パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

結局は生き方の問題!(判断の根拠は?)

2018年03月16日 20時11分57秒 | あれこれ考えること

昨日の続き、、
上司の命令が法的に間違っているかどうかを簡単に判断できる以外、
公務員は意見を言うことはできるが、結局のところ従うしか無いような法になっているようで
仮に限りなく怪しい命令だとして法的に争うと、命令された方の言い分が正しい(命令は間違い)となることは
あまりなさそうな(あるいは時間がかかる)状況というのが昨日までの理解

となると、正直な人々の現実的な対抗策は「面従腹背」しか無いのかもしれない
文科省の前川さんも、現役の時に言えばよかったのではないのか、、と簡単に言われるが
現実には法的にも現実社会的にも難しかったのは想像できる

これらは何も公務員に限らず、民間の社会でも上司の命令に自らの判断で文句を口にすることは
精神的な面で抵抗感があるようなのは容易に思いつく

たまたま今朝見かけたモーニングショー、玉川さんと言われる方の佐川さんの心情を想像したところは興味深かった
それは現象面の良し悪し、モラル的な視点だけでなく、人としての生き方として佐川さんはそれで良いのだろうか
との視点で話をしたからで、この手の話はテレビ的な話題ではないので登場者はたいして気にかけず
あっさり無視されたような事になってしまったが、実はこの部分が大きいのではないのかと思ってしまった

人の判断の基礎となる部分、全人格的な問題、何をもって人は価値あるものと考えるか、何を美しいと感じるか
どのうように生きるべきか、、こうした答えのないような問を考えることなしに専門分野のみの知識に
特化して生きることの弊害が今この国の停滞を招いているのではないか
つまるところ生きることは判断の連続、その判断の一つ一つを間違えないことが良いのだが
その判断についての自分自身への疑い、自分の不完全さの認識、他者との関係性、コミュニケーションの不完全さ
また生き物としてのずるさ、いい加減さ、、、そうしたもろもろのことを考えずに人を純粋な実験室のような
無駄を省いた抽象的な存在の推論だけで、あるいは性善説・性悪説のような無理やり単純化されたものとしての
存在と仮定すること自体が間違いをおこす遠因となっていないだろうか
もちろん、それらは抽象的すぎる
具体的に何をどうする、、という行動面での指標はないかもしれない
しかし、それらの過程を人生で経た人は何かが違うのではないか

ゴチャゴチャ言ってるが、要は全人格的な判断を行える人材をできるだけ多く作り出すようなシステムにしないと
まずいのではないかということ
でもこの「全人格的」という言葉が、何の抵抗感もなく使えたりイメージできる人と、
何のことかよくわからない(馴染みがない)という人が存在するだろう
願わくば、前者が多いことを望むが、、、

相変わらずわけのわからない話、、、でも、自分は今日そう感じたということ







コメント
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