ガラパゴス通信リターンズ

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潮木守一『職業としての大学教授』 中公叢書1600円+税(「本のメルマガ」11月25日掲載分)

2009-11-29 00:00:00 | Weblog
私の肩書きには、「教授」とあります。教授といえば「白い巨塔」の財前五郎を連想する方も多いのではないでしょうか。財前は、教授の地位に就くために手段を選びませんでした。医学部の教授は、地域の病院に医者の配置を行う大きな権限を持っています。そして医学部のばあい、助手、講師、助教授、教授と地位が上がるほど定員が減っていく、ピラミッド型の構造になっています。医学部教授の地位に到達することは、並大抵のことではありません。そうした背景があればこそ、財前五郎というキャラクターはうまれたのです。

 工学部のばあいにも、「万年助手」の存在が問題なりました。人事で冷遇した教授に「黄色い砂」をかけて殺した広島大学の事件が思い出されます。ところが文科系のばあい、年限を満たしさえすれば、ほぼ誰でも教授になることができます。ある学科の教員すべてが教授などというケースすらあります。教授になってしまえば、すごろくの上がり。これ以上業績をあげる必要はありません。テニススクールの関係者から、平日の朝から来てくれる大学教員は上得意ですと言われて、「顔から火の出る思いをした」と潮木先生は言います。

 諸外国のばあい、教授になるためには凄まじく狭い門をくぐらなければなりません。独仏のばあい、博士論文を書いただけでは教授にはなれません。助手や講師について、あるいは高校で教えながら長大な教授資格取得論文を書き上げます。それがパスするのが、平均して41歳の時。フランスでは大学ではなく国家(文部省)が資格審査を行い、ドイツでは内部昇格に厳格な歯止めがあるなど、馴れ合いは徹底的に排除されています。しかも、この難関をくぐりぬけても、実際の教授の地位には半分も就けない分野もあるといいます。

 アメリカは日本と似たようなところがあって、大学によっては簡単に終身職に就くことができ教授になるのも容易いようです。しかしアメリカの大学はハーバート等を頂点とした大学のピラミッドが形成されており、より格上の大学を目指す研究者間の競争は熾烈を極めます。またドイツでも教授が3ランクに格付けされていて、ランクごとに給料も違います。教授になれば安泰というわけではありません。教授になれば怠け放題というのは日本だけ。だから日本の大学は国際競争力をもたないのだ。老碩学の悲憤慷慨は止みません。

 日本の大学教授は研究を怠りながら、国際的にみても高い給料をもらっています。他方、学者の卵たちは、経済的な窮境のなかで先のみえない日々を送っているのです。1990年代の大学院重点化によって大学院博士課程の学生数は一挙に数倍に増えました。ところが大学教員の採用はむしろ減少してしまった。その結果大学院は超高学歴ワーキングプアの生産所と化しています。人道的見地からも大学院博士課程の募集を一定期間停止すべきだと著者は言います。老碩学の憂国の提言を現役の大学人は重く受け止めるべきでしょう。



だるま宰相

2009-11-26 00:00:00 | Weblog
 高橋是清の自伝を読んでいる。上巻を読み終えようかというところだが、とても面白い。少年時代、遊学したはずのアメリカで奴隷に売られた話はよく知られているが、「奴隷時代」の記述にも暗さは微塵もない。主人にたてついたり、同じ家で働いていた中国人とあわや殺し合いの騒ぎを起こすなどやりたい放題である。高橋は自伝の冒頭で自分のことを楽天主義者だといっている。楽天的に考えると物事はすべてうまくまわっていくという信念を彼はもっていた。日本史上稀にみるポジティブシンキングの人ではある。

 日本に帰って後の、二十歳そこそこの若さで大学南校(東大の前身)の教師になる。同校の教師時代に彼は、英語と漢学の勉強に熱中するのだが、その一方で毎日酒を3升飲んでいたというから驚く。朝一升、昼一升、夜一升。まさにガルガンチュア的な酒量である。それだけ飲んだ後でも勉強は怠らない。頭と身体とそして意志とが異常に強いのだろう。ある種のモンスターだといわなければならない。

 高橋は昭和の金融恐慌に際して、裏が白地の「高橋札」を発行して取り付け騒ぎを沈静させた。そして国債の日銀引き受けを行い日本を世界で最も早く大恐慌の痛手から立ち直らせたのである。これはやはり高橋だからできた離れ技だろう。ケインズに学んだ秀才であれば、同様の政策を思いついたとしても不思議はない。しかし、それを実行に移す胆力はやはりモンスターならではのものである。

 いまの民主党政権に「平成の高橋是清」はいるのだろうか。心もとない感じは否めない。高橋は江戸末期に生まれた人だ。近代日本の偉業をなしたのは、実は江戸期に生まれた人であったという鶴見俊輔さんのことばが思い出される。あの福沢諭吉も体術の名手で暴漢を遠くに投げ飛ばしたことがあるという。痩せこけた近代日本の土壌からは、高橋や福沢のようなモンスターは生まれてこないのではないだろうか。

思い出のアルバム3(太郎もはや中学生・声に出して読みたい傑作選96)

2009-11-23 17:00:24 | Weblog
太郎が幼稚園に通っていたころ、11月23日の勤労感謝の日は、「お父さんと遊ぶ日」だった。父と子が幼稚園から、市の境を超えて6キロの道を歩き、森のなかの大きな公園で遊ぶ。これが大変な苦行だった。
 
 幼稚園児と歩くのだ。6キロといえば2時間近くかかる。おしゃべりをしていれば別に辛くもないだろう。しかしまわりはお父さんばかり。「男はだまってサッポロビール」の人たちである。何も話題がない。ただ黙々と歩くのみだ。とても辛かった。

 それでも努力をして周りの人に話しかけてみたことはある。太郎が年少組の時、たまたま隣にはいあわせたお父さんは大企業のエンジニアで、国分隼人のテクノポリスで働いていたという人だった。よかった。ぼくも鹿児島暮らしが長かったからこれで接点ができたと思った。「どこにおすまいでしたか」。「加治木です。あなたは」。「谷山です」…。これで終わりだ。全然話がはずまない。ぼくも含めて日本の大人の男というのは社交ができない。肩書きや地位を抜きの、裸の人間同士の付きあいということができない動物なのだと思った。

 寒風吹きすさぶなかを歩き続け、ようやく公園にたどり着くと、今度は「お父さんは強い」系のゲームが待ち受けている。太郎が年少の時にはクラス対抗でお父さんが子どもをおんぶして走るリレーをやらされた。骨髄移植を受けた翌年である。まだ免疫抑制剤を飲んでいた。死ぬかと思った。これをお父さんたちは必死の形相でやるのである。「お父さんは強い」。いついかなる時でも負けてはならないのだ。

 帰りは電車で帰る。公園から駅までの道すがら、何人かのお父さんが「ああ、今日は楽しかったな」と顔面神経を引きつらせながら言うのが例年のことだった。一体どこが楽しかったのだろうか。太郎が卒園して、この行事から解放されて正直ほっとしている。近年の勤労感謝の日は、太郎と一緒にヤクルトスワローズのファン感謝デーに行く日になっている。

マンガを読む大学生

2009-11-20 00:00:00 | Weblog
「少年ジャンプ」が生み出した傑作群は、まさに枚挙に暇がない。このジャンプという雑誌は、1968年の創刊である。その約10年前に生まれた「サンデー」・「ジャンプ」に比べて後発であった。後発の不利を克服して、一時は600万部を超える部数を誇るお化け雑誌に何故成長することができたのであろうか。

 60年代、大学の大衆化とともに大学生がマンガを読むようになった。大学生の鑑賞に耐える「劇画」が隆盛となり、子どもだましの「漫画」は衰微していく。大学生の読者としての参入は、マンガの質的向上に貢献したともいえるのだが、そこには問題があった。大学生受けを狙って性表現や政治的主張、暴力の描写等がエスカレートしていったのである。人肉を食べる場面が出てくる「アシュラ」が問題になったのは60年代末のことだ。

 大学生が読めば「アシュラ」のようなマンガも面白いだろうが、小学生にとってみれば面白いものではない。70年代に入ると先発の2誌は急速に売り上げを落としていく。「ドラえもん」のような幼児向けのマンガは存在したものの、マンガの本来の読者であるはずの小学校高学年向けのマンガは空白地帯になっていた。そこで登場したのが「友情・努力・勝利」をスローガンに掲げる「少年ジャンプ」だった。小学校高学年の男の子の綿密なマーケットリサーチからこのスローガンは生まれた。

 「サンデー」・「マガジン」が大学生に占領されてしまった様は、子どもたちが遊んでいる川原に大学生のお兄さんがやってきて、バイクをぶっ飛ばしたり、アジ演説をしたり、エッチなことを始めた光景を想像させる。無名の新人しかいない「ジャンプ」は、何もなければ大家をずらりと並べた先発2誌にたちうちできなかったのではないか。大学生読者の登場が、先発誌の編集方針を狂わせたことによって、「少年ジャンプ」の時代は到来したといえなくもない。

♪あなた 私のもとから 突然きえたりしないでねー♪

2009-11-17 00:00:00 | Weblog
筒井康隆原作の「時をかける少女」は、NHKの「少年ドラマシリーズ」で「タイムトラベラー」というタイトルで放映されています。1972年の1月から2月にかけての放映で、ちょうど私の高校入試の直前の時期でした。あの連合赤軍事件の直前の時期ですが、このドラマに私は強いインパクトを受けました。

ヒロインの芳山和子は、未来からきたケン・ソゴルと恋に落ちます。他者、身体、世界、そして自己。思春期は様々な他者との出会いの季節です。未来からの来訪者以上の他者など考えることもできません。エリクソンも述べているように、思春期はしばしば時間的な展望を見失ってしまいます。一日のほとんどを眠り続けたり、逆に何日も不眠不休で勉強を続けたりした記憶を持つ方もすくなくないはずです。また幼児期への退行を果たし、逆に老人のような達観に達してしまう若者も珍しくありません。けだし、タイムトラベラーとは思春期を生きる人の別名というべきでしょう。

 70年代の半ばごろまで続いたこのシリーズは他にも「つぶやき岩の秘密」のような名作を数多生み出しています。私より少し年齢の若いサブカルチャーの旗手たちはこの「少年ドラマシリーズ」から大きな影響を受けた人が多いようです。世界に冠たる日本のサブカルチャーの揺籃として、このシリーズのもつ意味は再評価されるべきなのではないでしょうか。

 最近この手の少年向けドラマが放映されないのが残念ですが、2000年ごろにはNHK教育で「ドラマ愛の詩」というシリーズを放映していました。はやみねかおるの夢水清志郎シリーズをマナカナの主演でドラマ化するなど面白い作品が多数ありました。なかでも恩田陸原作の「6番目の小夜子」には、タイムトラベラーを彷彿とさせる雰囲気がありました。思春期の不安を見事に表現していたと思います。NHKの子ども向け番組には本当に優れたものが多いと思います。

半農半X

2009-11-14 00:00:00 | Weblog
 鹿児島にいた時の話である。大阪から赴任した同僚があることに気がついた。鹿児島はそれほど所得の高い地域ではない。その割には専業主婦率が高い。不思議に思って調査をしてみると(さすが社会学者!)こんなことが分かった。

 鹿児島市は県内では東京みたいなもの。周辺の農村的地域から人が集まっている。みんなルーツは農村だから米や野菜は夫婦どちらか、あるいは両方の実家から送ってくるのだ。漁村的部分にルーツがあれば、魚だってただで食べられる。食費の負担がとても軽いので奥さんが働かなくてもやっていけるというのがその先生の分析だった。たしかにぼくのまわりにも田舎にルーツのある人が多かった。休日には家族そろって実家に援農に行く。フリーライダーではないのである。子どもたちは自然に親しむことができる。お金を使わない余暇の過ごし方という点でも好ましい。

 ロシアはソ連崩壊後経済がむちゃくちゃになった。たしかに自殺や犯罪は増えたが、餓死者が出なかったのはモスクワ市民でさえみなダーチャ(畑つき別荘)をもっていてそこで自給をしていたからである。休日を大半の都市住民はダーチャですごす。国民皆農の国ロシア。ロシアのジャガイモの8割はダーチャで作られているというから驚く。そこまでではないが鹿児島の経済を支えているのも都市と農村とのこの連携である。

 骨子の幼稚園時代の友だちのお母さんに「大久保さん」という人がいた。ちなみに「西郷さん」も幼稚園ママの仲間にはいた。両方とも、かの地では多い姓なのだろう。「大久保さん」はよく田舎でとれた野菜をくれた。「いつもすみません」と妻がいうと「大久保さん」は、「加齢さんのところは何も作っていないの?」と不思議そうに尋ねた。「いや作っています」と言ってしばらくしてから、わが実家からとりよせたもなかをもっていったのである。 「大久保さん」は怪訝な顔をしていた。

東さんのこと(いまどこでどうしているのか・声に出して読みたい傑作選95)

2009-11-10 06:35:51 | Weblog
入院中は、たくさんの看護師さんのお世話になります。検温や採血、そして食事の世話をする看護師さんは、毎日変わります。そして患者にはそれぞれ「担当」の看護師さんがつきます。入院の間中ずっと、責任をもってその患者を見守ってくれる大切な存在です。骨髄移植が近づいてきたある日、無菌室での担当の看護師さんとの面談がありました。

 面談の内容は事務的なものです。しかし話をしているうちに「もしかして」と思い、こう尋ねたのです。「鹿児島の方ですか?」。彼女は驚いたように「そうですが…」と答えます。私はその年の3月まで鹿児島にいました。では何故彼女を鹿児島人だと思ったのか。一つは東さん(仮名)という名前。鹿児島では東西南北の性が北以外大変多いということ。もう一つは顔だちです。鹿児島人の顔には、沖縄の人に近い「南」を思わせる系統と、色白で鼻筋が通った「北」の系統の二通りがあります。彼女は典型的な後者のタイプでした。

 無菌室ではつらい治療がまっています。なじみの土地の人が担当の看護師さんとしてついてくれるとは。どんなに心強く思ったことでしょうか。まさに「地獄に仏」。しかも彼女は、鹿児島の看護学校の時代に私の書いた教科書で社会学の勉強をしていたのだといいます。私の元同僚にも習ったことがあるらしい。鹿児島のこと。看護学校のこと。話のタネはつきませんでした。

 東さんはテレビドラマでみた骨髄移植に感激して、看護の道を志しました。看護学校の卒業時には、骨髄移植で知られるこの大学病院に自ら進んで就職したのです。しかし、馴れない関東での生活と無菌室の激務のダブルパンチ。この時点で彼女は、はっきりと憔悴していました。翌年4月に私は、無菌室のナースステーションを尋ねました。職場復帰のあいさつをするためです。そこに東さんの姿はありませんでした。3月末をもって大学病院を辞め、故郷の鹿児島に帰ったということでした。彼女にもう一度会えるとよいのですが。


出でよ、平成の高橋是清!(日本海新聞コラム潮流・10月29日掲載分)

2009-11-07 10:29:27 | Weblog
自公政権は大企業を減税等で優遇し、景気を浮揚させる経済政策を採用していました。そのかいあって、また好調なアメリカ経済にも支えられて、リーマンショックまでの数年間、日本企業は「史上最高益」を更新し続けていたのです。しかし日本の勤労者の所得は、この期間にも減少を続けていました。また正社員が次々と非正規雇用の労働者に置き換えられていきました。いくら企業は富んでも働く人たちは豊かになれなかった。2002年から6年近く続いた「戦後最長の好況期」が、庶民に実感されなかったのはこのためです。

 新政権は、自公政権とは対照的に家計を直接支援することで消費を活性化し、景気を浮揚させる経済政策を採用しています。方向性そのものは正しいし歓迎すべきものでしょう。しかし、日本人の多くが暮らしの将来に大きな不安を抱いています。様々な形の給付がなされたとしても、果たしてそれが消費にまわるのでしょうか。「子ども手当て」の使い道として「家計プランナー」たちは一致して、貯金にまわすことを勧めています。おそらく庶民はこの勧奨に従うことでしょう。「子ども手当て」等に景気浮揚の効果は期待できません。

 家計支援政策には莫大な費用がかかります。新政権は天下り等の無駄遣いを徹底的に削り、それを財源に充てると言っています。そして少なくとも4年間の任期中には消費税率を上げないとも言っています。しかし「大きな政府」の方向性をとる以上、近い将来の大増税は不可避です。1997年の橋本内閣による消費税率の引き上げは回復基調にあった景気を一気に冷え込ませました。山一証券と北海道拓殖銀行の破綻も相まって日本経済は、奈落の底に沈んだのです。来るべき大増税は、97年の悪夢を再現するに違いありません。

 不況→景気対策のための財政出動→財政赤字の悪化→増税と緊縮財政→消費の低迷→不況…。恐慌のスパイラルがもう20年近くも続いています。バブル期には世界一だった1人当たりGDPも近年には20位前後にまで落ち込んでいます。新政権も税収の2倍近い予算を組まざるをえないのです。①この国は返済不可能な債務を抱えている。②国民生活を維持するためには、現在の歳入をはるかに上回る歳出が必要とされている。③しかし大増税は国民生活を破壊する。日本経済はこの3つの厳しい制約条件のもとにおかれています。
  
「出口なし」の状況のなかで近年、高橋是清の名前をよく耳にするようになりました。藤井財相も就任会見で彼に言及しています。犬養内閣の大蔵大臣だった高橋は、国債の日銀引き受けを敢行し、日本は世界でもっとも早く大恐慌の痛手から立ち直った国になりました。高橋には経済についての大局観がありました。政府こそが信用の最大の源泉であるという認識を彼はケインズと共有していたのです。高橋に倣って政府紙幣と無利子国債の発行を主張する人たちがいます。彼らには果たして高橋のような大局観があるのでしょうか。

トイレット博士

2009-11-04 00:00:00 | Weblog
よく言われるようにマリー・アントワネットの時代のヴェルサイユ宮殿にはトイレらしいトイレがなく、貴婦人たちが平気でそこらの茂みで用を足していた。下層階級の家庭ではバケツで用を足して、それを二階の窓からぶちまけたりしていたようである。アンシャンレジュームのパリは不潔で臭くて、公衆衛生という面で危険極まりない街であった。

 他方、当時世界最大の都市であった江戸の清潔さは、幕末にこの地を訪れた外国人たちの賞賛の的となっていた。人糞を主要な肥料とする日本農業のスタイルが、巨大都市の抱えるし尿処理問題を楽々とクリアさせていったからである。し尿はやっかいものではなく、売り物になったから、明治になっても一部屋に3人住むと部屋代がただになっていたという。

 欧米人と違って日本人は、し尿と歴史的にフレンドリーな関係を結んでいた。日本のお母さんは、子どもがものを食べてから排泄するまでのすべてを見守ってくれている。このことと日本人の情緒的安定との関係を重視する外国人研究者もいる。「うんち」や「おしっこ」は、日本の家庭のなかでは、いまでもさほど忌むべきものとはされていない。

 排泄物、とくに「うんち」への忌避感をもたらしたのは学校制度だろう。学校は、日本人の身体と頭を西欧風に改造する装置として明治の初年に創設された。西欧の排泄物に対して敵対的な観念がここで根を張っていった。学校では「うんち」ができなかったという方はマイミクのなかにも多いのではないだろうか。それには深い歴史的ないわれがある。

ドイツは地味である

2009-11-01 00:00:00 | Weblog
この前の土曜日に妻と娘が、「天皇がOB」の大学の「オープンキャンパス」なるものに行ってきました。妻もこの大学の出身で一年間だけここで働いていました。都心にありながら緑豊かなキャンパスと、どことなくおっとりとした学生さんたちの雰囲気は彼女の学生時代から、変わっていないようでした。

 しかし、このお上品な大学も世の中の流れから無縁でいるわけにはいきません。彼女が学生時代には、ここの独文科は非常に定評があったのですが、いまは「ドイツ語圏文化学科」と名称を変えています。「文学」では学生が集まらないのでしょう。学部のパンフレッドを二人が持って帰っていたのでみたところ、「ドイツ語圏文化学科」のカリキュラムに「ドイツの若者文化」と「ドイツのサブカルチャー」という科目があるのをみつけて驚きました。学生喜ぶんでしょうか?地味というか楽しくなさそうというか…。そもそもそんなものがドイツにあるのか?

 幼い頃から日本のテレビゲームやアニメに親しんだことから大学で日本語を専攻し、国際交流員として鳥取市に来た若者が、「鳥取は夜でも明るいきらびやかな街」と感嘆していたのを思い出します。この若者は、たしかデッュセルドルフの出身だったと思います。そんな大きな街でも鳥取の方が「きらびやか」であるとは。ドイツは「環境大国」と呼ばれていますが、それを支えているのは、国民の質素な暮らしぶりであることがうかがえます。

 ちなみに鳥取市は80年代に、夕方6時になると商店がシャッターを下ろしてしまう街としてタモリに揶揄されたことがあります。「6時にシャッターが下りる、嘘を言うな!」。タモリのセリフをぼくは腹立たしく思いました。実際には鳥取の商店街は当時、夕方5時にはシャッターを下ろしていたのですから。タモリに揶揄されたやる気のない商店街は、いまでは朝からシャッターが下りています。