ガラパゴス通信リターンズ

3文社会学者の駄文サイト。故あってお引越しです。今後ともよろしく。

「叫ぶ金魚」

2008-08-29 08:22:33 | Weblog
 源氏物語の研究者として、また「日本語タミル語起源説」の提唱者として名高い大野晋先生が他界されました。「先生」と呼ぶのは、妻の大学時代の恩師だからです。恩師とはいっても卒論のゼミは別の先生についていたのですが、4年間妻は大野先生の授業をとっていました。

 何を習ったのか、すべて忘れてしまったといいいます(笑)。ただ「日本語の起源はタミル語だ!それを分からない学者は馬鹿者だ!!」と常々言っていたことは覚えています。授業の本筋は忘れても、雑談はよく覚えているのが学生の常。「ぼくは小さい子どもが嫌いなんだ。うるさくてしょうがない。叫ぶ金魚みたいな奴らだ」と先生が言っていたのは強烈な印象として残っているようです。「叫ぶ金魚」。なるほどなあ。

 大野先生の痛恨事の一つに、あの「天城心中」がありました。旧満州国の王族に連なる家系の女学生と、学習院の男子学生が引き起こした心中事件です。先生は、女性の方を教えていました。「非常に優秀な学生だったんだが、途中から成績がひどく悪くなってね。心配してたらああいうことになった。教員になる諸君も多いと思う。よく出来る子が急に成績が落ちたら、何かが起きる兆候かもしれない。気をつけた方がいい」。

 学習院大学の国文科では、卒業試験があって、漢字と文学史、それに変体仮名の読解で一定以上の成績がとれなければ卒業できない仕組みになっていました。これも「学力のない人間に『学習院を出ました』とはいわせない」という、先生の信念に基づくものであったようです。そして毎年秋になると、先生のけっしてうまいとはいえない筆書きの文字で、「いい加減な卒論を書いた者は就職がきまっていても絶対に卒業させない」旨の告知が掲げられていたとか。

 私は一度この先生と、とんでもない接近遭遇をしており、そのことはブログにも書きましたが、学者として教師としておおいに見習うべきところのある先生だと思っております。合掌。

民族の祭典

2008-08-26 07:14:13 | Weblog
 日本人は異常にオリンピックが好き。時差が7時間あったアテネの時でさえ、ヨーロッパの人たちの2倍オリンピックの中継をみていたそうです。1932年のロサンゼルスオリンピックで日本は、「実感放送」という奇妙なことをやっています。現場からの中継ではなく、スタジオに帰ったアナウンサーがその日の競技の模様を再現したものです。これが海外のラジオ局がオリンピックを中継し最初のケースだそうです。

 何故日本はオリンピックの中継にこの時力を入れたのか。1932年は満州事変の翌年。孤立した日本政府はオリンピックを宣伝材料に使うことを思いつき、選手団の強化につとめます。その結果日本選手団は水泳を中心に華々しい勝利を収めています。馬術のバロン西の金メダルもこの大会。そして文部省は選手にフェアプレーに徹するよう指導します。日本に対する好印象を世界に与えるためです。日本選手のフェアプレー精神はしばしば賞賛の対象となりますが、その起源が邪悪な侵略戦争を糊塗するところにあったというのは皮肉なことです。

 五輪といいますが、戦前のオリンピックは欧州とアメリカのもの。1.5輪でしかありません。つまり五輪は「文明」国の祭典。そこで存在感を誇示して、満州侵略が「文明」的なものであることを当時の日本は世界に訴えたかったのでしょう。東京オリンピックは戦後復興をとげた日本が先進国の仲間入りをしたことを世界に誇示するイベントでした。日本人のオリンピック好きは、様々な国を文明/半開/未開に区別し、本来平等であるはずの諸民族を等級化する意識と深いつながりをもつものであるといえます。

 経済発展をとげ、「半開」から「文明」の段階に参入したことを証するイベントとしてオリンピックを利用した点で、日中韓は共通しています。日本が韓国に負けた時の日本人のヒステリックな反応は、韓国人の手によって日本が「半開」の地位に引きずり下ろされたという恐怖感のあらわれのようにみえます。そして韓国人の過剰な歓喜のなかには、その反対の心理をみることができるでしょう。

泳いで帰れ!

2008-08-24 08:39:24 | Weblog
 8月12日、相模原球場に横浜ヤクルトの地方ゲームを観にいきました。会場は満員。試合も1点を争う好ゲームでしたが、ヤクルトは青木と宮本、そして横浜には村田がいません。北京オリンピックの代表に選出されているからです。しかしオリンピック期間中も入場料は値下げにならない。目玉商品を欠いていながらそれはないだろう。オリンピックに力を入れるというのなら、韓国のようにシーズンを中断すべきでした。

 日本がベストチームを派遣して金メダルをとることが、誘致に成功した場合の東京オリンピックで野球を復活させる最善の手だてだということが語られてきました。疑問に思うことがあります。野球はオリンピック種目に適しているのでしょうか。

 アテネオリンピックの時、ギリシャの野球の競技人口は24人だったと聞きます。アメリカのマイナーリーグに所属するギリシャ系の選手を帰化させてチームを急造し、五輪に参加したのです。ヨーロッパでまともに野球をやっているのは、イタリアとオランダぐらいのものです。

 仮に東京でまたオリンピックを開くことになって、クリケットが実施種目のなかに入っていたらみなどう思うでしょうか。ほとんどの日本人がやったこともみたことのない種目のために、新しい競技場を造らなければならないのだとすれば。ロンドンで野球をやらないのは当然のことです。五大陸のすべてで行われていることが、実施種目の条件となるための条件です。野球が、その条件を充足していないことは明らかです。

 それにしても星野ジャパンの戦いぶりは、不甲斐ないの一言に尽きます。このチームのコーチ陣には、田淵幸一と山本浩二がいます。まるでいしいひさいちのマンガではありませんか。こんな「団塊お達者クラブ」でシビアな国際試合を乗り切れるわけがありません。世の中をなめている!惨敗の責めはすべて彼らが負うべきです。鱶がうようよいる日本海まで出て、そこから泳いで帰りなさい!

熊、人に出あう

2008-08-22 08:20:35 | Weblog
 秋来りなば、冬遠からじ。これから冬眠に向けての熊の活動が盛んになる季節でございます。しかしなんですな。月の輪熊も最近はとんと弱くなったもんでございます。先日は、72歳の老人に胸をパンチされて、敗走した月の輪熊がおりました。さらにその前には、キャンプ地でテントを揺らしていたところ13歳の女子中学生にキックされて逃げ出した熊の話が出ておりました。この女の子は寝ぼけていて、妹がまたふざけてテントを揺らしていると思ったそうです。熊と間違われる…。どんな妹君なんでございましょうか。

 しかし、相次ぐ敗退は、熊の世界に大きなショックを与えたようでございます。「熊日日新聞」(略称 熊日)には、「熊、人間に惨敗」の大きな見出しが踊っておりました。「少女の次は老人に!揺らぐ熊の優位」という解説記事には、「最近の熊は生活圏のすぐそばに人間が住んでいるので、残飯をあされば食べるものに困ることがなくなった。昔のようなハングリー精神をなくしたことが人間に勝てなくなった一因」という識者の談話が載っておりました。いるんでございますね。熊の世界にも精神論を説く「識者」が。

 同紙の記事は、「人間の世界では中学生の女の子は部活で、老人はスポーツクラブで熱心に身体を鍛えている。それに対してわれわれは旧熊(ママ)依然。体格の優位にあぐらをかいていたつけがまわってきた。このままでは、人間に出会った時、熊の方が死んだふりをしなければならない時代が遠からず訪れるであろう」と結ばれておりました。

 「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛めばニュースになる」という格言がございます。こうして人間の勝利が報道されるうちは、まだ熊の優位が続いているということでございましょう。熊が負けてもニュースにもならなくなれば、力関係は完全に逆転したといいわなければなりません。その時、熊の識者たちは憂い顔でこういうのでございましょう。「くまったものだ」。おあとがよろしいようで。

かつかつ経済

2008-08-20 17:39:39 | Weblog
鳥取にしばらく帰っていましたが、相変わらず地域経済は大変なようです。何しろ鳥取の企業の大半は赤字で、かつかつ黒字を出しているわが実家のもなかやは「超優良企業」だと銀行が言っているそうです。地域経済が苦しければ、当然銀行も苦しくなってくる。サブプライムの影響も思いのほかあるのかもしれません。もう鳥取経済は沈没船で、かろうじて浸水をまぬかれている状態のようにさえみえます。

 それにしてもわが実家は健闘しております。うちのような小さな会社は大企業のように「リストラ」をやる必要がありません。将来がないと思えば働く人は辞めていきます。そうすると企業の側は欠員の補充をしないで、少ない人数でやっていけばいよい。「たけのこ生活」を企業経営で実践している形です。わが実家は、バブルの最盛期からは売り上げが半分以下になっています。大企業であればとっくの昔に倒産しているはずです。中小企業は倒産しやすいという。しかし、その逆の面もある。いよいよとなれば、家族だけでやっていけばよいと、兄の奥さんはいっていました。

 土建業の大量倒産で仕事を失った人たちも、帰農してこれまたかつかつやっている。こうして耐えているうちに、何か新しい地域経済の芽が出てくるのかもしれません。ただこうした「かつかつ経済」のなかでは、若者たちが割りをくいます。新たに若い人たちを受け容れる職場がなくなるからです。鳥取市には二つの四年制大学がありますが、そこの学生たちが卒業後に鳥取で働ける可能性は少ないでしょう。

 人口比で軽自動車が、鳥取には東京の10倍走っているのですが、鳥取の中古の軽自動車の価格は暴落しているようです。建設業に従事している若者が地元を見切って京阪神や東京に出て行っていて、その時に手放した軽の中古が市場に出回っていることが原因だと聞きました。帰省するごとに若者たちの姿をみなくなっているように思うのは、気のせいでしょうか。

思い出の夏休み(小学校最後の夏休み・声に出して読みたい傑作選58)

2008-08-15 08:05:12 | Weblog
 最近は小学校もあまり夏休みの宿題を出さなくなった。それでも何か一つはやってこいということになっている。「統計グラフ」はそのなかでもいわば定番。去年太郎は、仲良しのお友達と一緒にこれをやって、「奨励賞」を取った。お馬鹿な小学校3年生が自分の力で立派な研究が出来るはずもない。結局ママたちが力を合わせて、統計グラフをでっちあげた。太郎たちのものだけではない。賞をとった作品は絶対に子どもたちの力だけではできなかったであろうものばかりである。

 太郎が今年は自力で統計グラフを仕上げるという。グラフを作る材料としてクラスメートにアンケートをとっている。そのアンケートをみてびっくりした。まず回答者の性別を聞いている。1.男、2.おかま、3.女とある。「ちゅうい」として、「おかまと書いたものは、男とみなします」と書かれてあった。「ちゅうい」をするぐらいならはじめから「おかま」などいれるな!「おかま」とだけ答えた者はいなかったが、男の子の約半分は「おかま」にもマルをしていた。

 ボランティアをしたことがあるか。どんなボランティアをやったのか。質問の内容は、まあまともである。はじめてボランティアをやったのは何歳のときですかという質問があった。選択肢は1歳から3歳、4歳から6歳、7歳から9歳。1歳児のボランティアって?0歳というのを入れなかったのは太郎の見識かもしれないが。集計をしてみると、にまるをつけた子は一人しかいなかった。「若い頃にボランティアをやる人はあまりいません」と太郎の「考察」。若い??!

 結局今年も統計グラフは、大人の手がたくさん入ったものになった。いい加減極めるアンケート結果からもっともらしい数値を導き出すのは「専門社会調査士」たるびんちゃんの仕事。デザインの面では母親と骨子の手が入っている。太郎はわきできゃあきゃあ騒いでいるだけで、ほとんど何もしていない。家族総がかりで、丸々一日かけてようやく出来上がり。心底疲れ果てた。もうこりごりだ。統計グラフの宿題のない国に生まれたかった。

「ラストサムライ」は終わらない

2008-08-11 09:12:26 | Weblog
 短い間でしたが、鳥取に帰省してきました。帰省中に鳥取市の歴史博物館である「やまびこ館」の特設展示「鳥取士族の西南戦争ーラストサムライの決断」をみてきました。私は鹿児島に長く住んでいたので、このテーマは非常に身近に感じられました。鳥取は大藩で明治維新においてもそれなりの貢献がありました。ところがその論功に報いられるどころか、島根県に併合されてしまう。鳥取の士族たちの憤懣がたかまった所以です。

 西南戦争ではたとえば庄内藩から多くの義勇兵が薩摩側に集まっています。新政府に不満をもつのであれば、西郷隆盛に呼応して挙兵してもよさそうなものですし、事実山縣有朋はそれを懸念していました。ところが、鳥取士族のなかからは、政府軍への義勇兵(結局戦地に赴くことはなかった)は出たものの、西郷側につくものは皆無でした。そこに意外の感をもちました。鳥取士族が大挙して西郷側についていれば、この戦争の行く末も違ったものになっていたのかもしれません。

 すぐれた展示だと思いましたが、副題にはいささかアイロニーを感じました。同じ封建制といっても西欧の騎士は領土に根づいています。ところが日本のサムライは、藩主から俸禄をもらうサラリーマンでしかありません。「ラストサムライ」とはすなわち、倒産やリストラの影におびえる、今日のサラリーマンの始祖なのです。生活の糧を失った士族たちの周章狼狽ぶりを、町人層はどんな目でみていたのでしょうか。知りたいところです。

 展示のなかで興味深かったこと。明治初年に鳥取で出されていた新聞に、県外からの来訪者がこの地の印象を語っています。因伯の人は晴れた日にさえ蓑をかぶり、傘をさしていたとその来訪者は述べています。鳥取の人たちは小さい頃から「弁当忘れても傘忘れるな」といわれて育ちます。その教えを身体化するとこういう風になるのだなあ、と妙に感心した次第です。

一瞬の夏(甲子園・アルプススタンド編)

2008-08-08 08:55:59 | Weblog
亡くなった父はよく、「わしは木更津で除隊した」といっていた。戦争末期に召集された父たちの部隊は、戦地に行こうにも船がなくなっていた。千葉の木更津で足止めをくらって、そのまま終戦を迎えたのである。今回N高が甲子園で対戦したのは、その木更津の高校であった。

 向こう側のアルプススタンドにいる高校生たちの大半は、鳥取がどこにあるか知らないだろうな、などと試合前にぼくは考えていた。まあ、N高生のなかにも千葉県の位置が分からない者は大勢いるだろう。さらに木更津がどこにあるかと聞かれれば、ぼくだって答えられないのだが。


 およそ四半世紀前にN高は、後に全国優勝を果す東京の強豪と対戦している。その学校の選手たちは、抽選会の前、テレビのインタビューに「鳥取の代表とやりたい」と言っていた。N高との対戦が決まった後、彼らは歓喜の叫びをあげていたのである。キャプテンはテレビのマイクを前にこう公言した。「鳥取のしかも進学校になど絶対負けるわけがない!」と。結果はN高が10点を奪って快勝した。

 今回の対戦相手は春の関東大会の優勝校。この高校の監督は試合前に「ロースコアで接戦にもちこみたい」といっていたが、侮る心の裏返しだろう。ところが試合が始まってみると、N高のエースに強力打線は翻弄されっぱなし。三振の山を築いている。最後に疲れの出たエースが打たれ負けてしまったが、中盤、大会第一号ホームランがN高に出た時には4半世紀前の再現かと思った。

 N高のエースについて、「こんなすごい球を投げるピッチャーはみたこともない」と木更津の選手たちは舌をまいていた。どこにあるのかわからないところの高校にすごいピッチャーがいる。世の中は広い。決して誰かを侮ってはならないということを彼らは学んだのだと思う。甲子園に流れる相手校の校歌を聴きながら、「わしは木更津で除隊した」という亡父のことばが、ぼくの頭に浮かんでいた。

冥土のみやげ(あれから3年・声に出して読みたい傑作選57)

2008-08-02 06:04:45 | Weblog
 母校N高の応援に甲子園に行ってきました。かの大親友ご一家も一緒です。アルプススタンドに来るのは32年ぶり。高校2年生の時以来です。その時は東北の強豪校に完封勝ち。その再現を期待していたのですが、相手は「黒潮打線」の異名をとる全国優勝経験校。往時をはるかに上回る難敵です。

 試合はN高が先取点を挙げ、幸先のよいスタートです。後ろの席にはご老人のグループがいました。うちの子どもが甲子園名物「かち割り氷」を買いました。ひとつ200円。おじいさんの一人が言います。「あっとろしだわ。200円もするだか。わしらの頃は30円だったで」。ご老人方の話題は友人の消息に移りました。「○○君はどうしとるだあ」。「あの人は病気でこれんだ。わしの生きとる間にゃあ、もう甲子園にはでれまいに、と残念がっとったわ」。

 N高のエースは頭脳的な投球で「黒潮打線」を中盤まで翻弄します。しかし7回につかまり、結局N高は大差で敗れました。応援団にあいさつに来たナインに、ご老人方が声をかけます。「ようやった!泣いたらいけんぜ!!」。やさしいおじいちゃんたちです。しかし厳しい批評も。「いかんせん非力だ」。「甲子園で勝てる日が来るだらあか」。「わしらが生きとる間にゃあ勝てまいで」。

 試合後。ぼくたちは球場近くのファミリー居酒屋に入りました。店内にはN高応援団の帽子をかぶった人たちが大勢いました。大半がご老人です。母校の応援に声を枯らした彼らの表情には少年少女の頃の輝きが戻っていました。しかし何しろお年寄りです。あちこちのテーブルから「わしらの生きとる間にゃあ」という会話が聞こえてきます。N高ナインはさわやかな印象を残して甲子園を去りました。そしてご高齢の卒業生諸氏に、この上のない「冥途のみやげ」をプレゼントしたのです。