智徳の轍 wisdom and mercy

                  各種お問い合わせはbodhicarya@goo.jpまで。

大戒

2005-08-02 | ☆【経典や聖者の言葉】


二一 「『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、手相占い・八卦【はっけ】・兆相の占い・夢の判断・体相の占い・鼠【ねずみ】のかんだ所の占い・火の護摩【ごま】・杓子【しゃくし】の護摩・殻の護摩・粉の護摩・米の護摩・熟酥【じゅくそ】の護摩・油の護摩・口の護摩・血の護摩・支節の明呪【みょうじゅ】・宅地の明呪・クシャトリヤの明呪・鬼神の明呪・地の明呪・蛇の明呪・毒薬の明呪・蝎【さそり】の明呪【みょうじゅ】・鼠の明呪・鳥の明呪・鴉【からす】の明呪・命数の予言・矢を防ぐ呪法・獣の声を解く法といった、無益徒労の呪法によって、よこしまな生活を送っている者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる無益徒労の呪法からも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
二二 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、珠の相・杖の相・服の相・剣の相・矢の相・弓の相・武器の相・女の相・男の相・童子の相・童女の相・下男の相・下女の相・象の相・馬の相・水牛の相・牡牛の相・牛の相・山羊の相・羊の相・鶏の相・鶉の相・蜥蜴【とかげ】の相・耳輪の相・獣の相といった、無益徒労の呪法によって、よこしまな生活をする者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる無益徒労の呪法からも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
二三 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、「王は進軍するだろう、王は進軍しないだろう」、「内国王は力を表わすだろう、外国王は退くだろう」、「外国王が力を表わすだろう、内国王が退くだろう」、「内国王は勝つだろう、外国王は負けるだろう」、「外国王が勝つだろう、内国王が負けるだろう」、「この者は勝つだろう、この者は負けるだろう」と占うような、無益徒労の呪法によって、よこしまな生活をする者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる無益徒労の呪法からも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
二四 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、「月食があるだろう、日食があるだろう、星食があるだろう、太陽と月は正常な運行をするだろう、太陽と月は異常な運行をするだろう、諸々の星は正常な運行をするだろう、諸々の星は異常な運行をするだろう、流星が落下するだろう、天火があるだろう、地震があるだろう、雷が鳴るだろう、太陽と月と星の昇沈と明暗があるだろう、このような結果を引き起こす月食があるだろう…(中略)…このような結果を引き起こす太陽と月と星の昇沈と明暗があるだろう」と占うような、無益徒労の呪法によって、よこしまな生活をする者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる無益徒労の呪法からも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
二五 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、「多量の雨があるだろう、降雨はないだろう、多量の収穫があるだろう、収穫はないだろう、平和が来るだろう、恐ろしいことが起こるだろう、疫病がはやるだろう、健康になるだろう」などと占うこと・印相・計算・数法・詩作・順世論をなすといった、無益徒労の呪法によって、よこしまな生活をする者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる無益徒労の呪法からも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
二六 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、娶【めと】ること・嫁ぐこと・和睦【わぼく】・分裂・借金取り立て・貸し出し・幸運にすること・不運にすること・堕胎すること・人を唖【おし】にすること・無言にさせること・挙手させること・聾【つんぼ】にさせること・鏡に問うこと・童女に問うこと・神懸かり・太陽を拝すること・大梵天【だいぼんてん】を供養すること・口から火を吐くこと・吉祥天を迎え請ずることといった、無益徒労の呪法によって、よこしまな生活をする者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる無益徒労の呪法からも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
二七 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、願をかけること・願を解くこと・地に座って呪文を唱えること・気力を旺盛【おうせい】にすること・気力を消耗させてしまうこと・住所の相を見ること・地を清めること・口をすすぐこと・沐浴【もくよく】・供犠【くぎ】・吐潟【としゃ】・下痢・上泄【じょうせつ】・下泄・頭痛治療・耳に油すること・目の治療・鼻の治療・眼薬をさすこと・眼に油すること・眼の手術・外科手術・小児治療・樹根と薬とを与えること・薬を取り去ることといった、無益徒労の呪法によって、よこしまな生活をする者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる無益徒労の呪法からも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っているのである。
 比丘達よ、これがすなわち、凡夫がこのことによって仏陀を賛嘆して語っているという、ただささいで、通俗的で、戒に関することなのである。」

【解説】
◎大戒、そして宿命の世界へ
 この三番目の大戒は、仏陀と、かなり実力を持った修行者との比較だと考えていい。
 そして凡夫は、これらの卑しい、大したことのないことを取り上げて仏陀を賛嘆していると言っているのだ。要するに、ここまでが前哨戦【ぜんしょうせん】と言える。
 仏陀釈迦牟尼は、後に出てくる宿命の世界、宇宙観を知り、しかもその宇宙観からも離れることが大切であるということが言いたかったがために、ここまでの部分を導入された。
 そして、その程度、つまり宿命通を得、宇宙観を知る程度のステージに立たないと、本当の意味で仏陀釈迦牟尼を賛嘆することはできないのだ。

中戒

2005-08-02 | ☆【経典や聖者の言葉】


一一 「『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、根から生じる種子、幹から生じる種子、節から生じる種子、枝から生じる種子、第五番目として種から生じる種子といった、様々な種子と様々な樹木とを伐採することに心を奪われて生活している者がいるというのに、沙門ゴータマは、このような様々な種子と様々な樹木とを伐採することからも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
一二 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、食物の貯畜、飲料の貯畜、衣服の貯畜、乗り物の貯畜、寝床の貯畜、香料の貯畜、おいしい物の貯畜といった、貯畜物を楽しむことに心を奪われて生活している者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる貯畜物を楽しむことからも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
一三 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、演劇・歌謡・舞楽・見世物・謡【うたい】・手鈴・鳴鉢・【+銅】鑼【どら】・手品・卑しい人の軽業・象や馬や水牛や牡牛や山羊や牡羊や鶏や鶉【うずら】の闘技・棒撃・拳闘【けんとう】・角力【すもう】・演習・列兵・配兵・閲兵といった、娯楽物を見ることに心を奪われて生活している者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる娯楽物を見ることからも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
一四 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、八目碁・十目碁・無盤碁・石蹴【いしけ】り・抜取り・骰【さい】投げ・棒打ち・手痕【しゅこん】占い・球投げ・葉笛・鋤【すき】遊び・逆立ち・風車遊び・升遊び・車遊び・弓遊び・文字判じ・他心判じ・傷占いといった、賭博【とばく】の放逸さにふけり、心を奪われて生活している者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる賭博の放逸さにふけることからも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
一五 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、規定の大きさを越えていたり、獣の形をした脚台を持っていたり、長い羊毛で覆われていたり、模様がある白い敷物で覆われていたり、花を縫いつづっていたり、綿を詰めていたり、絵のある覆いがあったり、両側に縁が垂れていたり、片側に縁が垂れていたり、宝石をちりばめていたり、絹物の覆いがあったり、大きな毛布があったり、象の模様がある覆い布があったり、馬の模様がある覆い布があったり、車の模様がある覆い布があったり、羚羊【かもしか】の皮で縫ってあったり、良い鹿の皮で覆われていたり、天蓋【てんがい】があったり、上下に赤い枕【まくら】があるといった、高く大きな寝台を使うことに心を奪われて生活している者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる高く大きな寝台を使うことからも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
一六 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、塗身・按摩【あんま】・沐浴【もくよく】・揉身【じゅうしん】・鏡・眼の塗料・華鬘・塗香・顔料・香油・手甲【てっこう】・髪飾り・手杖【しゅじょう】・薬の袋・剪刀【せんとう】・傘蓋【さんがい】・美しい靴・婦人の冠・宝珠・払子【ほっす】・白衣【びゃくえ】・長袖【ちょうしゅう】といった、粉飾の放逸さにふけり、心を奪われて生活している者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる粉飾の放逸さにふけることからも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
一七 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、国王の話・盗賊の話・大臣の話・軍兵の話・恐怖の話・戦争の話・食物の話・飲料の話・衣服の話・寝室の話・華鬘の話・香料の話・親戚【しんせき】の話・乗り物の話・村落の話・町村の話・都会の話・国土の話・女性の話・男性の話・英雄の話・風評の話・井戸端での噂話【うわさばなし】・死者の話・統一のない話・世界説の話・海洋説の話・こうあるこうないの話といった、無益徒労の話に心を奪われて生活している者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる無益徒労の話をすることからも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
一八 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、「あなたはこの法と律とを知らないが、私はこの法と律とを知っている。あなたがどうしてこの法と律とを知ることができようか」、「あなたはよこしまな行ないをなすが、私は正しい行ないをなす」、「私の言葉は理に合っているが、あなたの言葉は理に合っていない」、「あなたは前に言うべきことを後に言い、後に言うべきことを前に言う」、「あなたが熟考しないことについては、すぐにひっくり返されてしまう」、「あなたは論争しても負けてしまう」、「あなたの説を脱するために巡り歩きなさい。もし、できるならば自分で解決しなさい」といった、論争に心を奪われて生活している者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる論争からも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
一九 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、例えば、「ここに行け、あそこに行け、これを取ってこい、これをあそこに運べ」と命じる、国王・大臣・クシャトリヤ・婆羅門・家主・童子のためにするような、使いや仲立ちがすることに心を奪われて生活している者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなあらゆる使いや仲立ちがすることからも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
二〇 『また、尊敬すべき沙門や婆羅門の中には、信者から布施された食事によって生活し、しかも、お世辞を言い、追従【ついしょう】し、占いをし、まじないをし、利得の上にも利得を貪【むさぼ】る者がいるというのに、沙門ゴータマは、このようなお世辞や追従からも離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っているのである。」

【解説】
◎中戒――他の沙門や婆羅門との比較
 中戒では、信者の布施を受けて生活する沙門や婆羅門と仏陀釈迦牟尼(沙門ゴータマ)とを比較している。そして、いかなることからも離れている仏陀釈迦牟尼を凡夫は賛嘆しているというのである。しかし、以上挙げられていたことも、仏陀釈迦牟尼にとっては、比較の対象としてはつまらないことなのである。

小戒

2005-08-02 | ☆【経典や聖者の言葉】


八 「『沙門【しゃもん】ゴータマは、殺生を捨てて殺生を離れ、杖【つえ】と刀とを用いず、慚恥心【ざんちしん】を持って慈愛に富み、一切の生きとし生けるものを益するという哀れみの心を持ち続けておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
『沙門ゴータマは、偸盗【ちゅうとう】を捨てて偸盗を離れ、与えられたものを取り、与えられたものを願い求めながら、少しの盗心もなく、自ら清浄の心を持ち続けておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
『沙門ゴータマは、梵行【ぼんぎょう】ではないことを捨てて梵行を修め、遠離【おんり】の行をしながら、淫欲【いんよく】や粗野のことを離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
九 『沙門ゴータマは、妄語【もうご】を捨てて妄語を離れ、真実を語り真実に従い、正直で真心を持っていて、世間を欺くことをなさらない。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
『沙門ゴータマは、両舌を捨てて両舌を離れ、こちらで聞いて、それをあちらに行って告げ、こちらの人々との仲を悪くするようなことはなく、または、あちらで聞いて、それをこちらに来て告げて、あちらの人々との仲を悪くするようなことはなさらない。このようにして、仲たがいする者を仲直りさせる方であり、親密な者をますます親密にさせる方であり、和合を愛し、和合を好み、和合を喜び、和合をもたらす言葉をお話しになる方である。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
『沙門ゴータマは、悪口を捨てて悪口を離れ、すべてに間違いがなく、聞いていて楽しく、愛らしく、深く感銘し、優雅で、人々に喜ばれ好まれるような言葉をお話しになる方である。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
『沙門ゴータマは、綺語【きご】を捨てて綺語を離れ、その時に適した言葉を語り、真実を語り、義ある言葉を語り、法に合った言葉を語り、律義を伴う言葉を語り、明確で、話の区切りを付け、義にかない、心に記されるような言葉を語られる方である。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っている。
一〇 『沙門ゴータマは、様々な種子、様々な樹木を伐採することを離れ、一日一食で夜には食べず、間食を離れ、演劇・歌謡・舞楽といった娯楽物を見ることを離れ、華鬘【けまん】・香料・塗香【ずこう】で扮装【ふんそう】することを離れ、高く大きな寝台を用いることを離れ、金銀の供養を受け蓄えることを離れておられる。
 沙門ゴータマは、生の穀類を供養されることを離れ、生肉を供養されることを離れ、婦人・少女を供養されることを離れ、男女の奴隷を供養されることを離れ、雌雄の山羊【やぎ】を供養されることを離れ、鶏・豚を供養されることを離れ、象・牛・雌雄の馬を供養されることを離れ、耕田・荒地を供養されることを離れ、使い・仲立ちがするようなことを離れ、売買をすることを離れ、秤【はかり】を欺くことや升を欺くことや尺を欺くことを離れ、賄賂【わいろ】・詐欺・虚偽の邪行をなすことを離れ、傷害・殺戮【さつりく】・拘束・強奪・窃盗・強盗を離れておられる。』
 このように、比丘達よ、凡夫は仏陀を賛嘆して語っているのである。」

【解説】
◎釈迦教団の戒律制定の現実
 この小戒からは、凡夫が仏陀を賛嘆する、くだらない根拠の具体例を挙げているわけだが、ここでは主に仏陀と凡夫のなしていることを比較して述べている。
 また、この経からは釈迦牟尼の仏教教団が、どんな戒を定めていたのかもうかがい知ることができる。小戒は最もベースとなる戒めを表わし、中戒がその次にくる戒め、大戒は枝葉の部分の戒めに当たり、徐々にその内容も細分化されていっている。
 戒の内容を見てみると、明らかにこの経典が初期の頃を記したものであることがわかる。その理由は、戒の数が少ないからだ。戒は後になればなるほど増えているのである。
 どのようにして戒が増やされていったのかを見てみると、いろいろと面白いことがわかってくる。仏陀釈迦牟尼は仏教教団が大きくなってくるにしたがって増加の一途をたどる弟子の不始末を憂慮し、何かの問題が持ち上がる度に一つずつ新しい戒律を付け加えていったのだ。
 例えば、こういうことである。修行僧のパーラカが病気になったとき、ダーサカはパーラカが修行僧で、しかも病気だというのに乳がゆや餅【もち】(これらは美食の部類に入る)を食べたということを責め、パーラカを自殺へと追いやってしまった。そのことを聞いた仏陀釈迦牟尼は修行僧達に次のように言い、ここにまた一つの戒ができた。
「ダーサカにはパーラカを殺す意思はありませんでした。だから、彼には何の罪もありません。しかし、今後は決して病人の前で軽々しく病人を死に追いやるような言動をしてはいけません。もしも、そのようなことがあれば、今後はそれを罪とします。皆は言葉を慎んで修行に励みなさい。」(すずき出版『仏教説話大系』より)
 また、次のようなエピソードもある。それは火事のときにどう対処すべきかということを仏陀釈迦牟尼が述べているものである。
 最初に火事が起こって精舎が焼けてしまったとき、修行僧は自分の持ち物だけを持ち出した。そのため、信者が供養した精舎の品々がすべて焼けてしまった。このとき仏陀釈迦牟尼は、修行僧達に言われた。
「そのような場合、当然精舎の品々もまた持ち出すべきです。」
 ところが、その後、別の精舎で火事が起こった。このときは、仏陀釈迦牟尼のお言葉が心に残っていたため、修行僧達は精舎の品々だけを持ち出した。だが、自分達の衣鉢【いはつ】を焼かれてしまった修行僧達は、翌日からの暮らしにこと欠く有り様だった。
 おそらく、仏陀釈迦牟尼は、もっと詳しく言っておかないと、理解してもらえないとお考えになったのだろう。今度はこういう言い方をなさった。
「托鉢の道具である衣や鉢は、精舎の品々と同様に大切な物です。そのようなときは、まず自分の物を持ち出し、それから急いで精舎の物を持ち出すべきです。」
 またまたその後、別の精舎が火事となった。修行僧達はまず自分の持ち物を精舎の外へ持ち出し、再び精舎へ入っていって、精舎の品々を運び出してきた。ところが、その間に、道に置いてあった修行僧達の持ち物が盗まれてしまっていた。
 これをお聞きになった仏陀釈迦牟尼は、根気よく次のように言われた。
「そのような場合、力の弱い者が見張りをして、力の強い者が品物を運び出すべきです。」
 その後起こった別の火事では、精舎の品物を持ち出そうとして火の中へ飛び込んでいった修行僧が、焼死してしまった。その報告を受けた仏陀釈迦牟尼は、次のように言われた。
「火が燃え盛っているようなときには、決して中に入っていったりしてはいけません。たとえ精舎がすべて燃え尽きてしまおうと、それは罪にはなりません。災害のときにはまず自分の衣鉢を持ち出して見張りを置き、それから後に精舎の品々を運び出しなさい。ただし、危険な場合は精舎がうせてしまおうとも近付かないことです。これは、火事の場合でも洪水の場合でも同じことです。この規則に違背することは混乱を招くことであり、罪となります。」(すずき出版『仏教説話大系』より)
 こうして、また新しい戒ができたのである。
 要するに、戒は何か事あるごとに増えていったのである。釈迦牟尼の弟子の中には、特に悪行が多くて、多くの戒制定の原因になったような者もいる。カールダーインやストゥーラナンダーなどが有名である。