最近つくづく感じるのは「肩書」は当てにならないということ
特にX(旧ツイッター)での投稿において実感する
自分が独断で偏っている可能性を踏まえても
投稿に見られる文体や内容の一方的な決めつけとか
客観性のなさは、プロフィールを見て違和感を感じるのだ
職業弁護士と言われる人物が「あほか!」と他人をけなしたり
上場企業のそれなりの立場を経験した人が「マスゴミ」と言ってみたり
自称作家(出版物もあるらしい)が思い込みで自説を頑なに曲げないとか
年齢を重ねた人間なら、もう少し視野が広くなっているはずなのに!
と思われることがそこでは見られない
「何を言うかは理性 何を言わないかは品性」
という言葉があるが、知性とか品性は文体にも現れると思う
文章を読むと(あるいは会話をすると)その人のポテンシャルを
漠然と感じるというのが最近の自分の不思議な感覚だが
(これは思い込みに過ぎないかもしれないが)
内面の自分とよく話をしている(タイプの)人は、なんとなくわかる気がする
ところで、人が知らない何かを知りたいと思ったとき頼りとするのは
「肩書」で、それなりの「肩書」のある人をそのまま信じやすい
それは仕方ない過程だと思われるが
困るのはその肩書通りの人物かどうかは素人にはわかりにくいという点だ
その分野に知識はなくても、人を選ぶ力はある!
となれば良いのだが、それは可能なのか
またどうすればそのような力が身につくかは、実は深刻な問題と思われる
歴史認識を学ぶにも、法の解釈を聞くのにも、また首長についても
まずは人を選ぶという行為が行われる
その時、人は言語以外の何かも合わせて判断するのではないだろうか
話している内容以外の全体的な印象(肩書を除いて感じられる何か)
それで自分が信じるに値すると決めるのではないだろうか
少なくとも最近の自分は、人の判断においては自分の感覚とか印象の方を
肩書の示すものよりも信用している
そして自分も他人のそうした判断に耐えられるかと気になったりする
つまりは、人を判断するには、肩書以外の何か全人格的な何かを
感じ取る能力が必要なのではないかと思ったりする
それが上手く働けばフェイク情報などにも惑わせられることもない
と思うのだが
まとまらない話
どこかに取っておけばよかったと残念なのが
「新聞がなくなった街で起きたこと」のレポート(記事)
確か、どこかに書き写しているはずだが、探せど探せど
一向に見当たらない
うろ覚えの記憶では
新聞がなくなった街は行政の不正や汚職が多くなる
選挙は現役の再選率が高くなるなど
他にも興味深い話があって今手元にないのが返す返す残念だ
こんな時は文明の利器を使うに限る
CHATGPTに聞いてみた
するとこの例はアメリカのシンシナティでも出来事のようだった
「新聞のなくなった街で起きたこと」というテーマでシンシナティを挙げたのは、
おそらく**シンシナティ・ポスト(The Cincinnati Post)**の廃刊後の影響について
指しているのではないでしょうか。
シンシナティ・ポストの廃刊とその影響
シンシナティでは、**2007年に「シンシナティ・ポスト」**が廃刊しました。
この新聞は、長年にわたって地元の政治や行政を監視し、地域のニュースを伝えていました。
しかし、新聞業界全体の衰退や広告収入の減少などにより廃刊を余儀なくされました。
新聞がなくなったことで、次のような影響があったとされています:
1.地方政治の競争が減少
•研究によると、「シンシナティ・ポスト」廃刊後、地元の選挙で対立候補が減り、現職の再選率が上昇しました。
•これは、地方政治の監視機能が弱まり、市民の関心が低下したためと考えられています。
2.住民の政治的関心の低下
•地元の政治ニュースが減ったことで、有権者の政治参加が減少。
•投票率も低下し、地域社会の活発な議論が少なくなった。
3.行政の透明性の低下
•新聞がなくなったことで、市政府や地方議会の動きをチェックするジャーナリズムの力が弱まり、
不正や税金の使い道に対する監視が緩んだ可能性がある。
4.ニュースの空白をSNSが埋める
•住民はニュースの代わりにSNSやオンラインメディアに頼るようになったが、
必ずしも信頼性の高い情報ばかりではなく、フェイクニュースの拡散が問題となった。
このように、シンシナティの事例は「新聞がなくなることで地方民主主義にどのような影響が出るか」
を示す象徴的なケースとして研究されています。
新聞の役割は単にニュースを伝えることだけではなく、地域社会を健全に保つための
重要な機能を果たしていることがわかります。
「新聞がなくなった街で起きたこと」に関心を持ったのは
最近では新聞やテレビがオールドメディアの一言で否定的な存在として
認識されているからで、個人的にはそんな訳ないだろうと思っているからだ
このAIの答えは本当に卒がない
特に聞きもしなかったSNSの評価については、そのとおりだと実感する
自分には個人的な現代社会への不満がある
それは、オールドメディア対SNS 真実対偏向報道
既得権利益対改革 批判勢力は左翼、または反日、
生まれる必然性があった共産主義に対する嫌悪感等は
一方的な断定とか思い込みにしか思えず
何か違うと思えてならないのだ
みんなが使う言葉だからとかいう理由で
上記の分類とか言葉が真実とは限らない
むしろこれらはステレオタイプの理解に過ぎないのではないか
つまりは人は一人ひとりは考えるというよりは
世間で広まっている概念を安易に信じて
それにより判断をしてしまうのではないかと思えてしまう
そしてそれは自分にとっては不安に思えて仕方ないし
何とかせねばと少し焦りを覚えてしまっている
と言っても、何をすべきかは相変わらずわからない
まとまらない話
新城市議会でも兵庫県の事件の影響だろうか公益通報についての一般質問が行われた
タイムリーな質問で、市から丁寧な説明があって参考になった
公益通報者保護法がベースにあるが、市の要項にはもう少し条件を緩和してあるようだ
公益通報は犯罪に関係するものが対象とされるが
新城市では犯罪に当たるか当たらないかは調べてみないとわからないので
即座に犯罪には遠い内容でも対象外と判断するのではなく
とりあえず通報されたものは公益通報として扱うようだ
先日の兵庫県の第三者委員会の報告でもこのような公益通報者保護法の
の自治体による要項の追加が説明された
普通はパワハラは公益通報の対象にならないとされるが
兵庫県ではパワハラは県職員に対する影響が大きく
仕事にも支障が出るので、それも重大な問題として公益通報の対象としているようだ
一部の斎藤知事支持派はパワハラは対象外として訴えているが
兵庫県の基準はでパワハラも公益通報に値する案件ということだ
話は変わって、兵庫県知事は第三者委員会の報告の前に百条委員会の報告の
報告に不満気味な口調で、自身の判断の正当性を口にした
そして内部通報した県民局長は県のPCを使ってわいせつなことを書いていた
それを県民が知るべき情報としてPCの中身を公開することもあるうると示唆していた
ところが兵庫県はこのPCの中身を公開することはない!との報道を耳にした
この時の兵庫県という言葉の実態としての主語はなんだろう?
と気になってしまった(知事ではなかったのか?)
知事は行政のトップとして公開はありうると可能性を示唆しているが
その部下たちはそれを否定している
公務員は「業務上の上司の命令に従う」ものとされているので
なんだか不思議な気がした
と同時に、この判断を下した人事課にホッとしたのも事実だ
法を守ることを優先的に行えば、上司(知事)の命令も聞かないことがありうる
そうした行政の現場とか専門家の矜持は実はとても大事だと思う
何もかも上からの命令通りに動くというのは、人としてどこか違うと思えてならないからだ
人事課が公表しない!としたのはアンチ斎藤知事というよりは
単に法の求めるところから判断したに違いない
ところで、不思議なこと多い
特に第三者委員会では知事が開くことにして、公平を確保するためのメンバーの選択を行い
裁判官経験等の広範な知識と経験をもった人たちが時間をかけて行った報告を
法に詳しくない素人が「あれな間違いだ!」と大声で叫んでいるのを見かけるが
彼らはなんでそんなに自信をもって否定で来るのか、不思議で仕方ない
そして彼らの信じる根拠というのが、オールドメディアは偏向している
自分たちこそが真実を知っている、真実は隠されている
といった漠然とした感覚的なものに過ぎないことに驚きを覚える
尤もこの傾向は日本の兵庫県の問題だけでなく、
アメリカのトランプ大統領の周辺も同じようなもので
精緻なファクトチェックよりは感情を揺さぶるもののほうが重要視されている
世の中には多様な意見が存在する
だがその多様な意見は全部が同等の価値とか重さを持つものではないと思う
全部が同等であるならば話は永遠にまとまらない
そこで多様な意見でも、重要なものとそうでないものの選別は
実務上(運営上)行われることになる
だが、あるきっかけで目覚めてしまった正義感を覚えた人は
目にした情報(エコーチェンバーの)を信じるあまり
それ以外の情報を全否定してしまう
これは、情報初期の人が起こしやすい「ダニング=クルーガー効果」の現れで
物事を知ったばかりの人は、自分がすごく物知りになった(真実を知っていると)
錯覚を覚えて急に何かを語りだすという傾向のことだ
でも、もう少し知ってくると、人は実は自分は何も知っていないということに気づき
大雑把な知識で物事を語ったことに恥ずかしさを覚えるようになる
ソクラテスは、自分は何も知っていないということを知っているために
他人よりも知恵者とさられたが、彼はダニング=クルーガー効果を卒業した
人物だったということだ
それにしても最近のいろんな分断(兵庫県、アメリカ)を見るにつけ
人同士は会話(理解)が本当に成立するのだろうか?
とつい不安を覚えてしまう
まとまらない話
生成AIがものすごいスピードで普及し始めている
一年前に面白半分で、CHATGPTを使ってみたが
今はX(旧ツイッター)でもGrokという欄があり
そこでCHATGPTみたいな使い方ができる
そこで出てきた答えは、前提となる集めた情報が偏っているかもしれず
必ずしも正しいとは限らないと認識した上で試しているが
それでも卒のないまとめ方には驚いてしまう
昨日の夜、スマホでこれらのお利口さんに聞いてみた
「民事裁判と刑事裁判の判断基準に違いがありますか?」
「自然法と実定法の違いは何ですか?より上位なのはどちらですか?」
「USAIDのお金は海外に流れていると言われてますが、実態はアメリカ企業に
使われることが多いとの説もあります どちらが本当ですか?」
これらの問は、思いのほか勘違いしている人の多いと思われるもので
(そもそもそんなことに関心のない人が多いと思われるが)
これらをまずは知っておく、正しい理解をしておくということは
物事を根本から理解するのは役立つものと思われる
刑事裁判は強制的な罰の判定をすることがあるので
冤罪などが起きないように慎重に慎重を重ねて進めていく
そして「疑わしきは被告の利益に」という言葉に代表される判断がくだされる
裁判といえば、この考え方があたり前のように思っている人が多いが
民事裁判では(自分も経験したが)この理屈で成り立っていない
それは罰を決めるのではなく、私人間の権利義務関係を解決し
損害賠償や契約履行などの救済を与えることが目的だからだ
簡単に言えば、不法行為で損害を負った人を救うのが目的なのが
民事裁判ということになる
そしてそれは原告と被告のどちらの主張のほうがより証拠によって
裏付けられているかを判断するもので、判断のハードルは刑事裁判ほど
厳密ではなさそうだ
それでも問題は(これは自分らの実感したが)裁判官個人の裁量が
かなり大きく、不満が起きることは否めない
話は飛んで、兵庫県の百条委員会について、いろんな意見や考え方が見られるが
これは刑事裁判的な結論を求めるものではなくて
様々な情報から、普通の人が覚える感覚はどちらのほうに妥当性があるか
を時間をかけて調べたというもので、単にパワハラがあった
本当はなかった!と決めるものではないと理解している
そう感じても無理はないなあ、、と常識的な判断を下したと思われるが
ここで問題となるのは、常識的な判断という部分
常識的なものとは人が生まれながらに持っているとされる正義感とか
倫理観を基にした考えだ
ところが最近は法にないから(書かれた法律にないから)と
暗黙のルールを破って暴走する人が出来きて
それは表現の自由だとの主張をする
これは実定法(書かれた法律)のほうが、正義感とか倫理観に基づく
自然法よりも上位としている考え方で、それがノーブレーキに広まりすぎて
人間社会を息苦しくしているように思う
アメリカのUSAID問題は、無駄金の問題だけでなく、実態として
それに関わる人々の雇用問題にもつながっているので
資金運用が無駄か否かだけでは判断すべきではないようだ
ということで、人間社会はややこしな!
といった相変わらず抽象的なお話
でも、いろんな概念とか情報を知ること、知ろうとすることは大事だと思う
まとまらない話
怒りの感情を利用する
下品な言動や個人に対する侮蔑をタブー視しない
人々の関心を飽きさせない
これは「ポピュリズムの仕掛け人」ジュリアーノ・ダ・エンポリ著から
一部抜き出したものだが、これが社会の空気づくりのコツのようだ
この本の舞台はアメリカ、ヨーロッパだが
思い浮かべてみると、日本社会においても思い当たるフシがある
兵庫県の齋藤支持者たちは、自身のなかに何らかの正義感を持ち
そこから生まれる怒りに突き動かされていると想像することができる
(それらの理由は自分は理解出来るものではないが
かわいそうという立場にたてば、そう感じるのは想像できる)
兵庫県の問題に限らず、移民の関係、政治的なやり取りのSNSは
見るのも嫌になる罵詈雑言に溢れている(無視すればいいが、これもまた社会)
それはかつては自己規制していたものが、表現の自由という言い訳で
すべてが許されると錯覚してしまったかのように見える
そして頻繁なSNSの更新
それは視聴数を稼いで収入に結びつけるというよりは
飽きさせないとか、論点を精緻に考えさせないためのように思える
(トランプ大統領、立花孝志がそれらの一例)
こうしたものをベースにした技術的手段による社会の空気づくりは
それが効果的であるが故にとても恐ろしく感じてしまう
大昔の中国、秦の始皇帝はものすごくリアリストであった韓非子を
その実効性の高さ故に拒否したようだ
(自分が利用するなら良いが、他人に使われるとまずいということで)
今年は地元も選挙の年だ(市長選、市議会議員選)
高齢者の多い田舎の自治体なので、流石にSNSによる中傷合戦
みたいなものは見られないと思うが、平穏に終わって欲しいと思う
それにしても益々心理学的に進化する人をコントロールする技術
知らず知らずその中に組み込まれるかもしれないと
不安を覚えるのは杞憂なのだろうか
まとまらない話
漢字を読むことはできるが書けないことは最近の人は多いのではないか
スマホ・パソコンでは直ぐに変換の候補が出てきて
それで済ませてしまう弊害だと思われる
これを無くすためには、まずは書くという行為を行ったほうが良いようで
記憶は書くことで定着するという実験データもあるようだ
(昔は英単語はまずは書いて覚えた)
似たようなことでも、頭に入り方が違いそうなのは
本を読んで知識を仕入れる場合と、Youtubeで動画を見て仕入れる場合だ
そして本でも紙の本と電子書籍を読む場合の違いがありそうだし
同じ内容でも直に講演等を見聞きするのと、動画を見るのではだいぶ違いそうだ
実感からは電子書籍は読んでいても内容が素通りしていく気分で
気合を入れて電子書籍を読むということはない
電子書籍で済ませられるのは、週刊誌ネタとか
読み飛ばしても問題がなさそうな内容のものだけだ
同じ読むという行為でも、集中の度合いとか脳の活動範囲とかは
紙と電子書籍とは違う気がして、紙の本好きとしては紙のほうが好ましいと思いたい
しかし、それは紙で育った人たちの感覚で
早い内に電子書籍に触れている人たちは必ずしもそうではないかもしれない
動画からの知識より、自らの働きかけの必要な本を読むことのほうを重視したい
と考えているが、時代はそうとはならないようだ
本を読む代わりにYoutubeで済ませる
こう言う人が少なくないようだ
(知人にこういう人がいる)
話は変わるが、10万円得するのと損する場合、心に強く影響を与えるのは
損した時の方だと言われている
損することに対する被害意識とか嫌悪感は、得する喜びよりも大きいのは
人が生まれながら持っている傾向のようだ
同様に情報について考えてみると、悪口とそれにつながる怒りを催す情報と
穏やかな少し理屈っぽい情報は、どちらのほうが速く広く伝達されるか?
を比較してみると、これは全世界的に前者の圧倒的な勝利らしい
最近はオールドメディア対SNSの戦いと言われることが多い
だが、この戦いは言われるような偏向と真実との戦いではないようだ
フェイク対真実の戦いなら理屈で解決できそうだが
ある陣営は、その内容が真実かフェイクかはどうでも良いと思っているらしい
彼らにとって価値あるものは、多くの人の感情を動かすもの(怒りを催すもの)
そしてそれが行動につながるもの、それこそが価値あるものとしているようだ
最終的に数の多さを競う選挙とか世論調査等においては
今までは正確な情報に基づく、人の合理的な判断を前提にしていたが
最近は、数を競う戦いの場においてはそうではなくて
人の感情を動かす戦術・技術の違いが勝負を決めてしまうようだ
つまりは本質的な問題ではなく、戦いの上の技術論で勝負がついてしまう
それはマニフェストの良し悪し、実現性等ではなくて
ネガティブキャンペーンこそが勝利のコツと開き直っているかのようだ
(トランプさんや立花孝志氏を思いうかべることができる)
技術の進歩でエライ世の中になってしまったと思わざるを得ないが
それでもそうした中で、人はどのようにベターな選択をするには
どのような生活をすれば良いのかと少し考えてしまう
本を読め!一人ひとりが個の確立を目指せ!
こうした助言が響かないのが今の世の中のような気がしてならない
(説教的すぎる?)
今日も、まとまらない話
「りんご」と聞いてイメージするもの
A 青森県、長野県、りんご狩り、サンフジ、つがる、王林、秋映え、しなのスイーツ
野口五郎、
B 青森県、長野県、りんご狩り、サンフジ、つがる、王林、秋映え、しなのスイーツ
野口五郎 アップルレコード、 ビートルズ、アップルコンピュータ(Mac、iPhone)
ニュートン、トロイア戦争、ウイリアム・テル、エチレンガス
人の知識はこのようにAとBに差があることは珍しくない
単に知識量が違うだけなら良いが、問題はそれから生じる判断も違ってくることだ
多くのことが頭に入っていると、物事の事実、危険性、実現可能性などを
知らず知らず思い浮かべて慎重な判断を下す
そしてその理由を理屈っぽく口にする(この説明が一部の人には嫌われる)
ところがそうでない場合、眼の前の出来事のみで反射神経的に判断を行ってしまう
そこに感情的なものとか正義感は含まれると手に負えなくなることがある
まして同じような考えを持っていると感じる人が周りにいるとなると
それは数の暴力にもなりうる
最近気になるのは、こうした背景知識の差が社会の分断の理由の一つではないか
と思えることで、以前からの経済格差だけでなく、こうした文化的な差も
無視できないように感じる
(尤も文化的な背景の違いは辿っていくと経済的な差によるものの可能性は否定できないが)
トランプさんもその支持派も、斎藤知事、立花孝志支持派も自分たちの主張の正当性
(ファクトチェック)にはどうも関心がないようだ
問題は彼らの言い分が効果的な否かだけで、事実か否かは関係なく感情に煽られて勢いづいてしまう
(トランプ支持者潜入一年にはその傾向が書かれていた)
その危険性を感じる人々は、せめてファクトチェックだけはしようと口にしても
いろんなことを知っている人を病んだエリート層として、そこには利権があると
勝手に判断して全否定をしてしまう
そしてオールドメディア対SNSの戦い、利権対革新などの単純化された
強引なカテゴリー分けで自己の正当化を行う
確かに、エリートに対する怒りはアメリカも日本も存在するようだ
そのエリートとは高学歴、高収入企業人、政治家、官僚があげられて
それらを馬鹿にすることで自己の精神的なバランスを保っているような気もする
人は少なからず、承認欲求を持っている
だが大半の人間はそれを公に訴えることなく、あるときは自分を抑えて
また諦めて過ごしていく
しかし、それでも内にくすぶる小さな火を消すことができない場合は
どうしてもウケ狙いの行動にでてしまうのではないか
トランプ大統領があのような行動に出るのは実は
「アメリカを再び偉大に」のためではなく、自己の承認欲求のせいではないか
と思ってしまう
そしてその承認欲求は、神の如くの全能感という感覚でのみで果たされると
思っているのではないかと自分には思えてしまう
ところで「大衆の反逆」の中でオルテガは
高学歴とか高収入とか社会的な立場による分け方ではなく
自らの内面的な声に従って自己を高みに向かう人たちをエリートと定義づけている
いかにもヨーロッパ人の発想と思えないこともないが
社会の声なき大衆もこうした内的な熟成があればいいなと心底思う
またもや、まとまらない話
夜にX(旧ツイッター)を見るのは精神的に好ましくないかもしれない
そこには特に感情を逆撫でる投稿が幾つかあるからだ
ツイッターは前までは自分がフォローしている人の投稿を見るだけだったが
最近はお勧めという分類があって、気が付かないうちにそちらを見ることになっている
そこに出てくるのが、結構過激なものが多い
不思議なことに、お勧めには英語でのアメリカ大統領に関することが混じっていて
前回のゼレンスキー大統領の口論について、トランプ大統領擁護派と否定派が
かなり感情的にやり合っているいるのが見られる
英語の投稿なのだが、翻訳という機能があって簡単に日本語にしたものを
読み進めることができる
投稿者はアメリカ人、カナダ人、ヨーロッパ関係の人物、政府関係者、投資家などだが
これを見るとトランプ大統領に関しては分断は確かに起きていると実感する
同じように兵庫県の問題でも斎藤知事擁護派と反斎藤知事派の双方が
勝手に入ってきて、そのやり取りの中には気分が悪くなるものが少なくない
そしてここでも分断が起きているのを実感する
この2つの分断、アメリカのことは社会背景を前提とした実感はわからないが
日本のことはわかるつもりだ
最近特に思うのは、民意とか大衆の選択は間違っている場合があるということ
つまり民意として多数決で選択された人物や方針のあるものは
考え方の違いの許容範囲を越えて、間違っていると思えてしまうものがあるということ
選挙で選ばれたかと言って、何もかもが正しいとされるわけでは無い
(獲得投票数と、良い悪い、正しい正しくないは無関係だ)
先日、時間をかけて検証された百条委員会の報告がなされたが
この結果について、知事を始め擁護派は全面的に受け付けないでいる
それは理屈として受け付けないのではなく、感情的に受け付けないでいて
その受け付けない根本的に理由が自己の正義感にあるから話はややこしくなる
不意にアメリカのトランプ支持者、兵庫県の斎藤知事擁護派、そして立花孝志擁護派は
(自分には)その行為は何かへの怒りの発散に思えてしまった
それらはルサンチマンの現れのようだ
ルサンチマンはウキペディアによれば
弱者が敵わない強者に対して内面に抱く、「憤り・怨恨・憎悪・非難・嫉妬」といった感情
そこから、弱い自分は「善」であり、強者は「悪」だという「価値の転倒」のこと
強いものとか一例として、オールドメディア、知識人があげられるのではないだろうか
偏向報道が多いとか、事実を伝えないというものの、その検証とか対処行動もせずに
ただ腹を立てているだけのよう思える
兵庫県に例では、百条委員会は地方自治法で法的に保証された制度で
実施には予算が必要で、議決で了解されて開くことができる
そして、その検証内容は今回の場合は、7つの通報されたことの事実確認と
知事が誹謗中傷の文書として職員を処分したことが適切であったかを
精緻に検証するものだが、そのためには県民局長の私的な内面生活は
プライバシーの点からもまた論点整理の面からも検討する必要がない
ところが、そうした会議の進め方に慣れていないとか、思い込みの激しい人には
県民局長が通報したのはコレコレの意図があったからで、
その本質を問わない限りは無意味だと主張する
でも、問われているのは県民局長の意図とかプライバシーではなくて
通報された内容が本当か否かだけで、それ以外のことは関係ない
だがそれで進めると、何かを隠していると思い込んでますます怒りをつのらせてしまう
話は飛ぶが、自分たちが経験した行政裁判では、市は異様に高額で養鶏場を
購入することにしたが、問われたのは、購入価格が高かったか否か?
その進め方は手続き上適切であったか?という点で
何故高かったのか?とか、それによって誰かが得したという想像は
関係ない話として論点には上がっていない
(そこには気分的に不満は残るが話の進め方というのは
そういうものなのだろうとは想像できる)
仮にその問題を論点にあげたいのならば、それは刑事的な分野への働きかけが
必要になる
こうしたちょいと面倒くさくて、感情を廃したような手続きは
一部の人間には知識人の横暴と取られるかのようだ
最近の反知性主義は、自分が理解できない観念的な難しいことを説く人への
ルサンチマンではないかと思えてならない
分断というのは容易に想像できる社会的、経済的な立場によるものだけでなく
個人の内面に起因するものの少なくないと思えてならない
反知性主義者は、理屈っぽいが故に、左派とかリベラリストを
否定してしまうのではないだろうか(トランプさんも安倍さんも?)
いつもの、まとまらない話
今日もニュースはアメリカの関税の話題で溢れている
正直なところ経済音痴(特にマクロ経済)なので
関税の全体の影響とか自国内の利益等についてはよくわからない
ただ、素朴に変だなと思うことがある
関税がかかると物の値段は高くなる
今まで輸入品で安く購入できたものが買えなくなる
こうした時、高くても購入する場合と、購入しない選択肢がある
ところで関税を払うのは輸出業者ではなく購入する方で(輸入業者・消費者)
その関税は国が徴収することになる
(これで国の税収は多くなるのだろうか?集まった税は何に使われるのだろうか?)
安く買えたものが高くなると売れなくなるのは理解できる
それが輸出側への脅しのメッセージだが、
でも、そこで終わらないのが現実なのではないのだろうか
消費者は必要なものは買わなければならないので、関税で高くなったものを購入する
あるいは競争力(価格等)で負けていた国内製造のものを購入する
そうなると、物価は高くなりインフレになりそうな気がする
そもそも輸入に頼っていたのは自国生産よりも輸入の方が安いという
市場の理屈からだったこともある
現代の世界はサプライチェーンで表現されるように生産かと製造は
一国で自己完結する状態ではなく、企業は効率の良い調達の仕方を求め
世界中と交流を図る
そしてそれが企業の競争力を高めている
(それが資本主義?)
ところが、輸出側を関税で制限することは
国内で調達したものを優先的に購入することを推し進めるということで
それが雇用に役立つとする考え方だが、果たして国内生産製造したものの
価格を含んだ商品力は、安い価格になれた庶民に対して説得力があるのだろうか
資本主義国家であるアメリカが、市場の理屈に合わせず強引に法的な
力技を行使するというのは、なんだか自ら資本主義国家としての存在を
否定しているような気がしてしまう
(尤も、市場に任せておけば全て良しとするのは必ずしも良いことではない
と思うことも確かだが)
高くても購入する、高いから購入しない
代替え品は国内のものを購入することになるが
それはそもそも競争力に負けていた商品ではないだろうか
でも、少し高くても国内のものを購入する(方が良い)気持ちはわかる
あえてそうしないと後々不便なことになるということは
地方のスーパーがチェーン店よりも商品価格が高い場合があるが
価格だけで行動を決めてしまうと、後々に近くで便利だった店がなくってしまい
結果的には自分たちが不便になることにつながる
つまりは物事は一つの視点からだけで決められるものではなさそうだ
特に経済は社会構造、その時の空気、倫理感、感情などの不確定要素に振り回される
それは因果関係による予想は、不確定要素により再現性がないということだ
だから理屈の上の正解というものは存在しない
経済学は、科学ではなくて覚悟とか思い込みに過ぎないとする人達もいるが
今はなんとなく納得してしまう
ところで、トランプ大統領とヨーロッパとの対立は前回にもあった(G7の会議の時)
机に座ったトランプ大統領にドイツのメルケルさんが怖い顔をして
詰め寄った写真が有名だが、そこにはヨーロッパのメンバーも
メルケルさんのサポートとして彼女の周りを囲んでいた
(安倍さんはどっちつかずの雰囲気のように見えた)
トランプ大統領はゼレンスキー大統領に「敬意を払え」と要求しているようだ
合意文書の内容を詰めた話ではなく、個人としてのメンツを優先している
つまりは全能感を味わいたいだけのように思えてしまう
仮にそうではないとしても、自分にはそのようにしか見えない
アメリカも日本も、民意はとんでもない方向に偏ることがある
民意は正しいと、必ずしも言えないという例を最近はあちこちで
経験しているので、とても不安を思えるが
それでも多数決で決められる社会にいる以上
個人としてどのようにしたら良いのかを漠然と思うこの頃
まとまらない話
難しい本は、何故難しいのか?と考えたことがある
例えばハンナ・アーレントの「全体主義の起源」などは
数ページ読んだだけで続けて読もうとする気分を失わせる
ページ全体に文字ばかりが詰まっていて、それが数ページにわたる
おまけに言い回しが難解で、読み続ける気力と集中力を奪う
だがとても不思議なことに、(今)部分的に関心のある部分だけ読んでいると
この回りくどい言い回しは、実はとてもたくさんの情報を含んでいることが
わかるようになってきた
頭の良すぎるハンナ・アーレントは、文章の中に自分の頭に浮かぶ
様々なことを、読者もわかるだろうと書き込んでいる
(だが、そんなふうに素人は理解できない)
その沢山すぎる情報は、人生経験を積んでいろいろわかってくると
それ自体がとても示唆に富んでいてとても面白いことに気付いた
つまりは彼女の頭の中、浮かんだこと、それらを想像できるようになると
その本の重要さとか意味がわかってくる
(俳句でも、上手な人のそれは短い中にいろんな感情とか要素が含まれている)
結局のところ、本を読むということは読み手の経験の量で理解が違ってくる
これ本に限らず音楽でもそうだろう
昔聴いたレコードを今聴くと、違った印象とか感動を覚えるとしたら
違っているのは時間が経過した自分だけで、それが影響していることになる
美しいメロディというものを考えてみると、それは年齢を重ねると全く違うものになる
自分に限れば今とても美しいと感じるメロディ(あるいは音楽)は
ベートーヴェンの32番のピアノソナタの第2楽章だ
ハ長調でなんてことないメロディだが、そこにはベートヴェンの一生の何かが
(多分一生かけて求めたものが)込められているように思える
そこには多少の諦めとか静かな思いとか、抽象的なものへのあこがれが
全部詰まっている
でもそれを人にどんなに説明しても、それはあまり効果はないとも思える
それがわかるには聴いてみるしかないのだ
聴いてみてその人がどのように感じるか
答えはそれしかない、、その音楽をその人が人生経験を踏んだ後
再度聴いたならばどう感じるか
それがかつて説明された印象と同じとなるか、それとも別のものとなるかは
興味のあることで、仮に一緒のような印象を持つならば
人の感じ方には何らかの共通項があるということだ
ということで、今日もまとまらない話
ところでベートヴェンの32番のピアノソナタ第2楽章はこんな曲
Beethoven: Piano Sonata No. 32 in C Minor, Op. 111: 2. Arietta. Adagio molto semplice e...