日本人は従順な性格で、良い悪いは関係なく上からの命令や指示は
よく考えもせずに従ってしまうことが多い
(現代の官僚さんもまさにそんな感じ)
昔からそうだったのか、それともある時代のなにかのきっかけで
そうなったのかは興味のあるところだ
江戸時代はお家大事!
で上からの命令には弱そうなイメージがあるから
この時代からそうなったのだろうか
以前読んだ「武士の家計簿」の本の中には、武士階級は見栄っ張りで
家計の出費の多くは交際費に当てられていて
子どもの誕生日には尾頭付きの鯛を振る舞い
使用人にはそれなりの手当をしたとか
ところが現実はお金がないので、絵に書いた鯛をお皿の上において
そのかわりをしたと面白おかしく紹介されていた
一時期、出版禁止になったとされる「葉隠」は
死を意識するやたらと強気の武士のイメージがあるが
ちょいと読んでみると、現実主義の中国を思わせるような
実践的な部分があって、面白いので書き残しておいた
人に意見して、その欠点を改めさせるということは大切なことで、大慈悲心のあらわれであり、ご奉公の第一である。しかし意見の仕方はたいへんむつかしい。他人の善悪を見いだすことはやさしい。それを批判するのもたやすい。たいていの人は人の嫌がる言いにくいことをいうのが親切だと思い、それを受け入れなければ仕方がないという。それは何の益にもならないし、人に恥をかかせ悪口をいうのと同じであり、自分のうさばらしに言うにすぎない。
人に意見をするには、人が受け入れるか受け入れないか、その気質をよく見極めねばならない。親しくなって、こちらの言葉を信頼するようにするような状態にしてから、趣味などの話で心をひいて、言い方にもいろいろ工夫し、時期を選び、あるときは手紙で、あるときはしばしば別れるような折だとか、自分の欠点や失敗談を聞かせて、意見を言わないでそれとなく思い当たるようにするのがよい。また相手の長所をほめて、気分を引き立てるように工夫して、のどが渇いたとき水を飲むように受け入れさせて欠点をなおすのが意見というものだ。このように意見ははなはだむつかしく、しにくいものである。欠点は長い年月、しみついているのだからなかなか直せるものではない。自分にも覚えがある。
しかし、同輩同僚、たがいに親しくなって、欠点をただしあい、1つの心になって殿のお役に立つようになることこそ、家来としてのつとめであるし、大慈悲というものだ。いたずらに辱めて、どうして欠点をなおしてやることができようか。
これは言うは易く行うは難しの典型かもしれない
ところで現実主義の中国の「韓非子」には
報奨を与える場合は直に渡さず人を介して行うと
受け取る側は手渡してくれる役目の人に従順になって
その上の立場の人には恩義を感じないようになるから
注意が必要との箴言がある
「葉隠」も「韓非子」も、その現実主義的なところは今の自分の年齢だとよく分かる
ところで話は変わって、フランスでは年金支給を遅らせるという
政府の方針が出るやいなや、それに反対するデモが拡大している
とニュースにあった
お上の言うことに従順なだけでなく、自分たちの意志を対立という形で表現する国
それがベストとは思わないが、それでもその様に声を挙げられるのは少しばかり羨ましい
葉隠の作者常朝なら、どんなアドヴァイスをしたのだろう
今年のお年玉年賀状は、我が家では下二桁が一致するものが2枚あった
景品は切手シートだ
その上の賞はかすりもしなかった
それでも昨年はゼロだったので、昨年よりは良い年になるのかも(と思いたい)
昨年は、やたらとくじ運のいい妹の家から
切手シートを幾つか送ってもらった
昨年末は友人から喪中はがきが届いた
その前の年も別の友人から届いた
自分らの年齢ではそういう例が増えている
時の流れとはこういうものだ
それでも「あけおめ」で済ましてしまうメールより
少しは気分がいいのは何故なんだろう
(自筆の文字があると尚良い)
切手シートの下二桁は「11」「42」「73」
ふるさと小包の下4桁は「6417」
大当たりの現金30万円他の下6桁は「109681」
2枚とも「11」で当たっていた
サッカー好きの自分としては、なんとなくいい気分
不動産鑑定は国家資格の必要な職業だが、その評価価格は個人差があるらしい
また不動産鑑定の委託料金は、結果としての評価額によって決まってくる
(料金表がある)とされていたのが長く続いていたらしい
最近では、当事者同士の話し合いで委託金額は決定するのが
一般的になっているようだが、相変わらず昔からの料金表に従って
決めているところも少なくないようだ(我が市もそうだった)
不動産鑑定の評価の個人差は、単なる技術的な要素で左右されるとは
言え無さそうな雰囲気が不動産鑑定に関するHPを見ると感じられる
つまりは依頼主の意図を汲んで、その要求に答えられるような数字を
出すことが現実には必要とされるようだ
不動産鑑定には個人差がある
これを踏まえると大きな金額の取引になりうそうなものは
1業者だけの不動産鑑定で良いのか
複数の業者に依頼したほうが良いのではないのか!
と考えるのは当然のことで、現に大阪市のIR事業関連の土地については
複数の不動産鑑定の業者に依頼したらしい
ところが、そのうちの三社が全く同じ結果を出したので
それは不自然で、談合があったのではないか、、
との疑いが生じたようだ
と長々と、前置きをしたが、我が市の養鶏場の買取価格についての
参考資料としての不動産鑑定は、一社随契で行われた
総額大きいと予想されたので複数社に依頼するのは
費用が多くかかり過ぎる、と心配したのかどうかはわからないが
不動産鑑定の委託料も価格表に基づいて支払われたようだ
何故、今回は一社だけの随意契約だったのか?
この件にノータッチの市職員に聞いてみると
なんで一社だったのか?と疑問の声をあげる人がいた
不動産鑑定は取引事例を参考にして算出するらしい
当たり前のことだが、鑑定をする対象地と近くであったり
条件が同じようなところの、なるべく直近の事例を
引っ張り出すのが良いと考えられている
ただし、その例があるとは限らないので
近傍地域、類似地域との言葉を使い分けている
養鶏場の取引事例は、4つのうち3つが何故か新城市ではなく
豊川市が選ばれていた(類似地域)
最寄りの駅からの距離が同等で、市街化調整区域で
地目も同じものを選んだとされている(雑種地)
ところが明らかに変なのが一つあって
その場所は住宅が立ち並ぶ市街地だ
調査対象の地目は市街化調整区域なので、おそらく市街地から
少しだけ離れた市街化調整区域なのだろう
例えば50メートル違うだけで市街地と市街化調整区域と分かれてしまう
その中で雑種地の評価をすれば、市街地の雑種地は宅地並みの評価
近くの市街化調整区域の雑種地は、鑑定評価は実態が優先されるので
宅地並みの評価とされる可能性が高い
つまり、市街化調整区域、雑種地、最寄り駅からの距離も同じくらい
と書面上では似ていたとしても、現実はかなり意図的な取引事例を
引っ張り出して来たのではないか、、と想像される
国家資格が必要な仕事というだけで
その仕事ぶりが信用できるかどうかは実は別問題だ
最近は手順・段取りだけ守ったような違和感のある事業が多いようだ
地方自治体では、市民の声としてのパブリックコメントも
都合よく利用されている
行政は正当性の確保・担保として手続きとか
書かれたものをよく守るということが必要だが
一方で書かれたものさえ守れば何でもできる
と考えられないこともないので注意が必要だ
ということで、一見ちゃんとやられてるようでも
違和感はあるということ
速く走る姿というのは無駄がなくて美しい
それは素人でもはっきりと分かる
ここ数日Youtubeで頻繁にアップされているのが
全国女子駅伝で17人抜きをした中学3年生
ドルーリー朱瑛里の動画
確かにとんでもなく速い
たすきを受け取って走り出すと、前を走る選手とはまるで違う
まるで短距離走しているような走りっぷりで
ごぼう抜きという言葉がしっくりくる
姿勢がピンと真っ直ぐで、腕をよく振って
(腕を人より後ろに振れているのはそれだけで違うらしいが)
跳ねるように走る
こんな走り方で3キロ持つのかな、、と思うが
今までの区間記録を8秒破る9分2秒
8分台も期待されたが競り合い状態があれば
それも可能だったかも知れない
走る姿を見るだけで美しい!
と思ったことがあったのを思い出した
それはサッカーの中田英寿がU17(だったかな)の世界大会を
日本で行ったときのナイジェリアだ
あの時は後にプレミアリーグでも活躍するカヌーがいたが
何よりも驚いたのはナイジェリアの選手の走る姿が
きれいと感じたことだ
(今でもアフリカの選手が走る姿はどこか違ってきれいに思う)
合理的・効率的な動作はきっと美しく感じるのだろう
これはアップルの製品に通じるところがあるかもしれない
(ジョナサン・アイブがアップルを退社して
多少アップルの方向性が変わった気もするが)
ドルーリー朱瑛里さんのご両親は、カナダ人のお父さんと日本人のお母さん
跳ねるような走りっぷりからすると、身長が高い様に見えたが
そんなに背が高いわけでななかった
冷静な陸上関係者がコメントするように大事に育ててほしい人材のようだ
でも、一番の心配はマスコミかもしれない
賢そうでキリッとした容姿はこの活躍がきっかけで注目され続けるだろう
メディアはサクセスストーリーや、物語を作り、それを消費する
マスコミは消費するのではなく、見守ったり
成長させるきっかけになると良いのだが
日帰りで楽しめる京都は、いろんな視点から楽しむことができる
建物、庭、行事、歴史、食べ物などなど
視点を女性に関することに絞って紹介しているのが
「女人京都」酒井順子著
平安時代から室町時代、江戸時代、明治までの女性をピックアップして
関係する場所の地図も入れて、簡潔にまとめられている
知ってる人もいれば知らない人も多い(大半は知らない人)
エピソードも、知ってるものもあれば知らないものもある
平安時代は女性は顔や姿を見せてはいけないとされ
部屋から出ない事が多く、部屋にいても御簾のそばにいることさえ
よろしくないとされたようだ
(源氏物語の「若菜」ではそれがために事件が起きてしまう)
長いこと女性はいろんな面で表に出ることはなかったし
本名も明らかではなく、社会は男性中心のそれだった
それは現代のイランのイスラム社会に似ているかもしれないが
はっきり違うのは、平安時代でも女性の教育はしっかりなされていたことで
「源氏物語」「枕草子」を始めとする女性作家の充実は
単なる男性中心社会とは違うようだ
この本で印象的だったのは明治期の教育のこと
キリスト教の精神を生かして同志社を開いた新島襄と八重さん
仏教界からも負けずと教育施設を開いた西本願寺の関係者の九条武子
国とか社会の基礎とか国力というのは、教育が肝心なのだろうと
今更ながら実感する
やっぱり京都は何か違うな、、
いつもそう感じる帰りの電車
そして次はどこに行こうかと思いを巡らすが
この本を参考にして探すとするか
1995年、1月17日の朝は何故かいつもより早い目覚めだった
ベッドから抜け出そうとしたその時、地面が揺れた
ガタガタと揺れるいつもの地震とは全く違う
地面全体が大きく揺れているような、ものすごいエネルギーを感じた
これは大きいぞ!
急いでテレビがある部屋に移動して
まだ健在だった祖母と一緒にニュース速報を見た
それがいつの時点の記憶だったか確かではないが
高いところを走る高速道路が無惨に地上に落下していた
街のあちこちで煙が上がっていた
やはり半端ない大きな地震だった
阪神淡路大震災が起きた日の記憶は
足の裏で感じたエネルギーの巨大さだった
関西とは離れているが、あのとき感じた巨大なエネルギーの感覚は
今でも思い出すことができる
地震・雷・火事・親父
怖いものの順番だが、圧倒的に怖いのは地震だ
いつまで経っても地震の予報は難しいようだ
現時点では、大地震が起きませんように!
と祈ることしかできないなら、心を込めて祈りたいと思う
歌(声)がないと聴くのがしんどいとか退屈だという知り合いがいた
一方で最近の自分は、歌があると面倒くさいと思い勝ちだ
ストーリー性のある歌とかカンタータとかオペラは
その内容を知ってこそ楽しめるものだとは思うが
老眼が進んだ今ではテキストを追うだけでストレスを覚えてしまう
だから歌がある音楽でも歌詞は気にせずに
音の変形とか流れとか掛け合いそのものを楽しんでいる
これはクラシックに限らずポップスでも同じで
大半の場合、歌詞はあまり気にしていない
だからビートルズで評価の高い「イン・マイ・ライフ」も
さほど好きな曲ではない(この曲は歌詞が評価されていると思う)
歌がなくても音楽は楽しめる
バッハのシャコンヌとかモーツァルトのピアノ協奏曲とかは
音同士が思索したり会話をしているようで、
歌がないだけに音楽だけに集中できる
音楽は実は音だけで自己完結する世界のような気もする
このように聴いていると最近の若い人が大勢で歌う音楽は
全部同じ様に聴こえるし、どこか幼稚な気がしてつまらない
それは年齢のせいで時代の空気を感じ取れないこともあるもしれない
だが少しだけ印象に残ったグループがあった
それは「SEKAI NO OWARI」というグループで
サーカスのピエロのような化粧をしているメンバーが居るようだ
と言っても彼らの「Habit」を聴いただけだが、これはなんとなく好きだ
そういえばちょっと前の米津玄師の「パプリカ」も不思議な音楽で好きな方だ
ということで、若い人たちの音楽が全部好きじゃないのではない
でも男も女も大勢集まっての視覚中心のトレンドを追いかけるだけの
音楽らしきものは、そろそろやめてほしいな、、とおっさんは思う
SEKAI NO OWARI「Habit」
最近、家族としか話をしていない
もっと多くの人と話さないと独りよがりになってしまいそう
と不安になって、日曜日の豊橋にでかけてみた
そこには知人がいる
だがアポをとってる訳ではないので
でかけたものの呼び出すのはやめることにした
そこで急遽映画をることにした
「嘘八百」か「イチケイのカラス」
どっちでも良かったが時間で都合が良いのは「イチケイのカラス」
自分の生活に裁判という分野が絡んでいるので(1月26日は行政裁判)
縁があるのはこちらだ、、と見ることにした
一年経つと色々変わってきている
(去年の今頃は香川一区を見に来ていた)
チケットの販売は機械になっていた
そんなに難しくはないだろうと
カウンターの方へ行くのはやめて機械で購入
座る席もそこで選ぶことになっていた
映画はこんなものかな!という感じ
時間つぶしにいいくらいの話
思いっきりエンタメでもないし、真面目な話でもないし
自分らの裁判に役立つわけでもないし
日本のエンタメのレベルはこんなものなのか、、
と若干失望したかも
これなら「嘘八百」のほうがもう少しバカバカしくて笑えたかもしれない
映画を見たあとは、豊橋にでかけたもう一つの理由かもしれない
つけ麺の美味しい店(さかなやらーめん)で昼食を、、
ここのは本当に美味しいが値段が以前より上がっていた
このあと知り合いの店に顔を出して
お互いちょっと痩せたね!などと話して
次は購入予定のアナログプレーヤーを扱う店にいって
今のプレーヤーの下取りの話をした
その後、本当に久しぶりにマッターホーンに行って
マッターホーンとチーズケーキを購入した
ケーキはプチという小さめのものがあったが
今までのケーキは、これまた値段が上がっていた
豊橋は月に一度お墓の草取りには来ているが
そこと家の往復だけでは変化はわからない
時間が経つと色々変わっているな、、
とまるで浦島太郎のような感じ(ちょいと大げさか)
それにしても価格上昇はすごい
いつかは慣れてしまうのだろうが
性格的には慣れる前に節約をすることになりそう(かも)
一昨年の衆議院選で岐阜県の選挙区から
日本で一番若い女性候補が立憲民主党から出た
彼女は惜しくも自民党候補の破れたがそこそこの接戦で
立憲のその地区の支部長を務めていたらしい
ところが今春、党を自民党に蔵がえして
県会議員の選挙に出るとニュースになっている
自民党に鞍替えする人は、以前にもいろんなところから出ているが
その理由は大半が、政権与党でなければ自分の思いは実現できない
というものらしい
でも、素直にそうなのか!と思えないところがある
結局のところ、政治家とか政治家を目指す人のメンタリティは
マックス・ウェーバーが「職業としての政治」で明らかにしたように
以下のようなものではなかったか、、と思えてしまうからだ
政治家の全部が全部こうではないと思いたいが
自分の知っている政治家さんもどこか変わってる人が多い
最近の世の中は、勝った者勝ち!
(数は力という理屈)
に拍車がかかっている様に思えてしまう
相変わらずスッキリしないこの国の雰囲気
新年はじめからこんなんじゃ、先が心配、、
雪国のある家庭の一月(請求分)の電気代が
10万円を超えた!とニュースでやっていた
例年ならその半分で済むところ
ウクライナの戦争やら円安やら大雪で
その影響がもろに出ているらしい
雪国ほどではないが我が家も電気料金は高くなっている
毎月10日頃にメールで請求分のお知らせが来る
見る度に昨年度をオーバーしているし
そのオーバー分も徐々に大きくなっている
そこで中部電力ミライズのHPにログインして我が家の状態を
昨年との比較で見てみた
すると、電気使用量は昨年のほうが多い
(節約しよう!と偉い人は口酸っぱく言い続けているからか)
それでも高いのは1KWHの単価が高くなっているせいで
ざっと1.6倍も高くなっている
なんだ、贅沢に電気を使っているからではないのか
と安心(?)したが、少しばかり怒りも覚えてしまった
(中部電力が悪いわけではないが)
仕方ないな!と諦めるしかない
このホームページには、似たような家庭との比較が出ていて
それによると、我が家はここ3ヶ月は似たような家庭よりも
使う電気量が少ない
平均(似たような家庭)より少ないというのは
なんとなく安心感を覚えるが、、それでも安いほうが良い
中部電力ではなく東京電力はどんなんだろう
と首都圏に住む妹に最近の電気代を電話で聞いてみた
細かいことを気にしない妹らしく
月々の電気代は細かくは把握していないようだ
(自動引落になっているからか)
幸い雪国の様に家庭生活に大きな影響を与えるほど
ではないが、このように電気代が高い!
と記録に残すのは、良いことではなく残念なことだ