パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

世界のオーケストラより心動かされた歌声

2019年11月16日 18時35分04秒 | 徒然なるままに

もしかしたら先日のウィーン・フィルやベルリン・フィルより感動したかもしれない
少なくとも感情は間違いなく今日の方が揺さぶられた
知らず知らず滲んできたものがあったし、そのあとで救われたような清々しい気にもなった

小学校の学習発表会が行われた
あいさつ推進運動への感謝を示すためか、近所の子から招待状が来ていたので楽しみにして出かけた

心揺さぶられたのは最初の5年生の器楽合奏と合唱
5年生にもなると、「うまく歌うより大声で歌う」という時期を過ぎて
歌のニュアンスを表現できるようになっている

歌が始まった刹那、やってきたのは
「なんと汚れのない歌声なのだろう」という思い
難しいことは考えていなくて、まだ疲れを知らずに、初々しくて、生命力に満ちて、、
それは無条件に良きものとして受け入れられるものだった

音楽的な感動とはなんだろう
と少し考えてしまう
頭でっかちではなく、ただ耳を澄まして聴くと心にやってくる不思議な思い
何を表現しようとしているか彼らには解っていないかもしれない
でも、人がいつか失ってしまうかもしれない、そのときにしかない美しく感動的な何かを
聞き手は感じることができる

今日はこの歌声のおかげでその後のプログラムを楽しむ心の準備ができた
気になったのはいつも一緒に校門まで歩いていく近所の子たちの活躍だが
あそこにいる、、とわかった子もいれば
どこにいるんだろう?と探したが判らなかった子もいた

それにしても、あの歌声の心洗われ、清々しい気分にさせてくれる力は
つくづく凄い!

 

 

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損のインパクトの強さの影響

2019年11月15日 09時17分00秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

行動経済学の研究者であるダニエル・カーネマンによれば
「人間は得より損のほうに強く反応する」傾向があるとのことで
例えば、10万円のものを1万円まけてもらって得をした場合と、
10万円で買ったものが近くの店で9万円で売っていることが分かり、
1万円損をした気分になるのとでは、多くの人は、前者の得した気分より、
後者の損をした気分のほうが強く感じるだろうし、後々まで尾をひく。
心理学の実験では、損のインパクトは得のインパクトの2.25倍だそうだ。
「損の影響は得の約2倍」、経済心理学のススメ)より

これを現在の新城市の問題一つの事柄に当てはめて考えてみる

新城市では新東名高速道路を利用した名古屋直行バスの運行が
市のお金を使い実施されている(今のところ実証実験として)
この費用が年間約3800万円ほどで、利用者は一便あたり7人前後と少なく
空気を運んでいるとの批判が出ている

そんな批判のあるなか、市は継続か中止かの判断を迫られている
(来年度の予算案に入れるかどうかということ)

総合的な判断のために市はいろんな人の意見を聞いているが
その中に利用者の声がある
当たり前の話だが利用者の評価は高い
今まで使っていたものがなくなっては困る
これが利用者の大半の声だろう

そこで出てくるのが冒頭の「損した気分のインパクトの強さ」の問題
不効率で税金は別の分野に回すべきとの中止意見に対して
利用者の今まであったものがなくなる「損した気分」の力は強く
この問題を総合的に考えることを難しくしている

継続すれば自分にとっては有利だが、果たしてそれが市にとって
正しいことなのだろうか?
批判的な意見の持ち主は、利用者もこうした広い視点から考えるべきと口にする
しかし、損する(既得権を失う)ということは、そんなに簡単に他人事のように
考えるられるようになることではない

そうなるには、多分、自分自身の感情のコントロールとか理屈に従う訓練が
必要なんだろうと思われる
自分は損をしてもこうあるべき!
そのように信念をもって行動できるようになるのは難しいが、それができる人は尊敬できそう
(議員さんや首長がこのような人たちであれば良いのだが)

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ベルリン・フィル、ブルックナー8番、メータ

2019年11月14日 08時57分47秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

数日前のウィーンフィルと全く同じ曲のコンサート(版は違うが)が
昨日、名古屋の芸術劇場コンサートホールで行われた
前回の関心の度合いは、ブルックナー8番、ウィーンフィル、ティーレマンの順番だったが
今回は順序が少し入れ替わってベルリン・フィル、ブルックナー8番、メータの順
今まで一度もナマで聴いたことのないベルリン・フィルの音色への関心が一番だ

肉体的、精神的コンディションを整えて全身で味わう準備をした
なにしろブルックナーの8番は聴く方も相当のエネルギーを消費する
全楽章で1時間半くらいだが、普通の前半後半に分かれたコンサート並みの総量を感じる
(ただし、不思議なのは長く感じないという点)

聴き終わったあとの印象、その思いつくままにあげていくと
この世界最高のオーケストラの凄まじさにぶったまげた
その合奏能力の凄さ、全体がフルで音を出しても濁らずにすべての音が
聞こえるような、それこそ職人たちの集合体の為せる技で
これだけの大勢の人が合わせるということの、そのレベルの高さには
ただただ圧倒された

音色は明らかにウィーンフィルとは違う
冒頭からそれは感じられた
コントラバス、ティンパニは主導するような重心の低い音色
全体でのフォルテもウィーンフィルのような輝かしさはない
しかし内在するエネルギー感は密度の濃さを感じさせる

音色はウィーンフィルが時に自然をイメージさせるような響きの部分があるのに対し
ベルリン・フィルは音の構造物を感じさせる
ブルックナーの音楽の建築的な部分が際立っているような気がした

この2つのオーケストラの違いは、
ウィーンフィルが歌劇場でオペラを経験しているメンバーで構成されているのに対し
ベルリン・フィルは純音楽を演奏することが多いことから来ているような気がする
オペラの登場人物の気持ちにスッと感情移入して効果的に演奏する
感情がたかまった時には自身もその渦の中に入ることをいとわない音楽家たち
登場人物はいい人間ばかりではなく、人間的な弱さを持っているがそれでも
なにか共感する懐の深さ(あるいはいい加減さ)を持つオーケストラの人々の集まりがウィーンフィル

一方ベルリン・フィルは北ドイツの風景を連想させる真面目なイメージ
ドイツは北と南では建築物の印象もだいぶ異なり、ブレーメンやリューベック、ベルリンは
明らかにミュンヘン(やウィーン)の醸し出す雰囲気とは違う
この真面目さが、重心の低い音を好み、音楽を音の構造物として捉えようとする傾向が
あるような気がした

人間の行うことは、同じことをしてもずいぶん違うものだと再確認したわけだが
どちらが良いか?は甲乙つけがたい
多分平均点ではベルリン・フィルのほうだろうが、ノッた時のウィーンフィルの
演奏も捨てがたそうな気がする

ベルリン・フィルは名人・職人が多くて強奏でも音がぶつからないが
各人はそれでもまだ余裕があるような気がしている
不意に、これがフルトヴェングラーの指揮だったらこの名人たちの奏者すら
余裕が無いほど演奏に夢中にさせたのではないか、、と頭に浮かんだ
フルトヴェングラーの指揮は聴いてる方も楽しめるが演奏してる方もスリルがあって
楽しんでいるのではないか、、と思ってしまう

話はフルトヴェングラーにそれてしまったが、とにかくベルリン・フィルは
凄いオーケストラということはわかった

メータでブルックナーの8番を聴くのは二度目だが
指揮台まで歩いていくメータは歩き方が少しヨボヨボして
かれがそれなりの年齢に達していることを実感させた

音楽はティーレマンがやったように静寂と緊張感を待って指揮を始めたのではなく
割と無頓着に始めた
そのためにその後の音楽への集中が心配されたがベルリン・フィルの音色で
それらの不安は気にならなくなった

メータは年齢がいっているし、この曲も既に数多く演奏している
その手の内に入っている感じが細かなニュアンスの変化として
ティーレマンの演奏よりは気づくところが多かった

いつもこの曲の一番の楽しみは第三楽章
徐々に瞑想的な世界になっていき、内的な時間経過は時間の存在すら
忘れるようなときがある
ここで気になるのが版の問題
それほど違いに詳しいわけではないが、聴きたい部分はどうしても気になる
ティーレマンはハース版、メータはノヴァーク版だったが
ティーレマンの方はクライマックスに向かうが急に弱音の挿入句があって
一気に輝かしい頂点には向かわない
ところがメータはの版は一気に頂点を目指す
最初レコード等で聴いてたのは一気に向かう方だったが
どちらが好みかといえば最近はモタモタしたところのあるところが
却ってブルックナーらしくて、挿入句のある方が好きとなっている

11月の主な行事(?)もあとは22日の京都太秦の聖徳太子像の見学と
あと一つ、同級生絡みのライブを残すだけ
しかし、今月はしっかり家計簿は赤字、、
赤字になることがわかると、やけくそ消費で赤字は増える
次は節約しなくては、、




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ヒアリングと政治倫理審査会

2019年11月13日 09時28分12秒 | 市政、市議会に関することなど

今日はベルリン・フィルを聴きに行く前に床屋に行かなきゃならないし
バタバタしてるので、横着して以下自分の別の方からのコピペ

新城市の少し真面目な話

昨日新城市議会が新しい議長の選出を行っている頃
「新城市政を考える会」のメンバーの数人が市役所に訪れて
新東名高速バス「山の湊」号についてのヒアリングを行いました

現在、目標数字に対して遠く及ばないこの実証実験事業(高速バス)の継続が
検討されているらしいとの、先の一般質問を踏まえて
現状とその認識、費用の明細、効果について、判断の基準等々を
市には予め質問項目を提出した上で行われました

自分が参加したのは途中まで(大事な子どもたちの勉強の手伝いがあるので)
それでも優に一時間以上を経過、その後どのくらい続いたかは聞いていませんが
少なくとも市民の間には安易に事業の継続を望んでいない人たちが存在することは
市の現場の方々には伝わったのではないか、と思っています

細かな内容は取り上げませんが、とにかくこのような行動を起こし
市側に要望を伝えたという事実は、これがどのよな形で反映されるか
注目していきたいものです

この事業に賛成の方、便利で都合の良い方が存在するのは否定しませんが
それに年間3800万円ほどの費用を費やして良いものか
その費用は別の項目に回せるのではないか、そうした方が良いのではないか
との考えが浮かびます
(自分などは子どもたちの勉強の手伝いをしてるので、教育関係に費用を回してほしい)

この話はとりあえずここまで

もう一つの話題は、政治倫理審査会のこと
政治倫理審査会は新城市の十八番になってしまったかのようで
ここ数年でいくつも開催されている
今朝の中日新聞にも掲載されていたが、今回の政治倫理審査会は
議員の政務活動費の使い方に対する倫理観が問われている
(東京に泊りがけで出かけたが2日目の行動の報告書がなかったり
 行った先の名称が違っていたりして、本当に疑われるようなことをしていないか?)

ところが悲しいかな、これが悲惨な状況になっている(いた)
それは政治倫理審査会のメンバーが4人しかいないということだ
今までの政治倫理審査会ならば6人のメンバーで行われていたのだが
今回は4人でしか行われなかった(行えなかった)

政治倫理審査会の開設は市議会議員3人による申請により
行われることになった(山田、浅尾、澤田議員)
訴えられる側になった議員は6人(村田、下江、中西、柴田、竹下、山崎議員)
市議会議員18人のうち、この9人は審査会のメンバーにはなれない
残る9人の中で選べば良いわけだが、ここで面倒なことがある
実は問題となった東京への視察は訴えられた6人の他に長田、佐宗議員も同行している
ただこの二人は宿泊費の返還を行っており、それで審査会の対象から外れている
同様に同行したとされる鈴木(長)議員は前日だけで帰っている
残る9人のうち3人がどちらかと言えば当事者のため、審査会のメンバーとしてはふさわしくない

すると残るのは6人
そこから議長を除けば5人
この中から小野田、山口、斉藤、鈴木(達)議員が選ばれた

今回の政治倫理審査会は自分は傍聴に行っていない
だが、メンバーが結果的に4人で行うしかなかった事実は
それだけで現在の市議会が普通に機能していないことの現れと思われる

でも一方的に市議会の惨状を批判するつもりはない
それよりは、今まで関心のなかった人たちが(以前の自分もそうだった)
少しでも市政とか市議会に問題意識を持ってもらえれば良いと思っている
少しばかり面倒だが、お任せにしてるとあまり良くない、、、というのが
最近の自分の実感
(選挙の時だけ関心を持ったり、投票の権利を果たすだけでは、、、)


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明日はベルリン・フィルのブルックナー

2019年11月12日 10時33分04秒 | 音楽

11月7日はメンタルのコンディションも整えて、全身で音を浴びたティーレマン指揮
ウィーンフィルのブルックナーの八番
いよいよ明日は同じ会場(名古屋の芸術劇場コンサートホール)で
ベルリン・フィルのブルックナーだ
指揮はズービン・メータ

ブルックナーの八番の実演を聴いたのはメータが初めてだった
第一楽章の弦のトレモロが弱音で奏される中、管楽器群の第一主題のやり取りは
空間的な効果が際立って、生の会場でしか味わえないもので
今回も(ウィーンフィルの時も)最初の聴きどころだ
それから、フォルテになったときの全体の音の印象が、各楽器が目立つ音か
それともブレンドされてなる音か、これも確認事項

あとは演奏中に、指揮者はブルックナーが好きなんだな!と感じられるかどうか
ヴァントとかアイヒホルンは聴いていてそのように感じる瞬間があって
それでこちらも無条件に受け入れられる気がしてくる

7日は早めの夕食を済ませておいても眠くはならなかった
だからといって調子づいて今度はアルコールを入れるとなると
これはあかんだろうな

無理やり予習をしないでお預け状態のこの音楽(八番)
楽しみ、、、

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若い時に感じたもの(その経験)

2019年11月11日 09時42分51秒 | 音楽

先日のティーレマンのブルックナーの8番の印象は若い人の感覚に沿ったもの
と思ったが、そうではなくて案外現代的な演奏だったのかもしれない
と思うようにもなった

人は多分一番感じやすい若い時に感じたものをいつまでも記憶に留める
今の若い人は、ベルリン・フィルではカラヤン・アバド・ラトルの演奏を
若いときに聴いて、それをベースに他の演奏を比較する

ところが、自分の若い時はもう一つ前の世代の人々から深い感動を得た
その筆頭がフルトヴェングラーで、テンポの変化が激しすぎてブルックナーらしくない
との批判が多い8番も、初めて聴いたのがこれだったので、そんなものか!
としか思わなかったし、聴いた時は圧倒的な感銘を受けた
特に第三楽章などは、忘我の瞬間や音のカーテンが迫ってくるような錯覚を覚える瞬間など
他の指揮者からは感じられない何かを得ることができた

若い時はいろんなものが新鮮に感じられる
知識はなくても感じることはできる
知識をカバーするような感覚は案外独りよがりではなく
本質をついているようなときもある

そこで、思うのだが感じやすい今の若い人たちが、録音は悪いが
フルトヴェングラーのブルックナーやベートーヴェン、トリスタンや
マーラーの「さすらう若人の歌」を聴いたらどんな印象をもつか聴いてみたい
(多分聴いていないだろうから)

聴いたら、古臭い時代がかった演奏と思うのか
それとも時代を超えて良いものは良いと感じるのか
自分はその体験をしただけで、ずいぶん得したと思っているのだが、、

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他人の本棚

2019年11月10日 18時49分30秒 | 徒然なるままに

覗いてみたい本棚がある
それは安倍さんのそれ
本のコレクションは教養の深さ
レコード(CD)のコレクションは趣味の良さが現れると言われる

数年前、新城市でその立場に立つ人としてどの人物がふさわしいか?
を選ぶための討論会があった
そのとき討論の前に質問タイムがあって
「おすすめの本は何ですか?」
「最近読んだ本はなんですか?」
を聞いてほしかったが、会場は別の質問を選んだため聞くことはできなかった

それは今でも残念に思う
聞けたならどんな人間性か、(自分には)わかるような気がしたので

ところで、安倍さんは書店に立ち寄って本を購入しているところを
報道がされたことがある
そこで、チラッと見えた本は厚そうだが、現実対応的な本だった
少なくともリベラルアーツ系の本は無かった

小泉さん(お父さんのほう)はオペラも好んでいたようだが
安倍さんは芸能人の方をより好んでいるみたい
好き嫌いは自由だが、そこから感じ取れるもの
他人が感じるこの肌感覚は、国のトップとしてそれで良いのだろうか
との思いを強くする

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ブルックナー交響曲8番、ウィーンフィル、ティーレマン

2019年11月08日 08時26分37秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

昨日の幸せだった時間(ウィーンフィルのコンサート)のこと

ブルックナー交響曲8番、ウィーンフィル、ティーレマン
この順番は適当にあげたものではなく、チケット購入に背中を押した力の順

ブルックナーの8番の交響曲は大好きな曲で、これがあるところならどこにでも
誰のでも出かけていきたい気持ちを持っている

ウィーンフィルはその音色を確認したかったため
昔聴いたヴァントと北ドイツ放送交響楽団のブルックナー8番の音色が
ふわっとして柔らかくブレンドされてとても気持ちよかったので、
その記憶の中にある音色と比較したかったため

ティーレマンは巷で評判の指揮者なのだが、彼の録音したものは持っていないので
お試しに聴いてみようとした好奇心から

大好きな曲だけに、新鮮に感じるために断酒ならぬ断聴してこの日を迎えた
ただ聴くだけでも大いに楽しむために精神的なコンディションづくりにも気を使った
座席に座って心の準備が充分でないままに始まってしまうのはもったいない
でもワクワクしながら待っていた自分の前を、時間ギリギリに来て終わったらさっさと帰った人がいた
自分はなんともったいない時間の過ごし方、、と思ってしまった

聴くという行為は、精神を集中して一音も聴き逃さず、音の表現するものを体験・考えると満足感を得やすい
今回もその態度で臨もうとしたが、果たして精神を集中して聴いていたのか
それとも川のせせらぎ、鳥の声、風の音を聞いてるときのような自然に身を任せているように聴いていたのか
ちょっとわからない
これブルックナーの音楽がそのようにさせるようで、ベートーヴェンの音楽を聴いているときとは明らかに違う

始まりと最後に腕時計を見ると、演奏時間は約1時間半だった
集中していたせいか、あるいは身を任せていたせいか、この時間は少しも長く感じなかった
むしろ短いような気さえした

聴き終わると印象は全体的なものと、その時その時の部分的な記憶に分かれる
部分部分は演奏のことであったり、曲自体のことであったり、連想の赴くままだ

ウィーンフィルの音は輝きに満ちた音だ
これは、確かに何かが違う
そしてそこで思ったことは、ブルックナーのはこの音を普段聞いて出来上がりをイメージして
作曲したのだろうということ
彼の理想の音はこのようなものだったのかもしれないということ
(ただ別の音色による表現も捨てがたい)
この音色からブルックナーが生活し、彼が普段目にしたウィーンの風景を感じられるような気がした
それと同時にこの輝かしい音は、神を讃えるために作曲したものだとの思いを強くした

結局のところ、ブルックナーは全肯定的な音楽を作りたかった
そのように思えてならない
この云いたいことがいっぱい詰まった音楽は、それ故に万人に理解されないかもしれない
でも、それでもこのように作らざるを得ない彼の表現意欲、そしてその形式は
少しばかり時代を超えているように思える

聴き終わた全体的な印象は、どうしても比較の上でのこととなる
今まで実演で聴いたこの曲は、メータとイスラエル・フィル、ヴァントと北ドイツ放送交響楽団、
朝比奈隆と大阪フィルだが、多分みんな今のティーレマンより歳が上だ
昨晩のティーレマンの音楽は、昔風でなく今風の音楽というよりは若い人が現在感じ取っている音楽
というような気がした(しかしティーレマンは現在60歳と知って驚いたが)

部分部分は差がなくても、聴き終わったあとで何年も残っているのは
年齢がいってるヴァントと朝比奈さん
それを思うと、ティーレマンがもう少し年令を重ねたら、どんな音楽に変わるかも
確認してみたいような気がする

音楽は音がなり始めるところからではない
ティーレマンが指揮台に立って音楽が始まるまでには計測不可能のような静寂があった
いつ始まるのかと緊張と不安が会場に漂う
息を潜め、みんなの耳が始まりを期待しピンと空気が張り詰めたその中から音楽が始まる
この効果はとても素晴らしい

これは音楽の最後でも同じことで
音が消えたらおしまいではなく
音楽は余韻という心の中でなっている音楽が終わったときが終わりなのだ

残念なことに懸念されたフライングブラボー(拍手)が二三人あったが
これをした人は冷や汗をかいたに違いない(非難の視線、空気を感じて)

コンサートが終わって半日になる
これからは記憶が整理されて、今感じていることと違うことが後々まで
残ることになるだろう

ところで、13日にはベルリン・フィルで同じ曲のコンサートがある
これを聴いたあとは自分はどんな記憶が刻まれるのだろう
これも楽しみ(聴くためのコンディションづくりは次回も頑張るぞ)



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何時に出発するのが適切か?

2019年11月07日 08時53分39秒 | 徒然なるままに

朝の情報番組で興味深いネタを放送していた(昨日)
小学生の算数の問題で
「Aさんの家から学校まで30分かかります
 学校に8時につくには家を何時に出れば良いのでしょう?」

解答欄には答えとその理由も書かれていた
Aさんが書いたのは
「7時25分、ギリギリで慌てると危ないから」

採点する先生は困っただろうが、一応算数の答えとしては☓をつけた
Aさんが求めてほしい答えがわかっている上で、このような答えを書いたと考えた先生は
生徒との間の人間関係はできているので、説明をして納得させたそうだ
Aさんの家族も解答用紙の☓を受け入れたそうだ

現在の日本社会で要求されることはAさんの答えなので
少し分別くさい大人は、この判定に一言言いたくなる気持ちもわかる

慌てるといけないので早めに着きたい
これは自分の今日の予定にすっかり当てはまる
今日はティーレマン指揮のウィーンフィルでブルックナーの8番の演奏会が
名古屋の芸術劇場コンサートホールである
18時開場 18時45分開演の予定だが
田舎から電車をつかって出かけるので、いつ出発したら良いかが問題となる

ギリギリで行くと、電車が人身事故等でストップして間に合わなくなってしまわないか?
早く着きすぎてもやることは無くて時間つぶしに困ることにならないか?
仮に早く着いて晩ごはんを食べるとすると、肝心な音楽の最中に睡魔が襲って来ないか?
といったことを考えてしまう

さてどうするか?

一番の優先事項は、
間に合うこと
良い(精神的)コンディションで聴けること
これを確保するために、果たして何時出発が良いか、、

現時点では心配性な自分は、だいぶ前に名古屋に着くのを選んでしまいそう






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週刊誌(文春砲)に取り上げてほしい!と思ったことがある

2019年11月05日 18時47分10秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

新城市の話題

「文春砲とか週刊新潮のスッパ抜き記事が新城市でもあったならなぁ!」
と思うことが度々あった

住民投票の奇妙な選択肢は勿論のこと、南部の工業団地に産廃業者が進出するキッカケとなった買戻特約の不思議な破棄
突如湧いて出たような産婦人科医院の開設話と直後に行われた県会議員選挙でのある出来事
市議会議員になった途端に市からの受注が急に増えた水道工事店の話
支払った実績がないにもかかわらず受け取った領収書による(市議会議員主導の)活動交付金の不正取得
そして裁判沙汰にまでなってしまった庁舎建設用地外の移転補償費の支払い
これらは行政の問題はないとする解釈もあれば、それに不満を持つ人たちの想像力たくましい解釈もある
特に後者の場合は、そのように解釈するとすべての辻褄が合ってくるので妄想とは言い切れない部分があり
そのところを週刊誌の記者に突いてほしいと思うわけだ

以下は裁判沙汰になった庁舎用地外の移転保障費に少し絡む不思議な出来事

平成24年に道路幅が8.02メートルの道路(市道東入船3号線 仮称)が突然市議会に議案提出された。
この議案は市議会によって討論がなされた結果、廃案となった。
ところが平成26年の9月24日、市役所用地として収容された土地が(知らないうちに)分筆されて
(少し疑ってかかると)廃案となった市道東入船3号線が復活したような形になっていた
話はそこで終わらず、なんとこの分筆の手続きが終わったわずか二日後にある人物が公拡法による「土地買取り希望申請」を行っている
この結果、その人物は庁舎建設用地内にあった物件を、土地収用法と公拡法による2つの理由で土地を市に買ってもらうことになった

些細なことだが、これで何が起きたかといえば、この人物の税金支払い義務がなくなった。

租税特別措置法には資産を収用交換等により譲渡した場合は5千万円の特別控除の譲渡所得の計算をすることができる決まりがある
今回の物件は都合よくこの2つの理由による譲渡所得となって、それらがいずれも5000万年円以下となったために税金を収めなくて済むことになったのだ。
そこでこれらの行為(分筆等)は、ある人物の節税のためにしているのではないか?
と、たくましく想像することができるが、この件は山田議員が6月の市議会の一般質問で扱っている

そもそも急に8.02メートルもの道路が議会に上程されたのは何故か?
廃案になったにもかかわらず分筆等の処理で(結果として)復活したように思えてしまうが、それらはどの様な理由によるものか?

行政は
「敷地用地の残りに部分を将来のそこに道路を入れたいという市の考え方はございますので、
 その部分については、道路敷地、または将来の庁舎敷地ということで先行取得をさせていただいたものでございます」
と答えている


この答弁は今の時点で考えると(現在のところ庁舎の駐車所として使えない南側の土地のことを思うと)そんなものか!と思わないでもない
ところがこの分筆をされたのは現在の話ではなく、まだ住民投票も行われていず、その土地は駐車場として計画されていたときに行われたのだ
その当時は住民投票の話は起き上がっていない
だからその土地は計画通り駐車場になっている可能性が高かった
ところが市の説明によるとその時点で
将来に道路敷地にするために分筆して、わざわざ公拡法を用いて取得することにしたと答えている
(果たして本当にわざわざ駐車場を削ってまで道路とするのか?)
これは言葉の上では可能性はあるかもしれないが、現実的にはかなり無理筋と思えてならない
そこで思うことは、週刊誌ならこの問題をどの様な取り上げ方をするだろう?という点だ

残念ながら、このような無理筋にもかかわらず進められていく事柄は少なくない
(最近新城市では浅谷の養鶏場の買上げでも奇妙な進め方だった)

世の中は知らないところで知らないまま、少しばかり不公平に物事が進められていく(税金を使って)
これはここ数年で身にしみた実感
それで多くの人に問題意識を持ってもらおうとすると、その難しいことは、この上ない

それにしても、冒頭の週刊誌が扱ってくれないかな、、
と思うような問題が我市に多すぎるのは少しばかり悲しい
やっぱり新城市はピンチかな?
と思ってしまう

 

 

 

 

 

 

 



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