智徳の轍 wisdom and mercy

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◎戯忘天、そして無智からの脱却

2005-08-09 | ☆【経典や聖者の言葉】

七 さらに第二に、尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、一分常住一分無常論として、我と世界とを一分は常住であり一分は無常であると説くのであろうか。
 比丘達よ、戯忘といわれている天界がある。彼らは大変長い間、楽しみ笑うことと戯れることという喜楽の法に執着して住んでいる。彼らは大変長い間、楽しみ笑うことと戯れることという喜楽の法に執着して住んでいるために、その憶念は消失する。このように、憶念が消失した彼ら諸天は、その天界から死没するのである。
八 比丘達よ、しかし、その中のある有情が、その天界から死没して、地上のこの生に生まれ変わり、この生に生まれた彼が、家を捨てて出家するということがある。家を捨てて出家した彼は、熱心・精勤・修定・不放逸・正憶念によって、その心が三昧に入っているとき、先に述べた前生の生涯を思い出したとしても、それ以上は決して思い出さないような心三昧を得るのである。
九 そして、彼は次のように言うのである。
『本当に、戯忘天ではない尊敬すべき諸天は、大変長い間、楽しみ笑うことと戯れることという喜楽の法に執着して住んでいるということはないのだ。このように、大変長い間、楽しみ笑うことと戯れることという喜楽の法に執着して住んでいるということがない彼らには、憶念が消失するということがなく、憶念が消失しない彼ら諸天は、死没するということがなく、恒久・堅固・常住であって、転変の性質がなく、このように常住にとどまっているのである。これに反して、我々戯忘天は、大変長い間、楽しみ笑うことと戯れることという喜楽の法に執着して住んでいるのであって、このように大変長い間、楽しみ笑うことと戯れることという喜楽の法に執着して住んでいる我々は、憶念が消失するのだ。そして、憶念が消失した我々は、その天界から死没し、無常であって、堅固ではなく、寿命も短く、死去すべき性質のものとして、この生に生まれ変わったのである。』
 比丘達よ、これがすなわち第二の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、一分常住一分無常論として、我と世界とを一分は常住であり一分は無常であると説くのである。

【解説】
◎戯忘天、そして無智からの脱却
 この経は少しわかりにくいだろうから、説明しておく。
 ここでいう戯忘天とは、戯忘と呼ばれる天界に住む天人のことである。そして戯忘と呼ばれる天界には、一般にいわれる戯忘天人のように長い間遊び戯れ、喜楽にふける者もあるが、そうでない天人もいるのである。
 これは、他の経典に、仏陀釈迦牟尼が降りてきて、遊び戯れている天人に向かって、無智からの脱却を説いたという話が残っていることからも明らかである。つまり、遊び戯れ、落ちてしまった天人と、遊び戯れることのない智者の天人のことをうたった経である。