例えば加藤陽子氏の「戦争まで」「それでも日本人は戦争を選んだ」「戦争の論理」
山崎雅弘氏の「天皇機関説事件」、清水潔氏の「南京事件を調査せよ」
パク・ユハ氏の「帝国の慰安婦」、前坂俊之氏の「太平洋戦争と新聞」、
鈴木健二氏の「戦争と新聞」を読んだことのある人と
読んだことのない人との間には考え方に違いが出てくるのは充分考えられる
自分は読んだ方に属するが、それはよくわからない不安にかられて
これらの本を読まねば!と使命感のようなものを感じて手にしたのだった
読んでいない人は何も知らない!と上から目線で批判する気はない
またこれらの本の主張と異なる考えも存在することは理解もできる
ただ、それでも上記の方々が心血を注いで書き残している本の内容を
我がことのように体験するというのは、頭で想像する以上に効果があったり
大事なことと思われる
何かを判断する場合、判断の前提となる知識に大きな開きがある場合が多い
現在問題となっている日本学術会議の任命拒否についても
問題の争点を詳しく理解している人と、そうでない人たちが存在する
詳しく知っている人は、その説明がどうしても長くなる
そうなると知識の不足している人たちはその説明を面倒だと感じる
あるいは上から目線での考えのように感じることがあるかもしれない
自分が理解するには単純化され、わかりやすい方が良い
あるいは自分が信頼を寄せている人の考えを受け入れるほうが良い
と考える人が出てくるのは、無理からぬ事かもしれない
先日読んだ本に「事実はなぜ人の意見を変えられないのか」(ターリ・シャーロット)
があるが、事実に基づく正論がなかなか人に伝わらない実態を報告している
つまりは、どの地域でもどの時代でも多少はこうした傾向はあるのだろう
上から目線でうざったく感じられようが、知ってしまった人たちは(その人達の理解の仕方で)
どうしても「こんなふうになっているから、今手を打たないと、、、」と声高に訴える
このイライラ感はよく分かる
大きな政治的な問題によらずとも、自分たち市政についても、その税金の使い方を
ちょいと詳しく知ってしまうと、それは黙っていられなくなってしまう
とりあえず分業としての議決権をもった議員さんが、市民から期待されるような活躍(行政のチェック)を
していただければ良いのだが、現実は我が市だけでなく、どこもそうは上手くいっていないようだ
システムはできていても、現実はそれに携わる人間の不完全さがどうしてもついてまわる
この人間的な不完全さをなくすためには、システムとして今度は議員さんをチェックする行為が必要となる
だが、これが面相臭い
一応議員さんをチェックするシステムとしては定期的な選挙があるが、これが本当に機能しているのか
と言えば、普段の議員さんの判断や行動を知らない人が、地元だからとか知っている人だから、、との
シンプルな理由で選んでしまう
つまりは、システムとしての民主主義はアメリカの例をあげるまでもなく、案外不完全だということ
と大げさなことを言い始めたが、とにかく感じるのは「知っている人と知らない人」では
判断に関して大きな違いが出てきそうだから、なるべく多くのことを知った上で
庶民でも判断をするようにしたほうが危険からは逃れらそうな気がする
(となると次の問題は、情報提供者としてのメディアの問題になりそうだ)