ガラパゴス通信リターンズ

3文社会学者の駄文サイト。故あってお引越しです。今後ともよろしく。

死の床に横たわりて(この金融危機を義母はどう論評しただろうか・声に出して読みたい傑作選67)

2008-11-28 06:25:50 | Weblog
 妻の母は面白い人だった。結婚の許しを得るために、妻の実家をたずねた時のことである。彼女は一目見てぼくを気にいってくれた。そしてこういった。「あんたあ、ええ身体をしとんさる。わしと組んで闇屋をやろう。儲かるで!」。義母は逞しい人で、戦後は闇で随分もうけたようである。それをもとでに市内で、小さな菓子屋を開いていた時期もあった。ぼくの母もその店のことはよく覚えていた。おしゃれで品揃えのよい店だったらしい。

 しかし物資統制令が撤廃され、ぼくの生家のような本物の菓子屋が復活してくる頃には、義母はそのお店をたたんでいた。女性が働くよい職場が限られていた時代である。次に彼女が始めたのが株である。義父は出世したお役人だが、「夜の帝王」の異名をとる人付き合いのよい人だった。給料は飲み代に消えてしまう。家にはあまりお金を入れなかったようだ。義母の株には家計の足しにするという目的もあった。いま流行のデイ・トレーダーの走りである。

 妻は小学生の時、「仕事をするお母さん」という図画の宿題を出された。彼女はラジオの株式市況を聴いている義母の絵を描いた。それは間違いなく義母の「仕事」だったのだが、先生には理解できなかったらしい。「休憩中のお母さん」というタイトルがつけられた。義母の思い出話は本当に面白かった。スターリン暴落や昭和40年の証券危機での田中角栄の日銀特融の発動等々、現代史のトピックスを講釈師のような口吻で語る様は圧巻だった。

 義母はバブルでも大きな傷を負わなかった。株価が上がっていた時に、「これはおかしい」と思い、資金を全部引き上げてしまった。ヒルズ族のようなIT成金のことは、「あのもんらは好かん」といっていた。死の床に横たわりながらも、やはり株をやる妻の兄に向かって、「ブッシュのだらずが戦争しまわる。みとれい。株もドルもどーんと下げるわ」といっていた。ホリエモンの騒動に義母は何をいったのだろう。それを聞けなかったのが残念だ。

みんなが生きていける途2

2008-11-25 16:04:08 | Weblog
 前のエントリーで所得保障の話を書きました。基礎的所得保障というと、全員に一律の所得の保障をするのが基本ですが、そのなかにも様々なバリエーションがあります。「負の所得税」もその一つです。

これは一定の所得に達していない人に現金を給付するやり方で、いまの税金の還付金を拡大した発想ですから、実現可能性は高いし、実施にあたっての一般の理解もえやすいでしょう。しかし、これには所得・資産審査(ミーンズテスト)が伴います。これは生活保護の場合にみられるように、役人の弱者いじめの温床になりかねませんし、徴税機構を肥大させるという難点があります。

さて、旺盛な読書生活を送る太郎ですが、算数ができません。なんだか(なんだか忘れた)を買うから500円をくれといいます。「消費税5%とあわせて510円」。「あのねなんで500円の5%が10円になるのよ」と妻はいうのですが、正しい答えは分からない。この話を妻が同じ吹奏楽団の団長さんで、太郎と同じトランペットを吹いているあすみちゃんのママにしました。

 「うちの子も算数だめなんです」とあすみちゃんのママ。「この前スーパーに買い物に行ったらあすみが、興奮して叫ぶんです。『ママ、すごいよ!全品110%オフだって!!いっぱい買って帰ろ!!!』。私もびっくりしてフロアを見回したら『全品100円引き』の張り紙がありました。それを見まちがえたんですね。ああ、あすみは比とか割合が全然理解できていないんだと思いました。110%オフなんてありえませんもの」。

 うーん、しかし全品110%オフはすごい。1000円買ったら100円お金がもらえます。全然支払いをしないで。「負の所得税」ならぬ、これは「負の消費税」か。消費を活性化し、景気を浮揚すること確実です。麻生内閣も、「定額給付制度」などとけちなことを言っていないで、真剣に「負の消費税」の導入を考えてはいかがでしょうか。


みんなが生きていける途

2008-11-20 06:31:40 | Weblog
 正直、去年ぐらいまでは基礎的所得保障というのは、いい考え方だとは思いながら、実現可能性という意味では夢物語に近く、まあ自分が生きている間に現実になることはないだろうな、と思っていた。とくにこの「働かざる者食うべからず」というイデオロギーが支配している日本という国では。

 ところが今年に入って、にわかに基礎的所得保障が現実味を帯びてきた。カダフィのリビアが、所得保障を導入したというニュースにはびっくりした。日本でも、全面的な実現というにはまだ遠いが、民主党は農家への所得保障を打ち出している。これは「参加型の所得保障」ということになるのだろう。

自民党が個人を対象に1万2000円だかを給付すると言っている。選挙目当てのばらまきだろうが、これも所得保障まがいのものといえる。減税では、貧しい層には恩恵がない。ところが大きく膨らんでしまったこの層を見捨てていたのでは、景気回復はおぼつかない。その判断は正しいと思う。しかし、一時的なばらまきでは貯蓄にまわるのがおちだろう。おそらく何の効果もない。

 基礎的所得保障は、左翼やいわんや「共産主義者」の独占物ではない。官庁に近い学者や企業寄りのエコノミストの間にも熱心な賛同者がいる。高齢人口がどんどん増え、格差社会で貧者が増えれば、社会保障費は途方もないことになる。勤労階層・世代は重い負担でつぶれてしまいかねない。従来の社会保障制度がもたないことは明らかだ。経済を回していく上からも、基礎的所得保障は現実的な選択なのである。

 アメリカ発の金融危機は日本にも大きな打撃を与えることだろう。倒産や失業が激増する可能性が高い。すでに非正規雇用の人たちの首が斬られているという報道もある。憂慮すべき事態だが、経済危機のなかで、基礎的所得保障を求める声がますます高まる可能性も高い。ちなみに学生たちにも基礎的所得保障の話しをすると受けがいい。とくに「しゅうかつ」を目前にした3年生は、恐慌という名の超巨大氷河の到来を予感しているようにみえる。


友を選ばば 書を読みて

2008-11-17 19:38:00 | Weblog
 太郎が『黒執事』というマンガにはまっている。イギリス上流階級が舞台の腐女子系のマンガである。朝7時に、「お坊ちゃま、お目覚めください」といって起こしてくれという。言われるままに執事役をぼくが演じている。もっとも太郎がぐずぐずしていると、「はよ起きんかい!何時だと思っとるだいや!!」と野蛮な鳥取の親父に豹変するのだが。起きると紅茶をわかし、スコーンを食べて学校に行く。優雅なイギリス貴族の一日のはじまり。

 今年の夏ぐらいから太郎は、新撰組に興味をもっている。司馬遼太郎の『燃えよ剣』がうちにあるのをみつけた。しかし下巻だけ。上巻もあるはずなのだが、整理が悪くてどこにあるのか分からない。下巻ばかりを繰り返し太郎は読んでいた。この前、散髪の帰りにブックオフによると太郎が『燃えよ剣』の上巻をみつけた。文庫の古本が400円は高いと思ったが購入した。帰り道に太郎が言った。「これでやっと下巻ばかり読む生活から解放される」。

 最近、『罪と罰』を読み始めた。席が隣の女の子が、『カラマーゾフの兄弟』を読んでいたのが刺激になったようだ。もっともその子は中学受験組なので、途中で読むのをやめてしまったようだ。受験勉強をしながらあの本を読むのは無理だろう。『カラマーゾフ』を読みたいと太郎はいうが、いくら亀山訳でもあれは話が複雑すぎる。やはり亀山訳の『罪と罰』を勧めてみた。これだと推理小説に近いノリで読める。ぼくの母は小学校6年生でこの小説を読んだと言っていたし。

 学校で少しずつ読んでいる。「変なよっぱらいが演説をしていた」とか、「長い手紙を読んでラスコリニコフがキレた」とかいっているので、深いところはともかく筋は追えているようだ。しかし心配になる。『燃えよ剣』と並行して読んでいるのだ。太郎の頭のなかで、「『罪と罰』は、沖田総司が金貸しばあさんを斬り殺した話しである」という混同が起こりはしないだろうか。


思い出のアルバム3(寒くなると思い出す・声に出して読みたい傑作選66)

2008-11-14 07:06:23 | Weblog
 太郎が幼稚園に通っていたころ、11月23日の勤労感謝の日は、「お父さんと遊ぶ日」だった。父と子が幼稚園から、市の境を超えて6キロの道を歩き、森のなかの大きな公園で遊ぶ。これが大変な苦行だった。
 
 幼稚園児と歩くのだ。6キロといえば2時間近くかかる。おしゃべりをしていれば別に辛くもないだろう。しかしまわりはお父さんばかり。「男はだまってサッポロビール」の人たちである。何も話題がない。ただ黙々と歩くのみだ。とても辛かった。

 それでも努力をして周りの人に話しかけてみたことはある。太郎が年少組の時、たまたま隣にはいあわせたお父さんは大企業のエンジニアで、国分隼人のテクノポリスで働いていたという人だった。よかった。ぼくも鹿児島暮らしが長かったからこれで接点ができたと思った。「どこにおすまいでしたか」。「加治木です。あなたは」。「谷山です」…。これで終わりだ。全然話がはずまない。ぼくも含めて日本の大人の男というのは社交ができない。肩書きや地位を抜きの、裸の人間同士の付きあいということができない動物なのだと思った。

 寒風吹きすさぶなかを歩き続け、ようやく公園にたどり着くと、今度は「お父さんは強い」系のゲームが待ち受けている。太郎が年少の時にはクラス対抗でお父さんが子どもをおんぶして走るリレーをやらされた。骨髄移植を受けた翌年である。まだ免疫抑制剤を飲んでいた。死ぬかと思った。これをお父さんたちは必死の形相でやるのである。「お父さんは強い」。いついかなる時でも負けてはならないのだ。

 帰りは電車で帰る。公園から駅までの道すがら、何人かのお父さんが「ああ、今日は楽しかったな」と顔面神経を引きつらせながら言うのが例年のことだった。一体どこが楽しかったのだろうか。太郎が卒園して、この行事から解放されて正直ほっとしている。近年の勤労感謝の日は、太郎と一緒にヤクルトスワローズのファン感謝デーに行く日になっている。

あなたをもっと知りたくて

2008-11-11 06:27:30 | Weblog
 何年か前の話です。入試の終わった2月のこと。平日の昼間自宅にいると、電話がかかってきました。ぼくが出ると男の声がします。「加齢さんのお宅でしょうか」。ぼくが「はい」と答えると、男は少し驚いたようで「御飯さんのお父さんですか」と聞きます。このあたりからおかしいと思った。何故「御飯さんですか」と聞かないのか。平日の昼間にぼくが家にいるとは思わなかったのでしょう。不審に思ったぼくは、「御飯の父です。あなたこそどなたですか」と問い返します。男はぼくの勤務校の事務職員だと答えました。

 大学からの電話ならナンバーディスプレイに代表番号が表示されますが、これは非通知になっている。「振り込め詐欺」の類だとぴんときました。ぼくが大学の教員だということを、この男は知っている。セクハラか何かの問題をお前の息子が起こした。だから金を所定の口座に振り込め…。そういうストーリーなのだろうな、と思いました。ぼくはこう尋ねました。「どちらの部署の方ですか」。相手は不快そうにいいました。「そんなことどうでもいいじゃないですか」。

 ぼくは勝ち誇ってまくしたてます。「本当にあなたが、うちの大学の職員なら、まず自分の名前と所属を明かすはずです。そして事務職員が教員のことを『御飯さん』と呼ぶはずがない。いや、電話の主がたとえ学長であっても必ず私のことを『先生』と呼ぶでしょう」。

 男は完全に狼狽してぼくに尋ねます。「なんでそんなこと、あなたが知っているんですか」。「それは私が加齢御飯、本人その人だからです!ずばりあなたは、振り込め詐欺の人でしょう!!」。ぼくの声は完全に裏返っていました。まるで「ちびまる子」ちゃんの丸尾末男です。

 それにしても不思議です。この詐欺師は格別お粗末な輩だったのでしょうか。それともこういうお粗末な手口に世の善男善女はひっかかっているのでしょうか。男は、「大学の先生が嘘なんかついていいんですか」と捨て台詞を残して電話を切りました。


漂流国家

2008-11-08 11:34:31 | Weblog
 同じ経済的破綻といっても、バブル崩壊の時より、いまの方が数段厳しい状況だと思います。まずバブル崩壊の時には、日本の金融システムがだめになってしまったものの、アメリカ経済は好調で、中国が急発展を遂げていました。中国製品の流入や中国に日本企業が生産拠点を移したために地方の経済が大打撃を受けたというマイナス面はありましたが、輸出依存の日本経済はアメリカと中国のおかげで何とか生き永らえたということができます。

 今回は日本の金融システムは堅調なのですが、そのために円高になってしまった。アメリカもヨーロッパもだめ。中国も沈むことは目にみえている。輸出産業には明るい材料がどこにもありません。そして、ドルに対する信認は大きく揺らぐでしょう。世界貿易が収縮することは目にみえています。日本の「貿易立国」は非常に困難なものになっていくはずです。「アウタルキー(自給自足)」体制が世界を覆い、食糧と原燃料が入ってこなくなると一体日本はどうなるのか。

 それでもまだ大胆な価値観の転換ができればよいのです。災い転じて福となす、ということわざもあります。中国産への不信感から大分のしいたけ農家は息を吹き返したとNHKテレビのニュースは言っていました。食糧の輸入が困難なら自給率を上げればよい。原燃料が入って来なければ、その時こそが日本人お得意の創意工夫と「もったいない精神」の出番です。日本人には難局を克服する力があるはずです。

  価値観の転換を可能にするようなリーダーシップがこの国に存在するとは思えません。そこが問題です。バブルの時は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と驕り浮かれ、それが崩れると今度は何でもアメリカのマネ。愚かなことですが、それでもまだ方向性というものがあった。しかし今度は世界のどこも沈んでいて、方向を示してくれるものがみあたらない。先行きのみえない寄る辺ない国のなかで、なにかとてつもなくおぞましくも浅ましいことが起きるような気がしてなりません。


マメーリの賛歌

2008-11-06 06:12:15 | Weblog
 八木宏美著『違和感のイタリア』(新曜社)を読了。著者は音楽を学ぶためにイタリアにきて、イタリアに魅せられ、この国の大学を卒業して、そのまま住み着いてしまった人だ。イタリア人は何故独創的なのか。それはこの国が無秩序で次に起きることがまったく予測できないからだという。臨機応変、機転をきかせるということができなければ、そもそも生きていくことさえできない国のようだ。日本とはなんと違うことだろう。

 教育の話も興味深い。日本では文章の要約の訓練をさせられる。ところがイタリアはまったく逆。いくつかのことばを組み合わせて文章を作らせたり、短い文章を果てしなく長く引き伸ばす訓練を小さい頃から受けている。「そぎ落とし方」方教育の日本が先進知識の需要という観点から優れているのに対して、イタリア式教育には強い「創造」志向がある。

 イタリアには強固な「人文主義的教育」の伝統がある。博識がよしとされ、高校段階では猛烈な知識の詰め込みがなされる。物事には多様な見方があることが自明とされ、高校のイタリア史では、キリスト教、マルクス主義、オーソドックスな歴史学という、およそ異なった観点から書かれた少なくとも3冊のひどく分厚い教科書を学ぶことが要求されるのだ。これに比べると、「新しい歴史教科書」をめぐる日本の騒動はなんとけち臭く感じられることか。

 しかしイタリアは無学な人々がうちひしがれている国ではない。小学校卒の「社長さん」や農民が、これほど肩で風を切って歩いている国は他にない。大学に入学して卒業できる学生は半分にも届かないが、彼らも在学中によい就職先がみつかれば、あっけなく大学を辞めてしまうのだ。おそるべきプラグマティズム。

 本書では、フィアットやマフィアやファシズムについても触れられている。これらには多くの類書がある。「人文学的伝統」で一冊が貫かれていれば、というのが、この知的刺激に満ちた書物に対して感じたささやかな「違和感」である。
 


カエルの歌(死のなかの微笑み・声に出して読みたい傑作選65)

2008-11-03 07:33:21 | Weblog
 携帯電話など終生もつまいと考えていた。わずらわしいだけの代物だと思っていたからである。ところが04年、ぼくの両親が相次いでこの世を去った。見舞いと葬儀のために何度か帰省をした。心配なのは自分の両親だけではない。妻の両親も年老いている。特に夏頃から義母の衰弱が顕著になってきた。鳥取に帰っても夫婦で分かれて行動することが増えてきた。すると連絡をとるのに困る。そこで筋を曲げて携帯をもつことになった次第である。

 ぼくは機械類の扱いを苦手としている。パソコンでも使い方を子どもに習っているぐらいだ。携帯電話などどう操作していいのかいまだに分からない。新しい携帯電話が来て子どもは大喜びだ。着メロがどうのこうのと騒いでいる。太郎が携帯を前にして、「カエルの歌」を歌っていた。それを録音して着メロにするのだという。携帯電話をあちこちいじるので、「携帯はおもちゃじゃない!」とぼくは怒った。その怒鳴り声も着メロに入っている。

 04年の11月の中頃のことである。体調不良で入院した妻の母が、危篤状態に陥ったから急いで帰ってこいという連絡が届いた。ぼくたちは慌てて鳥取に帰った。義母は奇跡的に持ち直し、数日小康を保った。容態が急変する兆しもない。子どもに何日も学校を休ませるわけにはいかない。ぼくにも仕事がある。何より卒論提出を目前にした忙しい時期である。後ろ髪引かれる思いもあったが、妻だけが残り、ぼくと子どもは神奈川に帰ることになった。

 神奈川に戻ってから数日の間、携帯電話を肌身離さずもつ日々が続いた。義母に何かあれば妻がこの携帯に連絡を入れることになっていた。妻以外この携帯の番号を知っている人はほとんどいない。ぼくは学生に事情を話して、授業中でも携帯電話のスイッチを入れていた。11月25日。午後の授業が終わり研究室で休んでいると、着メロが鳴った。「カエルの歌が 聞こえてくるよ ゲゲゲゲ」。それは、義母の永眠を報せる妻からの電話だった。