パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

怒りについて

2021年08月26日 09時47分52秒 | あれこれ考えること

「怒ってる!」
尾身さんがIOCのバッハ会長が来日して、歓迎パーティに参加してるような状況を見て
珍しく感情をあらわにした
新聞テレビはバッハ会長を批判と報道している

常識があればこの時期、この状況で来ないでしょう
あいさつならリモートでやればいいでしょう
銀座には前回訪れていて、(もう用はないでしょう)
これらはバッハ会長自身の投げかけられたのか、JOCに投げかけられたのかわからないが
言い分が正論かどうかの問題ではなく、彼の気持ちが現れた言い方が印象に残った

怒りは、実はとても大事だと思う(大きなことをなしうると思う)
前回の「チコちゃんに叱られる」では怒りの効用について解説されたようだが
その時間ウトウトして見逃してしまったが、なんとなく怒りは行動へのきっかけとなる
と総括されていたような記憶がある

怒りは理性的ではなく感情的で見苦しいとか、他人を不快な気分にさせる
と傍観者は覚めた目で評価する(政治的に無党派層と区分けされる人々はここにいるかも)
だが、人の心を動かす力は、冷徹な事実よりも熱い感情のほうが大きいのではないか
瞬間的に沸点に達するような怒りは、時として間違いを起こすのも事実だが
内面化され、決して忘れられなくなった理不尽にたいする怒りは実は正当な怒りで、
人を社会を変えるきっかけにもなる

人は作話機能というものを持っていて、歴史は作話、話によってわかりやすくなる
坂本龍馬は本当はどんな人間かわからないが、司馬遼太郎の「竜馬が行く」に感情移入して
理解している人は多いだろう
人を理解するのは感情による共感が大きい
そしてこの感情のもつ大きなものが怒りで、それに対する共感は人が等しく持つ能力のようにさえ思える

とまあ、難しそうな言い方をしているが、要は正当な怒りは必要だということで
怒りという事実だけで無視すべきものとは判断できないということ
個人的には理不尽なものに対する怒り、弱者に対する対応への怒り
そうしたものが、新城市で2015年に行われた住民投票をきっかけに一気に表面化した

今でも思い出すたびにフツフツと怒りを覚えるのは
新庁舎建設見直しに関する住民投票の選択肢のわかりにくさで
「市道東新町桜淵線の路線の変更を伴わない現計画の見直し」
「市道東新町桜淵線の路線の変更を伴う現計画の見直し」
こんな選択肢は一体何を言ってるのかわからない
実際のところ、この住民投票が各メディアで取り上げられ話題になったのは
このわかりにくい選択肢のせいだった
そしてこのわかりにくさの弊害は(どのようにも解釈できる弊害は)後々まで影響した

このようなことがあったので、正当な穏やかな怒りなら、庶民は怒りを持ってほしい
とも思うようになった
しかし、この正当な怒りを覚えてほしい、、ということが、現実はなかなか難しい
知れば怒りを覚えるに違いない、、と目論んでも、普段平穏に過ごしている人は
特に知りたくないようなことは、大事な情報であったとしても、関心は持てず
そして傍観者のようになったままだ

そこで正当な怒りを覚える一部の人は、ついつい声を大きくして、過激な表現方法で
あるいは個人攻撃で怒りを訴える
そうなると、いくら正当と思われる怒りでも、つい引いてしまう人が出てくるのも現実だ

10月に市長、市議会議員選挙が行われる地元新城市
怒りを覚えることはいくらでもあるが(そんなに怒りっぽい方ではないと思うが)
全く怒りを覚えない人が多数いるという現実は、、どう考えたり、どう対応すれば良いのだろう



コメント
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