個人崇拝とか長期政権はヤバい!
と他の国を見て感じる人は、この国にも少なからず存在すると思われる
北朝鮮の個人崇拝、ロシア、中国の法の変更によるトップの任期の長期化
そしてベラルーシ、それらは結果的にどのような社会を生み出しているか
少し距離をおいて見ることができる日本なら客観的に見ることができる
歴史(日本に限らず世界中の)を見ていけば
初期にどんな素晴らしいリーダーがいても、長く続けるうちに判断基準が
身の回りの人間にとって都合の良いことが何よりも優先されるようになり
腐敗が広がっていくパターンはあまりにも多く(どこでもいつでも)存在するので
人というものはこうした危険性を伴う存在として考えておくのが人の知恵というものだ
この知恵を発揮する方法として、制度的に無理やり役職の任期(回数制限)
をもたせるというのは現実的と思われる
「人間というものは長く同じポジションにいると駄目になる(腐る)」
これが共通認識としてあれば
「いい人でも、実力がある人でも、期限は期限」として制限をするのは
科学を信じるとか統計を信じるという気持ちに通じる
ところがこの人間がせっかく作り出した制度は簡単に壊される
それは「いい人で、実力があるのなら、その地位にいられないのはむしろ不自然」
というもので、当該人物は無条件に例外的な人物としている
だが100歩譲って例外的な人物が、時間が経過してもいつまでも例外的な人物のままでいられるか
を考えてみると確率的にはそれは難しいと考えるほうが現実的と思われる
性善説と性悪説、よく取り上げられるが時と場合によって使い分けるのが知恵というもので
会計についてのチェックは性悪説を、そして国や地方自治体のトップの任期もやはり性悪説を
もとに考えたほうが良いのではないか
ということで、首相も首長も長期は芳しくないと思う(それを支えるスタッフの仕事上の任期も)
ところが、日本では庶民の共通の知恵としての「個人崇拝とか長期政権はヤバい!」は
案外、身についていないのではないかと思えてくる
(庶民の知恵として定着するほど痛い思いをしていないからなのか)
今年10月までには衆議院選挙が行われる
投票する人物選ぶにあたっては地元の都合で選択することは、果たして国全体にとっても最適か
(部分最適は全体最適か?)
庶民は投票しかできないが、それでも自分が選んだ結果が国にどのような影響を与えうるか
を想像できるような庶民になってほしいと思ったりする