大学時代はソフトテニス(当時は軟式庭球といっていた)の準体育会的サークルに席をおいていた。オイルショック後の就職難の影響もあるのだろう。教員になり、いまでは中学や高校のソフトテニスの指導者になっている者も多い。千葉県の中学校の先生になったH君もその一人である。
卒業して何年かたって同期会を開いた時、彼はやってきた。在学中はやさしい感じの男だった。声を荒らげるところなどみたこともない。それが一変していた。精悍に日焼けして眼光が異様に鋭い。口のききかたもぞんざいになっていた。激戦の千葉県を勝ち抜いて彼が顧問をしている中学校は、全国大会に出場したのだという。県下では熱血指導で鳴らしているらしい。「子どもなんていうのはね。力で押さえつけなきゃだめなんだ」。耳を疑った。立場はここまで人を変えるのかと思った。
それから10年ほど後に、彼が重い病気に罹ったという報が届いた。肺のガンが、脳に転移したという。ぼくが白血病に罹ったのはそれからほどなくしてのことだ。ぼくの同期は50になる前に二人も欠けてしまうのかという思いが頭をよぎった。幸いなことにそうはならなかったのだが。
ぼくが退院してから数年後に同期会が開かれた。H君も来ていた。彼もぼくの病気のことは知っていた。「お互い生きていてよかったね」とあいさつを交わした。彼が近況を話してくれた。「病気をしてからは無理をしないようにしている。いまはソフトテニス部の『第三顧問』。ボール拾いをしたりして練習を手伝っているよ」。「第一顧問の先生はテニスの経験がないんだ。本で学んだことを子どもに教えている。それが新鮮でね。みていて勉強になるよ」。「子どもをテニス好きにするのが教師の役目。勝ち負けにこだわるのは愚かなことだ。昔の生徒たちには悪いことをしたと思っている」。彼の眼には学生時代と同じ柔和な光が戻っていた。
卒業して何年かたって同期会を開いた時、彼はやってきた。在学中はやさしい感じの男だった。声を荒らげるところなどみたこともない。それが一変していた。精悍に日焼けして眼光が異様に鋭い。口のききかたもぞんざいになっていた。激戦の千葉県を勝ち抜いて彼が顧問をしている中学校は、全国大会に出場したのだという。県下では熱血指導で鳴らしているらしい。「子どもなんていうのはね。力で押さえつけなきゃだめなんだ」。耳を疑った。立場はここまで人を変えるのかと思った。
それから10年ほど後に、彼が重い病気に罹ったという報が届いた。肺のガンが、脳に転移したという。ぼくが白血病に罹ったのはそれからほどなくしてのことだ。ぼくの同期は50になる前に二人も欠けてしまうのかという思いが頭をよぎった。幸いなことにそうはならなかったのだが。
ぼくが退院してから数年後に同期会が開かれた。H君も来ていた。彼もぼくの病気のことは知っていた。「お互い生きていてよかったね」とあいさつを交わした。彼が近況を話してくれた。「病気をしてからは無理をしないようにしている。いまはソフトテニス部の『第三顧問』。ボール拾いをしたりして練習を手伝っているよ」。「第一顧問の先生はテニスの経験がないんだ。本で学んだことを子どもに教えている。それが新鮮でね。みていて勉強になるよ」。「子どもをテニス好きにするのが教師の役目。勝ち負けにこだわるのは愚かなことだ。昔の生徒たちには悪いことをしたと思っている」。彼の眼には学生時代と同じ柔和な光が戻っていた。