パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

意図を想像すること(それは良いことか)

2022年01月06日 17時30分26秒 | 養鶏所騒動

「一を聞いて十を知る」は賢いことの喩え
こと細かく説明しなくても意図をくんで理解し
行動に移してくれる存在は頼りになるし、何よりも楽でいい
(官僚さんはこの能力が必須だとか)
だがこれは諸刃の剣だ
忖度をドイツ語では事前従属というらしい
いちいち言わなくても気づきで指示するひとの望むことを行う
これが普通の仕事であれば問題はないが
少しやばい公にはしづらい案件では、このような暗黙の了解が威力を発揮する

例えば、ある調査・アンケートをある企業に依頼する
受注先はその調査・アンケートにどのような結論がほしいか想像する
その想像力の的確さゆえに依頼主はその企業に依頼する
つまりは答えはわかっている
その答えを客観的に証明する数字とか根拠がほしいと受注側は判断する
(新聞社の世論調査などは新聞社の色に沿った結果が出ていることが多い)
だが、問題なのは行政における随意契約の場合かもしれない

行政が自らの正当性を保証する段取りは、その結果の正しさと必ずしも一致しない
段取りは決められており、一見怪しまれる要素は入らないように見える
ところが、そう簡単に正しく行かないかもしれないのが人間の世界
客観的な数字を出す場合は、公的な資格が必要とされる
それはその通りだが、資格を持つものが正しい判断をするという保証は
どこにもないのだ

先日、市が発注した不動産鑑定の報告書を見た時に少し驚いた
それには最初のページにこんな言葉が書かれていたからだ
「本件の鑑定評価に当たっては、自己または関係人の利害の有無その他いかなる理由にかかわらず
公正妥当な態度を保持し、専門職業家としての良心に従い、誠実に不動産の鑑定評価を行った」

この手の業務については、必ずこのような文章があるのかどうかは知らない
だが、この文章があるために却って色々想像してしまった
つまりこの手の仕事は、ある意図を持ってなされやすい可能性があるのではないかということだ
言葉にされていないが、それとなく感じる意図に従わないようにすることを
わざわざ宣言しているというのは、現実にはそういうことが多いからのように思えてしまう

この結果の正当性を担保するのは資格だ
有資格者のすることは間違いない、、という前提で成り立っている
だが有資格者が本当に正しい数字とか結果を導き出すものか?

新城市の例の案件(旧養鶏所)の不動産鑑定は参考にする土地が
新城市が1件、豊川市が3件あった
豊川市が数多く入っている時点で違和感を覚えたが
有資格者は地域補正をしているから問題はないとの言い分だ
確かにその計算式は報告書には存在する
だがこの計算式は本当に的確なものか?と疑ってネットで調べてみると
この補正の計算は有資格者の個人的な評価とか判断で行われるから、
完全に客観的なものではないとされる論文が見つかった

つまりは有資格者のさじ加減で数字は動いてしまいそうだ
有資格者の依頼主の求める答えに対する想像力(忖度)は
個人の判断で暗に求められる数字を出す

もちろんこれは可能性に過ぎない
だが一見ちゃんと段取りを踏んで行われているように見えることも
いざ疑ってみると案外あやふやなものだと思えてしまう

随意契約は慎重にすべきだと思うのだが、
行政の随意契約は今のところ全面的に信用できるとはいい難い感じ

※少し人間的に悪くなっているのではないか と少し不安もあるが


 

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