パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「帝国の慰安婦」を読みながら感じたこと

2019年07月29日 09時33分14秒 | 

映画「主戦場」を見て従軍慰安婦について関連本を探していたら
客観的な本と紹介されていたのでアマゾンから取り寄せ読み始めた

「帝国の慰安婦」朴裕河

現在進行しつつある日韓関係の背景の一つを丁寧に説いている
まだ途中の段階だが、思わず泣きそうになった
具体的にどこの箇所か覚えていないが文字が滲んきた

圧倒的に感じるのは「そういうことはあったかもしれない」と思わせるリアリティだ
明日は生きていないかもしれない
先程もとんでもない戦いだった、、
と実感している生物としての男は、一種の興奮状態であの行為に浸ってしまうこと
故郷から遠く離れた男が求めたのは、衝動的な行為だけでなく、安らぎでもあったこと
日本人の中でも何もしないで時を過ごした人もいたとか、、、
女性の中には日本人に愛情を覚えてしまう人もいたとか
どんな悲惨な中でもたくましい生き様を求めるものもいたとか
騙され管理された女性たちがあるときは遊ぶとか馬に乗るとかダンスをするとか
刹那的な気晴らしに時を忘れることがあったとか(そうでなければやっていけない)
一部の韓国人がそういう組織の協力をしたとか
業者はただ儲けるためだけに嘘を平気でついたこと
軍は強制的に運営はしなかったとしても、病気等の定期検査を行い管理していた
親も親戚もそして自分自身も秘密にしておきたかった
いつまでも記憶に蘇る屈辱的なシーン(便所扱い)

要するにすべてが異常の中の出来事で、一旦異常が発生してしまえば
人間というものはこのようなことをしてしまう存在であることがわかる

人間がしでかしてしまう失敗を振り返さないための教訓として、この問題が扱われればいいのだが
残念ながら国と国(特に隣同士の国)では、そう簡単に物事は進められないようだ
そこには政治的な意図が介入する
そして情報はその政治的な意図によって、取り上げられるもの切り捨てられるもの無視されるものに分けられる
これは韓国に限らず日本でも(いや歴史上何時の時代もどこでもそうなんだろう)
人には意地とかプライドがある
それらが表に出るときは、物事の本質とは別の力が大きく働く

この本は韓国国内でも批判されたようだ
ハンナ・アーレントも「イスラエルのアイヒマン」の出版は批判された
どちらも組織に協力した被害民族がいたと明らかにしたからだ
だが、それは決してありえない話ではない、、
むしろ、あのような状況では人はそれをしてしまうかもしれない
といった一般化できるよう行為だ

正直なところこの本を読むまでは「慰安婦」のことはよく知らなかった
なんとなく感情的にお互いが、相手の主張を一方的に受け付けないでいる
そんな印象を持っていたし、残念ながら今もそれは続いているように思える

話は逸れるが、この相手側の話を一方的に受け付けない雰囲気というものが(この話に限らず)
現在の日本に強く漂っていないか、ふと連想してしまった
最近の技術であるインターネットは情報収集には便利で有益だが
どうしても自分にとって好ましい意見だけを受け入れてしまい
反対側の意見に対して感情的に反発する
物事を妙に単純化して、個人攻撃をする
そしてよくわからないが一方的に「論破」したと宣言する

ITの発達によって加速化された意見の分断
そしてその思い込み
一部の情報だけが一気に空気を支配する
そして「数は力」だと開き直って自分たちを正当化する人たち

「帝国の慰安婦」は、事実確認として非常に参考になるだけでなく
様々な問題提起とかインスピレーションを引き起こす
読み終えるには少し残っているが、今年読んだ本の中では「職業としての政治」
と同等の読まれるべき本の一つ
(このような本がベストセラーにならないものか、、と切に思う)




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