念によって、その心が三昧に入っているとき、例えば、一カルパ・二カルパ・三カルパ・四カルパ・五カルパ・十カルパといった、様々な過去における生涯を思い出すような、心三昧を得る者がいる。そして、『あの生において、私はこれこれの名前を持ち、…(中略)…なおかつ我と世界とは常住に存在しているのかを知ったからである』と。
比丘達よ、これがすなわち第二の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、常住論として、我と世界とを常住であると説くのである。
三三 さらに第三に、尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、常住論として、我と世界とを常住であると説くのであろうか。
さて、比丘達よ、沙門もしくは婆羅門の中には、熱心・精勤・修定・不放逸・正憶念によって、その心が三昧に入っているとき、例えば、十カルパ・二十カルパ・三十カルパ・四十カルパといった、様々な過去における生涯を思い出すような、心三昧を得る者がいる。そして、『あの生において、私はこれこれの名前を持ち、…(中略)…なおかつ我と世界とは常住に存在しているのかを知ったからである』と。
比丘達よ、これがすなわち第三の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、常住論として、我と世界とを常住であると説くのである。
【解説】
◎世界によって異なる四劫の期間
三二・三三と、やはり成劫の前生を知る三昧のことが書かれている。ただし、ここではカルパという言葉が使われているので、その意味とその世界とを説明しておかなくてはならない。
一カルパというのは、欲界の成劫から空劫までの一サイクルをいう言葉である。この期間を人間の世界の尺度に置き換えると、二千四百万年であり、これはブラフマンの世界の一昼夜でもある。
そのことから、ここで一カルパ、二カルパ、三カルパ……と言っているのは、ブラフマンの世界のことであろうと考えられる。ブラフマンの世界では、人間界が創造され、維持され、破壊されて空虚な期間を迎えるほどの気の遠くなるような長い間でも、常住のように見えるのである。それは、高い世界へ行けば行くほど破壊の期間が長くなるからで、三昧によってカルパ単位という長い期間の生涯を思い出したとしても、それはその世界の四劫の中の一部、住劫しか知り得なかったなら、その世界は常住であると思ってしまうだろう。ゆえにここでも、「我と世界とは常住に存在している」と思い込んでしまったということである。
さらに、十カルパ、二十カルパ、三十カルパ、四十カルパ……という、いっそう長い時間の存在する世界の生涯のことが出てくる。これは、アストラル世界の一番上にある光音天【こうおんてん】での生涯を思い出しているのである。光音天は有(存在)の世界であるが、ここでも上に行けば行くほど、ブラフマンの世界に比べてもはるかに破壊へと至るまでの期間が長い。ゆえに常住のように見えるのである。