ガラパゴス通信リターンズ

3文社会学者の駄文サイト。故あってお引越しです。今後ともよろしく。

テニスの王子様

2009-07-31 11:53:04 | Weblog
 大学時代はソフトテニス(当時は軟式庭球といっていた)の準体育会的サークルに席をおいていた。オイルショック後の就職難の影響もあるのだろう。教員になり、いまでは中学や高校のソフトテニスの指導者になっている者も多い。千葉県の中学校の先生になったH君もその一人である。

 卒業して何年かたって同期会を開いた時、彼はやってきた。在学中はやさしい感じの男だった。声を荒らげるところなどみたこともない。それが一変していた。精悍に日焼けして眼光が異様に鋭い。口のききかたもぞんざいになっていた。激戦の千葉県を勝ち抜いて彼が顧問をしている中学校は、全国大会に出場したのだという。県下では熱血指導で鳴らしているらしい。「子どもなんていうのはね。力で押さえつけなきゃだめなんだ」。耳を疑った。立場はここまで人を変えるのかと思った。

 それから10年ほど後に、彼が重い病気に罹ったという報が届いた。肺のガンが、脳に転移したという。ぼくが白血病に罹ったのはそれからほどなくしてのことだ。ぼくの同期は50になる前に二人も欠けてしまうのかという思いが頭をよぎった。幸いなことにそうはならなかったのだが。


 ぼくが退院してから数年後に同期会が開かれた。H君も来ていた。彼もぼくの病気のことは知っていた。「お互い生きていてよかったね」とあいさつを交わした。彼が近況を話してくれた。「病気をしてからは無理をしないようにしている。いまはソフトテニス部の『第三顧問』。ボール拾いをしたりして練習を手伝っているよ」。「第一顧問の先生はテニスの経験がないんだ。本で学んだことを子どもに教えている。それが新鮮でね。みていて勉強になるよ」。「子どもをテニス好きにするのが教師の役目。勝ち負けにこだわるのは愚かなことだ。昔の生徒たちには悪いことをしたと思っている」。彼の眼には学生時代と同じ柔和な光が戻っていた。


学園パラダイス

2009-07-28 11:05:00 | Weblog
 ぼくが中学生だった70年代のはじめのころは、部活はそれほど盛んではありませんでした。熱心な指導者がいる強い部活と野球部以外はほとんどお遊び。高校に入ってレベルの違いにびっくりするというのが通例でした。

 中学校が部活に力を入れるようになったのは、学校が荒れはじめた1980年代のことです。荒れる子どもたちを押さえつけるために、学校のなかでは暴力装置のような体育教師が強い権限をもつようになりました。子どもたちのエネルギーのはけ口に部活が活用されていったのです。

 部活がこの時代に肥大していった背景には、子どもたちの「学びからの逃走」があります。学校の勉強が分からないという子どもが70年代から増えていきました。「落ちこぼれ」という不愉快なことばができたのもこの頃のことです。過大な勉強の負担が子どもたちを苦しめ、学校の荒れをもたらしている。そうした認識は、教育に関わる人たちの間に広く共有されていました。以来、「ゆとり教育」の時代にいたるまでの約30年間、小中学校での学習内容は減らされ続けていったのです。「学びからの逃走」を続ける子どもたちを学校に引き留めるために部活が重視されるようにいったのではないか。

 この頃から共働き家庭が増えてきています。親たちは、中学校に託児所的な機能を求めるようになりました。そして80年代は、万引きのような「遊び型犯罪」が増え、戦後3番目の少年犯罪のピークとも言われていた時代です。社会の側も、子どもを野に放たない「留置機能」を学校に求めたといえなくもありません。

 80年代はいじめが注目され始めた時代です。子どもを長い時間学校に囲い込んでおけばいじめが増えるというのは誰にでもわかる理屈です。いじめに苦しみながら、子どもたちを長く囲い込むことを求められるという矛盾した状況に当時の日本の中学校は置かれていたといえます。

 

一瞬の夏(熱闘!相模原球場編)

2009-07-25 11:00:58 | Weblog
7月16日。高校野球神奈川県大会にS高が登場。場所はホームグラウンドの相模原球場です。都心の大学院の最後の授業を終えたぼくは、電車とバスを乗り継いで球場に直行。開始時刻10分前に着いたはずなのに、試合はもう一回の裏。S高の攻撃が始まっています。第一試合で強豪私学が県立進学校を5回コールドで破ったために開始時刻が15分早まったためです。

 相手も県立高校。実力は互角でしょう。守備も打撃もS高が大きく劣るとは思いませんが、いかんせん投手力が弱い。四死球でランナーをためて痛打を浴びます。それでも4対0とリードされた中盤、S高中軸が長短打を集め2点をとったときには応援席は歓喜にわきました。

 応援団部は男女に分かれ、男子は古典的な応援団、女子はチアリーダーです。女子の方は、チアのコンクールとか文化祭とか見せ場は他にもある。男子の晴れ舞台といえば、夏の甲子園予選だけ。なんともストイックな。異様に声の高い「男子」りーダーがいるのが目を引きました。どうやら女子生徒のようです。青春を燃焼させたいという彼女なりの思いがあるのでしょうか。

骨子たち吹奏楽部も必死で応援をしています。最初はルールが全然分からなかった骨子も、ほぼ試合の流れが理解できるようになりました。「ボールが4つたまると一塁に歩けるんでしょ」。たしかに。5番バッターのH君は同じクラス。彼が打席に立つととりわけ力をこめてホルンを吹いたといっていました。

 試合は7回に相手にダメ押しの2点をとられ、勝敗はほぼ決した感がありました。S高側スタンドがざわついたのはその時です。去年に続いてOBの衆議院議員A氏が登場しました。校長が丁寧に接待をします。国会が大変な時のこの母校愛には感動しました。自民党のA氏は、苦戦が予想されています。来年の夏の大会には「元国会議員」としてS高スタンドにあらわれるのでしょうか。

白鯨(アポロが月面に着いた夏でもあった・声に出して読みたい傑作選86)

2009-07-22 12:35:41 | Weblog
中学一年の時の担任だったK先生は、英語弁論の達人だった。「T市で唯一、RとLが発音し分けられる男」、「長年の修練の結果、彼の舌は石になっている」等々、多くの伝説に包まれた人物でさえあった。教師としての彼は、中学生を大人扱いする人だった。彼の出した夏休みの宿題がふるっていた。「夏休み中に一度、徹夜をすること」。徹夜するぐらい熱中できる対象をもたない人生はつまらない。それが先生の持論だったのである。

 この「宿題」をぼくはとても新鮮に感じた。小学校の先生たちは夏休みに入る時、判でおしたように「規則正しい生活を」と繰り返していた。それをK先生は、「徹夜せよ」、「熱中せよ」というのだ。ぼくは徹夜をしてメルヴィルの『白鯨』を読むことにした。前年の夏、影丸譲也が『少年マガジン』誌上で劇画化していたのを読んでいた。ものすごく面白かった。今度は「大人の本」で読んでみようと考えたのである。早速本屋で文庫本を買った。

 執念で白鯨を追い求めるエイハブ船長の冒険には心踊るものがある。しかし、こちらも生涯最初の徹夜に挑むのだ。心の高まりはいささかも、かの老船長に劣るものではなかった。しかし、うんざりするほど長い本だ。とても一晩で読みきれそうにはなかった。それでも、とにかく7月21日を「冒険敢行」の日と決めた。13歳の誕生日の前日である。夜9時に『白鯨』を読み始める。9時にはもちろん意味がある。クジラと「9時だ」を掛けたのだ。

 クジラにまつわる長い長いぺダントリーが気になってそこから読み始めた。気がつくと日付けが変わり22日。ぼくの誕生日だ。エイハブ船長がドアを開けて酒場に入って来る最初の場面を読み始めたまさにその瞬間、ぼくの部屋のドアが開いた。大学受験浪人中の兄がそこにいた。「まだ起きとっただかいや。ああ、今日はお前の誕生日だなあ。お祝いをしようで」。兄は冷蔵庫から何本もビールをもってきた。ぼくたちはそれを次々と空けてしまったのである。翌日、ぼくは生涯最初の二日酔に苦しんでいた。トイレでもどしながら、ぼくの頭にはこんなフレーズが渦巻いていた。「吐くゲー、はくげい、白鯨…」。正直に言おう。ぼくは、この大作をまだ読み通したことがない。

遥かなる甲子園

2009-07-20 10:18:01 | Weblog
高校野球の季節になりました。日本は4000を超える高校に野球部があります。ところがライバルの韓国の高校の野球部は、わずか50数校にしかない。韓国の高校野球はエリートたちのために特化していますが、これは長くスポーツを国威発揚の具としてきた時代の産物でしょう。

 早くに天分を示さなければならない韓国では、日本の上原や野茂のような遅咲きの「雑草組」が大成する余地はありません。逆に日本では、ものすごい競争の中で潰されていく才能も多いのではないでしょうか。全国大会を制するためには何試合戦わなければならないのか。「甲子園の優勝投手は大成しない」といわれる所以です。

 太郎の幼稚園に、ムンソン君という韓国人の男の子がいました。彼のお母さんの話が興味深かった。日本の親はわが子をスイミングに何年も通わせ続けたりする。韓国ではオリンピックを目指すような子どもでなければそんなことはしない。それ以外は泳げるようになったら、別の習い事を始めると彼女はいいます。

 韓国の人は、とてもプラグラマティックにものを考える。強い目的志向性があります。それは無駄な努力を嫌うことにも通じる。野球をどんなにがんばってもプロに届くのは一握りです。それならその他大勢は、高校では野球などやらずに勉強に専念したほうが良い。そうした発想も韓国の高校野球参加校の極端な少なさと無関係ではないでしょう。

 骨子の幼馴染のU君は、神奈川の県立高校の野球部員。練習の後、夜の10時までバッティングセンターで「自主練」の日々です。そんなに頑張っても、甲子園に出る可能性は皆無に近い。過去5年間、夏の大会では1勝もしていないのですから。日本人は、努力や継続を尊ぶところがあります。一つのことを一生やり続ける職人的な生き方が尊重される。日本の高い工業技術を支えているのはそうした価値観です。 しかし、 韓国の人たちがU君の話を聞けばクレージーだと思うのではないでしょうか。

「いままでありがとう」(今日で3周忌・声に出して読みたい傑作選85)

2009-07-16 08:07:35 | Weblog
男の子と女の子を両方育ててみると、その違いの大きさには驚かされます。骨子はよく学校のことを話してくれる。だから彼女の中学の様子は手にとるように分かります。しかし太郎は、まったく学校の話を家ではしません。「聞きたいことがあったら質問してくれ」。とにかくあまりしゃべらない。パントマイムのように首をたてや横にふってみせるだけ。

 H君とM君の悲報に接した後の、二人の反応も対照的でした。吹奏楽の部活から帰るとなり、骨子は号泣します。ある意味でこの子の反応は分かりやすい。太郎はその日は祝日で練習もなく家にいて、電話連絡でH君の死を知りました。格別変わった様子はみせません。口笛をふきながらゲームをやっていた。感情を表に出すことが苦手のようです。

 H君に太郎はいろいろな思い出があります。吹奏楽の男の子は少ない。しかも同じトランペットパートです。宇都宮や水戸に遠征した日の夜は、男の子同士同じ部屋で、楽しい時を過ごしました。同じパートのH君の学年には、しっかりしたコワイ感じの女子の先輩が複数いました。なごみ系のH君のキャラは、太郎にとって救いになっていたはずです。

 あまりしゃべらない太郎ですが、会話のはしばしに「H君は」ということばが出てきます。H君の一家は昨年の秋に引越しをしました。「家を変わらなかったら死なずにすんだかなあ」とぽつりといったことがあります。コンビニに買い物にいった時、太郎は森永のチョコボールを指差します。「これH君が好きだった」。太郎の頬に涙がつたっています。

 火事から数日後。太郎が吹奏楽の男の子たちと火事の現場に行きました。花と楽譜とチョコボールをたむけます。チョコボールの箱に太郎は「いままでありがとう」と書きました。お世話になった先輩への偽らざる気持ちでしょう。子どもたちはその後、吹奏楽の練習にいきました。練習から帰った後の太郎の顔は蒼白でした。子どもには、あまりにも過酷な経験だったのでしょう。

非政治的人間の政治的考察

2009-07-12 12:03:54 | Weblog
 私が大学院生当時のC大には、現代思想を牽引する花形教授がたくさんいた。いまやほとんどの方々が鬼籍に入られたが、その名声をしたって多くの俊英がC大の大学院には集っていた。私はひょんなことから、俊英たちの集う自主ゼミに参加させてもらっていた。E・カッシーラの本をを原文(ドイツ語)で読んでいた記憶がある。私はデルデスデムデンも怪しいのだから、ついていけるはずがない。いじけて鯛の絵をテキストの余白に描いていた。鯛のお頭(カッシーラ)つき…。

 自主ゼミの後の飲み会にも参加した。俊英たちはそこでも難解極まる議論にふけっている。「ギョッギョギョエテがロマン派でビーダーマイヤーなのだよ」と誰かがいえば、別の誰かがこう切り返す。「いや、それはイデア界が論議了解で超越論的偶有性の発露だという可能性はないだろうか」。ぼくも意見を求められた。しかし悲しいかな。大学院に入るまで私はマンガ以外のまともな読書をした記憶がない。「ウランちゃんがアトム君でお茶水博士なのだよ、っていうこともありますよね」とおちゃらける他はない。ああ、おれはだめなのだ。学者の道を志したのは大きな間違いだった。100年たってもこれらの人々には勝てないだろう、とうじうじと悩んでいた。

 しかし飲むほどに酔うほどに、俊英たちのろれつも怪しくなる。そして会話の水準も著しく低下していった。挙句の果てに俊英たちは、肩を組んで声高々に春歌を歌い始めたのである。「トーマス・マンの子どもは、トーマス・マン…」。

 この時私は二つのことを翻然と悟った。ひとつはどれほどインテリぶっていようとも、日本の男の品性というのは、酒を飲めば春歌を高唱する程度のものだということである。そしてもう一つ。トーマス・マンはウルトラマンやスーパーマンやヤッターマンの仲間だということだ。俊英たちへの劣等感は完全に払拭されていた。

素人の乱

2009-07-09 14:40:36 | Weblog
東国原知事と橋下知事が、彼らの応援がぜひとも欲しい政府与党を揺さぶっています。「自分を総裁にしろ」という東国原の言は世の不興を買っていますが、しかし筋が通っているといえなくもない。財源や権限が制約されていて、地方自治体の首長は何もできない。自分の力が必要だというのなら、トップにすえて地方分権を推進させろ。彼がどんな人間であり、本当は何を望んでいるのかをかっこにいれれば、そんなにおかしなことを言っているわけではありません。

 橋下知事が、国の直轄事業の地方分担金を拒否した時に思ったことがあります。浅野、片山等々、そうそうたる改革派知事がそろっていた時にどうしてこの不合理な制度を問題にしなかったのかということです。橋下は大嫌いです。光市事件の弁護団への懲戒請求を煽った発言が示すように、この人は知事という公人の立場にいる資格を欠いています。ただ、直轄事業地方負担金制度を「ぼったくりバー」に喩えたことには共感しました。

 思えば浅野も片山ももとは霞ヶ関官僚。そして三重県の知事だった北川は自民党の閣僚まで務めた代議士だった人です。自分が地方にやらせていたことだから、それを知事になってやめさせれば自己否定になるということでしょうか。官僚や保守系の元代議士が多数を占めていた「改革派知事」の限界を橋下たちが浮かびあがらせた形です。結局浅野や片山も「中央が地方より上」という認識からは離れられなかったのかもしれません。同じ限界を一橋大学卒で、中央のシンクタンクや官僚の世界にもパイプをもっていた田中知事にも認めることができるでしょう。

 「改革派知事」の時代は、政治や行政のプロフェッショナルによる改革の時代だったといえます。それに比べて今回の「知事の反乱」は「素人の乱」だということができるでしょう。しかし、彼らはいずれも人格や思想の面で疑問符のつく存在です。竜頭蛇尾に終る予感を禁じえません。


マンガはそんなにえらいのか(日本海新聞コラム「潮流」・6月30日掲載分)

2009-07-06 11:54:18 | Weblog
麻生政権が構想している「国立メディア芸術総合センター」は、民主党の鳩山代表から「国営マンガ喫茶」と揶揄されました。与党の内部からも厳しい批判が噴出しています。たしかにこの財政難の時代に117億円もの巨費を投じて、こうした箱物を造る理由がよく分りません。マンガやアニメは日本の有力な輸出商品だがコンテンツ産業の育成のためならもっと違ったお金の遣い方もあるだろうし、本当に「国営マンガ喫茶」を造るのなら民業の圧迫にあたると与党内の批判者たちは述べていました。そのとおりだと思いました。

 そもそもマンガの隆盛は誇るべきことなのでしょうか。小津や黒澤の映画をアメリカに紹介したことで知られるドナルド・リッチーは、日本でマンガがよく読まれているのは日本人のリテラシー(識字能力)が低いからだと述べています。文字の読めない人たちの間にキリスト教を広めるために宣教師たちは絵物語を活用した。日本にはまったく文字の読めない人はいないが、三島由紀夫の文章を理解できる大学生も皆無に近い。日本人は難しい本が読めないので、絵物語としてのマンガを愛好している(『イメージ・ファクトリー』)。

 リッチーの言は、私が子どものころに聞かされた「マンガを読むと頭が悪くなる」という議論を彷彿とさせるものです。しかし、日本の大半の大学生が高度なリテラシーを身につけることなく学窓を去っている事実を否定することはできません。難解な学術書を週に何百ページも読ませるアメリカの大学とでは大きな違いがつくはずです。そしてマンガ愛好者をもって任じるいまの総理大臣は、「みぞうゆう(未曾有)」・「はんざつ(頻繁)」などと漢字の読み違えを連発していました。リッチーの言が非常に強い説得力を帯びてきます。

 日本のアニメやマンガの作り手たちは、ある意味有利な立場に置かれています。厳しい規制に縛られることなく、性や暴力の描写を含めて、刺激的な表現をとことん追求することが可能なのですから。たとえば「クレヨンしんちゃん」の日本版をそのまま放送することは、多くの国で不可能です。幼い男性器の描写は、アメリカでは児童ポルノのコードに抵触します。このマンガでは、主人公が自分の両親や幼稚園の先生を馬鹿にする場面がしばしば登場します。こうした描写は、儒教道徳が支配的な韓国では絶対に許容されません。

 若者が知的成長への意欲を欠いていること。大人たちが子どもの情緒的・道徳的発達に対して無頓着であること。日本のマンガやアニメの隆盛は、この国の文化的貧困の所産であるとさえ言えます。オタクはいまや肩で風を切って歩いています。しかし彼らの「作品」の大半は、審美的にも道徳的にも嘆かわしい代物でしかありません。オタク文化が巨大な輸出産業の一翼を担っているがために、ちやほやされているだけなのです。笙野頼子さんは、文化が「売り上げ」によって格付けされる現状を嘆いていました。まったく同感です。

感傷旅行(子どもも大きくなりました・声に出して読みたい傑作選84)

2009-07-03 10:28:19 | Weblog
 子どもの頃に雑種犬を飼っていた話は以前に書きました。妻の実家には猫がたくさんいました。ペットのいる生活もよいものだとは思います。とくに子どもにとってよい思い出になるでしょう。しかし、世話をするのは大変だし、亀や鶴や象は長命なようですが、大抵の動物は人間よりも短命である。そうするとかわいがっているペットとの死別という大変悲しい経験もしなければなりません。まあ、団地住まいで犬や猫を飼うことは物理的にも無理ですが、かりに大きな家に住んでいたとしても躊躇するところはあるでしょう。

 骨髄移植を受けた次の年の夏休みのことでした。子どもたちが祭りの夜店で、ザリガニを釣ってきました。最初、子どもたちは、「ザリガニだわーい、わーい」と騒いでいました。「ザーニー」という名前をつけたのは、骨子でした。水槽を買って来て、ザリガニを飼うことにしました。しかしなにぶん子どものこと。すぐに飽きてしまいます。いつしかザーニーの世話は、ぼくの仕事になってしまいました。

 ぼくは生き物を飼うのは好きでもないし、うまくもありません。最初はいやいやという感じでしたが、毎日のように水を換え、時には背中についた水垢を洗ってやっていると情が移ってきます。背中を洗ってやりながら、「うふっ」と微笑みながら頬ずりしたことさえありました。ところが冬を越して春になるころになるとザーニーは徐々に衰弱していきました。そして桜の花をみることもなく、あの世にいってしまったのです。

 丁寧に葬ってやりました。その時には涙がとまりませんでした。ペットロスということが実感できました。ザリガニでさえこんなに悲しいのです。犬や猫が死んだら飼い主の悲しみはいかばかりでしょう。この時、ぼくは傷ついた心を抱えたまま旅に出ようかとさえ思いました。人はそれを「センチメンタルザーニー」と呼ぶことでしょう。