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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

名古屋でのNHK交響楽団定期演奏会

2023年02月20日 09時52分15秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

一階で前から7列目 少し右より
こんな席でオーケストラを聴いたのは本当に久しぶりだった
この場所が音響的に良いのかどうかはわからないが
その席でしか見えないものや音響があるのでそれを楽しむことにした

名古屋芸術劇場コンサートホールで行われたのはNHK交響楽団

少し前まではチケットは購入したものの、大勢の人の中にいるのは怖くて
行かずじまいの判断をしていたことが多かった
だがそれも流石に我慢の限界にきて、出かけることにしたのだった
(久しぶりだから席も良いものにした)

プログタムは前半がドヴォルザークの序曲「スフ教徒」
ついでシマノフスキの交響曲第4番「協奏交響曲」

後半がブラームスの第4番の交響曲だった
指揮は(現場で見ると)アンドラーシュ・シフに似た容貌のヤクブ・フルシャ
ピアニストがピョートル・アンデルシェフスキだった

前半の2曲は聴いたことがない
聴いたことがない曲はそれはそれで楽しみがある
何事も最初の印象は大事で、その時感じたものは一番素直に心に響いたものだろう
そしてそれは、どこに向かうかわからない連想の連鎖につながる

フス教徒は、音楽の展開は音楽の内的な必然性に基づいているのではなく
おそらく外的な要因(台本があってそれに従っている)と感じてしまった
つまり描写的な音楽と感じたわけだが、あとでプログラムの解説を読むと
演劇用の音楽として作曲依頼を受けたものとのこと
それで音が音を呼ぶというよりは、物語の説明的な音楽になったと思われる
そのように自分が感じたことはあながちハズレでもなかったことが
すこし嬉しい感じだった

シマノフスキの音楽は生で聴いてよかったと実感した
この曲を録音媒体で聴いたならきっと途中で聴くのを止めただろう
後期ロマン派よりも後の時代の作曲家で
音楽の重要な要素の一つであるメロディーは
美しいというよりどこか精神に引っかかりをもたらすようなものになっている
音響も同様で、大音響でなっている音は秩序の中の音というよりは
何か(例えば苦痛)を表現する音響のように感じたりした
この音響は何に似ているのだろう、、と思い浮かべながら聴いていたが
バルトークかな、、と勝手に思ったりした
こうした連想の羽ばたきがライブは面白い

後半のブラームスになると、普通の旋律があるということのありがたみを感じるのだった
メロディというよりは短いモチーフかもしれないが、
少なくともシマノフスキよりは数段聴きやすい
4番はブラームスの交響曲の中では一番好きな曲で
秋から冬になると必ず聴きたくなる曲だ
メランコリックなモチーフが演奏楽器を変えて展開していく
昔は少し女々しいと思ったが、今はその女々しさの理由もわかる気がして
むしろ共感を覚える感じだ
この曲はナマで聴いていても、良いことではないかもしれないが
ついついフルトヴェングラーの凄まじい演奏と比べてしまっていた
第1楽章終わり近く、楽器同士が競うように鳴らしあったあと
ヴァイオリンに任された部分がフルトヴェングラーの演奏では
ものすごいスピードにテンポアップしてハラハラ・ドキドキするのだが
その演奏を知った後ではどこか物足りなくなってしまうのだった

と言っても、録音媒体ではよく聞こえない音・フレーズが良く聴こえるのは
ナマならではのこと、やはりナマは違う

あれっ、と驚きを感じたのは第3楽章の音が出た時だ
音が揃っているのか、気合が入っているのか、、とにかく今までの音と違う
不意にオーケストラメンバーはこの楽章を徹底的にリハーサルしたのではないか
と妙な確信をもってしまった
その勢いは最後の楽章まで続いて、ナマならではの音楽の高揚感がもたらされた

この4番の交響曲の最終楽章は演奏がまずいと(あるいは解釈がまずいと)
終わった気がしない音楽になってしまう
何か中途半端に放り出されたまま急に終わってしまった、、
という気分になってしまう
流石に聴き慣れてきているので、この演奏ではそんなことはなく
ブラボーの声がでるくらいの熱演だった

チケットの料金と満足感とそれに要する時間
最近は自分にとって料金の基準はなんだろうか?と考えてしまう
田舎から交通費をかけて名古屋まで出かけて
安くないチケット代を支払って、、、
でもそれが価値あるものと感じるのは
今の年齢へのご褒美なのかもしれない

今実感しているのは
何事も行ける時に行っておかないと行けなくなてしまうということ
来月も何か選んで行くことにしよう

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久しぶりの宗次ホールと二回目のミロ展

2022年06月13日 09時27分45秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

本当に久しぶりに宗次ホールにでかけた
朝に出し物を調べると田部京子さんのピアノリサイタルとあって
当日券が有ればラッキーで、ついでにミロ展2回目を見ることして
とりあえず名古屋に向かった

やっぱり生の音は良い
音の出口がスピーカーより大きいので、空気の振動が全体的で
包まれる感じがする
プログラムはブラームス、シューベルト、シューマンの作品だ

これらの作品は初めて聴く作品だ
もしかしたら、聴いているかもしれないが間違いないのは
印象には残っていないということで
自分にとってはシューベルトもブラームスも
作曲家としてはどこか物足りなくて相性がいいとは言えない

シューマンは「詩人の恋」とか「謝肉祭」は好きなので
この二人ほどの違和感はない

生の演奏会というものも慣れが必要なのかもしれない
しばらくご無沙汰していたせいか、なかなか集中ができない
それでも楽しんだほうが勝ちということで、初めて耳にする音楽から
色々連想することに気持ちを入れ替えた
初めて聴くと演奏家の比較はできないので、音楽自体が作曲家の視点で迫ってくる
つまりは作曲家の個性とか癖がより強く感じられるような気がする

初めて聴く音楽は、まるでキース・ジャレットのソロコンサートみたいだな
と漠然と頭に浮かんだ

ブラームスもシューベルトも旋律依存の高い作曲家のような気がする
と言っても作曲技術をとやかく言えるほどの知識はないので漠然とそう思うだけ
でもベートーヴェンのようなかっちりした感じはないし、モーツァルトのような
直感的な迫る様子もない
ピアノという楽器に対する効果的な演奏アイデアも、どこか物足りなくて
モヤモヤしている感じがどうしても残る

それと比べるとシューマンは良かった
「詩人の恋」のピアノ伴奏もヴォルフのピアノ伴奏並みに雄弁で
ピアノパートを聴くだけでも楽しめるが、今回のプログラムも
前の二人に比べるとピアノの特性を発揮しているような気がした
(と素人の自分は思ったということ)

この演奏会の前に、近くの愛知県美術家で開催中のミロ展にでかけた
2回目だから前回よりじっくり見られた
ここでも変なことが印象に残った
それはミロの作品ではなく、ミロを紹介するコーナーに
ミロの工房がものすごく大きな写真があって
その工房には彼の作品が無造作に並んでいた
その落書きのような作品群の迫力のあること
まるで子どもたちが何人もそこにいるかのような雰囲気だ
彼はこの場所から離れたくないだろうな、、などと連想は広がった

前回も写真撮影の作品には遠慮なく撮影させてもらったが
今回の撮影可能なコーナーはこちら


この訳のわからない絵も好き
前回は購入しなかったミロのグッズも、少しだけ手に入れた

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ミロの展示会(撮影可能な作品があった)

2022年05月08日 09時46分14秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

なぜ好きなのかを説明するのは難しい
だが好きになった瞬間のことははっきり覚えている

昨日、本当に久しぶりに名古屋まで出かけた
お気にいりのミロの展示会を見るためだ
(ミロ展 日本を夢見て 愛知県美術館)
会場はそれほど混んでいるとは言えない
その分ゆっくり見られていい

自分が好きなのは後期の部類にはいるのだろうが
黒と赤と黄色とか緑を使った落書きののような絵
なんだかよくわからないが、とにかく愛着感を覚えるのだ
(安心感も)

そうそう、これこれ、、、と思いながら展示作品を見てると
作品の隣にカメラの印があって、撮影可の文字があった
SNSの投稿も可能ともある

そこで遠慮なく撮影したのが

上の作品は今回の展示会の紹介に使われているもので
馴染みがあるが、大きな画面を目前で見るとまた違った印象を持つ

そう言えば東京上野の西洋博物館に展示されているミロの作品も撮影可能で
2016年にちゃっかり撮影している
それが


誰でも描けそうな単なるいたずら書きみたいだが、遠くから見ていても
ミロの絵がある!とすぐに分かって吸い寄せられるように近寄った

何が良いか、なぜ好きかは言葉にしにくい
食べ物を味わってる本人が美味しいという表現でしか言えないのと同様に
好きだという感覚は、、共通項は感情の面ではあるかも知れないが
言葉の世界ではどうも不十分な気がしてしまう

ミロを知ったのは、そして一気にお気にいりとなったのは
豊橋にかつて存在した西武百貨店のイベントがきっかけだった
ある時、版画の展示即売会をやっていた
本当に何の気無しに覗いただけだったが
ある絵の前で釘付けになった
それはハガキよりも少し大きなくらいの絵(版画)で自分には
その絵から不思議な空気が発散されているような気がした
優しさとか温かさ、、それがほんわかと溢れていて
なんだこれは、、と作者名をチェックして
それがミロだと覚えるきっかけとなった

以後、ミロに関する情報はいろいろ目に入るようになって
岡崎で行われた展示会も見に行ったし
彼の作品が多く載っている本も手にした

こうなる彼の作品を手元に置きたい
と思うのは自然のことだが、本物は気楽に求められる金額じゃない
豊橋の画廊にも版画の作品があったが、金額面だけでなく
もっといい作品(気持ちにフィットした)はないのだろうかと迷ってしまう

ということで、手元にあるのは展示会でお土産用に売られていたハガキが数枚
その中で、額に飾って目につくところにあるのがこの絵


抽象的なので、なんとでも味わったり理解しようとすることができる
でもそんなことを思うより、ただただ良いなあ、、と思うことのほうが
より楽しめるような気がする

バルセロナにはミロの美術館があるらしい
そこには行ったことはないが、自分には有名なガウディの建築物よりも
ミロのほうが気になる(ペドリのいるバルサも気になるが)

この展示会は7月3日まで開催されている
昨日は久しぶりの外出で疲れてしまい、本調子がでなかったから
気分を改めてもう一度行くことになるかも、、、

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新城吹奏楽団 第93回定期演奏会

2021年12月13日 09時44分37秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

やはり音を浴びるという感覚はいいものだ

前回は見逃してしまったコストパフォーマンスの極めて良い
新城吹奏楽団の演奏会にでかけた
最近はコロナのせいで宗次ホールにも行けていないし
まして大人数のコンサート等は全くのご無沙汰だ

この演奏会はいつも自分にとっては非常に満足度が高い
それは価格が圧倒的に安いというより
会場にいて何かを感じたり連想したりすることが
非日常的で、それは貴重な時間と思われるからだ

批判的に捉えるのが通っぽい印象があるが
音楽は「楽しんだもの勝ち」だと思う
アラを探すより楽しめる要素を十分に味わう
それが一番だ

演奏会は大きく3つに分かれていて、
いつも驚くのだが、最初には「初演」とプログラムに書かれた現代音楽が演奏される
今回は「深水」と「吹奏楽のための小品11」とタイトルされている
「深水」はまるでメシアンの音楽を彷彿とさせる音響で始まる
メシアンは嫌いではないので自分は抵抗感はないが、他の人はどうなんだろう
と少し余計な心配をしてしまう
だが、この(音響だけの?)極めて奇妙な音楽は
現代人にしかリアリティをもって感じられないと思う
続く「吹奏楽のための小品 11」は演奏が始まるとホッとした
「メロディがある」ということは、これほどまでに安心感を与えるものか
とつくづく感じ入った

二部は、吹奏楽に多大な貢献をしたアルフレッド・リード生誕100年を記念して
彼の作品を集めていた(彼のことはあまり知らない)
と言っても、この季節らしいクリスマス絡みの曲が並べられていて
聴いたことがある賛美歌のフレーズが時々現れて、一部ほどの緊張感はなく楽しめた

そこで大音響で音を浴びるという感覚を覚えたのだが
この大音響の必然性は、聞き手に大きな音ゆえのカタルシスを与えるだけでなく
作曲者の「どうしてもそうしたい」という気持ちとか癖が
現れているような気がしてならない
それは大好きなブルックナーが、ワンパターンの様に神を賛美する音響で終わる
曲作りを連想させられた

聞き慣れた音楽という点では三部が一番だったかも知れない
ムソルグスキーの「禿山の一夜」
ドボルザークの新世界の第2楽章
ヴェルディの「アイーダ」から賛歌
が演奏曲目で、ここで印象に残ったのは作曲者の国とその音色の違いだ

と言っても、はっきり違いがあったというのではなく、明らかに違うな
と思われたのはヴェルディの曲の時で、ヴェルディの曲は光の豊富な国、
日向と日陰のコントラストの際立つ国、母音の多いはっきりした言語の国の人が
作曲した作品だとつくづく実感した(先の二人と比較してわかったことなのだが)

とまあ、聴きながらあれこれ連想したのだが、こうした時間は「いつもと違う」
濃密な時間経過で、それ故に頭の中がスッキリした気持ちになれる

現場にいて楽しめたのは事実だが、いつも思うのはもっと楽しんでいたのは
演奏者たちだろうなということ
彼らの充実感がこちらに空気感染したのだと、つい思ってしまう
(空気感染は今は適切な表現ではない?)


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「燃えよ剣」を見てきた

2021年10月31日 15時42分06秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

函館駅から10分ほど歩くと土方歳三のお墓がある

いやお墓ではないかもしれない
なぜなら此処には彼の骨も体の一部もないからだ
彼の身体は彼の味方によってどこか知らないところに運ばれた
それは官軍によって見つけられたならば、近藤勇のように人々の前に
見苦しい姿(さらし首)をさらされることを恐れたせいかもしれない
この石のモニュメントの隣には此処が彼の最後の地であったと書かれている


多くの土方歳三のファンがそうであるように自分も彼の足跡を訪ねた
生家はもちろん、会津、函館
そしてこの場所で少しだけ手を合わせた

土方歳三はある日突然やってきた
京都の八木邸の近くの壬生寺にものすごくハンサムな男の写真が飾ってあった
並んでいるのは京都の治安を守るといいながら、少しばかり物騒な新選組の連中だ
その場にふさわしくないほど端正な顔立ちだった
「誰だ、これは?」
最初に思ったのはこのことだった
なぜこんな顔の人物が血なまぐさい出来事に関与したのか?
かれは本当に自分のしたいことをしたのだろうか?
「土方歳三」という名前を深く頭に刻んで、家に帰った

その後、多くの彼のファンがしたように司馬遼太郎の「燃えよ剣」
を読んで、彼の生き様を知ることになった
彼のおおよその生き様はそれでわかった
だが、自分にはしっくり来なかった
あの顔とやってることのアンバランスは、「燃えよ剣」
ではどうしても解決できなかった

だから土方歳三関係の本を読み始めた
島田魁日記とか仲間の発言が残るもの、それから彼を扱ったフィクションも、、
そうするうちに自分なりの彼のイメージができてきた
そのイメージは一本気な男だけではなく、むしろ繊細な神経の自己の中に
美意識をもった極めて人間的な男と思うようになった

確かに彼の生まれ育った地は、徳川から優遇された場所で知らずしらず徳川家への
シンパシーを感じていただろうと思われる
それにその時代は今の時代ほど、個々にいろんな考えが生まれていたとは考えにくい
だが彼は、自分の内なる秩序が何よりも優先する性格だった(と思う)

内なる秩序とは人を管理する方法として、合理的かつ法に基づくものを良しとした
あの評判の悪い「局中法度」は、荒くれ集団をまとめるための現実的な方法として
法による管理を求めたものだと思われる

だが厳しすぎる法は、弊害ももたらした
それは却って現実的な方法ではなくなってしまったかのようだ

かれは時間を重ねるうちに、挫折を味わうに連れて彼本来の柔らかな感性に
よる管理の方法を好むようになった
人は理屈では動かない、、動くのは人間性によるもの、、
そうしたことを彼は感じるようになる
それは彼の発句集(豊玉発句集)で感じられるおおらかな感じに通じつものがある

彼はあの見込みのない戦いの中で、自分たちの素人集団の仲間に向かって
「今日は素人ながらよく戦った
 もっとついでやりたいが明日があるので、、このくらいに」
と一人ひとりに酒をついで周った
人が人のために動くというのは、こうした気遣い、感情の交流がないと駄目だ
と彼は最後に気づいたと思う

今日、映画「燃えよ剣」を見に行った
結果を知ってるだけに、いくらファンと言ってもどこか心が重い
それに一本気に見える性格設定は自分とは違うので
それも進んで見る気にならなかったのかもしれない

映画はこれで時間内に収まるのか?
と思われるほどゆっくりしたペースで進められた
京都に行くところから清河八郎の裏切り、芹沢鴨の暗殺
池田屋事件、山南敬介切腹、伊東甲子太郎との戦い、鳥羽伏見の戦い
その中で偉くなっていく近藤勇の精神的な変化も見え始める
かれは武士になりたかっただけ、、のようにさえ見える
「自分の思うようにさせてくれ」  
そういって去った近藤は実質的に土方歳三の秩序内で
いることが辛かったのかもしれない

土方歳三はもしかしたら剣術はそんなに強くなかったのではないかと思うことがある
だからこそ、合理的な勝つ方法の手段を考えついたと思われる
それは弱小集団のサッカーチームが知恵者の監督の元で戦うのと似てる
彼自身が剣術の使い手すぎると、それを基準に方法を考えるので
全部が全部そのレベルに達していない仲間では、うまく機能しない恐れがある
誰がやっても平均的に強い方法を考える
そういうことが彼は好きだったし、それを美しいと感じたのではないか

彼はモテた  と実家に手紙を書いて送っている
映画ではフィクションの「お雪」(柴咲コウ)という女性が登場する
硬派のバリバリの気張った筋道に息抜きのように現れる女性だ
「想い人」映画で出てきたこの言葉は、その言葉でしか表わせない世界のようで
美しい日本語のように思われた
歳三は、自分に生き様を描いてくれと絵の上手なお雪に依頼する
それは実家の義理の兄のところに自分の写真を届けてくれ!と依頼する感覚と似ている

それは忘れられることの恐れとか、自分たちの行動は間違っていたと
判定されることへの必死の抵抗のように思える

自分としては戦いを重ねるうちに起きた内面の変化が
もう少し見えると良いと思ったが、これは自分好みの性格設定なので
本当はどうかわからない

松平容保は運のない人だった
だが歴史の事実では孝明天皇から信頼されていた
会津と言えば官軍の敵の存在だが、松平容保の孫だったか(そのあたりの人)が
皇族と嫌婚している
それと比べて、自分が嫌な人物と思うのは徳川慶喜だ
人物を見出す力としては力量があったかもしれないが、
二条城を抜け出したところは人としてどうしても好きになれない

時間として2時間ちょっと、、の映画だが、その中で印象に残った音楽がある
池田屋事件の戦いの最中に流れていたのはオペラ、カルメンの中の「ハバネラ」だった
これが妙に効果的だった
そしてもう一つお雪さんとの重要なシーンに流れていたのは
オペラ「真珠取り」の「耳に残るは君の歌声」でこれも切なくてよかった
この音楽は最後のシーンでも使われていた

歴史上の人物像はフィクションでイメージづけられる
自分にとっての土方歳三は司馬遼太郎の歳三像とは違うが
ただ坂本さんばかりが注目される中、同じくらいの年齢の歳三さんが
この機会に注目されるのもいいかもしれないと思ったりする

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小木曽真&児玉桃 スペシャル・コンサート

2020年02月12日 08時49分18秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

「小曽根真」
その名前を知ったのはある年のラ・フォル・ジュルネだった
何かの都合で予定された出演者が出られなくなり、そのかわりに代役として登場したのが彼だった
チケットの払い戻しは可能だったが、面倒なのでそのまま替わりのプログラムを聴くことになったが
チケットの払い戻しをしなくて大正解だった
とても面白かった
何という曲を演奏したのか(そもそも曲名があるのか?)わからなかったが
聞き覚えのあるクラシックのメロディが流れたり、圧倒的なリズム感のなかで
即興的に演奏されたりして、その瞬間瞬間は確かに興奮して聴いていたことを今でも覚えている
またクラシック音楽が、今の時代感覚とか空気感と少しばかり離れているなかでは
彼の音楽は確かに「今の音楽」で、忙しいこの世の中の感覚にフィットしていた

「児玉桃」
彼女の演奏を初めて聞いたのもラ・フォル・ジュルネだった
お姉さんの児玉麻里との二人の演奏でメシアンの「アーメンの幻影」のプログラムを聴いた
メシアンは好きな作曲家だが滅多に演奏されることがないので、この機会を逃すわけには
いかず、難解な音楽を全身で浴びるように体験した

この二人、小曽根真と児玉桃の二人のピアニストによる演奏会が昨日、豊橋のプラットで行われた

プログラムは

最初はオーソドックスなクラシックの音楽
次はジャズ
後半は変則的な編成のバルトークの音楽で意欲的なプログラムだ

最初のうちは調子が出ないな
児玉桃さんの演奏を聴いていてそう感じた
マズルカはショパンの曲の中で好きな方だが、この聴きやすさの元となっている感情の流れに従った(?)
曲の構成は、少しばかりつまらないかもしれないと頭に浮かんでしまった
それは次の有名な幻想即興曲にも言えることで、もっと音と音が構築的な方が楽しめるな、、と
演奏ではなく曲自体に不満を持ってしまった
だがスケルツォになると曲が長くなった分、構成も緻密になってきて
おまけに児玉さんも調子が出てきて、感情の高ぶりと演奏が一体化した感じで
やっと楽しんで聴けた気分になった

次は小木曽真さんが登場
座って演奏しだしたのはショパンの前奏曲のなかから葬送風の音楽
でもそれは直ぐに雰囲気を変えて今の人間に直接訴えるものの多い音楽に変わった
4曲演奏したけれど、クラシック音楽のときほど演奏曲の題名には気にならない
同じ曲でもその時その時で演奏が変わりそうだから、そもそも比較の対象にならない
演奏の合間にマイクをもって話す場面があったが、彼がいみじくも発したように
「同じピアノでも奏者によって音がずいぶん違う」ことはそこで大いに実感した

児玉さんの音は憂いをもった音、しかもうちにエネルギーを秘めたような雰囲気
小木曽さんの音は自由な明るい軽やかな音
演奏するジャンルの違いが大きいが、それだけでなく個人の資質によるものなのかもしれない

昔、ドイツとオーストリアを放浪した時、教会でオルガンコンサートを聴いたことがあった
曲目は定番のバッハとかブクステフーデが多かったが、その中にインプロビゼーション(即興演奏)が
いつも組み込まれていた
これが古典を聴いているよりも感情にフィットして印象に残ったが、小木曽さんの演奏を聴いていて
不意にこのことを思い出した
あと小木曽さんの演奏の途中で、セロニアス・モンクならリズムがゴツゴツした
演奏をするだろうな、、などと想像してしまった(集中して聴いていない?)

20分の休憩を挟み、今度は変則的な編成によるバルトークの音楽
現代音楽は通常の録音媒体で聴くのは辛い
ナマの現場でしか20分以上の集中は続かない
特に苦手なバルトークではなおさらのこと
予想したとおり予想がつかない初めて聴くだけでは頭が混乱しそうな音楽
でも生だから集中して聴いていられる
作曲家は個性とか癖があるようで、曲の途中でピアノ協奏曲とか弦チェレを
思い出させるような部分があって、この音楽はバルトークだ!と実感

ということで、田舎の豊橋にはふさわしくないような凝ったプログラムの
個性的な二人の演奏会は、それなりに楽しめた、、というところ

 

 

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映画「CATS」を見に行った

2020年01月25日 15時49分08秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

映画館の入り口でこのようなカードが手渡された

シニア料金を使わなくてもファーストショーだから安くなっていた
「CATS」はミュージカルを見るきっかけになった作品だ
正確にはアンドリュー・ロイド・ウェバーが作曲した音楽を聴きに行くきっかけとなった
と表現するほうが良いかもしれない
(このあとオペラ座の怪人、ジーザス・クライスト・スーパースター、エヴィータ、スターライトエクスプレスを体験した)
30年以上も前、偶然チケットが手に入りそれほど期待せずに入ったが
帰る頃にはその音楽に、声の迫力に圧倒されていた
今覚えているのは、一部の終わりで歌われた「メモリー」にとても心揺さぶられて
つい「メモリー」の楽譜を購入してしまったことだ
そして、蝶々夫人のある晴れた日に!に似てるな、、と思ったりした

他に覚えているのはコートを羽織ったグリザベラが出てきた時
(このときは志村幸美さんが演じていた)照明のせいかそれとも
彼女のオーラの為せるわざなのか、その存在感が普通の人と違う
と感じたものだった
だから一匹だけ選ばれて天井に昇るのがグリザベラになったのは
なんの違和感も感じなかった

劇団四季の「CATS」はこのあと数年後もう一度見た
その時は猫の動きの柔らかさを演じていたのが印象に残っている
でも自分の興味はやはり音楽で、その間にCDを購入して音楽を聴き込んだ
このミュージカルのお気に入りの音楽は「メモリー」は当然のこと
太ったおばさん猫の歌う「ジュニエニドッツ」(のんびりと活発な対比が効果的)
おおらかな旋律が人格者を思わせる「オールドデュトロノミー」(コーラスとの掛け合いが良い)
それとグリザベラが娼婦と歌われるシーンでのピアノを主体とした伴奏で
実のところ、ストーリーはほとんど覚えていない

もっとも、このミュージカルはもともとストーリーは無いに等しいかもしれない
コンセプトアルバムと言うよりヒット曲集のアルバムのようで
それぞれの猫が特別な運命を得るためにパフォーマンスを披露する
だから変に物語を追わずに済んで音楽だけに集中できる

ところが今回の映画は物語になっていた
雌の猫(ヴィクトリア)が袋詰にされて捨て去られたが、近くの猫が
袋を解いて彼女は自由になる
そこで彼女は「天上まで行ける特別な猫」を選ぶ大会のようなものの目撃者となる
彼女はいろんな猫に出会い、いろんな経験をする

そこでこの映画に対する不満を覚えてしまった
映画がヴィクトリアの一種成長の物語風に、あまりにもわかりやすい筋書きとなっていたこと
悪漢のマキャヴィティを勧善懲悪ぽく、みんなでやっつけたこと
それらは、舞台はこんな話だったかな、、、と違和感を覚えた

この台本はエリオットの詩が元になっているらしい
だから、ところどころ歌の中にチクリと刺さる部分もあった
だったら余計なことをしないで、このミュージカルを見てどう考えるかは
見た人に任せるほうが良いのではないのか
あまりにも親切に説明しすぎるのは、、どうもな、、
想像する楽しみは残しておいてほしいな、、
そんな不満が湧いてきた

この映画はイギリス・アメリカでは批判も結構あるようだ
どの部分がそれに当たるかはわからないが、
自分はあまりにもわかりやすくしてしまったことが気に入らなかったな

でも「メモリー」はホントいい曲だ

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新城吹奏楽団 第90回定期演奏会

2019年12月15日 17時57分08秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

誰かに話したいとか、忘れないうちに書き残しておこうと思ったのだから
今日のコンサートは大いに満足いくものだったと評価して良いだろう

新城吹奏楽団の定期演奏会が文化会館で行われた
とんでもなく低価格(前売り500円)で、毎回楽しみにしている
プロのオーケストラも良いが、アマチュアの熱い演奏も捨てがたい

通算90回にもなる定期演奏会のプログラムはすごく意欲的で
こんな具合


 

新城市みたいな地方都市だから有名な曲を並べたものかと思いきや
冒頭の曲目はまるっきりの現代音楽
美味しいメロディがあるわけではない、むしろメロディなどは存在しないような
引き伸ばした音があるだけ
指揮棒が動き出すとティンパニが鳴り出す、最初は小さな音で、次第に大きく
それが繰り返されると大太鼓と一緒に思いっきり革はぶっ叩かれる
その音色に不意に、これは日本の音だ!と感じた
ティンパニは西洋音楽を基本とした音程で準備されているが
それが和太鼓のような音色だった
それから続く音楽は聞きやすい音楽ではない
だが現代人しか納得して味わうことができないような、あるいは共有できないような印象を持った
ところどころ武満徹を思わせるような緊張感やベルクのルル組曲の騒音を思わせる部分があった

以前聴いたこの定期演奏会でも山本家寛氏が作曲した現代音楽の初演があった
それは無調のようだが、しかし、決して聴きにくいものだはなかったが、それをつい思い出した
古典となった曲ばかりでなく、こうした曲も生でしか集中して聴けないから
ラトルが実行しているような(現代音楽を扱った)プログラムは必要なんだろうと思ったりする

第一部の最後の曲は、先の2つの曲よりも横に流れる
音楽の民族性とか国民の持っているリズム感、旋律嗜好を感じるような気がした

少しの休憩を挟んで、第二部は愛知県の生んだアスリート浅田真央さん絡みの曲
ハチャトゥリアンの「仮面舞踏会」とラフマニノフの「ピアノ協奏曲第二番」
少し気になったのはピアノの音が弦の代わりの楽器群に消されてよく聴こえなかったこと
自分の座った位置が悪かったのか、管楽器でバランスを取るのが難しいのか

第三部は、「モルダウ」からスタート
個人的な好みだが冒頭のフルートの掛け合いは、ピアノの音なしのほうが良かったのではないか
フルート奏者がそれぞれ思いを込めて会話するように演奏してほしかった
それからあの有名なメロディが奏される時はもっと憧れを感じさせるように、少しだけある部分を伸ばして、、、、
(ついフルトヴェングラーの指揮するモルダウを思い出してしまった)

「展覧会の絵」と「パリのアメリカ人」は指揮が背の高い若い女性に代わった
驚いたのは音が明らかに違うと感じられたこと
まずは彼女の生み出す音がパワフルだった
それは単に音が大きいというのではなく、中音域の音が詰まっているような
若さに溢れているような、奏者も共感しているような音色だった
同じメンバーなのにどうしてこんな風に音色が変わるのか、、とても不思議な気持ち

実質的には以上でプログラムは終わり
パンフレットにはまだ数曲あるようだが実質的にはアンコール的な要素のように思われた
今回のプログラムの実験的なところは
「天国と地獄」の前の「ストーン イメージ」と題された楽曲が再び現代音楽だったこと
第一部は武満徹を連想したが、今度はその音楽の短いところと音程の飛躍もあって
ヴェーベルンの俳句のような音楽を連想した
(昔聴きいったサイモン・ラトルの演奏会のアンコールに
 ヴェーベルンの30秒位の音楽が奏されたことがあったが
 音楽に酔った身にはとても純粋で美しいものに思えたことがあった)

ということで、少し興奮冷めやらずといった感じ
これで500円の出費なのだからとんでもなくコストパフォーマンスがいい
次回も絶対行かねば!

 

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「i 新聞記者 ドキュメント」

2019年12月07日 19時45分56秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

「i 新聞記者 ドキュメント」を名古屋のミッドランドシネマで見た
定員は90名 見たところ80%くらいの入
松坂桃李が出演したフィクション仕立ての「新聞記者」よりは
少し多くて、始まる前から熱気があるような感じ

ドキュメンタリーだがメインの人物がこの地方の新聞社「中日新聞」に関係した
東京新聞の記者の望月衣塑子氏ということ
最近話題となっている菅さんの不機嫌そうな顔の原因となっている人物の本物の仕事が
見られるということで興味を持った人が多いのかもしれない

まずこの女性はパワフルだ(何故かいつも重たそうなものを引きずっている)
不意に「余所者、若者、馬鹿者」という言葉を思い出す
何かを変える時、変わる時はこういう人物がいないと駄目だ
近くにこのような人物がいたならば、周りは大変だろうな、、と思いつつ
今、この人物がいなかったならば(メディアは)一体どうなっていただろうか?
と不安を感じたのも事実だ

辺野古の埋め立ての件(赤土のパーセンテージ)、伊藤詩織さんの件、森友学園の件、加計学園の件
こうして並べただけで如何に問題が多いか驚いてしまうが、これらのことを追い
菅さんに迫る様子をメインに映画は進められていく

映画を見て強く印象に残ったのは菅さんの顔
いつもテレビニュースやYoutubeで見ているので珍しくも無いのだが
こうして大画面で見ると、その表情に隠された感情とか人間性が見えるようで
そしてそれは決して好ましいものとは言えず、驚きと不安を覚えてしまった

ジャーナリストは現在は記者クラブなる組織に所属していないと
美味しい(実はみんな同じじゃないかと思うが)ネタはもらえないと信じられているようだ
いつも見るたびに菅さんの勝手に言いきっているだけの説得力のない答弁は怒りを覚えるのだが
そんな答弁を他のメディアは何故許してしまっているのだろう、、
何故、鋭く突っ込むようなことをしないのだろう、、
菅さんだけでなくメディアにも疑問を感じてしまった

「太平洋戦争と新聞」「戦争と新聞」以前読んだこの二冊のことが頭に浮かんだ
そして名古屋に向かう電車の中で開いたマックス・ウェーバーの「職業としての政治」のなかの
ジャーナリストのページを思い出してしまった

映画はほぼ予想したとおりの内容
だが事実は重い
ここまで進んでしまっている中で何ができるのか、、との思いも頭をよぎる

それにこの映画の上映館が少ない、、という現実
確かに面白おかしい内容ではないが(彼女は方向音痴との息抜きの場面もあったが)
できることならもう少し上映館が多いと良いのに!

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「決算!忠臣蔵」を見に行った

2019年11月30日 14時52分08秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

母方の祖母は自分の娘(叔母)に「生まれたのは討ち入りの日」
と、ことある事に話していた(らしい)
最近ではあまり騒がれなくなったが、一時期「忠臣」の鑑として
あまり良くない方向に利用された感のある「忠臣蔵」
個人的には歌舞伎のストーリーは上手くできているというものの
仕返しのような内容は、関係ない人(吉良さんを守ってる人)も傷つけることになるので
共感しかねるものだった

最近読んだ江戸時代の歴史書には、赤穂事件のきっかけとなった松の廊下の刃傷沙汰の原因は
浅野内匠頭の家系の病気とか切れやすい性格だったとか、吉良さんが悪いばかりでもなさそうな
一次資料が存在するらしい

映画「決算!忠臣蔵」を見に行った
原作の「忠臣蔵の決算書」は何年か前に読んだ
例のごとくあまり覚えていないが、かすかに覚えているのは江戸までの交通費・宿泊費が
事細かに書かれていたこと
藩の取り潰しの際の退職金は下に厚くなるような気配りがされていたこと
京都での遊興は大石内蔵助の自腹で行ったこと
瑤泉院にキチンと会計報告をして、この会計報告が忠臣蔵を研究する人たちの貴重な資料となっていること
などだ

最後のキチンと会計報告をしているところなどは、大石内蔵助は単なる「忠臣」だけでなく
実務的な行政マンなのだな、、と実感したものだった

映画はいろんな見方ができる
吉本興業のスタッフがメインなのでお笑いの視点はもちろんのこと
番方(武官の系統)の勝手なお金の使い方は役方(文官・事務の系統)にとって
理解できない乱費で、これを怒る様子は現在の騒ぎになっている「桜を見る会」の
身内に甘い浪費を連想させる
まさか吉本興業はそこまで考えていなかっただろうが、結果的には皮肉な作品として
見ることができる

岡村隆史の登場シーンに「ないない!」
とあったのは、少し笑えた

番方と役方、平和な時代になって番型の役割は低下していき、徐々に役方が実権を持つようになる
その実態にイライラする番型は、感情的な勢いだけで「討ち入り」を目指す
ところが財政的な裏付けが全然ない
ここで登場するのが大石内蔵助と友人の下級武士で役方の岡村隆史の演ずる役
何かのために!とへそくりとか財政調整基金みたいなものを溜め込んでおき
当時の常識となっていた吉良さんへの賄賂(みたいなもの)も用意していた

こうした現実的な思考が役方の大事なところだが、ここで不意に思い出したのは
先の戦争のときの軍部と文官の認識の違い
戦争を始める前から戦力の差は歴然としていた
この映画に出てきた山鹿流の戦術(1対1で戦うのではなく、1対多の状況を作る)は
既にその当時でも発表されていたランチェスターの法則にとそっくりで
それほど難しく考えなくても常識的にも戦力が多いほうが有利なのはわかる
その戦力を支えるのが経済で、それをよく考えていたかといえば、、、

時には清水の舞台から飛び降りることも必要だ、、とか、
日本人は精神力が優れていうるので戦力差のハンディはなんとかなると
無責任な言動で戦いに導いた人物
そしてその結果は、、、
不安なのは、それと似通った人たちが今もいるような気がしている

このような視点から見ると、この映画はエンタメでありながら極めて政治色の強いものとなる
でも、残念ながらそう思う人は少ないだろうな
(自分が感じたのだから何人かは同じ様に感じるだろう)

※安倍さんが吉本興業に各種補助金を出しているようだが
 その吉本興業がこのような皮肉が効いた映画を作るところは
 さすが関西!と褒めておこう


 

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