今日の中日新聞の「視座」には気になる内容が掲載されていた
今回の担当は内田樹氏で、統一地方選の低投票率を問題視しながら
自らの造語「パワークラシー」(権力支配)なる概念を紹介している
統一教会のことも、防衛費増額のことも、増税のことも
インボイス制度のことも、みんな政府が好きにしていいよ!
オレは興味がないから!
と低投票率を生み出す有権者の姿を想像している
日本は権威主義的と「歴史の終わり」のフランシス・フクヤマには
理解されているが、そもそも権威が信用されるには
王政であれ、貴族政であれ、民主制であれそれなりの理由が必要で
「神から授権された」とか「民意を付託された」とか「賢明だから」
と無理矢理にでも理由付けがなされる
だが内田氏のいう「パワークラシー」は権力者の正当性の根拠は
「既に権力をもっている」という事実に由来するとしている
これは「権力者は正しい政策を掲げたのでその座を得たのであり
その座にある限り何をやってもその政策は正しい」との考え方につながる
それによれば、「選挙に負ける野党は与党のような政策を掲げていないからだ」
との一見現実的な考え方の様に思われる
だがこれは言い換えれば「現状を改変したければ、まずはこのシステム内で成功しろ」とか
「現状を否定したければ、まず現状を肯定せよ」とのディベートに使われそうな理屈が大手を振る
生活実感として現状を否定するからこそ対立候補が生まれ、対立する政策も生まれる
それらは現状のシステム外の考え方となる(あるときは予算の使い方の違いとか)
それを(予算の例で言えば)今討論にあがっている予算の使い方の是非を考えてからにしろ
というのでは、既にその時点で権力者の土俵で戦うことになってしまう
つまりよく言われる「対案を出せ」という理屈は、少なくとも民衆に対しては
求められるべきものではないと思う
民衆としての対案は「現状の否定」ということが一番の肝だ
しかし、権力を持っているが故に権力者を信じてしまう現実は
日本の民主主義が庶民が勝ち取って手にしたものではなく
上から与えられたもので、それ故にいつからか選挙が権利ではなく
義務のようになってしまった流れにつながっている気がする
最近、日本に民主主義は根付いていないな、、
とつくづく実感する
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