DALAI_KUMA

いかに楽しく人生を過ごすか、これが生きるうえで、もっとも大切なことです。ただし、人に迷惑をかけないこと。

夢(71)

2014-03-24 00:03:04 | ButsuButsu


今日は、琵琶湖の漂着ゴミを拾うイベントに参加した。

久しぶりに快晴で、穏やかな一日だった。

こんな日は、何をしても楽しい。

前回より圧倒的に多いゴミの量だった。

昨年の台風18号の結果なのだろう。

改めて自然の力に脱帽する。

なぜ琵琶湖のごみを拾うのか。

この質問には、以下のことを答えることにしている。

一番目には、琵琶湖をきれいにしたいから。

二番目には、自分が元気になれるから。

三番目には、琵琶湖にごみを捨てないようにさせたいから。

そう、一番大きな目的は三番目だ。

2008年には、琵琶湖に遺体を捨てられる事件が複数発生した。

そのどれも発見されていない。

当時、滋賀県の研究機関にいた私は非常に口惜しい思いをした。

何とか遺棄された遺体を発見したいと思った。

しかし、結果的に発見することはできなかった。

今でも悔しい気持ちが大きい。

だから、琵琶湖のゴミ拾いにはこだわりがある。

認定特定非営利活動法人びわ湖トラストの存在価値もそこにある。

絶対に琵琶湖に不都合なごみを捨てさせない。

そう思って、ひたすら頑張っている。

あなたも琵琶湖の清掃活動に参加してほしい。
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3月22日(土)のつぶやき

2014-03-23 05:15:42 | 物語
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夢(70)

2014-03-22 21:44:40 | 物語


1970年、私が京都大学理学部に入学した年に、湯川秀樹先生が退官された。

当時、先生の退官講演を聞きに行った記憶がある。

先生の業績は、陽子と中性子を結びつける強い相互作用を担う中間子の存在予測だった。

この業績によって1949年にノーベル物理学賞を受賞した。

しかし、彼は京都大学では博士号が取得できなくて、大阪大学で博士号を取得している。

また、彼の初期の論文は、原爆の父オッペンハイマーによってrejectされてもいる。

すべてが順風満帆だったわけではない。



ヨハン・ルートヴィヒ・ハインリヒ・ユリウス・シュリーマンは、1873年にトロイ遺跡を発掘したことで有名だ。

幼いころホメロスの叙事詩イリアスを読んで発掘を志したといわれて、教科書にもなっているが、実際はシュリーマンの創作だとも言われている。

学位もなく発掘のプロでもなかった彼は、一部に偽装の疑いもかけられており、長い間、学会から無視され続けた。

2001年になって初めて学会からトロイの遺跡の発見者であることが正式に認知された。

人生というやつは、いろいろなことがあるものだ。

自分が信じる道を、やり遂げるしかないではないか。

結果は時代が判断してくれる。

大切なことは負けない強い意志と、地味な仕事をやり続ける忍耐力だ。

批判や中傷を恐れる必要はない。
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3月21日(金)のつぶやき

2014-03-22 05:20:13 | 物語
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夢(69)

2014-03-21 16:56:15 | ButsuButsu


J.D.SalingerのFranny and Zooeyという本を読んだ。

村上春樹の翻訳だということで、期待していた。

フラニーのほうは、思ったほどうまい訳ではなかった。

少々がっかり。

大体、サリンジャーの英語は難しい。

途中に挿し込まれる文章が多い。

訳しにくいのだろう。

ズーイの訳の方はずっとましだった。

つまり文学的という意味でだが。

さて、フラニー(女性)とレーン(男性)という恋人同士の話。

***

「君の大学の英文科にはなにしろ、この国でもっとも優れた二人の教師がいる。マンリアスとエスポジートだ。連中がここにいてくれたらなと思うよ。まったくさ。少なくとも彼らは詩人なんだ。何といっても」

「彼らは詩人なんかじゃない」とフラニーは言った。

「それがめげちゃうことのひとつなのよ。私が言いたいのは、本物の詩人じゃないってこと。彼らは詩を書いているし、あちこちに掲載されたり、アンソロジーに収められたりしている。でも彼らは詩人とは違う」

彼女はふと我に返ったように、そこで話をやめ、煙草を消した。

彼女の顔からだんだん血の気が引いているようだった。

(中略)

「もちろん喜んでこんな話はやめるさ。それこそまさに望むところだよ。でもよかったら、その前にひとつ教えてくれないか。本物の詩人ってどんなものなのか。僕はそいつが知りたいんだ。とても」

フラニーの額の上の方に微かに汗が光った。

ただ単に部屋の温度が高かったからかもしれない。

あるいは胃の具合が悪くなっていたからかもしれない。

あるいはマティーニがいささか強すぎたのかもしれない。

いずれにせよ、レーンはどうやらそこまで気がまわらなかったようだ。

「本物の詩人が何かなんて、私は知らない。この話はもうやめましょう、レーン。お願いよ。気分がすごく悪くて、おかしな感じなの。私はとても―」

「わかった、わかった。もういいよ。リラックスするんだ」

とレーンは言った。

「僕としてはただ―」

「私にわかってるのは、ただこれだけ」

とフラニーは言った。

「もしあなたが詩人であれば、あなたは何か美しいことをしなくちゃならない。それを書き終えた時点で、あなたは何か美しいものを残していかなくちゃならない。そういうこと。でもあなたがさっき名前をあげた人たちは、そういう美しいものを何ひとつ、かけらも残してはいかない。彼らよりいくらかましな人たちなら、あなたの頭の中に入り込んで、そこに何かを残していくかもしれない。でも彼らがそうするからといって、何かの残し方を心得ているからといって、だからそれが詩であるとはかぎらない。それはただの、見事によくできた文法的垂れ流しかもしれない。表現がひどくてごめんなさい。でもマンリアスとエスポジートも、気の毒だけどみんなその類いよ」

***

わかりにくいのだが、本物の詩人とは、詩を書く人間とは限らない。

そう言いたいのか。

サリンジャーらしい表現だ。

できることならば、私も本物の科学者として生を終えたいと願っている。
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3月20日(木)のつぶやき

2014-03-21 05:21:35 | 物語
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謎(11)

2014-03-20 17:31:44 | ButsuButsu


男はまだ湖底にいた。

ゆらゆらと水の動きに漂いながら、丹念に湖底を調べていく。

水は濁っていて、時々よく見えなくなる。

1980年代に潜ったときには、もっと視界がよかった記憶がある。

随分と変わったものだ。

時々、円形パッチのような模様が目に入る。

真ん中が白っぽく、その周辺が青みがかっていて、そして茶色な湖底が広がる。

白い部分は、魚が死んだあとだ。

分解されて、何も残っていない。

骨さえもない。

青い部分には、嫌気的なバクテリアがいるのだろうか。

2007年にはたくさんの魚が死んだことが思い起こされた。

暖冬の年、夏は暑くなり、急激に湖底の溶存酸素濃度が低下した。

確か、2ppm以下となった記憶がある。

多くのイサザとスジエビの死体が捕獲された。

それを見たとき、男は悲しくて、涙ぐんだ。

湖が大きく変わり始めたころだった。

今は、このような死骸の跡を見ても、格別な感じはない。

自然とはそんなものだ。

やがて崖にぶつかり、次第に上昇する。

島ではない。

湖底に沈んだ山だ。

湖底山とでもいうのだろうか。

水深30mほどまで、急激に浅くなる。

上を見ると空が透けて見える。



体の力を抜き、後はゆっくりと上昇する。

死の世界から生の世界への帰還。

静から動への変化でもある。
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3月19日(水)のつぶやき

2014-03-20 05:17:07 | 物語
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夢(68)

2014-03-19 11:23:10 | ButsuButsu


いくつかのことを整理しておかなければならない。

私は、現在、国際誌2誌の編集委員をしている。

いずれもボランティアだ。

論文が投稿されてくると、とても気が重くなる。

処理をするのが結構大変だからだ。

今の学術雑誌は、早く回転し、新鮮な論文を世に出そうとしている。

だから、査読を早くしてくれと急かされる。

一般に査読者は2名であるが、私は3名選ぶようにしている。

というのは、一人が拒否(Reject)した場合の対応に苦慮するからだ。

時には、他誌から頼まれて自分が査読する場合もある。

ある雑誌は、査読の日数を10日としている。

毎日、「もうできましたか」という内容の督促が来る。

しかし、原稿を熟読し(最低3回は読む)、30件以上の引用文献を一つ一つ確認し、重要な引用はその原論文を手に入れて解釈し、最終的な結論を出すのに、私の場合は1か月が必要だ。

すべてがボランティアでも、この始末だ。

ところでNatureについて。

この雑誌は商業誌で、専門の査読者を雇用している。

つまり査読のプロたちだ。

我々アマチュアが自分の研究時間を削って査読しているのとは異なる。

対応も早い。

責任感も強い。

一般に論文に齟齬や不明な点がある場合は、出版社と著者の責任だ。

第三者からクレームが来た場合、テクニカルな問題は両者で解決する。

研究の中身についてのクレームには誌上討論をする場合もある。

いずれにしても、最終的には出版社と著者の間で解決すべきもので、社会的制裁を科すような類のものではない。

学位論文の場合には、少し事情が異なる。

主査と呼ばれる指導教官がすべての責任を負う。

あと2~4名の副査が付く。

この人数は大学や学部によって異なる。

すでに出版された論文をまとめて学位申請する場合もある。

この場合、両者の中身に重複があるのは当然だ。

問題は、両者の解釈が異なっている場合だが、基本的には論文として公表されているものが優占される。

学位論文と言うのは、一人前の研究者としての資質を問うものであるから、盗用とかをしてはいけない。

この問題については、主査と副査が確認する必要がある。

私が学生であった頃の、古き良き時代にはこうした手順がうまく機能していた。

1980年代頃からだろうか、当時の文部省の指導で、学位をアメリカ並みに早く出すように変わってきた。

学位がなければ就職に不利になるからだ。

こうして学位の乱発が行われるようになり、意味不明な学位が数多く世に出るようになってきた。

これも時代の要請なのだろう。

したがって、論文については出版社や査読者、学位については大学と指導教官と言ったように、その責任を担う構造が異なるし、当然、執筆者のモラルや資質もそれに応じて問われることとなる。

かように、完全ではないにせよ、システムとしては一応完成された審査や是正のプロセスがあるのだから、マスコミやネットなどによる行き過ぎた社会的制裁はやめたほうがよい。

特に、ワイドショーはひどい。

もし非難されるべきだとするのなら、不用意にマスコミへの情報提供を行う所属機関の問題だろう。

評論家やマスコミは、あまりにも無責任だからだ。

社会的貢献を強調するあまり、不用意に情報提供をすることによって取り返しのつかないことが起こることは多々ある。

一刻を争うものでなければ、十分な準備を行ったうえで、公表すべきなのだろう。

私は、原則的に、若い人、特に20代の人の失敗は社会として許容すべきだと思っている。

その人の人生は長いのだから、できるならやり直せた方が良いと思っている。

人ひとりを社会的に抹殺することは簡単なことだ。

しかし、人を一人前の社会人として育てることはとても難しい。

特に、情報が氾濫し、価値観が多様化し、後ろから急き立てられるように仕事をさせられ、なおかつ正規の職に就けない若い研究者の卵たちに、可能な限りのエールを送るのが年配者の役割だと思っている。

この点において、私は妥協するつもりは全くない。

何が正しいかは時代が判断することだ。

私たちにできることは、今と言う瞬間におけるもっとも大切だと思うことを、それぞれの立場において過誤なくやり抜くという情熱なのではなかろうか。

一般論として、私はそう思っている。
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3月18日(火)のつぶやき

2014-03-19 05:22:41 | 物語
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夢(67)

2014-03-18 13:26:39 | ButsuButsu


中島京子の小さいおうちという本を読んだ。

タキという名のお手伝いさんを通して、戦前・戦中の東京を描いている。

ある日、彼女は元雇用主である小中先生と道端で出会う。

小中先生は、作家だった。

昭和19年、東京で空襲が始まった年だった。

雑談の中で先生は語った。

***

「なにがどうというんでもないが、僕だって、一生懸命やっている。僕だって、岸田だって、菊池だって、よくやっている。国を思う気持ちも人後に落ちないつもりだ。しかし、その我々をすら、非難する者があらわれる。文壇とは恐ろしいところだ。なんだか神がかり的なものが、知性の世界まで入ってくる。だんだん、みんなが人を見てものを言うようになる。そしていちばん解りやすくて強い口調のものが、人を圧迫するようになる。抵抗はできまい。急進的なものは、はびこるだろう。このままいけば、誰かに非難されるより先に、強い口調でものを言ったほうが勝ちだとなる。そうはしたくない。しかし、しなければこっちの身が危ない。そんなこんなで身を削るあまり、体を壊すものもあらわれる。そうはなりたくない。家族もある。ここが問題だ。悩む。書く。火にくべてしまえと思う。あるいは、投函してしまえと思う。どちらもできない。いやはや」

独り言をごにょごにょつぶやいて、小中先生は、まことにまずそうに珈琲を飲んだ。

「マドリング・スルーというんだよ。英語でね」

わたしではなく、よそを見つめる目をして、先生はおっしゃった。先生は小説家で、子供のための英語の本を翻訳されることなどもあった。書斎には洋書も多かった。

「マドリン?」

「マドリング・スルー。計画も秘策もなく、どうやらこうやらその場その場を切り抜ける。戦場にいるときの、連中の方法なんだ。この頃口をついて出てきてね。マドリング・スルー。マドリング・スルー。秘策もなく。何も考えずに」

わたしが黙っていると、先生はちいさなため息を吐いてから、柔和な笑顔を取り戻された。

***

いろいろ考えさせられる一文だった。
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3月17日(月)のつぶやき

2014-03-18 05:11:48 | 物語
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夢(66)

2014-03-17 23:19:48 | ButsuButsu


今日は、大阪で地震予知研究会があった。

関西サイエンスフォーラムが主催しているこの会議は、ざっくばらんな会議で、楽しいものだった。

会議の後で気象庁のOBと話した。

彼は、琵琶湖で起こる地震の可能性を懸念していた。

鎮静状態が長く続いているというのが理由だ。

今後、小規模な地震が頻発してきた場合には要注意だ。

前震の可能性が高い。

私も自分の解析を急ぎたいと思っている。

皆さんもどうか注意してほしい。

琵琶湖周辺に大きな地震がやってくるかもしれない。
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3月16日(日)のつぶやき

2014-03-17 05:16:01 | 物語
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夢(65)

2014-03-17 03:18:47 | ButsuButsu


まずいな、と思う。

あまりにも行き過ぎたバッシングだ。

確かに論理的な破たんはあるが、科学におけるもう一つ大切なことを私たちは忘れている気がする。

それはIntuition(直観)と呼ばれるものだ。

彼女は何かを見つけ、何かを伝えたいとしている。

このことは、すべての前提に対して優先するものだと私は思っている。

某学会までもが彼女のContributionを痛烈に批判することの危うさを私は感じている。

仮に彼女の発見と言われるものが間違っていたとしても、間違いだとわかることが科学の進歩につながる。

もし正しいとしたら、いったいどうやって謝罪するというのだろうか。

これは、社会やマスコミや学会の致命的な倫理的破たんだ。

正しい対応の仕方とは何だろうか。

私が理化学研究所の所長であったとするならば、外圧を凍結し、彼女に1年間の猶予を与えるだろう。

この一年間の間に、問われている批判にこたえるだけの成果を出しなさい、と励ますだろう。

おそらく、ハーバード大学の指導教官の思いもそこにある気がする。

研究者が正しいと思い、直観に従って記述した研究成果が、時として不適正な場合もあるかもしれない。

本来はそのようなことはあってはならないのだが、その不都合さゆえに、すべてを否定するような行為は科学に対して何の貢献ももたらさない。

以前、科学論文には、Originality、Repeatability、Consistencyの3つが必要だと述べた。

それにもまして大切なことは、事実に対するIntuitionである。

確かにリセット可能な細胞が常に存在する、という主張には首をかしげたくなる。

しかし、気まぐれな自然の中には、そのようなものが存在していてもよいのかもしれない。

そこに科学の妙味がある。

それらを完全否定するようなバッシングは、百害あって一利ない。

過去において、この種の発見は、多くの批判と虐待をもたらしてきた。

あえて私は、小保方晴子さんにエールを送りたい。

負けるな青年。

間違っていてもよいではないか。

まだあなたは若い。

自分のIntuitionに従って、正々堂々と主張してほしい。

あなたが見たかもしれない壁の向こうには、違う色の世界が広がっているのだろう。

私はそれが世の人々に新しい真実を突きつけることを期待している。

私たちが向き合っている現代社会の多くの矛盾が、一人あなたに襲い掛かっている現実を座視することに私は耐えきれない。

科学とは本来、すべてのドグマや圧力から、自由でかつ夢があるものだと思うからである。

かつて寺本英が私に言った、「おもろいやんけ」という言葉を伝えたい。
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