パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

3つの責任(法的責任・道義的責任・説明責任)

2018年03月12日 09時25分48秒 | あれこれ考えること

先日の土曜日(3月10日)、新城文化会館で大会議室で行われた「新城市行政改革取組事例発表会」に行ってきた
仕事の効率化、経費の削減等でイメージされる行政改革の例が3つ、各部署から発表された
1.新庁舎の建設による事務の効率化
2.市民の自主的・自立的な活動の促進
3.民間委託の促進(可燃ごみ収集業務の全面委託)

あっさり言ってしまえば、一番目はオフィス環境に絞って話をされたが事務の効率化は
新庁舎ができることによってほとんど解決できるような問題

2番めは新城市お得意の若者議会に関するお話で、ほとんど現状報告と自分たちのうちでの評価
3番めはタイトル通りの経過報告

なるほど、この内容では市民の関心が湧かないのは無理はないかもしれない
実際のところ会場にいたのはほとんど市の職員さん、それに議員さんが数名
そして物好きな市民がほんの少し、、、
(告知方法はどうだったのか、十分告知しても来ない可能性は十分予想されたが、やっぱりというところ)

でもこの発表会、最後の方が見ものだった
それは「新城行政改革推進計画外部検証委員会」の方の講評が、少しばかりきついもの、的確な指摘だったからだ
それは「コストベネフィット分析」
あるプロジェクトにかかる費用とそこから得られる便益を比較して、そのプロジェクトを評価する手法の徹底を指摘されたのだ
例えば「若者会議」でも、かけた費用がどのくらいで、現実にえられた利益換算をするとどのくらいの金額になるか
ごみ収集を民間委託したことによって、どれだけのコスト減となったかを明らかにすべしとされた
その答えは、「若者議会」自体は数字的な評価が簡単にできるのもではない、、とか
ごみ収集は、経費だけの視点ではなく関わってきた人間の他の仕事への効率が上がったとか、、
いわゆる行政の方々の定番のような答え(もっともごみ収集の方は、パワポとか後で答弁した説明が不十分で実際は経費カットになっているとの声もあったが)

これらの話を聞いていて、以前補助金申請の書類を書いた時の、具体的な数値目標の欄がとても苦労したことを思い出した
その時は効果というものを数値化するのがとても難しい事業だった(と自分は思った)が、申請書は何が何でも数値化で効果の有り無しが
誰でもわかるように客観視できる数字の推移として表されるように要求された
数値化出来ないようなものでも数値化することを要求される、、
その時は少々頭にカリカリきたが、今ではそうでないといけないのかもしれないと振り返る余裕ができている(?)
数値化できないことも、なんとか数値化して効果の有り無しを検討する、、そういったことが「若者会議」でも行われないと
税金を使うことなので市民に理解は得られないのではないか、、というごく真っ当な指摘だった
この若者会議については、一般からの意見のコーナーでちょいと行政の人にお小言をいわしてもらったがそれはここでは省略

実はこの日自分にとっての一番の収穫は、このような市に関することではなくもっと別のことだった
以前から頭の中でまとまらず、どう考えたら良いのだろう、、とずっと思っていたことが
いきなりスッキリするような言葉を聞いたのだ
「責任には法的責任・道義的責任・説明責任があります」
委員長からのこの言葉で、そうなのか、、と急に頭がスッキリした
新城市では政治倫理審査会が行われた際も、産廃問題が発生した時も、また国では森友学園問題が起きた時も
いつも「法的には」問題がない、、とされてそこから先へは行けないでもやもやしていた
でも「道義的責任」はとても抽象的だが、そこには存在しなくてはならない
例えば新城市長は、悪臭が出るとされる現場には「道義的」に行くのが普通だ
麻生さんは佐川さんの長官の任命は能力からして適切だというが、過去の答弁、国民の不満(世論から見える)からすれば
「道義的に」適切とは断じきれないのではないか
そして「説明責任」誰にでも分かる言葉で、「法的には問題ない」のひとことで片付けるのではなく
主権者である国民や市民にわかるように伝えるのが筋だ

でも、これらが現実にはなされない
何よりも優先されるのは「法的」の問題だけ
言い方を変えれば「法的にクリアされれば」何をしても良いことになる
法は全ての状況に対応できているわけではないし、想定外の今後検討を要する事柄もあって
たまたまその時にその法がないからと言って、すべてが許されるわけではない
こうした法の不備の危険性があるために「道義的」という極めて人間的な判断要素が必要とされる

人は、特に上に立つ人は「全人格的」な判断力を持つべしと思う
この全人格というのは「法的責任・道義的責任・説明責任」をバランスよく行使できる人物
あるいは行使しようと努力し続ける人物のこと
国にも市にもこう人たちが多くいると良いのだけれど、、
(現実的にはチェックし続けるしか手はないのかもしれないが)

なんかうまくまとまらなかった
いつものこと、ま、いいか!



コメント
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