パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「東京裁判」を見て

2019年08月13日 06時07分39秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

パンフレットを購入するなどということは珍しいことだった
いつもなら見向きもしない
でも今回はいろいろ確かめたいことがあって1000円の出費を決心した(大げさな)

名古屋シネマテークで上映された「東京裁判」
上映時間は4時間を超え、途中で休憩タイムが挟まれる
30分ほど前に会場に着いてチケット購入
良い席を確保しようと思ったら、何のことはない席はだいぶ詰まっている
良い席どころじゃない、、とりあえず座るところを確保しなきゃ、、と最後部の席で我慢することに

映画は古い画像を4Kデジタル・リマスターを施したもので、想像以上に見やすいものだった
名前はよく知られている「東京裁判」
だが、その中身はよく知らない(自分は)
不公平なものだったとの一部の人の意見もあるが、とりあえず映画の流れに身を任せる

西欧の裁判の形式が当時の日本には珍しかったようで、しかも裁判官は外国人、被告は日本人で
言葉のやり取りでなかなかうまく進まない
(同時通訳の機械も数回経てから導入されたとか、また通訳への不満もあったようだ)
ここで興味深かったのは被告には弁護士がつくが、この弁護士がアメリカ人で
敵国として戦った相手に対して、法の精神に則り、心底被告の立場で議論を挑んだことで
「公平であること」とはどういうものか、、と考えさせられた

裁判は平和に対する犯罪、戦争に対する犯罪、人道に対する犯罪、
いわゆるA、B、C戦犯に対する事実確認からスタートする
(戦争に対する犯罪の戦争の法規または慣例の違反などという概念自体が当時の日本人の間にあったかどうか
  と映画にはコメントが入った  多分、何も知らなかった素人集団が大半であったと想像される)
A級の平和に対する犯罪は新しい概念で、その概念を用いて過去を裁くというのはいかがなものか
そもそも戦勝国が敗戦国を裁くことが公平であり得るのか、、との疑問があげられたが、裁判長は取りあげず
裁判は進められた
平和に対する犯罪とは戦争を起こしたこと、計画したこと、止めなかったことに該当して
この一つ一つを丁寧に(戦争への過程を)事実確認をしていく
満州への進出(それは植民地政策ではなかったか)とそこで起きた(起こした)事件
戦争に至るまでの会議の記録(御前会議とか)
宣誓布告なしでの真珠湾攻撃が奇襲作戦だったのか否か、、
そして天皇の戦争責任は、、、

これらは現代史を何故かよく学ぼうとしないこの国の教育方針(?)で
よくわからないことが多いが、折につけ読んだ各種の本で、だいたいのことはわかる
そして先日のNHKスペシャル「御前会議」を見たばかりなので
戦争に至るまでの経過とか裁判で扱われている内容がわかる
天皇に結果責任として戦争責任があるか、統帥権があるというものの結果的に認可するだけの天皇に責任はあるのか
そのあたりは国民としても難しい判断かもしれない
この難しい判断は、裁判の主役となる裁判長や検事の間でも分かれていたようで
太平洋戦争後の複雑な世界(共産主義国家ソ連・中国の台頭)を前にして、日本の国民感情を踏まえた現実的な統治とか
その後の彼の国等への対応を考えれば、責任は負わせない方向に進めたがっていた方向に舵は取られたようだ

裁判は公平なものと認識されそうだが、現実はその時の社会情勢に大きく左右される
自由主義諸国対共産主義諸国、核兵器保有国の存在、エネルギーの問題
これらは通奏低音のように裁判の判断に影響していく
人間社会で起きていることは、純粋な条件下での科学の実験とか思考に沿わないものだ

この映画の冒頭、被告人に対し罪状認否が行われたが、被告人全員が「自分は無実である」と宣言した
彼らの立場に立てば、そうだろうな、、と思いつつも、それならばあの戦争は誰の責任だったのかと少し怒りを覚えた
よく日本は「誰も責任をとらない国」と言われる、最終決定をしたのが誰なのか曖昧なシステムになっているせいで
裁判などの因果関係を基に考えていく硬直しているシステムでは、日本人のメンタル(傾向)に追いついていか無いのではいか
不意にそんな気がした

映画の最初の部分で、戦争に対する概念の対立、法的には戦争は禁止されていない、、、などという下りは呆れてしまったが
それらは法の専門家が頭でっかちになって言い出している概念で、実定法ではそのようなものかもしれないが
生き延びる方法を頭で考えるサピエンスとしての存在の人類が選択する自然法的な考えとは相容れない
精緻に定義しているものよりは、なんとなく違っている、、と感じているものを大事にする世界が必要と個人的には思う
そのための判断基準を磨くために美とか芸術がある(世界のエリートは何故「美」意識を鍛えるのか、という本があった)

この映画には「南京事件」の映像も出てくる
犠牲者の人数の違いはあるようだが、そこで行われた残虐なことは間違いが無いようだ
(これは「南京事件を調査せよ」清水潔の調査報道でも明らかにされている)
あの時代はみんなが狂っていた
そして、その狂っていることを狂っていると言えなかった時代
それは「空気」となって支配する

話はいきなり飛ぶが、名古屋までの電車のなかで読んでいた本「従順という心の病」 のなかに
ある支配されている世界の中で、攻撃的な思想は賛同して更に先鋭化するグループがあり
次になにも感じず見て見ぬふりをする多くの人がいて、3%の人たちは反対の意見を表すとあった
これを今の日本に置き換えると、利権がらみで得する人たちや、
自分の不安な存在根拠を確かめるために弱い者、他の民族の人を過度に貶める人たちの存在、、と、
それを見て見ぬふりをする多くの人たち
そしてSNSでそれらの行動を批判する人たちの存在を直ぐ様思いうかべることができる

1%の裕福な人が大半の富と、最終的には政治の方向性を決めている現在
でも同様に3%の人たちが、なにか変だぞとか、おかしいぞと声を上げるのも現在
その真中にいる人達がどちらにシンパシーを感じるか
それが問題となっていくが、その判断材料としての「過去の歴史」の把握は必要と思われる

ただ現実の歴史を探っていくと、欧米諸国のえげつなさも目につく
歴史は単純な出来事によって一直線に進むのではなく、「応仁の乱」にあったように
いくつもの要素が複雑に絡み合って解けない状態になってしまうものだと実感

ところでこの「東京裁判」は昨日の名古屋の劇場は多かったが、どのようなタイプの人が見に来ているか
ところどころ耳にはいる会話では「主戦場」の言葉が聞かれた
タイプとしては「主戦場」を見たいと思う人が「東京裁判」も見たいと思うようだが
願わくば「主戦場」の主張と反対の立場の人、いわゆる歴史修正主義者とかネトウヨと言われる人も
我慢して4時間の苦行にトライしてほしいものだと思う

東京裁判は戦勝国が敗戦国を裁く不公平なものだったと言われる
でも「敗戦」という事実は、具体的にはこういうものだ(こういう事態を招く)ということ
加藤陽子氏の「戦争まで」だったかには、敗戦ということは「憲法を変えられてしまうこと」とあった(ように思う)

ところでせっかく1000円出して手に入れたパンフレットだから、しっかり読まねばもったいない
興味ある人物は「重光葵」
なにか関連本でどういう人物であったか、調べてみよう



 

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