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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

昔のこと

2016年09月14日 09時06分11秒 | あれこれ考えること

昔、(そしてたぶん今も)ノンポリだった
学生時代、ベトナム戦争反対とか学費値上げ反対とかを
大きな看板に特徴のある文字を書き連ね、時にはヘルメット被って
棒を持って、拡声器で校内をアジっていた連中がいた

自分は「ノルウェーの森」の登場人物のように、その時代の雰囲気には
影響されながら、具体的には何もしない傍観者だった
でも強引に休講になった教室で行われた討論会(?)では
主催者が進める理屈に疑問というか質問をしたことがあった

それはノンポリの何も知らない、怖いもの知らず話で
「米帝国主義」とかそれに伴う日本の海外進出の姿勢を
批判していることに対して 、少なくとも貿易に関しては日本は
資源がない国で貿易で儲けようとすることは必然ではないか、、、
みたいなことを聞いた(本当に幼稚な質問?)
その答えが、どんなであったか今は覚えていない
ただ、その質問をしたことで馬鹿にされるとか
一方的に非難されることはなかった 
むしろ相手にされなかった、、、という方が正確かも知れない

学費値上げについても、上がるのは嬉しくないが
あの時の国立の授業料を考えると、国民の税金を使って
そのままあの安い値段でつづけることが本当に良いことか疑問だった
自分は懸命に勉強していなかったし、モラトリアムみたいなもので
ダラダラと時間を費やしていただけだった
(でも、今で言う自分探しは必死になってやっていたかもしれない)

そこで、とりあえずいろんな経験をした今、少しばかり恥じることがある
あの時、彼らが言いたかったことを、自分は理解力がなかったために勘違いしていたということ
それは「帝国主義」という言葉
これを自分が植民地主義みたいな、スター・ウォーズの帝国みたいなものを勝手に想像していた
しかし、ある時レーニンの「帝国主義論」を読んでそれが全くの勘違いだった事がわかった

帝国主義とは、そんなドラマとなるような話ではなく、
資金の融通や両替など「ひかえめな仲介者」であった銀行は、銀行自体も独占体となり、
資金融通などや簿記を通じて産業を支配するようになる、、、
つまりは資本主義の行き着く先の混乱を説いているようなものだった 

実はこの「帝国主義論」を読んだ時は、いつの時代の話だ?
と書かれた時代を確認したのだった(現代に書かれた本なのではないか、、と)
本当に、今でもそのまま通用するような話だ

だからといって、そのままノンポリを卒業するかというと、
それはなかなか簡単にそうはいかない
相変わらずの傍観者、ノンポリ

いや、少しは、変わったかな、、

 

 

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騒動になるかもしれない?

2016年09月13日 11時24分20秒 | 庁舎用地外移転補償騒動

新城市の新庁舎建設に絡んでいろんな問題が起きている(起きていた)
庁舎規模と費用の問題
これは昨年の住民投票で一応「身の丈にあったものを」
という市民の意見が支持され規模縮小が反映されることになった
(純粋に市民の声が反映されたかどうかは、あのややこしい選択肢のおかげで
 いつまで経っても曖昧のままだが)

この問題の他に、今の東京都の魚市場の豊洲移転とよく似た
知らないところでよくわからないまま進んでいった事柄がある
それは、新庁舎建設に伴う居住者の移転補償費に関する事柄

これは、建設予定地ではない道を挟んだ家屋についても
移転補償費を支払う事になった物件があるというもの
その人の家は確かに旧体育館の南側の建設予定地内にあった
これは問題がない
しかしこの人の所有するもう一件の家 
借家で道を挟んでおり住んでいる人はいない(証拠あり)物件についても
市は補償費を支払う事になった
建設用地とは関係ないのに何故?

ここの問題について、仕事柄この手の法律に詳しい加藤市議が
今年3月の定例会の一般質問で 取り上げている

議事録はこちら⇒議事録

市の回答は、該当する物件は建設用地内の物件と一体化して考えることができるといいもの
そして、その根拠はコンサルタント会社に依頼して判断を仰いだという
ならば、そのコンサルタント会社の提出した書類を見せて欲しいと請求した
そこで出てきたものは、、、しかもすぐに出てこなかったものは
最近はやりの「のり弁」 つまり真っ黒な肝心なところが塗り潰されているもの

結局、判断の根拠はわからず

実はこの物件に関しては、これだけで済まない様々な問題が起きている
それについても加藤市議が2012年の12月の一般質問
2015年9月の一般質問でを行っている

2012年の一般質問は、急に出てきた道路拡張の話(仮称3号線)について
そもそも庁舎予定地の南側と地区はお年寄りが住んでおり
これ以上生活の変化に負担をかけない(そのまま住んで頂ける)ことになっていた
しかし降って湧いたような、その人達の家屋に影響する様な
(家屋をどうかしないと実現できない様な)道路拡張の話と
誰かに圧倒的に有利になると思われる租税の特別措置法に関すること
だが、仮称3号線は無理筋で結局廃案となった
しかし、何故、この突然、仮称3号線が議案にあげられたのか?
加藤市議の一般質問は⇒議事録 

もう一つは、やはりこの問題となる物件近くの話で
あまりにも手際の良すぎる道路拡張の話
一般の経験からすると陳情してもなかなか市は動かないのが現実
ところがこの件についてはやたらと進展が速い(不自然なほどに)
加藤市議の一般質問⇒議事録

週刊誌ネタではないが、ある視点からこれらを眺めると実はすべてが
つじつまが合ってくる
これはもしかしたら、もしかする

ただ一方的な偏った(すでに偏っている?)見方だけでは良くないので
客観的な資料として、公にされている議事録もアップしてみた
先のことはわからないが、一週間以内に動きがあるかも 



 

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ラインの黄金 (9月11日 愛知芸術劇場 コンサートホール)

2016年09月12日 07時39分57秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

最初は睡魔との戦いになるのかもしれない
と不安だったコンサート形式による「ラインの黄金」
しかし、そんなことはなかった
それどころか、終わったあとは人に何か伝えたくて
無闇矢鱈とツイッターに投稿したり、アンケートにいろいろ書き込んだり、、、
つまり、感動したということ

チケット代は3000円 
会場につくと厚めの解説パンフレットもついた

完全に元手は取った

そのコンサート(上演)が成功したかどうかは、もう一度行きたい(聴きたい)と
思わせるかどうかが判断の基準であるとしたら、今回は大成功
来年予定される「ワルキューレ」は絶対行こうと終わった瞬間に決めた

コンサート形式というものの、歌手は立ちっぱなしということはなく
証明も照度、色合いを変える演出がなされた
もちろん字幕も左右に準備された

雰囲気という面では、つかみは良かった
演奏が始まる前に舞台左手の上方で管楽器によるファンファーレが奏された
それはバイロイト祝祭劇場で幕間に奏されるモノを連想させて
一気に期待感がふくらんだ
(少し残念なのは音色、バランス、音程に不安を感じさせたこと) 

この楽団はアマチュアの人の集まりらしい
だからなめらかな肌合いの音、つややかな響き、安心できる流れはなかった
しかし、それで不満だったかといえば、全然そんなことはなくて
むしろ何かしらないが、熱い勢いみたいな感じられて、特に後半になるにつれて
音楽とドラマが一体化したような瞬間が何度となく感じられた

だから演奏の善し悪しと言うよりは劇の進行、内容に関心が行ったし
勝手な連想はヴァーグナーの考えたことに考えが及んだ

「ラインの黄金」は、よくよく考えると奇妙な作品だ
恋愛の話でもないから感情の昂ぶりみたいなものはないし
あるのは「嘘」とか「企み」とか「言い争い」とか
およそ美味しい話とはいえない
しかし、この物語の中で奏されるライトモチーフの雄弁なこと
字幕は確かに両サイドにある
物語を知るには字幕に頼るしかない
しかしその字幕は演じられるところから視線の動きを大きくしないと見られないので
どうも集中できない
だからパッと読んで視線は舞台にとなるのだが
この時威力を示すのがライトモチーフ 
気持ちとか雰囲気とか運命とか、その他諸々の表情を雄弁に語る
その面白いこと、、、

ヴァーグナーはこれ(ラインの黄金)を序夜として、あと3日続く
とんでもない物語のテキストを書き、作曲をした
彼は天才というより、化物という方がふさわしい

プロの視点から見ると、彼のテキストは欠点が多いらしい
でも自分はプロじゃないからそこまではわからない
確かに大げさだったり、もったいづけてるところも感じるけど
音楽の進行に必要ならそれもあり!と気楽に考えるくらい

指輪と言われるこのシリーズ
指輪といえば映画「ロード・オブ・ザ・リング」を思い出すが
アルベリヒがミーメをいじめて隠れ蓑などをつくらせるところの音楽は
映画の気味悪い連中が武器をつくっているシーンを彷彿とさせた

「ロード・オブ・ザ・リング」の作者トールキンは
ヴァーグナーの指輪に影響を受けたのだろうか

そんなこんなで、まだまだ思いつくことはいろいろある
歌手の方々がみんな日本人であったことは少し驚き
オドロオドロしい日本的な物語ではないが、何の違和感もなく世界に入っていけた
(むかし東京で見たパルジファルは、日本人が出た時は違和感を感じたが)

そうそう、一番残念だったのはクーラーが効き過ぎ
これは正直つらかった
吹き出し口の真下だったのか知らないが、ホント寒かった
この出来事は上演の記憶と一緒に残るエピソードで時間が経つと
良い思い出になるかもしれない(から、いいかとするか!) 

そうだ、会場では江川紹子さんを見かけた
最初、知ってる人がいる 誰だったっけ いちおう挨拶しとかねば
と思ったが、江川紹子さんと気づいて挨拶はやめた
こっちは知ってるけど、あちらはこんなおっさんは知らない
彼女は今年のバイロイトにも行ってるしワグネリアンということがよく分かった

ということで、おおいに満足のコンサートだった
来年はワルキューレ
その前に10月に東京でワルキューレ 楽しみ
 

 

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民主主義とブルックナー(何の関連もないけれど)

2016年09月11日 09時03分55秒 | 徒然なるままに

昨晩、例のごとく思いつきのようなことをダラダラと書いたが
今朝の中日新聞のブックレビューにこんな記事があった

「デモクラシーは仁義である」 岡田憲治著 の紹介だ

興味はそそられるが、買わないかもしれないこの本
だたここに書かれていることが気に入った

人間が不完全な存在である以上、政治に最良を望むのは不可能である。
だが、民主主義は意見の表明や知る権利といった、我々が享受している
ごく普通の生活を社会として破壊させない工夫であり、それは
「最悪を避ける選択」なのだ。

なるほど、そうかもしれない
最悪を避ける選択は、多数の人が普通に判断することに依存する
と考えると、住民投票や国民投票の存在意義はそこにあるのかもしれない

ところで、話は変わって
昨日NHKのTV番組「らららクラシック」でブルックナーを扱っていた
ブルックナーはアンケートによると嫌いな作曲家の堂々一番を何年も突っ走っているそうだ
好き嫌いは人それぞれというものの、大好きな自分としては少しばかり何かを言いたくなってくる
あそこがいいだとか、ここがいいだとか、、、

しかし、その良いと思うところは、何故かインタビューで答えられていた多くのひとの意見
(建築物のような音楽)とは少し違うような気がする
そんな理由や印象で好きなのじゃない、、
もっと根源的な、あまり人間を感じさせない鳴らしっぱなしの音、響きに対する共感があるような気がする
人は知らず知らず、自分の頭でストーリーや感情の動きを思い浮かべ、それにそって音楽を聴くと言うか
音楽を解釈しようとする
しかしブルックナーの音楽は、そんなことよりただ響きの中に身を委ねるだけでいいのではないか
その際中に眠くなったとしても、それも音楽のなせる技だ

ショパンやシューベルトの好きな人も、ブルックナーのピアノ曲
「思い出」とか「秋の夕べの静かな思い」などを聞けば彼はロマンチックな曲が
書けることに驚くに違いない
そこで聞かれるのは音楽的才能にあふれた人が作った音楽だ
でも、この音楽はブルックナーが求めた、追求した、表現したかった音楽ではない
ドビッシーが聞きやすいアラベスクの世界から独自の前奏曲の世界に移ったように
ブルックナーも人には理解されにくいブルックナーになった

ブルックナーはあまりあれこれ考えずに響きにただ身を委ねる
それだけでいいのではないか
(メシアンの「鳥のカタログ」も鳥の会話を楽しむ感じで聞くとそれなりに心地よい)

ところでテレビで流れた4番のロマンティックは最近あまり聞いていなかったが
聞きやすそうな、いい曲じゃん!と再確認した 

 

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覚悟と人に対する信頼感

2016年09月10日 21時04分50秒 | あれこれ考えること

フト考えた
大衆は(市民は)難しい問題に対して住民投票とか国民投票で正しい判断を下せるか?
という問題について
(情報の収集がどうだとか、情報の質がどうだとかはいったん脇において)

正しい、正しくないは結局後の時代の裁定を待つしかない
その不確かな判断を住民投票とか国民投票を用いて行うのは
正しい正しくないというよりは、住民の覚悟の現れではないのか
何れの結果になろうとも、覚悟を決めて、その結果に従うという

人間の行うことはそもそも何もかもが不完全
その場その場で試行錯誤を繰り返すしかない
今はこの判断で!という覚悟を示すこと
もちろんできれば将来予想される裁定に近い方である方に越したことはないが

なんてことを思っていたら、昔読んだ本を思い出した
「理性の限界」「知性の限界」「感性の限界」いずれも講談社現代新書
高橋昌一郎氏著作の対話形式の楽しい、読むとなんだか賢くなった気にさせる本だ
完全なようでも人間は不完全な判断しか出来ないみたいなことを
理性・知性を使って証明しようとしている(それが西洋の知恵の体系)

知性主義の判断だけを良しとせずに、知識人の目からすれば
とてつもなく低次元の判断と思われることでも、人は大きな間違いをしないのではないか
とう楽観的な視点からみてそれを受け入れること
人に対する信頼感

自分にそれがあるかといえば、あるような、無いような、、、さて 

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一気に聴いてしまったデモクラTV

2016年09月10日 10時27分32秒 | あれこれ考えること

8月の大阪行きの時に、是非来るように、来られない場合は見るように
と 勧められたのが
2016年8月27日東京大学本郷キャンパス法4号館8階大会議室で行われた、報道関係者向けのシンポジウム

見るようにとされたのはデモクラTV

https://dmcr.tv/mypage/dmcr_spc.php?prog=sp_imai20160827 

すっかり忘れていたが幸い思い出した

参加者は
伊藤 真(弁護士・伊藤塾塾長)
 「改憲案を『誠実』に具現化している自民党。鈍感なメディアと国民」
今井 一(ジャーナリスト)
 「英国のEU国民投票などから学び倣うべきこと」
井上達夫(東京大学教授・法哲学)
 「憲法と安全保障の法哲学」
伊勢崎賢治(東京外語大学教授・トランペッター)
 「集団的安全保障・集団的自衛権と自衛隊の現実」
楊井人文(弁護士・一般社団法人 日本報道検証機構代表理事)
 「憲法論議とメディア」 

今井さんは、このシンポジウムの存在を教えていただいた本人で
新城の住民投票以来のお付き合い
でもあとの方は、残念ながら知らない人たちだ
僅かに伊藤真さんは昨年の安保法制法案の時に 
Youtubeで立憲主義とは、
とのスッキリした話をした人との印象がある程度

前半一部、約一時間半、各人の15分程度の得意とする分野の視点からのお話
これがなかなか面白い
一気に見てしまった
何が面白かったか?(面白いという表現は適切で無いかもしれない、興味深いの方が良いかも)
まずは知らないことを、分かりやすく説いてくれた
ものごとを判断する上での、そもそもの点からの話が多く
頭のなかが整理された(その割にはいざ人に説明しようとしても出来ないかも)

理解するには、時間の経過という過程を終えなければならないだろう
しかし、この動画を見たことは無駄ではなかった

興味のある方は、是非トライを

あとは後半の2部を頑張って見るか!
 

コメント (1)
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ワグネリアンではないけれど

2016年09月08日 20時13分47秒 | 徒然なるままに

9月11日には名古屋芸術劇場で演奏会形式の「ラインの黄金」
10月には国立歌劇場で飯守泰次郎の「ワルキューレ」を体験する予定だ

「ワルキューレ」の方は昨年の聴きに行ったラインの黄金に続くシリーズで
来年は「ジークフリート」、再来年は「神々の黄昏」で
ここまで来たら、全部見ることにするつもり
はじめは指輪はそれほど興味がなかったが
なるほどいろんな解釈ができそうな話はそれなりに面白い
(ローゲの存在がなかなか気になる) 

愛知県の田舎ではなかなか実演を見る機会はないので
Youtubeでさわりを見るが、画面を見続けるのはさすがに厳しい
やっぱりナマに越したことはない

ヴァーグナーはバイロイトで「トリスタンとイゾルデ」と「パルジファル」
名古屋で「タンホイザー」を2回ほど
名古屋とNHKホールで「トリスタンとイゾルデ」
上野の文化会館で「パルジファル」
昨年はウィーンシュタッツオパーで「パルジファル」をみた(聴いた)
(バイロイトもお金さえあればチケットは確保できるみたいな様子) 

後期ロマン派はブラームス対ヴァーグナーの戦いがあったが
自分はどちらかと言えばヴァーグナー派
何かよくわからないが響きとか大げさなお題目に今は心惹かれる
それはもしかしたら大好きなブルックナーの親分みたいなところがあるせいかもしれない

ところでこの指輪のライトモチーフ、ジークフリートのそれはかっこいい
英雄の姿と悲劇的な行く末を暗示させるような音楽だ 

とりあえず11日のラインの黄金楽しみだな
演奏会形式というが歌詞はどこかに出るのだろうか?



 

 

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知識人の責任

2016年09月05日 19時27分04秒 | あれこれ考えること


「近代の超克」その対談の部分だけ取り急ぎ読んだ

真珠湾攻撃が行われた後に行われている空気感がない 
張り詰めた緊張感とか切実感とか、対談ではそんなに感じられない
ただ賢い人たちの対談だけに言葉の正確な定義とか捉え方とかは
洞察力に満ちている

しかし、今それを話し合うべきか、、、、
少し違和感を感じてしまう
本は対談の他に論文があるが、そちらの方には時代の空気が感じられるのか
それとも、、、

少し前は「戦争と新聞」とか「太平洋戦争と新聞」の本を読んで
メディアの責任を考えたが、今回は知識人の責任を考えてしまった
彼らは何もできなかった、、、?
それとも、そもそもから考えることは無駄ではないのか?

※近代の超克とは 本の裏表紙にこんな解説文がある
「真珠湾」の翌年、小林秀雄ら「文学会」同人が、開戦に「知的戦慄」を覚え、
音楽・歴史・科学・哲学などの知識人に呼びかけて、座談会「近代の超克」を行った 

今、日本人の知識人とは誰か
その知識人は何ができるのか、、、何をすべきなのか、、 

 

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笛の盆「野田城伝」

2016年09月04日 07時57分08秒 | 徒然なるままに

自分たちの季節だと鳴き続ける虫
時々、遠くで聞こえる規則正しい飯田線の通過する音 
木立は闇に包まれて舞台だけが明るく幻想的な面持ち

昨日行われた新城笛の盆 三つの笛物語の二番目「野田城址」編
昨年は雨に祟られたが、今年は蚊には攻撃されるが
天候の心配はせずに済んで関係者の方々はホッとしたところだろう

この野田城址で行われるイベントは、昔の新城の中心地であった野田城を
武田信玄が攻めた時、ある夜、城から流れてくる笛の音に聞き惚れていたところを
銃撃されたという言い伝えから、地域おこしの一環としてそれにちなんだ
イベントとして5年前から続けている
(この武田信玄が銃で打たれるエピソードは映画影武者でも使われており
  また信玄を射ったとされる信玄砲は新城設楽原歴史資料館に展示されいる) 

涼しい半ズボンで出かけたいところだが、蚊を心配してとりあえずズボンにした
しかし、上が半袖だったので、やられそうになったが、防虫スプレーを用意してくれた
気遣いのデキる人のおかげで難を逃れた

このイベントは第一部、第二部と分かれているが自分が見ることが出来たのは第二部の方だけ
このプログラムが盛りだくさん

最初に、鉄砲隊模擬演武(長篠・設楽原鉄砲隊)
さすがに観客を目の前に火縄銃を撃つことはできず、打ち方の形をデモンストレーションするだけだったが
写真のように真っ暗な中で影絵のように動くさまは、それはそれでなかなか面白かった 

次はめったに聴くことのない雅楽の生演奏

雅楽はお祭りの時に録音された物を聞くだけだが、お公家さんたちが楽しんだ(?)らしい
音楽は、おなじ笛を使った能の音楽とはだいぶニュアンスが違う
なにか音を鳴らしっぱなし、、みたいな音に対する愛着があるような、、、

三番目は居合演武(水鴎流)

居合は目の前の敵をイメージして行うものらしいが、素人にはいまいちわかりにくい
それでよりわかりやすいように、2人で対戦するような形のものを見せてもらえた
居合というのは基本的には、ぎりぎりまで抜かずに待つもの、
抜かずに済めばそれに越したことはない というものなのかもしれない
と思ったりする
しかし、日本刀で戦うということは相手を斬ることのできる間合いに入らなければならない
自分が斬られるかもしれないので随分怖いものだろうな
と思うのは臆病な小心者のせいか
気合とかオーラとか、そういうものはなんとなく感じられて戦う威圧感というものは
当事者間には直感的に感じられるものだろうな
ところで居合演武を披露していただいた水鴎流というのは子連れ狼の拝一刀の流派だそうで
萬屋錦之介が演じる前に挨拶に来られたとか 

次は語りと篠笛

語り内容は、野田城攻めの信玄が撃たれるところ
語りと笛だけで情景を描写する、時には歌うように時には小さな声で
目の前には何もないので自ずと自分の頭のなかでイメージするしかない
面倒だがこれはそれなりに面白い
自分は説明過多の今の映画よりは、勝手に想像できるこのタイプのほうが好きかな
(お能もそういう意味で好きだし、ヴァーグナーの指輪もヴィーラントの抽象的な演出のほうが好きそうだし) 

最後のオオトリは篠笛の演奏が数曲
しかし聞き慣れていないせいか数曲あっても皆同じように聞こえてしまう
曲が覚えられない 
メロディーを記憶しようとしても美味しいそれではないので
それに普段耳にする音楽とは違った理屈でつくられているので記憶にとどまらない
多くの聞き手がそうだろうと想像した篠笛奏者の松田氏は、
もう少しわかりやすい曲(さくらさくら、笛吹童子)も間に入れた
なるほど今度は聴きやすい、しかし、何か自由度がないような気もする

聞きやすい音楽は西洋音楽の理屈でつくられている
何分の何拍子、といった規則正しいリズムをベースに旋律線が作られる
その安定感は心に落ち着きをもたらすが一方、そこで縛られているような
普通の篠笛の音楽も基本的にはあるテーマの変奏なのかもしれない
西洋の音楽の変奏は低音部の動きを基本に様々なアイデアをこらした
それでいて秩序だった曲の構成になっている(この方法ばかりではないが)
一方、曲が覚えられない普通の篠笛の音楽は、変奏はパターン化していても
奏者の即興の要素が高いのかもしれない
(篠笛を聞いていたとき、家に帰ったらバッハの無伴奏フルートソナタを聴こうと思ったりした
  でもまだ聴いていない、、、)

ということで、晩の6時半から9時近くまでの幽玄な催し物
想像力を駆使しなければならないし
聴き慣れない音楽に集中しなければならないし、、、というところだが
でも、やっぱりナマはいい 時間の経過を忘れる
虫が鳴く中で、自然のなかで、なにか大きなものに包まれている感覚
一度体験しても損はない(と思うのだが)

笛の盆シリーズ 第三回目は10月8日 会場は長篠城址
「月見の宴」のタイトルで行われる


 

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融通が効かない

2016年09月02日 09時32分41秒 | 徒然なるままに

洗濯機が動かなくなった
購入後約10年 それそれヤバいかもね
と話していた矢先だった

一応いろいろトライしてみたが、事態は変わらず
結局、新しい物を求めることになった

洗濯機は毎日使うもの、すぐに欲しかったが店に在庫がなく
届いたのは3日後
最近の洗濯機はいろんな機能が付いているが、いちいち設定や
操作が面倒なので(同居人が)前のものと同じようなシンプルな
扱いのものにした

さて昨日、洗濯機が届いて設置して、お風呂の残り湯を使うホースを
繋げようとしたら、、、
あらら、洗濯機にうまく入らない
よく見ると気持ち口径やらホースの口の肉厚が違う

普通はこんなものはどのメーカーでも使えるように
標準化・規格化されているものだと思ったが
洗濯機を届けてくれた人の言うにはメーカーによって違うとのこと

そんなところに独自色なんて要らない
余分な事はしないで一緒にしておいて欲しい
それなりの理由はあるにしてもとても不便だ

結局、水道屋さん、電気店を動きまわって最終的には
お風呂のメーカーに問い合わせて(TOTO)継ぎ手を
購入しなければならないということになった

その部品の購入は、まずはフリーダイヤルで問い合わせ
すると最近のパターンの音声案内であれこれ番号を押すことに
さて繋がるかと思ったら、今度は回線が混んでます
しばらくお待ちいただくか、再度お掛けくださいのことば
ああ、めんどくさい

やっと繋がり問題の商品を注文したら、
お届けは1周間ほど後になります
そんな、洗濯機は毎日使うものすぐにでも欲しい

近くの店に取りに行きますが、、
店には在庫がない場合があります
その店でもこちらから取り寄せることになり
結局同じことになります

、、、、、、

なんだかな、いろいろ不便極まりない

標準化・規格化されていると思った接続がメーカーごとに違い
注文は音声案内で、繋がりにくいのを待って、、、
こんなのは、高齢化の進む日本で本当にサービスになっているのかだろうか
年寄りと住んでいる身には大いに疑問

便利というものが使い手ではなくメーカーの理屈になっていないか
郵便局の不在者郵便の電話も音声案内で面倒で あれは年寄りにはつらそう
途中で切ってしまう人がどのくらいなんだろう
いや、仕方なく覚えていく人が多くなっているのか
それにしても、いろいろ融通がきかない世の中だ



 

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