パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

1936年と1947年の演奏の聴き比べ(フルトヴェングラーの運命)

2018年12月04日 08時34分06秒 | 音楽

今ではそれほどでもないかも知れないが、クラシック音楽の権化みたいなのが
ベートーヴェンの5番目の交響曲
冒頭のモチーフの徹底的な使用法というよりも、苦悩を乗り越えて勝利に至る過程を
連想させるようなストーリーがわかりやすいようで、音楽の先生もそう言っておけば大丈夫
みたいなところがあったのではないかと、フト思ったりする

この「運命」と名付けられた交響曲
いざ聴こうとするには少し抵抗感がある
あまりにも押し付けがましくて、しつこくて、上から目線で、、、
とにかく聴く気にならない、、ことが多かった

ところが、先日東京で安く仕入れた中古レコードのフルトヴェングラー全集の中の
ベルリン・フィルとの1947年の演奏を何気なしに聴いてみたら、これがとても面白かった
最初はフムフム、大げさっぽいこういう時代がかった演奏は今の感覚とは少し違うかな
くらいに余裕もって聴いていたが、途中からこの指揮者の場合にはよくあるように
音楽の圧倒的な奔流の中に引き込まれてしまった

押し付けられたような、上から目線の感じはしない
むしろ演奏者がお互いの立場をわきまえて、効果的に会話をしているような
それもムキになって、そしてそれを楽しんでいるに違いなみたい
ベルリン・フィルの音は深く重い
楽譜は同じでも出てくる音はこれほどまでに違う
オーケストラは慣れている曲なので曲のツボのようなところは、興に乗った感じで
それがまるで自分の頭の中の楽器が鳴るように響く
そして、以前は気づかなかった休止のあとの間の いつ音が出るのか、、と待つ間の緊張感
これがとても効果的で、とにかく、、あとは一気呵成に聴いてしまった

すげーなー!
フルトヴェングラーを聴いたあとについ出てしまう言葉がまたもや出てしまった
そのあと考えたことは、もっと若い時のフルトヴェングラーの演奏はどうだったんだろうか?ということ
フルトヴェングラーにハマる人がついしてしまう同じ曲の他の演奏との比較を、
今手元にあるものの中でしてみようとCDの棚をい探ったら1937年のベルリン・フィルのがあった
まだ戦前の演奏だ
しかも音質の比較もしやすい同じベルリン・フィル
早速、かけてみた
あれっ、音が違う、、
スタイルは似ているがベルリン・フィルの音が1947年もののみたいに重くない
それよりはもっとハリがある
ちょっとウィーンフィルみたいな艶がある(少し感じは違うけど)
若さ、、フト浮かんだのはこの言葉、
この時、1886年生まれのフルトヴェングラーが50歳台の一番気力も馬力もあった頃で
まだ彼には戦争の暗い足音は現実には感じられていないかもしれない
ただ単純に音楽に一心に向かう感じが見て取られた
ベルリン・フィルの艶のある音もそうだが、途中のちょっとしたアイデア、ニュアンスは
やっぱり普通じゃない才能を感じさせる

1937年の演奏は悲劇的な要素がない
音楽的な統一感とか効果とか、そうしたことが全面にでて、いい演奏を聴いたという感じ
ところが1947年のはとにかく重い
音が重いというよりは、そこから感じさせる何かが圧倒的にちがう
この約十年間に戦争があったのだが、この戦争の経験、彼と演奏者の心にもたらした心境の変化が音に現れている
演歌歌手がヒット曲を歌い続けて、嫌になるほど同じ曲を歌って、その上で名人芸のような自分のものになっているすがたを
つい思い出してしまった
(ポール・マッカートニーでも何十年前と違うのだが、彼の場合は熟成と言うよりはライブ現場の差のような気がしてる)
人生経験は音楽表現に現れるものだ、、とつくづく感じる

ということで、思いの外楽しんだ「運命」の聴き比べ
それにしても、やっぱり出てしまうのは「すげーなー!」の一言
ネット上で「生きていたら聴きたい指揮者は誰ですか?」という問いがあったが、当然フルトヴェングラーと答えておいた
彼のお墓には二度もお参りしたことだし、、、

コメント
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