私の肩書きには、「教授」とあります。教授といえば「白い巨塔」の財前五郎を連想する方も多いのではないでしょうか。財前は、教授の地位に就くために手段を選びませんでした。医学部の教授は、地域の病院に医者の配置を行う大きな権限を持っています。そして医学部のばあい、助手、講師、助教授、教授と地位が上がるほど定員が減っていく、ピラミッド型の構造になっています。医学部教授の地位に到達することは、並大抵のことではありません。そうした背景があればこそ、財前五郎というキャラクターはうまれたのです。
工学部のばあいにも、「万年助手」の存在が問題なりました。人事で冷遇した教授に「黄色い砂」をかけて殺した広島大学の事件が思い出されます。ところが文科系のばあい、年限を満たしさえすれば、ほぼ誰でも教授になることができます。ある学科の教員すべてが教授などというケースすらあります。教授になってしまえば、すごろくの上がり。これ以上業績をあげる必要はありません。テニススクールの関係者から、平日の朝から来てくれる大学教員は上得意ですと言われて、「顔から火の出る思いをした」と潮木先生は言います。
諸外国のばあい、教授になるためには凄まじく狭い門をくぐらなければなりません。独仏のばあい、博士論文を書いただけでは教授にはなれません。助手や講師について、あるいは高校で教えながら長大な教授資格取得論文を書き上げます。それがパスするのが、平均して41歳の時。フランスでは大学ではなく国家(文部省)が資格審査を行い、ドイツでは内部昇格に厳格な歯止めがあるなど、馴れ合いは徹底的に排除されています。しかも、この難関をくぐりぬけても、実際の教授の地位には半分も就けない分野もあるといいます。
アメリカは日本と似たようなところがあって、大学によっては簡単に終身職に就くことができ教授になるのも容易いようです。しかしアメリカの大学はハーバート等を頂点とした大学のピラミッドが形成されており、より格上の大学を目指す研究者間の競争は熾烈を極めます。またドイツでも教授が3ランクに格付けされていて、ランクごとに給料も違います。教授になれば安泰というわけではありません。教授になれば怠け放題というのは日本だけ。だから日本の大学は国際競争力をもたないのだ。老碩学の悲憤慷慨は止みません。
日本の大学教授は研究を怠りながら、国際的にみても高い給料をもらっています。他方、学者の卵たちは、経済的な窮境のなかで先のみえない日々を送っているのです。1990年代の大学院重点化によって大学院博士課程の学生数は一挙に数倍に増えました。ところが大学教員の採用はむしろ減少してしまった。その結果大学院は超高学歴ワーキングプアの生産所と化しています。人道的見地からも大学院博士課程の募集を一定期間停止すべきだと著者は言います。老碩学の憂国の提言を現役の大学人は重く受け止めるべきでしょう。
工学部のばあいにも、「万年助手」の存在が問題なりました。人事で冷遇した教授に「黄色い砂」をかけて殺した広島大学の事件が思い出されます。ところが文科系のばあい、年限を満たしさえすれば、ほぼ誰でも教授になることができます。ある学科の教員すべてが教授などというケースすらあります。教授になってしまえば、すごろくの上がり。これ以上業績をあげる必要はありません。テニススクールの関係者から、平日の朝から来てくれる大学教員は上得意ですと言われて、「顔から火の出る思いをした」と潮木先生は言います。
諸外国のばあい、教授になるためには凄まじく狭い門をくぐらなければなりません。独仏のばあい、博士論文を書いただけでは教授にはなれません。助手や講師について、あるいは高校で教えながら長大な教授資格取得論文を書き上げます。それがパスするのが、平均して41歳の時。フランスでは大学ではなく国家(文部省)が資格審査を行い、ドイツでは内部昇格に厳格な歯止めがあるなど、馴れ合いは徹底的に排除されています。しかも、この難関をくぐりぬけても、実際の教授の地位には半分も就けない分野もあるといいます。
アメリカは日本と似たようなところがあって、大学によっては簡単に終身職に就くことができ教授になるのも容易いようです。しかしアメリカの大学はハーバート等を頂点とした大学のピラミッドが形成されており、より格上の大学を目指す研究者間の競争は熾烈を極めます。またドイツでも教授が3ランクに格付けされていて、ランクごとに給料も違います。教授になれば安泰というわけではありません。教授になれば怠け放題というのは日本だけ。だから日本の大学は国際競争力をもたないのだ。老碩学の悲憤慷慨は止みません。
日本の大学教授は研究を怠りながら、国際的にみても高い給料をもらっています。他方、学者の卵たちは、経済的な窮境のなかで先のみえない日々を送っているのです。1990年代の大学院重点化によって大学院博士課程の学生数は一挙に数倍に増えました。ところが大学教員の採用はむしろ減少してしまった。その結果大学院は超高学歴ワーキングプアの生産所と化しています。人道的見地からも大学院博士課程の募集を一定期間停止すべきだと著者は言います。老碩学の憂国の提言を現役の大学人は重く受け止めるべきでしょう。