ガラパゴス通信リターンズ

3文社会学者の駄文サイト。故あってお引越しです。今後ともよろしく。

腐女子

2007-08-31 15:23:39 | Weblog
 これから卒論のシーズンに入っていく。毎年「女おたく」とか「腐女子」とか称する人たちの論文を何本も読まされる。うんざりだ。「女おたく」と称している人たちは、ただ男性同性愛を主題としたマンガや小説を書くのが趣味というだけで、別におかしなところはない。日常の生活態度もきちんとしていて、ちゃんとした会社に就職していく人たちである。たぶん将来的には結婚もするだろう。80年代の「原おたく」を知るものとしては、それで一体何のおたくだといいたくもなる。

 80年代にぼくは、あるデザイン学校でアルバイトをしていた。社会学やマスコミの授業はそういう学校でも置かれていたのだ。その学校にはアニメ科のクラスがあった。なんというか、おたくの理念型のような連中がうじゃうじゃいた。私語一つない静かなクラスだったが、ぼくの話を聞いているわけではなかった。みんな片時も休まずにマンガの落書きをしていたのである。

 おたくというと男の子のイメージだが、このクラスの半数以上は女子生徒だったと記憶している。正真正銘のおたく、という感じだった。わが大学の自称「女おたく」どもとは比べるべくもない。マンガを読んでいないと、描いていないと死んでしまう(マンガカツオ?)というタイプの若者たちの集団だった。アニメ科の先生に聞くと、日本のアニメーターの世界は驚くほどの低賃金だが、ああいう若者たちがいるから低賃金構造が維持できているのだといっていた。

 デザイン学校のクラスの比較的社会性があり、陽気な感じの女子生徒が、マンガ同人誌の祭典、コミケットに誘ってくれた。80年代半ば。コミケット黎明期の、まだ晴海でやっていた頃で、くそ暑いのには閉口した。「センセー!」という声に振り向くと、「うる星やつら」のラムちゃんの格好をした彼女がいた。 他にも色々な奇妙な着ぐるみに身を包んだ男女が跳梁跋扈していた。まだ「コスプレ」ということばをぼくは知らなかった。暑さにやられて頭がおかしくなったのかと思った。幻影をみているに違いないと思ったのだ。

所得保障

2007-08-29 14:56:26 | Weblog
 ワーキングプアということばが広く知られるようになった。和製英語だろうが直訳すれば労働貧民。労働貧民の窮状が知られるようになり、最近最低賃金のひきあげを求める論議が進んでいる。たしかにいまの最低賃金では、労働貧民があらわれるのだからこの要求は当然だ。

 しかし、である。ソニーやトヨタのような大企業の賃金が、非正規雇用での労働者に対しても、まさか最賃レベルの給与しか支払っていないということはあるまい。大企業の場合は、たとえ派遣やパートのような仕事でも「時給がよい」部類になるだろう・最低賃金しか払えないのはその孫受けのそのまた孫受けのような、中小零細企業の世界だと思う。

 この世界には悪辣な経営者が巣食っていて、労働者を搾取しているのだろうか。そんなことはあるまい。昔ながらの人情家のおやじさん、おかみさんも絶滅危惧種にはなっていないと思う。とにかく小さな会社はかつかつでやっている。従業員に十分な給料を払う原資がないのだ。最低賃金を上げろという要求は「小さな会社は潰れてしまえ」といっているに等しい。

 「働かざる者食うべからず」という格言が、今日の日本では金科玉条のように語られている。しかし経済の構造変動で、働けど働けど食えない人がたくさん出てきた。その象徴が労働貧民である。その人たちの賃金を上げることでの問題を解決しようとすれば、今度は小規模な業者が軒並み潰れてしまうことになりかねない。働いても食えないし、弱い立場の労働者に十分な給料を支払える事業所は限られている。だから勤労と所得とは切り離すべきだ。この現実を直視すべきだろう。すべての日本人に最低限度の所得を保障する制度を真剣に考える時期にきていると思う。

 最低限所得保障などすれば、日本人が怠け者になるのではないかという危惧を耳にする。たしかにそうかもしれないが、自殺や過労死は確実に減るだろう。そして貧しい人にも確実にお金がまわればそこで有効需要が生まれてくる。経済の活性化につながるはずだ。ブラジルのような第3世界の国で、いま所得保障が真剣に議論されていると聞く。日本にできないはずがないと思うのだが。

  

 

佐賀の人

2007-08-27 05:20:00 | Weblog
 普通の県立高校で平凡な選手しかいない佐賀北高が、甲子園大会で優勝したのには本当に驚いた。同チームのキャプテンの市丸君のお兄さんは、甥っ子の菓子学校(現在もなかやの後とり修行中)の同級生。身内の知り合いのいるチームということもあって、このチームを熱心に応援していた。決勝戦で劇的な満塁本塁打を打ったのは、副島君。明治新政府で活躍した副島種臣も佐賀の人だった。

 佐賀藩は、薩長土肥とよばれて、明治新政府の中枢を担っていた。武断的な薩摩、陰険で謀略好きの長州に比べて、佐賀藩出身者には理知的で開明的な人物が多かった。フランスの法制度を日本に移植したラディカリストでありながら、「征韓論者」・「不平士族」の汚名を着せられ佐賀の乱で非業の最期をとげた江藤新平然り。親英派で早稲田大学を創設した大隈重信然りである。プロイセン的な国家主義ではなく、英仏流のリベラリズムに親近感をもっていたことが、佐賀の英傑たちの特徴だ。

 佐賀藩といえば、「葉隠れ」の地で、頑迷保守的の印象があるので、これは少々意外な気もする。長崎に近接した佐賀藩は、長崎御番(警護)の役割を担っていた。江藤・副島・大隈らは、長崎を通して海外の文化の息吹に触れ、リベラルで合理的な思想を形成していったのだろう。そして外国を身近に感じることで、藩という閉じた世界ではなく、日本という「ネーション」の視点に立つ発想を彼らは若くして身につけることができた。そこが薩長閥との決定的な違いである。

 有望な選手は入ってこない。お金はない。サッカー部と共有でグランドはひどくせまい。進学校で練習時間は短い。特待生がひしめく野球名門校とは正反対の悪条件のなかで、同校の百崎監督は徹底的な基礎訓練を選手たちに課していった。できることはそれしかないからだ。それが真夏の激闘に耐えうる体力と精神力と、あの驚異的な守備力を培っていったのだろう。できることを徹底的にやる。これは精神主義というよりは、合理主義であり、幕末維新の先人に連なる佐賀人のよき伝統である。今回の快挙を江藤新平も草葉の陰で喜んでいるのではないか。


甲子園の空に笑え(もうすぐ秋・声に出して読みたい傑作選36)

2007-08-25 06:26:55 | Weblog
 鳥取の実家の隣には大きな印刷やさんがあった。一族でやっている商売でみなとても働き者だった。ひでちゃんはぼくの一学年上。野球がとてもうまかった。ぼくが5年生の時の小学校の野球大会でぼくとひでちゃんのチームは優勝した。ひでちゃんの投球を誰も打てないのだ。ライト(技量が知れよう)を守っていたぼくのところには、まったく球はとんでこなかった。打順もひでちゃんは4番で固定。その他は、じゃんけんできめていた。

 ひでちゃんはN高に進み、野球部に入る。2年の秋から彼はN高のエースになった。この時のN高野球部は強かった。55回の記念大会で、一県一校だったことも幸いした。県大会の決勝で米子工業に勝って甲子園出場を決めた。ひでちゃんは、後に巨人とヤクルトで活躍した米子工業の豪腕角投手に投げ勝ったのである。印刷やさんご一家は大喜びだった。従業員の人たちとバスを連ねて甲子園の応援に出かけた。印刷やさんの黄金時代だった。

 甲子園には、ぼくももちろん応援に行った。だが、ひでちゃんの勇姿をほとんどみることができなかった。アルプススタンドの前の方で観ようとしたら、応援団の3年生につかまった。「ガンバレN高」という看板の「ガ」の字のところをもてという。ピンチやチャンスの場面では看板を目の前に掲げなければならない。だから、いいところはほとんどみられなかった。ひでちゃんのサブマリン投法は冴え渡り、東北の強豪を3対0でシャットアウト。甲子園にN高の校歌が流れた。ぼくは、どうして夜空に校歌の字幕が映らないのか不思議に思った。

 ひでちゃんは高校を卒業後、東京の大学に進み、家業を継ぐために帰ってきた。しかし、80年代に入ると技術革新が進み、印刷業界にとって厳しい時代になっていた。ちょうど20年ほど前に、印刷やさんは商売をたたんでいる。印刷やさんの跡はいま、駐車場になっている。ひでちゃんは、どこで何をしているのだろう。甲子園の季節になるとそれを思う。

カリブの弾丸

2007-08-22 05:05:26 | Weblog
去年の後期は、勤務校と慶応で800枚のテストを採点した。両方の大学ともスポーツ社会学的な内容で話をした。そのなかにテレビのスポーツ実況に言及した答案があった。「世界陸上の実呪中継で織田裕二がはしゃぎすぎてうざい」と書かれていた。テストの答案で「うざい」はないだろう。だが、いいたいことは分かる。しかし何か気にかかるものがあったのでもう一度読み返してみる。なんと実「況」であるはずのものが実「呪」になっているではないか。

「実呪中継」!そうか織田裕二はああみえてシャーマンだったのか。どこで修業したのだろうか。桐蔭学園高校の時代か。相方の中井美穂は巫女さんなのだろうか。それならだんなが監督をやっているチームをもう少しなんとかしてくれ。しかし、公共の電波で呪いを飛ばしていいものだろうか。呪術で競技結果を左右したとなれば、これはドーピング以上のスキャンダルである。

冗談はさておき、スポーツ実況はやはりNHKが抜群にいい。巨人戦の長い歴史を誇り、トヨタカップで国際映像を手がけてきたNTVの中継技術にもみるべきものがある。91年の東京の世界陸上の時にはNTVが中継権をもっていた。NTVの作る国際映像を、海外メディアはほめちぎっていた。TBSは…。とくに世界陸上のあおりは最悪だ。などといいながらぼくは一日中テレビにへばりついているだろう。本当に情けない。

ところで注目のジャマイカチームは鳥取市でキャンプを張っている。どうして鳥取に白羽の矢がたったのだろうか。ジャマイカ陸連の内部の協議の模様を想像してみた。「鳥取なんて町の名前、聞いたこともないけど、田舎で空気もいいし、物価も安いし、大阪にも近いからここにしませんか」と誰かが提案したのだろう。それに賛成の意見を述べる者がいたのだ。「じゃあまあ、その鳥取って町で、いいか」。「じゃあまあ、…いいか」→「じゃまいか」→「ジャマイカ」…。

3丁目の夕日

2007-08-19 10:07:49 | Weblog
「オールウエイズ3丁目の夕日」をDVDできちんとみてみました。この映画の舞台は、1958年の東京。東京タワーが建設中で、高度経済成長がまた緒についたばかりの時代です。この時代の日本では家々を隔てる壁は薄く、夫婦喧嘩も何も外に筒抜けでした。夏にはランニングシャツ一枚の貧相なみなりをした子どもたちは、土管の置かれた原っぱ拠点にして、常に群れ集って遊んでいます。

 この映画のなかでは、そうした当時の庶民の暮らしぶりの描写に力点が置かれています。作家志望で駄菓子屋を営む青年がひょんなことから親に捨てられた子どもを育てることになりました。その子どもを喜ばせるために、戦争で妻子を亡くしたお医者さんが、サンタクロースに扮してプレゼントを届けにあらわれます。中学を終えてすぐ、集団就職で青森から出てきて住み込みで働く少女を、自動車修理工場を営む夫婦が温かく見守っています。

「夕日」は「プロジェクトX」のような、高度経済成長期の成功物語ではありません。むしろ高度経済成長以前の「われら失いし世界」へのオマージュとしての性格を色濃くもっています。当時のことなどまるで知るはずもない学生たちまでもが、この映画をみて「懐かしい気持ちになった」といっていたのが印象に残っています。

しかし「夕日」もまた、高度経済成長を賛美する風潮から免れていたわけではありません。舞台となった自動車修理工場(「鈴木オート」)の「社長」(個人経営の町工場)宅には、冷蔵庫が、そしてテレビが入っていきます。「社長」は、零細な町工場に就職したことに不平をいう少女に対して、いまは一介の町工場でも、自動車は成長産業だから世界に打って出ることも夢ではないと諭しています。このセリフは「プロジェクトX」を彷彿とさせるものです。夕日に照らされる、完成したばかりの東京タワーを登場人物たちが様々な場所から仰ぎみる場面で、この映画は終わっています。世界一の高さを誇る東京タワーは高度経済成長のシンボルといえます。東京タワーを否定的なまなざしで見上げている登場人物はありませんでした。

ああ栄冠は君に輝かないとも限らない

2007-08-17 07:51:09 | Weblog
甲子園の高校野球がたけなわである。子どもの頃は、あれはお兄さんたちがやるものだと思っていた。いまでも少なからずそう思っている部分がある。しかし現実には自分の子どもの世代が、グラウンドを駆け巡っている。それが自分の孫の世代になる日も遠くはないだろう。 光陰は矢の如し。

 現在の甲子園大会の前身は、全国中等学校野球選手権大会。その第一回大会の始球式の写真は、よく知られている。大阪朝日の創設者、村山龍平が山高帽に羽織袴という奇妙ないでたちで、球を投げている写真である。この時、村山社主の横に佇んでいるのが、N高の前身・鳥取中学のエース鹿田一郎投手である。鹿田さんは歴史的な第一球を投じた人だ。そして対戦相手の広島中学(現国泰寺高校)を破り、最初の勝利投手となった人でもある。

 鹿田さんは存命中、夏の大会の地方予選がはじまる頃、朝日新聞の地方版に、毎年メッセージを球児たちに寄せていた。そして5年に1度の記念大会になると、やはり朝日新聞の全国版に鹿田さんのメッセージが掲載されていたものである。もちろんメッセージの細部はその年ごとに異なっていた。しかし、毎年きまって、平和な時代に野球ができる有難さをかみしめて現在の選手諸君はプレーするようにということばでメッセージは結ばれていたのである。

 1975年に鹿田さんは亡くなった。以後、甲子園大会の季節に、「平和な時代に…」というメッセージを新聞紙面でみることはなくなった。しかし、N高が久し振りに甲子園に出た一昨年、朝日新聞の全国版で、鹿田という名前の人が、「平和な時代に…」と語っているのをみてわが目を疑った。よくみると鹿田さんの息子さんだった。いささか心配になる。およそ30年後にN高が甲子園に出れば、今度は鹿田投手のお孫さんが、「平和な時代に…」と語っているのだろうか。それより何より、その時代にも相変わらず平和は続いているのだろうか

師匠とその弟子(ご冥福をお祈りいたします・声に出して読みたい傑作選35)

2007-08-15 20:01:44 | Weblog
 鳥取県には、鳥取市と米子市という対照的な二つの都市がある。県東部の鳥取市は昔の城下町。プライドが高く理屈っぽい人間が多い。他方米子市は、「山陰の大阪」と呼ばれた商都。快活で奔放な気風の街である。その中間に位置する倉吉市はどうにも印象が薄い。倉吉という地名は「くらしよし」からきていて、江戸期には各所からかけおちをした男女が逃げ込んできたという話を、若い頃の大江健三郎のエッセイで読んだことを覚えている

 倉吉出身の著名人には、元横綱琴桜がいる。先月末、義母の法事が倉吉の近くであった。兄の車に乗せてもらって鳥取に帰る途中、倉吉の街を通った。そこでわれわれは信じ難い光景を目にした。数人の男女が琴桜の銅像をみがきたてていたのである。何の必要があってそんなことをしているのか。翌日の地元紙を読んで疑問が氷解した。元琴桜の佐渡ヶ嶽親方が九州場所を最後に引退する。それを顕彰しての「銅像磨きの儀」であったようだ。

 琴桜の置き土産が大関昇進を決めた琴欧州だ。地元紙のコラムは、「琴欧州関には、鳥取を日本での故郷だと思ってもらいたい」と書いていた。琴桜の長いインタビューが載っていた。貧しいブルガリアから来てハングリーに相撲に取り組む琴欧州の姿勢に、いまの日本の若者たちよりよほど自分に近い者を感じると琴桜は言っていた。貧しさのなかから身を起こした旧世代の偽らざる感慨だろう。地元のお団子メーカーが、琴欧州に200万円の化粧回しを贈ったという記事もあった。

 おみやげにここのお団子を買った。甘い3色のお団子である。大学の研究室にもっていった。琴欧州の化粧回しの話をしたら、若い助手さんが興味を示した。ネットで検索をはじめた。琴欧州の化粧回しを締めた画像が出てきた。化粧回しには大きく「明治ブルガリアヨーグルト」と書かれていた。彼女は声たからかに笑った。新大関は来年からお団子の絵のついた化粧回しをしめるのだろうか。一月場所が楽しみだ。

海水浴(あれは3年前・声に出して読みたい傑作選34)

2007-08-12 05:50:18 | Weblog
 8月16日が父の命日である。しかし本当の命日は、8月10日だとぼくは思っている。この日帰省中のぼくたち一家は海水浴に行っていた。白兎伝説で名高い海岸の隣の海水浴場である。海も砂浜も大変美しい。しかもここは穴場の海水浴場で訪れる客も少ない。子どもたちを連れて少し沖の方まで歩き、さてこれから泳ごうかと思った矢先、妻の呼ぶ声が聞こえた。父が呼吸困難に陥った。すぐに帰れという連絡が入ったのだという。

 ぼくは大層驚いた。海につかっていたら心臓麻痺を起こしていたかも知れない。クルマをもたないぼくたちはタクシーを呼び、父の入院しているホスピスに向かった。ホスピスに着くと兄のクルマが止めてあった。トランクが開いたままになっている。ただならぬ雰囲気である。だめだった。父の最期に間に合わなかった。そう思った。ホスピスに入ると部屋が替わっていた。父はまだ生きていた。そして人工呼吸器につながれていたのである。

 ここはホスピスである。延命処置はしない。しかし、兄夫婦がT医師に頼み込んだ。いまはお盆。もなかやの書き入れ時だ。ここで父が死ぬと商売に大いに差障りが出る。父も、先に亡くなった母も家業を第一に考えた人たちだ。商売の足を引っ張ることは彼らの本意ではないはずだ。なんとかしてほしい。T医師は理解を示してくれた。滅多に使わない人工呼吸器に父をつないだのだ。お盆の間は何とか持ちこたえるだろう。そうT医師は言った。

 T医師のことばどおりお盆の間父は生き続けた。最後の2日間、ぼくは父の病室に泊まった。いろいろな話をした。もちろん父は反応を示さなかったが。お盆開けの16日午前、人工呼吸器が外された。そのわずか数時間後に父は息を引取った。延命機器の威力をみせつけられた思いがした。臨終の時、部屋のテレビはつけっ放しになっていた。父の大好きな高校野球中継をやっていたからだ。末期の水に、やはり父が好きだった日本酒を飲ませた。
 


東京音頭

2007-08-09 08:55:41 | Weblog
 村上春樹は好きな作家ではないが、初期の「村上朝日堂」というエッセイは好きだった。そのなかに自分はヤクルトスワローズのファンだという文章があった。巨人戦以外はいつもがらがらで、外野の芝生席で寝転がって試合をみていたら、若松選手が観客の野次に腹をたてて外野の客と言い争いをはじめたという話には笑ってしまった。神宮球場の外野の芝生席はぼくにも懐かしい。

 今年のヤクルトは惨憺たる成績だ。株主総会で、古田監督の責任を問う声まで出たという。その時の記事に、「昔からのファンはがっかりしている」という株主の声が紹介されていたが、ぼくはこれには首をかしげた。国鉄と呼ばれていた時代には恐ろしく弱いチームだった。ヤクルトになってからも70年代の末の広岡監督時代に少し強い時期があった他はずっと下位に低迷していた。強かったのは90年代の野村監督時代だけである。だから昔からのファンなら、今年の不成績は「あ、やっぱり」ぐらいにしか思っていないだろう。

 滅多に勝たないチームがたまに勝つのを喜ぶというファン気質が、長い常敗(?)の歴史のなかで培われていった。。「熱狂的」という感じのファンは少ない。村上春樹も、時々「ヤクルト勝つといいな」とぼそりと思う程度のファンだといっていた。神宮の試合でも、大体ビジターのファンの方が多い。とくに巨人戦・阪神戦では圧倒的にそうだ。阪神線では1塁側の内野席で、大声で六甲おろしを歌っている輩がいた。巨人戦では、やはり1塁側で二岡選手に声援を送っている集団がいた。こんなことは甲子園や東京ドームでは考えられないだろう。ホームのファンから袋叩きにあうに違いない。

 いま売り出し中の青木・田中の1、2番コンビは早稲田OB。ハンカチ王子がヤクルトに入れば神宮は連日満員になるのだろう。しかし切符がとりにくくなるのはあまり有難いことではない。華やかに脚光を浴びるより、ぬるいゆるいヤクルトのチームカラーが好きだというファンが多いのではないか。ところで村上春樹はいまどこにいるのだろうか。相変わらず「ヤクルト勝つといいな」とぼそりと思ったりしているのだろうか。