ガラパゴス通信リターンズ

3文社会学者の駄文サイト。故あってお引越しです。今後ともよろしく。

人、熊に出会う(動物だって人間だ!声に出して読みたい傑作選4)

2006-05-29 22:01:02 | Weblog
 20年ほど前のことだ。テレビが、T県からの中継を放送していた。エサを求めて熊が里に下りてきているらしい。木の切り株に座布団のように落ち葉をしきつめて腰をかけ、むしゃむしゃと美味しそうに梨を食べていたという。「熊はどんな顔をしていましたか」というアナウンサーの問いに発見者の老婆は、「顔っちゃあなもんは覚えとりゃあしません。わが身一つがいっか(一荷)でござんすけえ」。逃げるだけで精一杯だったということらしい。

 「熊にあったら死んだふりをしろ」というのが定説である。しかし、最近の研究ではこの定説は否定されている。活動していた人間が突然横たわる。この急激な状態の変化が熊の側の「探求心」(!)を刺激する。その結果、横たわった人間を噛んだり引っかいたりするので、危険な結果を招く可能性が大きい。結局、立ったままじっとしているのが一番よいようだ。

 攻撃は最大の防御、という考え方もある。熊と格闘しろというのではない。アイヌ民族には、羆を論難する呪文が伝承されている。羆と遭遇した時、少しも慌てずこちらから近づいて、羆の怠惰と飽食を非難する呪文を唱えるのだ。すると羆は自らの行いを深く恥じて遠くに逃げさっていくのである。羆の戦闘能力に万物の霊長の道徳的権威で対抗する高等戦術だ。

  もう亡くなったが、ぼくには大学教授のオジがいた。浮世離れのした変人で、しかもひどい近眼だった。ある秋の一日、彼が趣味の山歩きをしていると向こうから人がやってきた。なんだかとても毛深い人だったらしい。すれ違いざまに会釈をすると、向こうも会釈を返してきた。オジは「ああ、毛深いが礼節を弁えた人だよなあ」と思わず詠嘆したのである。

 何か変だと思って振り返ってみると、彼がすれ違ったのは人ではなく熊だった。二足歩行(?)していた月の輪熊と彼はすれ違ったのである。近眼の彼は、それを人だと誤認したのだ。会釈という行為はもともと月の輪熊の文化のなかにあるのだろうか。その熊も彼と出会った時「毛はないが礼節を弁えた熊だよなあ」と詠嘆したのだろうか。知りたいものである。


トラヒゲと資本主義2

2006-05-27 14:28:53 | Weblog
 魔女の国。海賊の国。ひょうたん島が出会う国々のなかには、禍々しいものも少なくなかった。ひょうたん島の住人は基本的には善人ばかりである。しかし、彼らは容易に悪によって篭絡されてしまう。悪に加担することも稀ではなかった。民主制は、他の政治体制のもつ毒や悪に対して無防備である。そして民主制は容易に衆愚政治に堕してしまうのだ。

 この島の住人のなかでただ一人、常に判断を過ることがなかったのが白皙の美少年・博士である。しかし、真実を語る博士は悪によって目を曇らされた他の住人たちから疎まれる。忠実な友であるライオン君とともに幽閉された博士は、「もしも ぼくに 翼があったらなぁ…」と歌うのだ。博士は無謬であるという設定は、戦後民主主義の理性信仰のあらわれだろう。

 この島の民主制は、蹉跌に満ちたものだった。指導者として過ちを犯すごとに、ドン・ガバチョは潔く野に下る。島のはずれに庵を結び、「藤原朝臣(ふじわらのあそん)ドン・ガバチョゴム長」を名乗り、配所の月を仰ぐ心境を三十一文字に認める。そして、『ドン・ガバチョ回顧録』の執筆に専心したのである。もっとも、いとも簡単に大統領に復帰してしまうのが常だったが。

 マシンガン・ダンディに心臓を打ち抜かれた魔女たちが、ガマガエルの正体をあらわす「マジョリカ編」の結末は衝撃的なものだった。クレタモラッタ島の神々は、地上に降下して人間となり、漬物屋を生業に選ぶ。主力商品はもちろん「福神漬け」である。単純なハッピーエンドではない、含蓄に富んだ終わり方をしたストーリーが多かった。

 善と悪、幸と不幸との間に明確な線を引くことはできない。「ひょうたん島」が伝える教訓である。この番組が終わった30年後、高度経済成長期の美談集『プロジェクトX』の放送が始まった。30年間でNHKはすっかり堕落してしまった。この番組のチーフプロデューサーは、ぼくと同い歳の人間である。彼は、「ひょうたん島」から何を学んだのだろうか。

トラヒゲと資本主義

2006-05-26 00:07:25 | Weblog
 小学生のころ、熱心にみたテレビ番組といえば「ひょっこりひょうたん島」である。ひょうたん島は、大統領を置く共和政体。海を漂うこの小さな島は世界をへめぐり、そこで様々な政治体制の国と遭遇する。犬の国(警察国家)。ライオンの王国。そしてクレタ・モラッタ島の神様の世界(神政政治)。国家のあり方は様々なのだと子ども心に思ったものだ。

 ひょうたん島は、男と女、大人と子ども、動物と人間、神様と魔女と人間の間に至るまでもが垣根のないボーダレスの社会である。番組の作者の一人に井上ひさしがいる。戦後の一時期を仙台の孤児院で過ごした人である。この作品には、戦後の混乱期の姿が投影されている。誰もが生きるのに懸命だったこの時代に、人々の間の垣根はなかったのだろう。

 この国の通貨はガバス。芋版で、大統領自身が刷っていた。産業といえばトラヒゲの経営するデパートだけ。民主的なひょうたん島は、実はとても貧乏だったのだ。「ギリシャと貧乏は双生児」ということばを思い出す。貧乏なアテネの市民は、アゴラに集って一心に議論をしていた。「経済大国」と化したこの国からは、政治的な議論が死に絶えて久しい。

 会社が倒産して死のうと思い、最期の晩餐の時にテレビをみていたらドン・ガバチョが、「今日がだめなら明日にしましょ」と歌っていたので一家心中をとりやめたという人のエピソードは広く知られている。このガバチョの歌には植木等のスーダラ節を彷彿とさせるものがある。山下清が放浪できた古きよき日本ののんき性が、まだこの時代には残っていた。

「ひょうたん島」の放送は、69年の3月に唐突に終了している。郵便配達人しかいないポストリアという国の描写がNHKの監督官庁である郵政省(当時)の逆鱗に触れたためだ。共和制の夢は、「省庁天皇制(by関曠野)」によって断たれたのである。「ひょうたん島」が終わった後のこの国の世相は、のんき性など許容しない世知 辛いものに変わってしまった。

車輪の下

2006-05-23 06:04:25 | Weblog
 骨子が6年生の時のクラスには、優秀な男の子が3人いた。カネテツ、デキスギ、そしてサマランチである。もちろんみんな私立中学に進んでいる。サマランチは、甲子園球児を数多生んでいる強い野球チームで、5年生から「エースで4番」。もちろん勉強は抜群にできる。「すべてにエリートたれ!」という両親の期待を一身に受け、それに応えていた。

 しかしサマランチの抱えていたストレスは大変なものだった。骨子が梅子ちゃんたちと団地の広場で遊んでいる時にサマランチが通りかかった。「お前馬鹿じゃないか!よく6年にもなってガキみたいに遊んでいられるな!!」。野球の練習は週末に集中的にある。ウイークデーは、ひたすら塾通いと自宅での勉強。自由な時間をもつ子どもが妬ましいのだろう。

 サマランチは荒れていた。カネテツをいつも泣かせていた。カネテツは爆音のような声をあげて泣く。少し頼りない感じの男の子が、国語の時間、教科書に載っていた原爆の話を読んで、「すごく感動した」といった。サマランチは、「すごく悲惨な話なんだぞ。感動なんていうな!」と凄まじい勢いでののしり始めた。この子が泣き伏すと彼は教室を飛び出していった。

 骨子はサマランチを嫌っていた。何度も喧嘩をした。骨子が心酔する担任の熱血女先生はサマランチに同情的だった。「元ヤンキー」の噂がたえないこの先生には、乱暴な子どもを手なづける不思議な手腕があった。彼女は言う。サマランチは善にも悪にも強い。本物のカリスマになりうる男だ。いまは期待の重圧に負けて自分を見失っているだけなのだ、と。

 受験が近づくと、学校を休む子どもが増える。しかしサマランチは、受験の当日以外は一日も休まなかった。これには骨子も感心していた。彼一流の美学なのだろう。サマランチの受験は惨憺たる結果に終わった。本人もひどく傷ついたようだが、それ以上に親の落胆が大きかった。しばらくは引きこもりのようになっていた。誰とも会おうとはしなかった。

都の西北

2006-05-20 07:21:34 | Weblog
 前のエントリーのコメント欄でかつのりさんが述べておられますが、本当に強いね、慶応高校野球部。去年は夏の県大会で横浜高校(!)にも勝っています。

 80年代の前半、早慶の野球部はひどく弱くて、東大にもコロコロ負けていました。大学紛争への反省から75年に私学助成が始まっています。私立大学への助成金を国が出す代わりに、紛争の火種となった定員の水増しや裏口入学をやめることを国は強く私立大学に求めたのです。私大は、これを受けて厳正な入試に努めます。早慶のような難関校が勉強のできない学生を入れるわけにはいかなくなる。偏差値の高騰と反比例して、野球は弱くなる。「東大に負ける早稲田」が常態化してしまいました。

 いまの早稲田野球部は強い。甲子園で活躍した選手がずらりと並び、毎年何人もプロに進みます。早稲田野球の復活は、大学商業化の賜物です。アメリカがそうであるように、商業化した大学は、広告塔としてのスポーツの役割を重視します。早稲田は、格付け会社から「カシオ並」の評価を受けたことを大々的に宣伝したり、早実の小学校の入試の面接で父母に総長自らが法外な寄付金を要求するなど、なりふり構わぬ商業化を進めています。当然広告塔としてのスポーツの役割を重視するようになる。スポーツ科学部を作り、様々なスポーツのスタープレーヤーを入学させています。トリノで活躍した女子フィギュアスケートの荒川選手、村主選手もOBです。

 慶応もライバル早稲田の後塵を拝するわけにはいきません。AO入試(面接だけで合格させる青田刈の美名)で、SFC(湘南藤沢キャンパス)の2学部に有名選手を入学させています。しかし、それでもスポーツの専門学部をもつ早稲田にはかないません。慶応のスタメンには、甲子園名門校と有名進学校の出身者が混在しています。そこで附属高校を強くして早稲田に対抗しようとした。近年急速に慶応高校野球部が強くなった所以です。

学問のすすめ2

2006-05-17 06:12:31 | Weblog
 福沢諭吉の開いた大学でゼミをやっている。1を聞いて10を知る。頭のいい人たちの集団である。そして彼らのなかには、損得を第一に考える功利主義と、優勝劣敗の社会進化論的信念とが骨がらみになっている。格差が拡大することについては、ほぼ全員が「賛成」。「格差がついて不幸な人がいないと、自分が幸福であることが確認できないと思います」。「ホームレスは、もっと努力をして、惨めな境遇から抜け出さないといけないと思います…」。

 ぼくは1955年以前に生まれたか、それより後に生まれたかで、世代の線が引けると考えている。功利主義を臆面もなく礼賛することが、「55年以後」世代の特徴だ。香山リカは、「いまの若者には善悪を説いても意味がない。キレルと損だということを教えてあげればキレなくなる」と頓珍漢なことをいっていた(『若者の法則』)。ある女性ライターも、損得勘定以外の判断基準は信用できないとした上で、「戦争は損。だから護憲!」とのたもうた。

 この世代は高度経済成長期に子ども時代を送り、バブルの時代に青春を迎えている。快楽がすべての人たちだ。旧い道徳は高度経済成長の過程で消失し、政治的な主義主張を掲げることは連合赤軍の挫折以後、流行らなくなった。功利主義に掣肘を加えるものが跡形もなく消え去ってしまったのだ。だからこの世代は、功利主義的信念を保ち続けることができた。人々が私的利益の追求に専心すれば、社会は弱肉強食のジャングルと化すだろう。

 学生たちは、「55年以後世代ジュニア」。しかもその勝ち組だ。優勝劣敗礼賛的言辞がはびこるのも当然である。ゼミのなかには、そうした言辞に嫌悪感を示す者もいる。沖縄出身の女子学生だ。彼女はいう。「島の外に子どもを出す資力をもつ家庭に生まれなければ、本土に来て『勝ち組』になることはできません。私の姉妹で島を出たのは私だけ。いくら努力をしても報われない人はいくらでもいる。格差を肯定する奴らには心底ムカツキます」。

地獄の沙汰も金次第?

2006-05-14 04:18:31 | Weblog
4,5年前のある日のことです。研究室のドアをノックする音が聞こえてきました。ドアを開けると、そこにはさる非常に偉い女性の教授が立っていました。「加齢先生。ちょっとお時間よろしくて。ご相談したいことがあるの」。何事ならんとぼくが驚いているうちに、教授は部屋に入り込んで、すでに椅子に腰をかけています。さすがに偉い先生は違います。

 「実はね。あたしの身内の者が慢性白血病に罹ったの。いまはグリベックという薬が出ていてこれが特効薬的に効くそうだけど、とってもお金がかかるのよ。グリベックの投薬か、骨髄移植しか治療法がないと医者がいうの。骨髄移植はリスキーだと医者はいうわけ。でも加齢先生をみているととてもお元気そうじゃない。だからあたし迷っているのよ」。

 大切な相談なので無責任なことはいえません。グリベックという薬の存在については、私も入院中に評判を聞いていました。たしかに特効薬的な効果があるようですが、当時はまだ保険適用外でべらぼうにお金がかかったはずです。教授の逡巡もよく理解できます。しかし骨髄移植は命を落とす危険がつきまといます。私はグリベックの投薬を勧めました。

 この薬もいまは保険が効くようです。どれだけの費用がかかる薬なのか。ネットをみていたら驚くような情報がありました。慢性骨髄性白血病のご主人をもつ女性のサイトです。グリベック一錠3500円。一日に6錠服用。この薬の代金だけで月に60万円かかる計算になります。高額医療費として還付される部分があるにしても、この負担は法外なものです。

 グリベックは、できてから間がないために薬を中断するとどうなるのかというデータが存在しない。だから患者は薬をやめるわけにはいきません。白血病のような強い病気を押さえこむ(!)超強力な薬を長期間服用した場合の副作用も心配になります。そのデータもまだ存在しないのです。難病に対する特効薬的な薬の出現は、患者さんやそのご家族にとっての大きな福音でしょう。しかしこんな高価な薬を貧しい人たちが服用できるとはとても思えません。「地獄の沙汰も金次第」ということばが浮かんできます。なんだかいやな世の中になってきました。


女王の教室

2006-05-11 05:37:56 | Weblog
 骨子は、4年の時の担任と相性が悪かった。彼女は50代のベテラン教師。前任校と比べて「ここの子どもは出来が悪い!」と子どもたちを罵っていた。体罰もしょっちゅうだった。できのよい子どもも被害を免れない。えこひいきのない公平な先生ではあった。デキスギ君でさえ、たらいで殴られている。しかし、なんで小学校の教室にたらいがあるのか。
 
 授業参観に行って驚いた。クラス中が異様に静かだ。子どもたちは無表情に先生の求める答えを口にするだけ。授業は無味乾燥だが理路整然としている。頭のよい人だと思った。小さな子どもが嫌いなのだ。中学か高校の先生が適職なのだと思った。彼女の娘が大学院生ということで、ぼくにいろいろと大学の話を聞いてきた。大人には感じのよい人だった。

 冬に入った頃のことだ。娘のクラスでトラブルが起こった。いじめともいえない。女の子同士の喧嘩である。しいちゃんという子どもが学校に来られなくなった。この先生がしいちゃんにどんな対応をしたのかは知らない。しかし彼女は、クラスの子どもたちの前でこういった。「しいちゃんは、心の病気に罹りました。以後しいちゃんと関わらないように!」。

 しいちゃんと骨子は仲がよかった。「禁」を破ってしいちゃんとの交流を続けていた。妻もあまりにひどいと思い、先生に事情を問質すのだがのらりくらりとかわしてくる。5年生になり、若い熱血先生のクラスに入った骨子は見違えるように明るくなった。しいちゃんも新しく担任になった篤実な中年男性教師の導きで学校に出て来られるようになっていた。

 しいちゃんは卒業式の時、自分を立ち直らせてくれた先生のような素晴らしい先生に私もなりたいと、壇上から謝辞を述べていた。この学年の卒業式のなかでもっとも感動的な場面だった。件の先生は、その後も同じようなことを続けていたが、とうとう学校を辞めるはめになった。教育委員会にこの先生を辞めさせるよう直訴する親があらわれたのだ。その親もやはり教員だった。

オリンピック

2006-05-08 05:35:59 | Weblog
 前の大学に一人の碩学がいた。名声並ぶ者なき学者であったその碩学は、さる人生上の蹉跌を経験した。傷心を抱えて欧州のある国に留学をした彼は、それまでの人生観が大きく変わる出来事に遭遇したのである。彼は日本では、学問一筋の朴念仁のような生活を送ってきた人だ。ところがこの国では女性たちにひどくもてたのである。何人ものその国の女性たちとベッドをともにするという、夢のような経験を碩学はした。

 「性の解放こそが人間の解放であり、すべての性的抑圧の撤廃が人間の能力の十全な開発を可能にする」という信念に碩学は到達した。若者の反乱の時代のライヒやマルクーゼの言説を彷彿とさせるものである。碩学は、そうした思想を実践する集まりを自宅で開いていた。彼の自宅は、20畳近いフローリングのあるマンションである。仕事でぼくも一度、彼の自宅を訪ねたことがある。思わずぼくは、フローリングで夜な夜な展開されているであろう光景を想像してしまった。

 碩学とぼくは共同研究をしていた時期がある。ぼくが、アリエスの『子どもの誕生』についてレポートをした夜のことだ。大学の近くの、教員のたまり場になっている居酒屋で飲ん方(飲み会)をした。その場には碩学と、ぼくを含めて4人の当時30代の男性教員がいた。その晩、碩学はたくさん焼酎を飲んだ。したたかに酔っ払ってしまった。そして演説を始めた。自分の信念を声高に述べ始めたのである。

 「俺は一晩に十回できる!」。そう絶叫すると彼はぼくたちの弾劾をはじめた。「お前らはなんだ!3日に一回、なんて老人と同じだ!」。4人は顔を見合わせた。そこから世にも情ないやりとりが始まった。傍らでは碩学が「一晩十回!一晩十回!」と咆哮を続けている。「3日に一度もやってる?」。「ぼくは3週間に一度」。「3ヶ月に一度ってところかなぁ」。誰かが消え入るような声でいった。「3年に一度…」。

号泣する準備はできている(祝!子どもの日。声に出して読みたい傑作選3)。

2006-05-05 20:22:41 | Weblog
 娘の同級生にカネテツと呼ばれる男の子がいた。恐ろしく偏差値の高い私立中学に合格した。末は博士か大臣か。ところが彼にも弱点がある。ものすごい泣き虫だったのである。小学校入学の直後から、100点をとらないと「ママに殺される!」といって大泣きをしていた。カネテツのママをぼくは知っている。清楚で物静かで優しそうな人だ。担任たちも一様に、「おかあさんはそんな人にはみえませんよ」といっていた。誰しもが思うことである。

 高学年になっても、カネテツの泣き虫は全然治らなかった。テストが100点でなければ泣く。カネテツは、いわゆる主要教科以外は苦手にしていた。とくに音楽が嫌いで歌を歌うのがいやだといっては泣いていた。教科書をなくして先生に怒られた時カネテツは、「なくしたんじゃない。教科書が勝手に逃げたんだ」と奇妙な理屈をこねながら泣いていた。泣き方も尋常ではない。授業中でも先生の声が聞えないほどの大声で一時間中泣いている。

 6年生の時の担任は20代の若い女性教師だった。元気で明るい彼女は、子どもたちの人気者だった。責任感の強い彼女は、問題を抱えた子どもをみると何かせずにはおれなくなる性分である。当然カネテツの泣き虫ぶりをみて黙っているわけがない。3学期に入ってすぐ、先生はいった。「カネテツ君もこれから中学生。いつまでもこれでは困ります。これからカネテツ君を泣かなくするにはどうすればよいのかを話あう、クラス討論会を開きます」。

 クラス討論は熱を帯びた。「カネテツ君は、あだ名で呼ばれると一番ひどく泣きます。だからあだ名で呼ばないようにするのがいいと思います」。「別に泣きたければ泣いていりゃあいいじゃないですか。それで困るのはカネテツなんですから」。カネテツの身になった意見。突き放した意見。様々な意見が出された。しかしおかしい。随分耳に痛い意見が出されている。それなのにカネテツが泣かない。それもそのはず。カネテツは耳栓をしていた。