智徳の轍 wisdom and mercy

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◎魂の落下のプロセスを解き明かす

2005-08-07 | ☆【経典や聖者の言葉】

◇第二誦品

【解説】
◎魂の落下のプロセスを解き明かす
 ここには大変興味深いことが書かれている。それは、魂が、光音天から梵天(梵宮)、戯忘天【ぎぼうてん】と落ちていくプロセスである。

一 「比丘達よ、沙門や婆羅門の中には、一分【いちぶ】常住一分無常論を抱く者がいる。彼らは、四種の根拠により、我【が】と世界とを一分は常住であって一分は無常であると説くのである。それでは、彼ら尊敬すべき沙門や婆羅門は、何により何に基づいて、一分常住一分無常論として、四種の根拠により、我と世界とを一分は常住であって一分は無常であると説くのであろうか。
二 比丘達よ、長い時を経た後、いつかあるとき、この世界が破壊する時期がある。そして、世界が破壊するとき、諸々の有情の多くは、既に光音天に入ることができるものとなっている。そこにおいて、彼らは心によって作られた身体を持ち、喜を食し、自ら輝き、空中を飛行し、純浄な状態にとどまりながら、長い間そこに住むのである。
三 比丘達よ、長い時を経た後、いつかあるとき、この世界が創造する時期がある。そして、世界が創造するとき、空虚な梵宮が現われるのである。そのときに、ある有情が、寿命が尽きたために、もしくは善根が尽きたために、光音天から死没して、その空虚な梵宮に生まれ変わることがある。そこにおいて、彼は心によって作られた身体を持ち、喜を食し、自ら輝き、空中を飛行し、純浄な状態にとどまりながら、長い間そこに住むのである。
四 そして、彼はそこでただ独り長い間住んでいるために楽しみがなく、次のように待ち望むのである。『本当に、他の有情がこの生に来ることができますように』と。
 そのときに、ある諸々の有情が、寿命が尽きたために、もしくは善根が尽きたために、光音天から死没して、その梵宮に生まれ変わり、彼と共に住むことがある。そこにおいて、彼らも心によって作られた身体を持ち、喜を食し、自ら輝き、空中を飛行し、純浄な状態にとどまりながら、長い間そこに住むのである。
五 比丘達よ、その中で、最初に生まれた有情に、次のような念が起こった。
『私は梵天である。大梵天である。全能であって、打ち勝たれるということがなく、どんなものをも見、一切を支配し、世界の自在の主であって、一切の創造主・化生【けしょう】の主・最上の生み出す者・一切を制する主・既に生を受けたものとまだ生を受けていないものの父である。そして、ここに住んでいる有情は、すべて私が化生させたのである。それはどうしてかというと、以前私は、「本当に、他の有情がこの生に来ることができますように」という念を起こした。そして、私に願いが起こったことで、これらの有情がこの生に来たからである。』
 また、後に生まれたその有情にも、次のような念が起こった。
『この方こそ、本当に梵天である。大梵天である。全能であって、打ち勝たれるということがなく、どんなものをも見、一切を支配し、世界の自在の主であって、一切の創造主・化生の主・最上の生み出す者・一切を制する主・既に生を受けたものとまだ生を受けていないものの父である。そして我々は、この方梵天によって化生することができたのである。それはどうしてかというと、我々はこの方が最初にここに生まれていらしたのを見ているので、我々は後に生まれたということになるからである。』
六 比丘達よ、この中において、最初に生まれた有情は、寿命もいっそう長く、またいっそう光輝があり、いっそう力強いのだが、これに反して、後に生まれた諸々の有情は、寿命も比較的短く、また光輝も少なく、力も弱いのである。しかし、比丘達よ、この後者のうちのある有情が、その天から死没して、地上のこの生に生まれ変わることがある。この生に生まれた彼は、家を捨てて出家する。家を捨てて出家した彼は、熱心・精勤・修定・不放逸・正憶念によって、その心が三昧に入っているとき、先に述べた前生の生涯を思い出したとしても、それ以上は決して思い出さないような心三昧を得るのである。そして、彼は次のように言うのである。
『本当にあの方は、梵天であり、大梵天であり、全能であって、打ち勝たれるということがなく、どんなものをも見、一切を支配し、世界の自在の主であって、一切の創造主・化生の主・最上の生み出す者・一切を制する主・既に生を受けたものとまだ生を受けていないものの父として、我々を化生していただいた、あの方梵天こそ、恒久・堅固・常住であって、転変の性質がなく、このように常住にとどまっておられる。これに反して、我々はあの梵天のお蔭で化生したものであるために、我々は無常であって、堅固ではなく、寿命も短く、死去すべき性質のものとして、この生に生まれ変わったのである。』
 比丘達よ、これがすなわち第一の立場であって、これによりこれに基づいて、ある沙門や婆羅門は、一分常住一分無常論として、我と世界とを一分は常住であり一分は無常であると説くのである。

【解説】
◎光音天と梵天――そのカルマの違い
 これは、神を全知全能の主として崇拝するキリスト教的な立場に立った見解だ。また、インドにもブラフマン崇拝があるが、これもまた絶対者に対する信仰である。そして、この考え方の背景にあるものは、完全なる有(存在)に対する執着である。
 それでは、なぜ先に光音天から落ちてきた者が、寿命も長く、光輝があり、力強いのだろうか? これは要するに、その世界に対する固定の強さと功徳の量が問題となってくる。
 固定というのは、例えばこういう例がある。人間界のカルマの強い人は人間として長生きし、天界のカルマの強い人は早死にして天界に生まれ変わる。これと同じことが光音天と梵天についても言えるわけだ。光音天と梵天の大きな違いは四無量心【しむりょうしん】の有無だが、四無量心があまりない魂が真っ先に梵宮に生まれ変わったのである。そして、そこでその魂は梵天に対して固定された。それは、その世界がカルマ的にぴったりであったからである。
 後から光音天から降りてきた魂というのは、梵天がぴったり合っていたというほどでもない。だから、その梵天の世界に対しての執着、その世界のカルマは初めに降りた魂よりも当然弱いだろう。
 それから、もう一つの光輝・力強さに関しては徳が問題となってくる。光音天は幸福な世界だから、そこに長くいればいるほど徳は使い果たす。だから後から降りてきた魂は、初めの魂より功徳が少ないので、輝き・力強さ共に劣っているのである。

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