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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

演歌歌手ではない人が歌う「津軽海峡・冬景色」

2022年11月15日 09時27分03秒 | 音楽

10年ほど前の1月、函館にいく途中、雪の青森駅で列車を乗り換えた
条件反射のように思い出したのが「津軽海峡・冬景色」の歌詞で
ついスマホで青森の字が入った看板と雪景色の写真を撮った

音楽は不必要ににジャンル分けされている
自分はクラシック音楽が好きだが、高尚だからと思ったことはない
単純に楽しめるからで、サッカーが好きな感覚と大差ない

昔、オールスターかくし芸大会という番組が正月にあった
そこで森進一が歌うプッチーニの「ある晴れた日に」を耳にした時
ベルカントで歌われる本格的な歌よりも心情的にフィットして
こういうもの良いな、、と感じたものだった

クラシック音楽をポピュラーの歌手が歌って楽しめるのは
フィリッパ・ジョルダーノの歌うトスカの中の「愛に生き歌に生き」で
これもマリア・カラスの凄まじい歌唱とは別の良さがあった

ところで、はYoutubeでは「津軽海峡・冬景色」をいろんな人が歌っている
興味を引いたのがクラシックのソプラノ歌手が歌うこれ

プロのソプラノ歌手が歌う「津軽海峡・冬景色」歌 野々村彩乃/pf 乾将万

少し慣れないと違和感を感じるかもしれないが、その世界を受け入れると
そういう表現もあるのか、、と驚きを感じる
この「津軽海峡・冬景色」は、ポピュラーの歌い手さんも歌っていて
なかなか良いのがアンジェラ・アキさんの歌うこれ

アンジェラ・アキ 『津軽海峡・冬景色』

車の中でiPodに入れたこの音楽を流すと、母は「変な歌い方!」と口にする

音楽は本当に多様な表現があるものだと思う
自分の音楽の好みは雑食系だが、それでも年齢のせいかメロディに変化のなく(?)
繰り返しの多いラップがどうも苦手だ
それ以外にも、みんなで同じメロディを歌う大勢の女の子の集まりの音楽も苦手だ
なんだか、ちょっとバカにされてる気がしてしまうのは偏屈すぎるか


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涙した音楽

2022年11月12日 09時30分20秒 | 音楽

音楽を聞いて涙を涙したことのある人は、少なくないと思われる
不意に辛かった過去を思い出させられたり
憧ればかりが胸に溢れていた時代を懐かしんだり
理由もなくただただ熱いものが流れるとか
音楽の感情に訴える力というものは不思議だ

レコード音楽を聴いて涙したことのある曲は3曲ある
その一つが、猛烈な感動を覚えて、その感動が一時の単なる錯覚だったと
感じてしまう怖さ故に聴き直すことができない曲で
ベートーヴェンのミサ・ソレムニスのアニュス・デイだ
暗い曲なのか、深い音楽なのか、ベートーヴェンの得意ではない声楽曲だが
「神よ、憐れみ給え」と繰り返す歌詞も相まって、彼の晩年の心情を思うと
人の達する境地の高さに驚く
以下の動画では欠けてしまっているが、次の部分に移る経過の部分の
ヴァイオリンパートは本当に泣けてきた
(そのヴァイオリンパートはトリスタンとイゾルデの
 二幕のブランゲーネの警告のそれと同様自分が好きな部分だ)

L. V. Beethoven ~ Agnus Dei

アニュス・デイはバッハのロ短調ミサでも印象に残る音楽で
アルトの深々とした声と、伴奏のヴァイオリンパートが
ここでも声以上に活躍する

バーバーの弦楽のためのアダージョはアニュス・デイの歌詞をつけて
歌われることもあるようで、共通して深い祈りの音楽となっている

冒頭を聴いた瞬間にいきなりノックアウトパンチを食らって
涙したのはバッハのロ短調ミサのキリエだった
現代の演奏では割とあっさり歌われることが多いようだが
自分が聴いたリヒターの演奏の熱量とか濃厚さは
まだ感性豊かで、だが分析的でない頃の自分の心の奥に響いた

J.S. Bach: Mass In B Minor, BWV 232 / Kyrie - Kyrie eleison (I)

そしてもう一つの曲はフォーレのレクイエムの「楽園にて」だ
この曲は猛烈に感動したと言うより、気がついたら熱いものが
頬に流れていた

Faure Requiem/7 - In Paradisum (楽園にて)

音楽は現在進行系で時を楽しむ芸術だが
記憶を楽しむ芸術でもあるような気がする
以上の三曲は涙した時の思い出が失せないどころか
ますます、その記憶は美化されつつある

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マーラーの音楽と村上春樹

2022年10月18日 09時05分24秒 | 音楽

自分が参加しているSNSのグループにブロムシュテットの指揮した
マーラーの9番が名演だったとの投稿があったので
しばらく聴いていないこの曲のレコードを引っ張り出して聴いてみた

マーラーの弟子(?)のワルターの指揮した演奏だ
この曲は高校時代にはよく聴いた
ただし、第1楽章だけだ
ベルクが言ってるようにこの楽章は傑作だと思うし
あとの楽章はいらないとまで思ったこともある
一般的な評価では第4楽章のアダージョが生との別れを感じさせるイメージで
感涙とまでの声が挙がることが多く、ブロムシュテットの場合もそうだったようだ

この曲を聴くといつもマーラーの音楽は長編小説のようだと思う
音楽自体の内的な戦いというよりも、音で表現されるドラマが目の前で
展開されるような気がする
昨日は「村上春樹の小説のようだ」と不意に頭に浮かんだ
そして、それは的確な例えだと妙に納得してしまった

一見深いようで、実は結構エンタメ的な要素の多い作品
ウケと切実な表現意欲のせめぎ合い
マーラーの音楽は、それを感じてしまう(村上春樹も)
1楽章と4楽章だけを聴いたが高校時代のようには圧倒されることはなかった

次に同じワルターの指揮のブルックナーの9番を聴いてみた


これは第3楽章だけ聴いた
マーラーの9番の第4楽章とブルックナーの9番の第3楽章は始まりがどこか似てる
と言ってもすぐに彼ら独自の世界に移るのだが、ブルックナーの音楽は
ウケ狙いは少しもなく、彼自身の世界観に終始する
(マーラーは感情的・情緒的でブルックナーは音に帰依する感じ)
マーラーの指揮者として有名なワルターはブルックナーをどのように指揮するか
それが興味の一つだが、昨日不意にワルターはブルックナーを
マーラーの曲のように指揮していると感じた
それは有名な「生からの別れ」と名付けられたチューバのところだったような気がするが
違っているとしても、そう感じたのは確かだ

マーラーが村上春樹と似てるなら、ブルックナーの音楽はどの小説家に似てるのだろうと想像してみた
読みやすい作家は思い浮かばず、むしろ独自の世界観の難しそうな、しかし一旦その世界に入ると
抜け出せないような作家が似てるのではないか、、などと勝手に想像した
(ドストエフスキーかな、、、)

ということで、いろいろ勝手に思うことあれこれ
そして改めて確認したのは自分はブルックナーが好きだな、、ということ
世間のアンケートでは嫌いな作曲家の一番をキープし続けているらしいブルックナー

ヴェルデヴェーレ宮殿内の彼の最期の家を訪れた時は、そこには人影は見えなかった
可愛そうなブルックナー
でも2024年には彼は生誕200年を迎える
それまでに彼の評価は変わっているだろうか?


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秋に聴く曲(ブラームスとフォーレ)

2022年10月09日 18時49分47秒 | 音楽

秋は世界中で物悲しいような気持ちになる季節のようだ
真上から日光が照りつける日々からやっと開放されて
ようやく考える事ができるようになる秋

後悔と諦めとを静かに受け入れる様になると
聴きたくなる曲はどこか寂しい雰囲気を持つ曲になる

秋に聴く曲で、すぐに思い出すのがブラームスのクラリネット5重奏曲だ
冒頭の寂しさはそれだけで心を鷲掴みにする

ブラームス クラリネット五重奏曲 ロ短調 作品115 ライスター /アマデウスsq. Brahms : Clarinet Quintet

秋はブラームスなのかもしれない
マーラーが嫌ったブラームスの最後の交響曲は、若い頃はナヨナヨしていてなんとなく嫌だったが、
今はまるっきり反対で、マーラーの交響曲は聴かないが、ブラームスの4番は季節になると一度は聴く
冒頭の主題は、実はベートーヴェンの29番のピアノソナタの第三楽章にも出てくる音形だ
ただ、この曲の第4楽章は変奏曲形式だが、なんか中途半端な終わり方のように思えてしまう
それが不思議なことにフルトヴェングラーの演奏だけは、終わったという感じがする
何故なんだろう

カラヤン 最晩年のブラームス交響曲第4番 ライヴ

あと一曲、秋らしいと思うのがフォーレのピアノ4重奏曲第1番の第三楽章だ
まるで夜想曲のような雰囲気で、フォーレの曲の中で好きな方から1から2を争う曲だ

Fauré Piano Quartet No.1, 3mov. フォーレ ピアノ四重奏曲第1番第3楽章

これらの曲は、やっぱりレコードで聴くのが良い
マニアの例にもれず、CDの同じ演奏のを持っているが
空気感と言うか音の厚みというか、雰囲気はぜんぜん違う
いい音かどうかはわからないが好きな音は間違いなくレコードの音だ

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ロシアとオーストリアの風景を連想する音楽

2022年09月22日 10時30分58秒 | 音楽

最近、苦手になっているのが感傷的(感情過多)な音楽
チャイコフスキーとかショパンとかマーラーとかは
本当に聴かなくなっている

ところが昨日、不意にチャイコフスキーの1番の交響曲の
第二楽章だけ取り出して聴いた
ロシアの風景を想像させるような綿々とした音楽で印象に残る楽章だ

チャイコフスキー 交響曲第1番ト短調作品13《冬の日の幻想》 第2楽章 カラヤン

悪くない、、自分も少し変わったのかなと思いつつ
でも、これだけしつこくされると、、、どうも逃げたくなる気もしてくる
これってロシアの原風景の音楽だな、、思う

それと比べると、チャイコフスキーとかほど知名度はない
大好きなブルックナーの2番の交響曲の第2楽章は
オーストリアの原風景のような音楽(だと思う)

ブルックナー交響曲第2番第2楽章 名古屋ブルックナー管弦楽団

どちらが優れているか?
は意味のない比較かもしれない
ただ、どちらが好きか?
はメロディに酔うチャイコフスキーよりも
響きに酔うブルックナーのほうが好きだな


ブルックナーは、毎年嫌いな作曲家の一番に挙げられるらしい
なんで、この良さがわからないのかな、、、不思議



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羨ましい人(スコアを見て音が聞こえる人)

2022年09月21日 09時19分59秒 | 音楽

「ないものねだり」をしてしまう
いい車とか高いお酒とかブランド品の服とか(海外旅行は少し羨ましく思うが)
そうしたものには、あまり振り回されることはなく
それなりの機能さえ果たしていれば、特に渇望感を感じることはない

ところが、本当に羨ましく思うのが以前にもここでアップしたが
宇宙の始まりとかビッグバンを数式で理解できるひとだ
計算式から宇宙の始まりは、0.00何秒のインフレーションからとか
星の寿命を計算できたりする人は、素人には魔術師のようにさえ見える

彼らは、まだ確定しない問題に対し各自が想像力を駆使してあれこれ
仮定を生み出すのだろうが、それは苦しくてたまらないのと同時に
面白くてたまらない行為なのだろうと思う
その面白さを感じることのできる人を、本当に嫉妬を覚えるほど羨ましい

もう一つ、羨ましい能力をもった人々がいる
それは音楽のフルスコアを観て、頭の中にその音が鳴り響く能力を持った人だ
多くの人がするように、自分も交響曲のフルスコアを購入して
レコードを聴きながら眺めたことがある
耳で聞く音楽と、目で見る音楽は少しばかり印象が違う
耳だけで聴くと、何回も聴くうちにフレーズは主題の変形されたもの
と気づくことがあるが、それを楽譜の記述と照らし合わせると
楽譜にされたものはものすごく知的な理性的な行為と思えてしまう

音楽は感情に響くものも一面はあるが
指揮者という人々は知的な行為としての作曲を眺めて、その曲の秘密を知ろうとする

意外と眺めやすい(音にしやすい)スコアもある
第一ヴァイオリンのパートを見ていれば大外れすることなく音楽を追っていける音楽で
モーツァルトだとかブラームスは、少し慣れると音楽がなっていなくても
スコアを見て頭の中で思い出すことができる

ところが、案外難しいのがベートーヴェンとブルックナーで
肝心なパートが第一ヴァイオリン主体ばかりでないので(金管とか)
今なっている音はどこかな?と探さねばならない

大好きなブルックナーの交響曲8番
この曲のスコアを見ると、作品が時間をかけて作曲された大仕事だったことがわかる
モーツァルトの直感に満ちた無駄のない作曲行為としてのスコアもすごいと思うが
ブルックナーの考えに考え抜いた音楽も、楽譜を見てすごいと思う

写真の楽譜のチェロのフレーズが、この楽章の需要な主題で
管楽器でもチェロのときとは違ったイメージで再現される
この旋律は、年齢を重ねるに従って心に染み入ってくる
それは何かを考えたり思い出したりで、感情の発露としての音楽とは違う
(だが臨時記号も多く難しい旋律に見える)

この旋律の変形が作曲技術の見せ所なのだろうが
残念ながらそれを味わう能力は自分にはない
それが残念に思う



上の楽譜の写真は、この曲の最後の部分
一楽章、二楽章、三楽章と四楽章の主要テーマが、同時に鳴っていると説明される
壮大なフィナーレの部分だ
耳では二楽章の旋律とか一楽章のモチーフなどはわかるが
楽譜としてどのように書かれていて、それがどのように耳に聞こえるように
鳴っていいるかは悔しいがわからない

この楽譜を読み込んで、作曲の秘密とか凄さを感じることのできる人
音が鳴っていなくても、楽譜を見れば頭の中で音がする人
本当にそういう人が羨ましい

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愛知祝祭管弦楽団「トリスタンとイゾルデ」の配信申し込みをした

2022年08月30日 10時03分24秒 | 音楽

コロナ感染症拡大で泣く泣く諦めた愛知祝祭管弦楽団の「トリスタンとイゾルデ」
同じような人が多いので救済策として、チケット所有者にはチケット返却を条件に
映像配信のサービスを無料で受けられるとのことだ

先程、その手続きを行った
生に越したことはないが、仕方ない
動画で感動は得られるか?と気になるが
数年前、びわ湖ホールの「神々の黄昏」が
無観客の動画配信だけで行われたことがあって
頑張って観たその舞台はものすごく良かった

動画配信の良くないところは、いつでも席を立ってしまえること
現場なら否が応でもその席で聴き続けなければならないが
家では気楽なせいで集中が続かない

何れにせよ、全く無駄で終わらないことになりそうで
とりあえず良かった!というところ

 

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リュートのコンサート

2022年08月01日 09時07分29秒 | 音楽

リュートと名付けられたギターに似た楽器がある
ネックのところが直角に曲がって変な格好の楽器で
説明によると弦は羊の腸でできており
しかも2本セットで張られているようだ

バッハの時代より少し前に盛んになったようで
バッハにもリュートのための作品がある
(あまり聴いたことはないが)

昨日、新城市つくで交流館ホールで、この珍しい楽器のコンサートがあった
(ビヴェラと6コースによる16世紀のファンタジアとシャンソンの世界
 コンサート「うたごころ」)
市内と言っても作手は豊川市よりも遠い
この距離は、作手の人たちは新城市の住民というよりは作手の住民
という感覚が強いだろうな!と運転しながら考えた

音楽はめったに聴くことないので、慣れるまで集中がしづらい
音量も大きくない
そして、音楽も素朴で、残念ながらプログラムの一曲一曲が
全部同じように聴こえてしまった

このリュートの音楽は、基本的に歌がメインでその伴奏なり
歌を楽器で演奏したものだったが、聴いていると時代の雰囲気というか
その時代の感情とか精神状態を感じることができた
それは万葉集を読むと、後の時代の歌と比べて
のんびりしたようにと感じるのと同じで、これが盛んに演奏された時代は
難しい問題(神は存在するかなどといった)は、もっと実生活に即した
精神生活をしていたのだろうと想像した

全部同じように聴こえてしまったのは、パターンが似ているからで
リズムは特に際立ったものはないし、メロディもひっかかるようなものはない
不意に、これらの音楽と比べてモーツァルトの音楽はなんと生き生きしているのだろう
と耳にしている音楽とは別のことを考えてしまった

まるで会話のような生き生きとしたモーツァルト
彼の音楽はやっぱり別格というか、奇跡の存在としか言いようがない
ベートーヴェンのそれは人間が達した至高の境地を表現したものがあるが
モーツァルトはあくまでも生きている人間の感情の揺れ動きとか
不意に感じる孤独といったものをサラッと表現していて
一曲一曲は人類にとって不可欠とまではいかないとしても
彼の存在がないと、世の中随分寂しいというか楽しくない世界に思えてしまう

ということで、リュート音楽を聴きながら全く関係のないことを
あれこれ想像したわけだが、こういう時間が結構楽しい

昨晩は暑くて寝苦しい、、と思っていたが意外なことに
4時半まで一気に寝てしまった
久しぶりのドライブと生の音楽に触れたのが頭に心地よい刺激を
与えたからなのだろうか

それにしても最近のコロナ陽性者の増加は、
今月28日の愛知祝祭管弦楽団の「トリスタンとイゾルデ」に
行って良いものか?と悩んでしまう

生の音楽はこの上なく貴重だが、外出して感染したりすると
家庭内の感染も不安だ
第7波が今月下旬は収まっていると良いのだが



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優秀な指揮者とは

2022年07月07日 10時08分26秒 | 音楽

最近、オーケストラの音楽を聴きに行っていない
手にしたチケットは例の為に二回ほど自発的に行くのをやめた
これも習慣性があって行かないと行かないでも平気でいられる
行くとなると、そこでもらうチラシに次の予定を立てることになって
何回も続けて行くことになる

YOUTUBEは情報の宝庫で、面白いものがある
その中に指揮者、井上道義さんのインタビューがあって、とても興味深かった

良い指揮者とはなにか?
まずはオーケストラ(のメンバー)が決める
一人ひとりが音楽家である奏者は、他の奏者の音を聴きながら
個々に表現したいものとの戦いをする
そこをいい具合に刺激を与えてくれると、奏者は充実感を感じられる

こんな話が出たときに、不意にフルトヴェングラーの指揮した音楽を思い出した
彼の指揮する音楽は、いつも、すげーなー!とため息が出ることが多いが
同時に思うことは演奏者も楽しそう!との思いだ
テンポが急激に変化しているだけでなく、ものすごい集中力を要求される音楽
そのハイテンションの状態にいられることに奏者も面白さを感じているのではないか
とつい思ってしまう
奏者も一人の音楽家、指示されて演奏するだけではつまらないと思うかもしれない
あの有名なバイロイトの第9の第三楽章は、音楽が始まってしまったら
音は鳴り続けているが、それは指示されて演奏された音楽なのか?と思う瞬間がある
その音楽は、奏者たちが自分たちで感じた音楽で、指揮という行為を感じさせないような
とても自然な音と時間の流れのような気がする

そしてその演奏は、知らず識らず何かを感じたり考えることが多くなる
良い演奏は何かを感じさせたり考えさせる演奏と井上氏はインタビューに答えているが
それらはフルトヴェングラーの演奏で感じるそのものだ

井上氏のインタビューでフルトヴェングラーを連想すること自体が
自分の年齢とか世代を感じさせるものだが(時代にあっていないが)
まあそれは仕方ない

それにしても、指揮者は音を自ら出すものではないのに
どうして音が違ってくるのか、本当に不思議だ
それが人間の行う行為だとしても、、、

【カリスマ降臨】世界的巨匠・井上道義マエストロが語る!優秀な指揮者とは?芸術・音楽とは?

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失恋の歌

2022年06月23日 10時03分13秒 | 音楽

世の中には失恋の歌と、恋が成就した歌とどちらが多いか?
おそらく前者の方だと思われる
少なくとも印象に残っているのはそちらだ

最近の歌には疎いので、この傾向が今もあるのかどうかはわからないが
不意に(いつものことだが)歌詞に結婚式が出てくる歌を思いだした
それも全く違うジャンルの曲だ

1つ目はグスタフ・マーラーの「さすらう若人の歌」の一曲目

1 僕の愛しい人が嫁ぐとき
僕の愛しい人が嫁ぐとき、
喜びいっぱいの結婚式を挙げるとき、
それは僕にとっては悲劇の日だ!
僕は自分の小部屋に行って、
暗い小部屋に!
泣くんだ!泣くんだ!僕の愛しい人を想って、
僕の愛する人を想って!

小さな青い花よ!小さな青い花よ!
しぼまないでくれ、しぼまないでくれ!
かわいい小鳥よ!かわいい小鳥よ!
お前は緑の荒野で啼いているんだね!
ああ!なんてこの世は美しいんだろう!
ツィキューット!ツィキューット!(ツィキューット!)

啼かないでくれ!咲かないでくれ!
春はもう過ぎ去ったのだ!
歌うのはもうおしまいだ!
夜、眠りにつくとき、
僕は我が苦しみを思う!
我が苦しみを!

最近はめっきり聴くことの少なくなったマーラーの曲
だがこれは、青春の初々しさとか痛々しさがストレートに伝わって
それが今も感じられるかと自分の年齢変化を確認しながら聴いている

この曲はマーラー自身の作詞で、この曲のやりきれない思いが感じられるのが
マーラー指揮者のイメージがないフルトヴェングラーとフィッシャー・ディスカウ
の組合わせだ
(ワルターやバーンスタイン指揮よりも好きだ)

歌詞の中に泣くという言葉が出てくるが、
簡単に泣くもんじゃない!というよりは、わかるな!という感じ

2つ目の曲は「サルビアの花」で
この中にも元恋人の結婚式のシーンが出てくる
そしてここでも泣いている
(歌は「もとまろ」のが一番好き)

この2つとも架空の話だが、架空の話が説得力をもって心に響く
人生の一時期があるということだろう
結局は、いつでもどこでも同じような人がいるのが人の世の中なんだろう

それぞれの歌の動画はこちら

Mahler: Lieder eines fahrenden Gesellen, Fischer-Dieskau & Furtwängler (1952) さすらう若者の歌

もとまろ サルビアの花

 
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