パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

トヨタカップ決勝、そしてブラジル人サッカー選手

2007年12月16日 22時27分15秒 | Weblog
ACミラン4-2ボカ・ジュニアーズ

冷めた見方をすれば年俸の差が出たような試合だった
確かに職人的に、また戦う男としてボカは頑張ったが
コンディションを整えて万全の体制で来られては
少し勝ち目がなかったようだ

それにしてもバロン・ドールは今年はカカ
その前は2年続けてロナウジーニョ
そのまた少し前にはロナウド
ブラジルの大きな輸出産業はサッカー選手というが
このミランの中にもカカ、カフー、エメルソン、ロナウド
ブラジル人は本当に何かが違う

間の取り方、外し方、決定力、発想の自由さ
日本の選手と同じゲームの中で比べると
我が国はいかに真面目にやっているだけか
と思えてならない

これがヨーロッパ人や韓国人のように根気よく
同じ事をくりかえし、しつこく真面目に攻撃できればいいのだが
飽きやすい、体力にないこの国の選手は
多く見られるのは気持ちが焦って、
素早いけれど丁寧ではないプレーをしてしまうことだ

一流のサッカー選手には勝負事なのだがどこか遊びの要素の
楽しさが感じられる
日本人はこの遊びの要素すらも学んでしまおう!
などと考えそうだが
本当は子供のうちに目一杯遊んだ方がいい様な気がするのだが、、、

このトヨタカップ、
浦和はよい結果を残したが、日本人選手だけとなると
ボールを前に運ぶ能力にまだまだ足りないものがありそうだ
今日もブラジル人のワシントン様様だった

クラブも代表も日本が強くなるには、まだまだ距離がありそうだ
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「看護婦さん」じゃ何故いけないのか?

2007年12月15日 20時48分17秒 | Weblog
あまりお世話になりたくはない病院
今年は何故だかやたらと連続して行く事になっている
年初めの階段から落下の、あばら骨の骨折から始まって
軽いとはいえ後ろからの車での追突
右足の捻挫、ついで左足の薬指にできた魚の目
運命的には大殺界みたいなものだが
そこで、かかりつけの医者で暇に任せての会話

「なんで看護婦さんじゃいけないのかな?
  看護婦さんと呼ばれるのはいやですか?」
そんなふうに年配の看護士さん(女性)に聞いてみた
「それより看護士さんと呼ばれる方が変な感じ
 全然いやじゃない、私たちは看護婦さんと呼ばれる人になりたかったから」

そう、なんでこんな風にむりやり男女同じ言い方しなくてはいけないのだろう
スチュワーデスさんもそう、
キャビンアテンダントだったかな、何のこっちゃ!
このやさしい響きで女性の憧れの職業名を
なんでこんな言い方をしなくちゃいけないのかな?

この国はどうも妙に実効性のない建前が大手を振っている
求人広告でも男女区別してはいけなかったり
年齢制限の項目を記載してはいけない事になっているが
実際に採用するのは男だけだったり(女だけだったり)
そんなに年齢のいってない人だけだったりするのに
表面的にだけはおとなしくしたがっている振りをする

10年後には有給休暇の消化率を100%にしようと
政府はぶち上げているらしいが
果たしてそれができるかは(いい事なのだが)
現在中小零細企業の置かれている立場、環境を
しっかりと把握してからでないと
またもや響きの良いだけのかけ声に終わってしまう

それにしても、男女平等にというのは
職業の呼び名を同じにするという事ではないと思うのだが、、、
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浦和、0―1でミランに惜敗?

2007年12月13日 22時37分42秒 | Weblog
トヨタ・クラブワールドカップ準決勝
ミラン1―0浦和

前半が0-0 そして最終的に1点差
となれば惜敗?と言っても良さそうだけれど
実際はまだまだ随分と差があるな、が実感
もっとボコボコにされるかと思ったが
そうならなかったのはミランも本調子でなかったせいもあるだろう

やっぱりブラジル人は違う
ワシントン、闘莉王、ネネ(今日はよかった)
本番に強いと言うか、戦う気持ちがあるというか
彼らと比べて日本人は姿が小さく見える

それでも阿部、長谷部は戦う気持ちが表れていて
心動かされた

それにしてもボールを前に運ぶという事の難しさ
ミランは縦パスも通るし、ドリブルでも運べるのに対し
一方、浦和は縦パスはぶれたり、インターセプトを狙われたり
ドリブルは仕掛けるというよりサイドに持っていかされたり
つまり効果的にボールを前に運べていない
こういったシーンを見ると中田英のボールを運ぶ能力は
たいしたものだったと思わざるをえない

永井、相馬のドリブルもこのレベルの経験者が応対すると通じていなかった

結局古くて新しい問題
個人の力のアップ(技術と気持ちの問題)しか打開策はないのだろうが
システム好きの日本人は別の解決方法を考えそうなのが不安だ

今日は接戦のように見えて、敵は遥か遠くにある様な
そんなゲームだったのではないだろうか
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坂道の登り方

2007年12月12日 22時34分08秒 | Weblog
先日、地元の千枚田で餅つき大会があった
会場の餅つきの場所までは駐車場から15分くらい
歩いたところにある

棚田の風景は、その中にいると全体像が解らず
カメラを持っていってもなかなかシャッターを押す機会がなかった
それでものんびりした風景の中なのでゆっくり歩いていったのだが
餅つき会場で出会った知り合いは、
坂道がきつく心臓が久々に踊っている、とうんざりした様子
そういえば一緒にいった仲間も結構しんどそうだった

しかし、自分はそんな事は全然なかった
それは自分の心肺機能が優れているからとか
いつも運動をしているから、などと言う理由ではない
おそらく坂の登り方を若干知っているからだろう
つまり、ゆっくりと同じペースで、足全体で焦らずに歩く方法だ

この方法を、いやという程身にしみて覚えたのが
急に山に登りたくなって
初めて穂高に登ったときの事
初心者の自分は横尾を越えて登りになってから
結構早いペースで前の人を追い抜いたり
目の前に見える小さな坂の頂上を目指し
早く歩いたり、ゆっくり歩いたりした
その結果が悲惨なものになったのは言うまでもない
先ほど抜いたゆっくり歩く年配の人にも
抜き返されて、もう抜き返す気力どころか
本当に死ぬかと思うくらい(大げさ?)しんどかった

その時初めて坂道の登り方
同じ早さでゆっくりと自分のペースで、ということを知った
その一週間後、今度は白馬に登ったときは
その学習が生きて、信じられないくらい余裕を持って
楽しんで登山ができた

もしかしたら、生き方というものもそうなのかもしれない
焦って走るより、着実にマイペースで
周りの風景を楽しみながら歩いた方がいいかもしれない

もっともこんな風に思えるのは、年齢を重ねたからであって
エネルギーに満ちている頃は
そんな事には気づきもしない

仕方ないかもしれない
時間をかけてしか手に入れる事のできない
経験、知識というものは確かにありそうだ

となると、年齢を重ねることは悪い事ばかりではなさそうだ(?)
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集中力と忍耐

2007年12月11日 21時09分03秒 | Weblog
「ペレを買った男」
アメリカで一時期サッカーブームを起こした人物のドキュメンタリーで
その成功と失敗をまとめたものらしいが
その宣伝放送で、あるアメリカ人が
「結局アメリカ人にサッカーが受け入れられなかったのは
 アメリカ人は集中力がないからだ。
 ビールを飲んだりポップコーンを食べてのんびりと観戦するのが
  アメリカ人にはあっている」
と、インタビューに答えているシーンがあった。

なるほどと納得する一面、
それは日本でも同じじゃないのかな!などと思い直した
それも最近とみにその傾向は強くなっているのではないだろうか?

まず書店に並ぶベストセラーは新書の短い類いのものだったり
マニュアル本だったり、ハウツウものだったり、タレント本だったりで
つまり集中して本と対決するなんて事は
さらさらない傾向の本だ

同様にテレビでも視聴率をとっているように思われるものは
バラエティー、クイズの類い
これもまた集中を要しない類いのものだ
(もっともテレビ自体そんなに真剣に見る媒体ではないかもしれないが)

そして残念な事に、生き方もこれに似たようになっているような
気がしてならない

肉体を維持するために生活の最低限の
経済的なベースが必要なのはわかる
しかし、今はそれだけが(経済的に上手くいく事だけが)
大手を振ってまかり通っている

「自分という存在は何のために存在しているのか」
とか、カミュの言うように
「この世は自殺しないでいる価値があるのか」
こうした考えてもどうにもならない問題を
それでも青春の一時期、その人なりに突き詰めて
「その人になる」なんて事は、最近の人たちにはなさそうだ

集中と忍耐
そんな面倒な事よりすぐに結果が欲しい
要領よく快適な生活が欲しい
それが今の世相だ

話は大きくずれるけれど、クラシックの音楽会
それを疎ましく思う人たちの理由の一つに
「シーンとして息詰る緊張感が
皆で乗って騒いで楽しめるロックとは違い、いやだ」
というのがあるが、
試しに息を凝らして集中して一音も逃さないつもりで
聞き取った時に感じる満足感は
ロックのときとは違った満足感であるのに
何故か始めっからそれをトライしようとしない
つまり集中ができなかったり面倒くさかったりする

長い小説は短くできないから長くなったのに
短く要約して、それどころか
その小説を解説した本を読んで
本体を読んだ気にさせる
この国のおせっかいな親切

実際は、時間と集中と忍耐以外に手はない
豊かな世界がある事も
多くの人に実感として感じてもらいたいものだ


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クラブワールドカップ 浦和、3―1で4強

2007年12月10日 23時03分25秒 | Weblog
浦和3-1セパハン

先日までの浦和の戦いぶりを見ていると、若干の心配があったが
今日のセパハンとの戦いは、あの気の抜けた一失点以外は
パーフェクトに近い戦いだったようだ

久しぶりに使われた選手は活躍する事が多いが
相馬もその一人だった
いつもは無理に仕掛けていって自滅したりリズムを壊したりするが
今日は身体のキレがあったせいか、よいプレーが見られた
そして長谷部、スケールは小さいけれど
運動量も多く、上手く前線にボールを運んで、散らして
よいプレーでした
阿部も最終ラインではない位置の方が伸び伸びとできるようだ
永井は、なかなか前を向けないいつもと違って
割合前を向いたプレーができていたようだ
今回の大会彼はツキがある

それにしてもワシントン
素晴らしい得点だった
右足のアウトでキーパーをかわし、その瞬間インサイドで
確実にゴールに流し込む
これは点取屋の本領発揮と言ったところだ
このシーンと比べると長谷部のチャンスのシュートは
インサイドで落ち着いて蹴るべきだったのでは

もっともこれは彼に限らず日本人の多くが
犯してしまいそうなシュートミスだが、、、

ここからは若干独断だが、この国では
結局、シュートセンスのある人に頼る事が多いが
だからと言って、本当の入る(入れる)シュートの
練習が少ないように思えてならない
コーナーを狙う、強いキックを試みる以外にも
キーパーのタイミングを外す、狙う方向を外すなど
現実的に役立つ事が
シュート技術として確立されていなくて
シュートは得点感覚に優れた人の(才能のある人の)専売特許で
技術として身につけるまでは練習していないのではないか
(ドリブルなどは練習するのに)

話は戻って、これで13日はミランとの戦い
よい経験になるだろう
そして多分強いチームと戦う時にいつも感じる
「基本の技術が大事」と「フィジカルの強さの差」を
改めて感じる事になりそうな気がするが
少なくともミランの連中をあわてさせるくらいにはなってほしいものだ


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フルトヴェングラーの名盤

2007年12月06日 21時14分01秒 | Weblog
冬の季語になりつつある(?)第9。
勿論ベートヴェンのそれだが、長い間この曲のベストディスクとして
君臨しているのがフルトヴェングラーが1951年に
バイロイト祝祭管&合唱団を指揮したもの

今日も昼のNHKFMで流れていた
久しぶりに耳にしたこの演奏、確かに普通の演奏とは違って
なにかとてつもなく大きなものが詰まっている
単なる音楽を越えた体験をする様な演奏だ
これは調子の良い時に聞いた経験がベースになっているが
第1楽章の途中から気分が乗ってきた様子が感じられ
ずっしりと格調高いものから、始まったらもう千変万化する
生命の様なものになり
第2楽章では楽器が出たり入ったりで立体的になり
第3楽章のトランペットのファンファーレの後の寂寥感は
他の演奏ではとても聞く事のできないものだし
最終楽章もあのどこまでも続くかと思われる合唱のフェルマータ
そしてその後のピアニシモから始まる音楽の圧倒的な効果
コーダは演奏自体が合っていようがいまいが関係なしのような
そしてそれが当たり前に許せる様な熱狂で終わる
といった本当に人間のたどり着く事のできる一つの頂点のような演奏だ

ところでフルトヴェングラーといえばこの曲が一番有名かもしれないが
案外見落とせない名盤が、マーラーの「さすらう若人の歌」
フィッシャー・ディスカウ  ニューフィルハーモニア管弦楽団のもの
レコードでは「冬の旅」の4面におまけのようについていた奴だ

ホントこれにはノックアウトされた
「冬の旅」そっちのけでこちらばかり聞いていた
深い呼吸からくりだされる、ゆったりとした伴奏は
心の状態を説明するというより、当事者の心境そのものを
現しているようで、この曲の20分間は別世界にいる様な感じがしたのだった

確かにフルトヴェングラーの演奏にはそんな瞬間が多々ある
1944年のあの「エロイカ」も、ある夏の朝不意にベットで
ヘッドフォンで聞き始めたら、いきなりの気合い満点の和音の開始で
「こんな調子で最後まで保つのか?」が気になったが、
とうとう一気に聞き通してしまった

ベートーヴェンの7番も3.4楽章の熱狂は「凄い!」といつも聞き終わった後
知らず知らずに口に出た

ブラームスの4番も第1楽章の終わり近く
急にテンポアップしてオーケストラがついていけるのかしらん
と思わせるところなどは、はらはらして
実演であったならさぞかし迫力があったろう

こうしてみるとまだまだ後から後から出てくる
シューマンもシューベルトもブルックナーもワーグナーも
そしてバッハも!

フルトヴェングラーの名盤
それは気分次第で
いろいろ変るから結局一つにしぼる事はできない
(しぼる必要もないが)

ただ、部分的に今も記憶に残る演奏は
エロイカ、1944 ウィーンフィル  1952 ウィーンフィル EMI
1952 ベルリンフィル
5番    1937 ベルリンフィル
7番   ウィーンフィル
9番   バイロイト祝祭管 ルツェルンでのフィルハーモニア管のもの

ブラームスはグラモフォンから出ていたベルリンフィルとの1番と
途中からノイズが入った4番

シューマンの4番とシューベルトの9番のベルリンフィルのもの

ワーグナーは全曲録音がなった「トリスタンとイゾルデ」
ブルックナーは、4番.7番、8番 ベルリンフィル

バッハは「マタイ受難曲」

こうしてあげていくと、持っている全てのディスクを選んでしまいそうだ
個々のこの印象については、また機会を見つけて記録に残す事にしよう

最後になんかのビデオでフルトヴェングラーの練習風景を見た事があったが
(確かブラームスの4番とシューベルトの未完成だったように記憶しているが)
その集中の度合いは尋常なものではなかった
これでは肉体は持たないとまで思ったものだが
最近はこのような芸術至上主義というのは流行らないというか
そんな風に思う事すら無くなっているようだ
世の中、本当に豊かになっているのだろうか?


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正月、三が日は皆で休みにしよう

2007年12月05日 21時12分57秒 | Weblog
テレビ番組に、爆笑問題の太田光がマニュフェストを掲げて
それを採用するかどうか討論する番組があるが
これにならって自分も一つ提案してみるとすれば
以前からずっと気になっていた
「正月三が日は小売業は全店休みにしよう」
がそれだ

最近の季節感のない、メリハリのない新年は
多分に小売業の元日からの営業の所為もある

店舗で働いている知り合いと大晦日に会うと
「君らはいいなあ」と愚痴をこぼす
彼は大晦日は少し早く帰っても
元日はいつもよりちょっと遅いだけの開店で
正月というのに、家族での正月らしい生活ができないでいる

お正月に店が開いていないとしたら、いったい誰が困るのだろう?
始めから開いていないとしたら前もって買い込んでおくだろうし
実際昔はそうしていた
たしかに開いていれば便利かもしれないが
開いていないと我慢できない程不便なわけではない

三日も休んでしまうと、やる事がなくて退屈してしまう!
そんな風に言う人がいるかもしれないが
実はこれこそが三日間休む一番大きなポイントだ
やる事がないから仕方なしに(?)家族と話す
家族とのんびりする、
つまりこの事は経済活動の多寡だけで一喜一憂する
人間性を回復するのによい機会だと思えるのだ

自分を振り返ったり、取り戻すには時間が必要だ
ヨーロッパ人のように夏にバカンスをとる事ができないこの国は
何らかの形で休みを取らないと、知らず知らず仕方ないと言って
自分を失ってしまうようになる(と思えてならない)

消費者のために店を開けておく
しかしそれは多くの従業員の方の犠牲の上に成り立っているのだとしたら
自分は少しくらいの不便は受けてしかるべきだと思うし
案外多くの人も我慢できるのではないかと思ってしまう

本当に経営トップの人は売り上げによる判断だけでなく
働いている人全員が仕合せになる様な
総合的な判断をしてもらいたいものだ
(もっとも、こんな判断をする人は出世できないかもしれないのが現実かもしれないが)
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年中行事

2007年12月04日 21時00分38秒 | Weblog
ご丁寧にも毎年1回くらいは訪れてくる
厄介なお客さんが「ぎっくり腰」

先日の日曜日もサッカーコートをつくり終わって
さてコーンを拾おうとして、しゃがんだ姿から
立ち上がろうとした瞬間「グビッ」

少し前から(というより、いつも鈍痛みたいなものがあるのだが)
そろそろヤバいかな!と思っていたのが
とうとう、やってしまった

どうも自分のぎっくり腰は、まるで地震のようで
たまりにたまったエネルギーを放出しないと収まらないらしい
しかし、幸いな事に(?)今回の揺れは震度1か2くらいで
動けなくなってしまう、なんて事はなかった

このぎっくり腰、これだけ毎年のようにあると
その対処方法も手慣れたものになってしまっている
といっても何ら特別の事をするわけではなく
「なんにもしなで、じっとしている」を決め込んでいるだけだ

医者に行っても、レントゲン写真を撮って、説明を受けて
湿布薬をもらうだけなので(保険でできるのはこれだけらしい?)
最近は行く事はほとんどない
代わりに行って割合効果的なのが、カイロプラティック
はじめは正直なところ胡散臭く感じていた面もあったが
確かに治りが早かったり
治療(?)をしてもらった後、気持ちがよかったりで
保険がきかず安くはないが利用している
カイロプラティックをしてくれた人の話によると外国、
アメリカやイギリスではカイロプラティックは保険の対象になって
治療の一つと認められているとか
自分には効果が認められるので
早く保険でできるようになってほしいものだ

ということで、今回も、じっととカイロの
2本だてで乗り切る訳だけれど
ホントこの年中行事だけはありがたくない
それにしても地震と同じく、出るんだったら
エネルギーの小出しで我慢してもらいたいものだ
その前に腹筋、背筋を鍛えなくてはダメなのだろうか?
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報われてよかった!

2007年12月02日 18時30分55秒 | Weblog
今日は毎年この時期に行われる少年サッカー公式戦
最近、この地区から甲子園優勝投手が出たせいか
野球人気がぶり返し、サッカーと野球クラブを兼ねている子の
練習出席率が悪くなって、少しばかり心配していたが
結果的にそのところが差になって決勝戦で負けてしまった

決勝戦といってもハイレベルのそれではなく
お楽しみに毛が生えたくらいのものだが
それでも公式戦の少ないこの地区の子供たちには
貴重な経験となる大会だ

試合となれば必然的に勝ち負けにこだわるようになってくる
スターティングメンバーは練習の出席率が低くても
どうしても運動神経の良い子になってしまう
勝負の趨勢がついてしまえばベンチにいる子全員出場といくのだが
実際にはなかなか勝負はつかずメンバー交代の機会は少ないのが常だ

しかし今日は第2試合で我がチームの監督さんは
運動能力の優れている子ではなく
練習に真面目に来ている子を
(しかし、真剣かと言えば若干の疑問があるが)
先発に選んだ

彼は背が高いがバランスが悪く
きちんとしたミートのキック、ドリブルもできないが
ゲームになると不思議と相手の蹴ったボールを
身体に当てるタイプで
空振りして目を覆う時もあるが
平均して防御の手助けになっている運動量の多いタイプだ

自分は最近は低学年担当で、彼の事は気になっていたが
今日の活躍、特に2点目は彼の目の前に来たボールの
ヘッドでのシュートは本当に嬉しかった
それは今までやってきた事が報われたようで!
こんな時、思い通りになったからというわけではないが
「神様はいるのかな?」などと思ってしまう
逆に思いっきりのチャンスを外した子には
「もう少し努力をしないとプレゼントはあげませんよ」
と言ってる様な気がして、そんな事を子供たちに話すと
不思議と何の抵抗感もなく聞き入れてくれる

それにしても今日の彼は、印象として頑張っただけでなく
はっきりとした得点という形で結果がでて
彼のためにも本当によかった
これが「努力すれば報われる」ということの
彼自身の深い経験になってくれれば
コーチ陣としては言う事はないのだが
小学生では無理かな、、、


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