ガラパゴス通信リターンズ

3文社会学者の駄文サイト。故あってお引越しです。今後ともよろしく。

「いい人なんだけどね」

2006-06-28 06:24:16 | Weblog
 ぼくの住む相模原市は、何の個性もない東京圏の郊外都市。わずか50年で、人口は50倍にふくらんでいます。しかしその個性のなさが住みやすさになっているのでしょうか。外国人を多くみかける地域でもあります。 黒い人、白い人。身分の高そうな人(外務省の研修施設が団地のそばにある)、みるからに怪しげな人。基地が近いので、もちろん米軍兵風の人もよくみかけます。

 黒人の幽霊が出るという噂のたえないわが団地は、分譲の部分と賃貸の部分でいささかその趣を異にしています。分譲部分はバブル華やかなりし頃は、億ションだったとか。いまは3分の1ほどに価格が下落していますが、住人の大半が由緒正しき大企業のエリートサラリーマン。他方、賃貸部分には種々雑多な人たちが住んでいます。

 ファミリータイプとワンルームが混在していること。家賃は、決して安くはないのですが、公団住宅故に、障害者や高齢者の方々には家賃の補助制度もあることが、住人の多様性をもたらしているのでしょう。 ゲイのカップルあり。「プレーリードックさん」というあだ名の、一日通りを眺めている中年男性あり。謎のSOHOをやっている夫婦あり。猫を自室で飼って(契約上の厳禁事項!)溺愛している、不思議な社長夫婦あり…。

 そうした情報を教えてくれるのが、田中さんというおば(あ?)さんです。いつも団地の自治会の世話で走り回っています。うわさ好きがたまに傷ですが、人の噂話をした後に「いい人なんだけどね」と付け加えることを忘れません。異質な人間に寛容な相模原の町。火星人がうちの団地に住み着くことがあるかも知れません。すると田中さんはそのことをぼくたちに教えれてくれるでしょう。「今度うちの棟に来たあの若い人、火星人らしいよ。いい人なんだけどね」。





翼をください2

2006-06-25 21:15:28 | Weblog
 いまを去る4半世紀前のこと。当時のサッカー日本代表(全日本と呼ばれた)は絶好調。ブラジルの強豪プロチーム、コリンチャンスに快勝した。スポーツ紙には「五輪(コリン)チャンス」という見出しが躍った。この「史上最強のチーム」には日本が銅メダルをとった「メキシコ五輪の再来」が期待された。ロス五輪出場は、確実視されていたのである。
 ところが、クアラルンプールで開かれたオリンピック予選で、「全日本」はなんと全敗。「アジアの壁」の高さを思い知らされる結果に終わった。タイとの緒戦がすべてだった。同国の伝説のエースストライカー、ピアポン一人に5点を入れられる惨敗。松木、岡田、木村、金田、水沼…。いま、したり顔でテレビの解説をしている面々が、この時の中心選手だったのである。
 サッカーなどかつては、マイナースポーツだった。メキシコワールドカップ予選で、韓国とのアジア地区決勝にまで勝ち上がってから、にわかにサッカーは脚光を浴び始める。しかしこの時の1回戦、北朝鮮との試合では国立競技場のスタンドは真っ赤に染まっていた。日本人は誰も応援に来ない。朝鮮総連の人たちが国立競技場を埋め尽くしていたのだ。
 いまの若い人たちはそうした過去を知らない。4年前の日韓ワールドカップで日本は決勝トーナメントに残った。だから予選リーグ敗退では満足できない。ジーコジャパンにはそうした過大な期待がかけられていた。しかし、わずか四半世紀前までは「アジアの壁」に押しつぶされていた。ピアポン(!)一人にボコボコにやられていたのである。
 今回の日本代表はロナウド一人にボコボコにやられた。ブラジルに子ども扱いされて、「世界の壁」を痛感したのである。ピアポンからロナウドへ。タイからブラジルへ。長足の進歩ではないか!前途はまさに有望である。いまから四半世紀の後、日本はブラジルを問題にしていないと思う。世界を制覇した日本代表は、マサイ族やバルタン星人、ギリシャ12神などにボコボコにされている。そして「宇宙」や「神」の壁の厚さを痛感しているに違いない。これが私の予言である。

アメージンググレース2

2006-06-23 05:19:55 | Weblog
神奈川県第一の人口をもつ都市は横浜市。第2は川崎市。ここまでは誰でも知っている。では第3の都市はどこか。横須賀か、小田原かと首をひねるむきも多いであろう。正解はわが相模原市である。人口60万人はほぼ鳥取県と同じ。その名のごとく相模の国の野原のなかのこの町には軍都としての歴史がある。子どもの通っている小学校も、昔は陸軍の通信学校だった。米軍が総司令部をこの町に移す構想があって、地元の名望家である市長は、身体を張ってそれに反対している。

私は相模原の公団団地に住んでいる。ここには以前アメリカ軍の病院があった。その跡地に、デパートと公園、そしてこの団地ができた。私の住む相模大野が急速に発展したのは、米軍病院の返還後のことだ。いまではきらびやかな消費都市の様相を呈しているが、ベトナム戦争華やかなりし頃には、連日のように米兵の死体がヘリコプターで運びこまれていたという。エンバーミング(防腐処置と整形)を施して、本国に送り返していたのだ。

 そうした由来をもつこの団地には、「黒人兵の幽霊が出る」という噂が絶えない。戦争で命を落とすのは、常に貧しい人たちだ。ベトナム戦争で死んだのは、圧倒的に黒人であり。団地に住む奥さんで霊感の強い人がいる。彼女は黒人兵に突然、肩をつかまれたといっていた。その他にも幽霊の目撃情報はかずしれず。住民たちは公団にお祓いをするよう申し出た。それに対する公団の回答がふるっている。お祓いは神道の儀式だから、黒人には効かないだろうというのだ。

 なるほど。一理ある。「信教の自由」を持ち出すより説得力があるような気もする。それでは黒人霊歌でもみなで歌えばよいのだろうか。ウイシャル・オーバーカムとか、アメージンググレースとか…。しかし下手に歌うと、鎮魂どころか幽霊が暴れだすのではないかと、心配になる。

砂の女

2006-06-20 05:18:01 | Weblog
 Sさんは、中学1年の時、父上の仕事の関係で名古屋から鳥取に転校してきた。Sさんはとても頭のよい人だ。数学の時間に誰も解けなかった問題をいとも易々と彼は解いた。ぼくも習ったことのある数学のT先生が、このことをすべてのクラスで言いふらして歩いたのだ。「今度名古屋から来たSちゅうもんは、よう勉強できるけえなあ。お前らあ、だらず(馬鹿)にされんように頑張らんといけりゃあせんで」。

 T先生は悪い人ではない。しかし、T先生のおしゃべりがS少年の受難の始まりだった。都会からの勉強のよくできる転校生(しかも彼はハンサムだ!)など地方の子どもの嫉妬の的となる。クラスや部活でいじめの標的になることは避けがたい。しかしそんなことでひるむS君ではなかった。父上の仕事の関係で転校を重ねていた彼には、そうしたことに対する耐性はあった。ところが、である…。

 ある日彼は市内の大きな商店街で、お店に入った。するとそこの店主がS少年に声をかけた。「あんたが名古屋から来んさったS君か。よう勉強しんさるだってなあ」。彼は驚いて店を走り出た。何故はじめて入ったお店のご主人が、自分の学校での行動を知っているのか!S君の悪夢は続いた。彼は、入るお店ごとに「あんたあS君か…」と同じことを言われ続けたのである。

 この話を聞いた時、私は全然驚かなかった。この街ではとにかくすべてが筒抜けなのだ。「誰かがみている」どころではない。「誰もがみている」。地方都市には人を追い詰める息苦しさがある。安部公房の小説を彷彿とさせるような不条理な空気さえ漂っている。

髪は長い友だち

2006-06-17 05:33:38 | Weblog
自慢ではありませんが、私は若い頃「からすのような黒髪」が自慢でした。ところが病気のみつかる2年前ぐらいからでしょうか。急に白髪が増えてきました。いまにして思えば病気の前兆だったのでしょう。悲しいわ。

 無菌室では当然、髪が全部抜けました。抗がん剤投与の1週間後ぐらいから、本当にばさばさという感じで。一度抜けた髪が全部生えそろうのに、6ヶ月ぐらいかかりました。移植の前に期待していたのが、病気が原因で増えた白髪なら、今度生えてくるときには黒い髪に戻っているのではないかということでした。ドナーの体質を受け継ぐ部分が大きいということも聞いていました。兄の髪の毛は50をいくつもすぎてもまっ黒です。ところが生えてきたのは白い毛ばかり。兄から受け継いだのくせ毛でした。

 真っ白な髪の毛!これではお年頃の娘さんたちの前にはとても出られないと思い、髪を染める決意をしました。散髪屋さんで適当に染めたのです。そうするとバサバサと髪が崩落してきました。見栄で髪を染めて、禿になったらたまったものではない。そう思って染めるのはすぐにやめてしまいました。

 でも真っ白な髪だと自分の子どもたちのおじいさんにしかみられませんでした。悲しかった(泣く)。一番ショックだったのは、近所の娘の同級生から、「こんにちわ!桜ちゃんのおじいさん!!」っていわれたことです。移植を受ける前には、まだ小学校1年生だったこの子から「こんにちわ!桜ちゃんのお父さん!!」って言われたことがあるのですから。ああ、2階級特進(だとお兄さん→おじいさん?)してしまった。

 それで最近また染めるようになりました。ヘナ染めというのをやっています。ナチュラルで髪にやさしいというふれこみです。さようなら。禿の恐怖!美容院で染めています。周りは女性ばっかり。おやじは私ぐらいのもの。よく平気ですねといわれますが、私の職業をみなさんご存知でしょう。周りが女性ばかりだといってでひるんでいてはとても勤まる仕事ではありませんから

パロディとしての君主制

2006-06-14 21:59:20 | Weblog
 イギリスはブラックユーモアの本場である。英国流ブラックユーモアは、上位者を下位の者があざ笑うことを特徴としている。これは弱者への攻撃をこととする近年の日本の笑いに比べてはるかに健全なものである。18世紀の昔から、昨今のダイアナチャールズにいたるまでイギリス王家は、絶えず庶民の黒い笑いの的となってきた。

 ブラックユーモアとともにパロディが、イギリス的笑いの本質であることは広く知られている。何故イギリスが、パロディの母国となったのか。イギリスは世界で最初の市民革命を実現した国である。だが王様を殺し、あるいは放逐した後の国家はどうにも座りが悪い。国内の覇権をめぐる、「万人の万人に対する闘争」が社会を分断していく。やはり帽子がなければ落ち着かない。そこで王様が呼び戻されることになった。

 市民階級は、自由と自治の味を覚えている。本当の王政に戻るつもりなどさらさらない。そこで出てきたのが、「君臨すれども統治せず」のかのスローガンである。王様など置きたくもないが、王様という至高の権威があれば、対等者間の闘争もトーンダウンすることが期待される。王様がいる以上、絶対者の地位には就けないのだから。イギリス市民は王様など馬鹿にしている。ちっとも偉くないと思っている。いないと困るから置いているだけなのだ。つまりイギリス立憲君主制は、君主制のパロディなのである。国の政体自体がパロディなのだ。イギリスの国民精神がパロディの宝庫とならないわけがない。

 イギリス国民がもし、本気で王族を尊敬したならば、「パロディとしての君主制」はたちどころに崩壊してしまうに違いない。だからイエロー・ジャーナリズムは鵜の目鷹の目で皇室のスキャンダルを暴き続ける。そして、王族もそのことは心得ている。だから様々なスキャンダルをばらまいて、国民の「黒い笑い」の種を提供することに彼らは余念がないのだ。

川島英子 『まんじゅうや繁盛記 塩瀬の650年』 岩波書店

2006-06-12 16:53:28 | Weblog
 わが生家の家業はもなかやである。父は全国の菓子工業組合の鳥取県の代表を長く務めていたが、京都・金沢・松江のお菓子やさんたちには、面白くない思いを抱いていたようである。うちは自称「老舗」。明治初年の創業だから140年に近い歴史がある。しかしそれは先にあげた地のお菓子やさんたちからすれば、「新興」でしかない。露骨にそういわれたといって、激怒していた父の姿をいまでもよく覚えている。

 しかしまあ何といっても650年である。しかもこのお饅頭やさん、京都の禅僧を慕って日本にやってきた中国人の手によって創業されている。このお饅頭やさんの歴史はそのまま日本の饅頭の歴史なのだ。千利休をはじめとする歴史上の人物と塩瀬の饅頭との関わりもまことに華やかなものがある。古い歴史には敬服脱帽するしかない。これに比べれば百数十年はたしかに「新興」といわれても仕方がないという気がする。

 歴史の古さでは比べるべくもないが、饅頭やのおかみである著者と、もなかやの家付き娘であった亡母とは重なりあうところが多い。著者と同様亡母も、「おかみ」という立場に大きな誇りを抱いていた。いいときはいいように、悪いときは悪いように、ともかく細く長く家を守り商売を続けていくことが第一だと著者はいう。母もまったく同じことをいっていた。背伸びをせず地道に日々を重ねていくことが、商売を長続きさせる極意のようである。

 あるエリート大学の学生どもはぼくのゼミで、30年、40年前の「大昔」のことを引き合いに出すのは「ルール違反」だといっていた。饅頭やのおかみさんには650年の歴史が視野に入っている。視野狭窄の「エリート予備軍」の若者たちにこの本を読ませ、京都のお店に修行に出す必要があるのではないか。「解放された女性」気取りのそこの女子学生たちは、家業を背負うことで逞しく自立している著者の姿をみて、一体何を感じるのだろうか。

父の日の贈り物

2006-06-10 06:33:34 | Weblog
 7年前のことです。6月に入ると貧血はますますひどくなっていきます。貧血だと顔色が蒼白になりますが、妻によれば日に当たるともう透き通るようにしろくなってしまったそうです。6月のはじめには、輸血の量が増えていきいます。処置室のベッドに横たわって、恒例の「十勝アンパン」を食べながら、「ああ、もうおれは死ぬのだな」としみじみ思ったものです。

 それにしても、HLAの判定結果が届くのがあまりにも遅い。それを鳥取の病院に催促してみると、「ああ、申し訳ない。送るの忘れてました」。人の生き死にに関わることを「忘れていました」ですませるとは!怒鳴りつけたいのですが、何しろ貧血が進んでその気力もありません。ともあれ、これで次の検査の日には結果が判明しているわけです。

 父の日の日曜日は、その前日です。この日の夜は外食にしよう、びんちゃん(私のこと)の好きな店を選んでいい、と妻が言ってくれます。伊勢丹デパートの串焼やに行って、ぼくはお目当てのにごり酒を飲みます。妻からは、文房具の絵がたくさん入ったネクタイをプレゼントしてもらいました。

 翌朝、診察室に入ると開口一番、せんだみつお似の主治医がこういいます。「あっちゃいましたよ。いやあ、兄弟だと4分の1の確率でマッチするというけど、経験的には二人兄弟だとほとんどあわないものなのでね。あなたも駄目だと思っていましたが、これは案外運がありますよ」。 こいつおれが死ぬことに決めていたのかと、腹立たしくもありましたが、希望の光がみえてきました。一日遅れの大きな「父の日のプレゼント」ができたのです。


熊さんのオートバイ

2006-06-07 20:58:03 | Weblog
 この前朝のテレビで、中高年フリーターが増えているというニュースをやっていました。「彼らが働かないことによる税金の損失は…」などとニュースキャスターは、話しています。怠け者がフリーターになる。いまだに世のおじさん族は、そう信じているようです。「一億総中流」。「若年労働力は金の卵」。そうした高度経済成長期の通念に、いまも大人たちはとらわれています。

 「ひょうたん島」には、作者の井上ひさし氏が子ども時代を送った戦後の混乱期のリアリティが投影されていた。「タイガーマスク」もやはりこの時代の傑作アニメですが、主人公の伊達直人は「ちびっ子ハウス」という児童施設の出身です。なんだか「エリザベス・サンダースホーム」を連想させます。戦中派、梶原一騎の頭のなかからでてきた代物という感じです。

 いまの大人たちも一世代前のリアリティをかぶせて現実をみているのではないでしょうか。高度経済成長の結果、この国の貧困は根絶されたと、みんなが信じてしまった。「一億総中流」ということばは、77年の総理府調査の報道をきっかけに広まったものです。現在の大人たちは、まだ「一億総中流」の幻想のなかを生きている。悲惨な貧困の存在が認識できないし、この国で貧困に堕ちるのは怠け者か奇人変人だと思っている人がたくさんいるのは、このためでしょう。

 私は子どもの頃、親のいうことを聞かないと、「サーカスに売る!」だの「山奥の親戚に里子に出す」だのと、メチャクチャをいわれていました。一世代前どころか、これはもう19世紀の感覚だと言わざるべからず。幼稚園のころは、年に一度サーカスが鳥取に来ていて、それをみるのが楽しみでした。熊がオートバイに乗って、地球儀のような鉄の檻のなかを走るアトラクションが大好きでした。サーカスが来ると行儀よくしていました。サーカスに売られて、熊さんと一緒に芸を仕込まれたのではたまったものではありません。

天皇の逝く国で

2006-06-04 05:55:51 | Weblog
 娘の中1の時のクラスに行儀の悪い女の子がいた。熱血タイプの体育教師が、彼女を注意した。彼の手がその子の髪に触れる。「やめて!セクハラ教師!!」。体育教師は完全に逆上した。彼女の襟首をつかみ、教室中を引きずりまわした。「お前なあ。少しは場の空気ってもん読めよなぁ!」と叫びながら。彼の行動こそ場の空気を読めない最たるものだろうに。

 「場の空気を読め」と若い人までもがいう。「日本社会の美風」は不滅なり。バブルの時代の終わりに、長崎市の本島市長は右翼に撃たれた。彼は昭和天皇に戦争責任があるといった。発言内容そのものより、天皇の快癒を願い国をあげて「自粛」に務めていた「場の空気」を本島市長が無視したことが世人の怒りをかい、バッシングを激化させたのである。

 「場の空気」は多数派が作る。「場の空気を読め」とは、「長いものにまかれろ」ということだ。「場の空気」は自然に醸成されるだけではない。メディアが作ることもある。天皇の闘病中、NHKのアナウンサーは一様に黒い服を着て、下血量や血圧などの医学的データを粛々と読み上げていた。このNHKの報道姿勢が、自粛ブームを生んだといってもよい。

 昭和天皇は自らの戦争責任に口をつぐんだまま、この世を去った。それは多くの戦中派の日本人の姿と重なりあう。その意味で昭和天皇は、日本を「象徴」していた。昭和天皇の死とともに、戦争責任の問題も蓋をしたまま葬り去りたい。そうした「場の空気」を読むことを拒否したために、本島市長は同世代の人たちの激しい憎悪の的となったのである。

昭和天皇は、過去の隠蔽という「この国のかたち」を象徴していた。他方、現天皇は何ものも象徴してはいない。昭和天皇の死とともに象徴天皇制も死んだ。本島市長は、「場の空気」よりも自己の良心に忠実であろうとするキリスト者であった。彼の受難は、近代以降においてもなお、この国のなかでキリスト教が実質的に禁教だった事実を物語っている。