パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

同じ話を聞いても捉え方は違うということ(リテラシイー能力の欠如?)

2019年01月06日 08時56分52秒 | あれこれ考えること

今年二冊目はこの本

生々しいタイトルだが想像していた内容とはだいぶイメージが違った
ここでは現場の記者さんの気持ち(功名心・闘争心)が印象に残り
期待した正義感とか報道のあり方への疑問などは際立って表に出ることはなかった
それゆえそれが現場の現実なのだろうとは想像できたのだが

自分の悪い癖だが、例のごとく本質とは関係ない部分が気になった
それは森友学園への私学審議会の記事のこと
認可適当となっている状態のこの学園を、この著者はインタビューから受けた印象では
最終的には「許可しない」もありうると(解釈し)報道した
それは、「今回の場合、慎重に検討を要する。その結果、認可を認めないこともありえます」
とおまけのように追加された委員会長の言葉からそのように解釈した
彼はそれを裏付けるべく取材を行い、自分の解釈に自信をもった
ところが世間の多くは、全く逆で「認可の方針」のトーンで報道された
これは「認可適当が出れば通常はその認可する」と最初の方で一般論を述べられたことに起因する

同じ会見を見て、受け取り方が違う
多くの人はナマのやり取りを見聞きできないので報道で事の次第を知る
まるっきり反対の報道がありえても、こういう時は数の力というか全体の雰囲気に社会は支配される
この場合は報じた数の多い「認可の方針」が社会の共通認識となりそうだった
(最終的は森友学園側が申請の取り下げをした)

この著者は「記者のリテラシーの欠如」と他の記者を切り捨てているが、
現実にはこうしたことが多く見られるのではないか
特に最近のメディアは「発表報道」に終止しており、手間のかかる「調査報道」がないがしろにされ
発表報道が円滑にいくような当事者間の人間関係づくりが重要視されているのではないか、、
そして人間関係づくりができてしまうと今度は人間関係を壊さないような特別の配慮(忖度)が
働くようになって、本音の報道できなくなっているのではないか、、、
と心配してしまう(田舎のおっさんが心配してもしょうがないが)

こうしてみると公平・中立、正確な報道などというものは世の中に存在しない
と考えるほうが現実的と思ってしまう

ところで今朝の中日新聞にこんな記事があった

先を急ぎ功名心を煽る報道合戦よりは、またある企業(スポンサー)の知らず知らずの束縛から抜けて
変に凝り固まった公平・中立・不偏を装うよりも自分の考えを明らかにし、、、云々
これらは外国のことではなく、国内も(国内こそ)求められると思うのだが

これらは、先の本を読んだ直後だから大いに納得する
それにしても、最近の報道、、いろんな意味で大丈夫かな、、

日曜の朝というのに、、面倒くさい話


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