パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

知らないことは、信じるしかないか

2018年03月06日 19時55分03秒 | 徒然なるままに

般若心経は覚えていてソラでも言える
テレビドラマのシーンで般若心経が聞こえてくると、途中からでも後を追いかけることができる
だから、手抜きしてたら直ぐにわかる

ところが、残念ながら般若心経以外のお経はほとんどわからない
お葬式・お施餓鬼の時に唱えられるお経の意味がわからないというだけでなく
そのお経がちゃんと正式に唱えられるいるのか、誤魔化されているのか確かめようがない
お経はわからなくても、ありがたいものと考えるように、、と言われたことがあった
わからなくてもありがたいと思うのは理屈っぽい性格からすると少し引っかかるところがあるが
あるお葬式では唱えられているお経の意味を一つ一つ紹介されたことがあった
旅立った故人が今これこれの場所に来て、誰々と出会っているとか、、、(そんな話だった記憶している)
そのように説明されると長いお経も素直にありがたいというような気持ちにもなれたのだった

ほとんどの人はお経を知らないし、その意味も理解できない
だから無条件にお坊さんの唱えているものはちゃんとしたものだと思い込む
いや、そう信じるしか手はない
手を抜いたりとか、手抜きのお経まがいのことをしてるとは思わない
でもいい加減なお坊さんが悪いことをやろうとしたらそれは簡単にできる、何しろ一般人はお経を知らないのだから

知らないことは、何をされても知らない(損しても)
もしかして、今の世の中この状態があちこちで見られていないか
善人の集合が世の中であれば良いのだが、残念ながらそうばかりとは言えそうもないので

当事者が気がついた時は遅かった
ということにならねば良いのだが(国も市も)


 

 






 

コメント
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