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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

選挙に真剣になれる人たち

2017年07月04日 08時59分51秒 | あれこれ考えること

特に根拠のない、単なるいつもの偏見と独断にみちたどうでもいい話

選挙の好きな人達がいる(当事者として、あるいは評論家風として)
傍から見ると妙に燃えて、あれこれ未来を予想して
(ここは大したものだが)大して自分に得にならなくても
必死に活動する人が、なんとなく存在する

もちろん一番真剣になるのは利害関係者
少なくとも現在利権を得ていると思われる人たちは
当然、自分たちの置かれている状況の変化を好まない
それは選挙を通じて、未来がどのようにあるべきか、、といった
抽象的な想像の世界ではなく、金銭に結びつく現実の世界だからだ

このリアリストたちは、例えば予想に反して自分たちの望む世界を
大衆が選ばなかった場合、呆れるくらいあっさりと手のひらを返す
(以前政権が民主党に移った時、ある地区の業界団体は今までの自民党の支持から
あっさりと民主党支持と変わった)
要は肝心なのは自分たちにとって都合の良い立場とか環境を確保しておきたい
というだけのこと
問題は、このひとたちにとって都合の良い話が一般の庶民にとっても都合の良い話か
という点で、それが一致すれば問題はないのだが、現実には全てに一致はしない

何かと選挙に於いて協力をしてくれた人物、団体に便宜をはかるのは普通の感情で
だからこそ、人や団体は積極的な行動に邁進できる

ところが、そこはあまりにも露骨に言うことは出来ない
表にできることは耳障りの良い、どこかほんわかとした言葉とか希望
それはマニフェストとか言う言葉でお化粧されて、
一見政策で闘うような状況の舞台に変えられている

この耳障りの良いマニフェスト
その項目を、一般人は果たして理解できるか
そしてそのマニフェストの良し悪しで選択することができるか、、
これは、本来はそうあるべきといったあるべき論ではなく、
現実の世界を見ると、選挙の選択という行為は、もっと別の項目によって行われる
ここで不思議なのは、損得というわかりやすいものだけでなく
なんとなくこちらの方が良いと感じる、、少しばかり説明ができにくい理由で
選択をする人々も少なからず存在するということだ

人が人を選ぶ、、ということ
それはほとんどの場合、客観という行程を経て行われるのではないのではないか
それは実は言葉にするとちょいと恥ずかしさを覚える第一印象とか、
好き嫌いに大きく左右されないか

どうも人間というやつは最初から偏見をもって判断するの普通なのではないか
ある人物をみて「好き」とか「嫌い」と感じる
その事実から始まってそれぞれの理由の正当性の理屈を作る
そうしたことが、行われているのではないか

そして、「好き」「嫌い」という判断が別れるのは、判断する人たちの
人生経験のよるものによって区別されるのかと言えば、
必ずしもそうではないかもしれないのではないか 
「好き」「嫌い」の判断が分かれるのは、生物としての生き延びる可能性を
いくつも残しておく、、といった確率論のなせる技なのではないか

なんだか話がおかしな方向に進んできたぞ、、
(いつものことか)
とにかく、人が人を選ぶという行為は、自分たちが思っているほど
冷静な行為ではなさそうだということ 

しかし、こんな風にいい加減に選ばれる可能性の大きい選挙だが
当事者としてこの秋に市長・市議会議員選挙が行われる身とすれば
少しばかり安穏として構えてばかりはいられない

選挙慣れした人たちは、組織の力が勝負だという
その組織づくりこそが全てだという
それは多分そうだろう、、
でも、その結果一部の人たちだけに得するような世界になるとしたら
(加計学園騒動のように)まずいんじゃないの

新城市は、残念ながら一部の人にお得な出来事がまだまだあった
(例の裁判になった話ではなく別の件で)
その話はもう少し調べてから、ひっそりと(?)アップするかも
なんで、不自然なことが、、続くのか、、

まとまりのない、独り言、、 

 

 

 

 

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