ガラパゴス通信リターンズ

3文社会学者の駄文サイト。故あってお引越しです。今後ともよろしく。

骨子ちゃんと新解さん(祝!黄金週間。声に出して読みたい傑作選2)

2006-04-29 05:03:48 | Weblog
 娘が環境問題に関心をもっている。ぼくが無駄な電気をつけていると彼女が消して歩く。そして「電気のつけっぱなしは、Co2排出量を増大させるよ!」と親を説教する。まことにうっとうしい。小学校最後の総合学習でも、環境問題のレポートを作っていた。インターネットで調べものをしていた娘が何やら独り言をいっている。「えーっと、京都議定書のほねこは」。これ以来わが家で彼女は「骨子(ほねこ)ちゃん」と呼ばれるようになった。

 中学生になった骨子ちゃんは、国語辞典を買うことになった。「新明解国語辞典」を手にとる。自分の本当の名前である「桜」を骨子ちゃんは引いてみた。いろいろなことが書いてある。桜の葉は塩漬けにされて桜餅に使われる。塩漬けの桜の葉は一樽二樽という単位で取り引きされる。等々。骨子ちゃんは「ふざけている」と思った。不必要な情報が多すぎると思ったのだ。他方、岩波の辞典は桜についての過不足のない情報が載せられている。

 骨子ちゃんの心は岩波に傾いた。しかし辞典は一生ものである。骨子ちゃんはさらに比較検討をすることにした。鰈(かれい)と苺と鮑(あわび)を引き比べてみる。新明解にはそれらはいずれも「美味」であると記されている。とくに鰈は「白身で美味」と評されている。岩波の辞典には味についての言及は一切ない。骨子ちゃんの心証は逆転する。岩波は無味乾燥。新明解は丁寧で「やさしい」。骨子ちゃんは迷うことなく新明解を購入した。

 生真面目な骨子ちゃんは心配する。「美味」というのは、執筆者の主観に過ぎない。苺や鮑や鰈を「美味」とは思わない人もいるだろう。蟹がいくら「美味」でも強度のアレルギーをもつびんちゃん(ぼくのこと)は食べられない…。執筆者の主観を読者に押しつけてよいのだろうか。そういいながら骨子ちゃんは、しょっちゅう「新解さん」を読んで笑い転げている。骨子ちゃんにとって「新解さん」は、中学に入ってできた最初のお友だちだ。

徳永進『野の花診療所の一日』(共同通信社)

2006-04-26 05:48:48 | Weblog
 徳永進医師の主宰する鳥取市の「野の花診療所」で、2年前の4月26日夕刻母が亡くなりました。家業と歌作に捧げた80年の生涯でした。となりのベッドには、父がいます。前の年の5月に脳梗塞で倒れ、その後に末期ガンがみつかったのです。母は、父と手をつないで息を引き取りました。二人がともに過ごした50年を超える時間の重みを感じさせる光景でした。「おかあさんが死んだらわしは殉死する」が父の口癖でしたが、そのことばどおり同じ年の8月に父も亡くなっています。

 徳永医師が、慣れ親しんだ「地方勤務医」の職を捨て、終末期医療のための「野の花診療所」を開設したのは2001年のことでした。診療所のHPには、徳永医師の、こんな文章が載せられています。「死ぬのはつらいだろうなー。だったらその時、その横に立っていて、手を握ってあげる仕事をしようと思ったのが高校2年生の時でした。37年が経ってようやくそういう場にたどりつこうとしています」。所在地は鳥取市の下町。徳永医師の志に共鳴する看護師さんと地域の人たちのヴォランティアに支えられた、ベッド数19の診療所です。

 高名な作家(講談社ノンフィクション賞を受賞)にして名医(地域医療に貢献した人に贈られる「若月賞」の受賞者)。しかし、実際の徳永医師はそんないかめしさなどみじんも感じさせない飄々とした鳥取のおっちゃんです。母の死が迫っていた時でさえ部屋に入ってくると父に明るく声をかけました。「よ、おじいちゃん!」。患者や家族に向かって説教めいた重たい話は一切しません。どんな時にも笑みを絶やさず、その語り口は常にユーモラスです。

 徳永医師は「シュヴァイツアーのような人になれ」と言われて育ちました。後年、彼にユージン・スミスの写真展を開催する機会が訪れます。しかしスミスの映したシュヴァイツアーの写真に徳永医師は、あまり感心しませんでした。「現代の英雄たらんと苦闘していた」(本書158頁)彼の姿が鼻についたようです。他方、コロラドで働く田舎医者、セレアーニを撮った「カントリードクター」からは、凄まじい迫力を感じ取った。「あなたが目指す医者は?」と問われたら、ぼくは答える。『セリアーニ』」。徳永医師の原点を伝える文章です。

 死は当人ばかりでなく、周囲にとっても大変なことです。愛する人を失う悲しみには、はかり知れないものがあります。徳永医師は、まず患者さんが安らかに苦痛なく死を迎えることに心をくだきます。そして、臨終の床に家族が揃うことを非常に重視しています。愛する人の死に立会うことで、死という事実を受け容れることができるようになる。そのことが結果として、愛する人を亡くした悲しみからの回復を容易にすると考えるからです。

 ここでは別離の時も大切にしてくれます。すぐに地下の暗い霊安室に追いやられるようなことはありません。臨終の時、病室には私たち兄弟夫婦と孫5人が揃っていました。母が好んだという「はちみつレモン」で死に水をとらせます。徳永医師が言いました。「晩ご飯は、おばあちゃんが好きだったもんを外から頼んでみんなで食べてつかんせえ。酔っ払わん程度ならお酒もかまいませんで」。おばあちゃんが大好きだった「梅乃井」のうなぎを食べました。狭い病室で。9人が折り重なるような姿で。さすがにお酒は自粛しましたが。

 臨終の直後、孫たちは泣いていました。兄の子どもたちは、そろって浪人留年をくり返し、おばあちゃんに心配をかけました。当時6年生だった桜は感受性の鋭い年頃です。号泣していました。2年生の太郎は、まだよく分かっていないのだと思います。しかし、周りにつられて泣いていました。すると隣室からNHK教育テレビの人気番組「ピタゴラスイッチ」の軽妙な音楽が流れてきます。一瞬桜と太郎は顔を見合わせて笑います。しかしすぐに、「こんな時の『ピタゴラスイッチ』はいやだ」と言って一層激しく泣きじゃくります。桜と太郎がみせた「死のなかの笑み」には、母の死の深い悲しみから大人たちを癒す力がありました。


学問のすすめ

2006-04-24 09:05:45 | Weblog
 非常勤で教えている大学のゼミで少年犯罪が話題になった。テキストには、「少年犯罪の急増凶悪化」は神話であり、ピークの昭和35年当時に比べて、現在は4分の1程度に減少しているという記述があった。ある学生がこれに反論をした。平成の最初の10年間で、少年の凶悪犯罪は倍増の勢いにある。それこそが問題だ。「昭和35年というような、大昔の話を持ち出すのは問題のすりかえです」。学生たちの多数が、この意見を支持していた。

 ポール・ヴィリリオというフランスのメディア学者がいる。何故フランスでかくも離婚が多いのか。これは、インターネットをはじめとするメディア・テクノロジーの発達の結果なのだとヴィリリオはいう。メディアが発達すれば間接的にではあれ、人間の経験の総量は飛躍的に増える。1年で昔の人の何年分もの経験をするのだ。10年間の夫婦生活は、昔の50年分に相当する。これでは誰でも飽きる。離婚するのも当然である。そんな理屈だ。

 学生たちの理屈に従えば、4歳とはいえ、昭和35年当時の記憶をもつぼくは大昔の人ということになる。学生たちには、歴史の連続性という感覚がまるでない。これもヴィリリオのいうようにメディア・テクノロジーの過剰発達の結果であろう。1年が昔の何年分にも相当するのである。彼らにとっての50年前は、ぼくらの感覚でいえば江戸時代に相当するのではないか。江戸時代の統計を持ち出して、少年犯罪の現状を云々するのは詭弁だという感覚も分からぬではない。

 大昔のことだといって過去を切り捨てるのは、歴史から何も学ばぬことではないか。この学生の意見にぼくはそう反論した。学生たちからは芳しい反応はなかった。この大学は、官界・政界・言論界・そして何よりビジネスの世界に数多の「エリート」を輩出している。眼前の学生たちもエリート予備軍だ。しかし歴史の連続性の感覚をもたない、短い時間のスパンでしかものを考えられない者が、果たして「エリート」の名に値するのだろうか。疑問である。

こまわり君は戦後民主主義の夢をみたか

2006-04-21 13:24:56 | Weblog
 大学に入った当初、ぼくはマンガばかりを読んでいた。その頃の人気マンガに「がきデカ」がある。東京の私鉄沿線の町を舞台に、下半身丸出しで欲望のおもむくままに行動する少年警察官「こまわり君」が抱腹絶倒のドタバタを演じるナンセンスギャグマンガである。「死刑!」や「八丈島のキョン!」といった意味不明のフレーズも評判になった。「東大一直線」、「1,2のアッホ!」、「進めパイレーツ」。当時は、ギャグマンガの黄金時代だったと思う。

 欲望の権化のようなこまわり君は戦後の日本人の自画像である。哲学者の鶴見俊輔さんはそう述べている。鶴見さんはそれを非難しない。自己の欲望を最優先するようになった戦後の日本人は、お国のために滅私奉公をしたりはしないだろう。戦後民主主義を代表する論客の一人でもある鶴見さんは、戦後日本人の「がきデカ」性が、戦前的な国家主義の復権に対する防波堤としての役割を果たすことを期待していた。

 鶴見さんの言にぼくは異論がある。このマンガが連載されていた当時、東南アジアで女性を買い漁っていた日本のおやじどもは、がきデカである。彼らは、日本の経済成長のために「滅私奉公」をしてきた人たちではなかったか。おのれの欲望のおもむくままに、すなわち目先の損得や快楽だけで行動する人間が、権力に持続的に抵抗していくことなどありえない。そうした人間は、権力の強制や誘惑の前にいとも容易く屈してしまうだろう。

 「おしり」や「たまたま」を丸出しにしている点で、こまわり君は「クレヨンしんちゃん」の先駆者である。しかし、表面的にはこまわり君とそっくりでも、「幼稚園児」というまともなアイデンティティをもつしんちゃんの、なんと小市民的であることか。下半身むき出しの変態小学生が警察官を僭称する「がきデカ」には、対抗文化の残り香が感じられた。そういえば、このマンガの作者、山上たつひこには「光る風」という物議をかもした作品もある。

 

玄界灘(1周年記念・声に出して読みたい傑作選1)

2006-04-18 14:54:02 | Weblog
大学院生の頃はバイトに明け暮れていた。博士課程の時である。町田の予備校で日本史を教えることになった。最初この仕事を紹介された時ぼくは断った。日本史など知らないのである。大学入試を日本史で受けるつもりがなかったので、単位数の少ない授業しか受けなかった。担当教師もやる気のない人だった。学生時代の寮は酷いところだったと繰り返し話していた。授業はほとんど進まなかった。ぼくの高校日本史は元寇で終わっている。

 仕事を紹介してくれた先輩は、予備校の授業など話術だけで何とでもなると無責任なことをいう。甘言につられて引き受けてはみたが、やはり後悔した。学力不足は歴然である。まず漢字が読めない。「八色の姓」。これはなんと読むのか。実力のなさはすぐに生徒に見抜かれた。授業が終わるごとにその日のぼくの間違いを指摘してくれた生徒がいた。有名私大に合格したその生徒は、「先生に教えたことが一番の勉強になった」といってくれた。

 それでもきちんと準備していればまだ何とかなったのだと思う。ところがいやなことは先にのばす性分だ。結局予備校の近くの喫茶店でモーニングサービスを食べながら予習をするはめになる。それをやるにも誘惑と戦わなければならない。スポーツ新聞やインベーダー・ゲームが、「おいでおいで」をするではないか。ぼくは簡単に誘惑に屈してしまった。何も知らない人間が何の準備もせずに教壇に立つ。空恐ろしい授業を一年間ぼくは続けた。

 それでも元寇の話にはいささか自信がある。高校日本史の最後の授業をぼくはまじめに聞いていた。だからぼくは神風が吹いて元の船が沈んだことを知っている。「日が落ちて沖の船に戻ると決めた時、元の将軍はなんと呟いたか知っていますか?」。ぼくは生徒に尋ねた。生徒は怪訝な顔をしている。ぼくは厳かに言った。「暗くなった。もう、げんかいだな!」。そう限界だった。翌年、ぼくのもとにその予備校から出講の依頼は来なかったのである。

モカコーヒーのかくまで苦し

2006-04-15 05:00:25 | Weblog
 鹿児島時代、同僚が留学から帰ってきた。団塊の世代の先生である。彼はいう。「ぼくはね。外国での生活が苦にならないんですよ。ぼくみたいな鹿児島人は、大学進学で東京に出た時に一度それを体験しているからね」。鹿児島弁は、よそ者にとってはまさに外国語。逆に昔の鹿児島の人が東京に出れば、外国語のなかで暮らしている感じだったのだろう。

 戦前の沖縄では皇民化教育のために方言が禁圧されていた。学校で方言を使った子どもは、「私は方言を使いました」という札を首から吊るされる辱めを受けた。高度経済成長期の鹿児島でも方言札のようなものがあったと、先の先生はいっていた。皇民化教育のためではない。進学や就職で大都市に出た時に方言を使って恥をかかないようにという「親心」に発したものだ。

 似たような話は全国各地にあるのではないか。鳥取も鹿児島と同様、高度経済成長期には大都市に人材を供給する地域であった。「方言札」こそなかったが、大都会に出た時に子どもたちが恥をかかないようにという先生たちの「親心」が発動されることはあった。ぼくが小学生の時、「学校では鳥取弁を使わない」という「今週の努力目標」が制定された。

 しかし、鳥取弁を使うなと指導する先生自身が鳥取を離れて暮らしたことが一度もなかった。鳥取弁の禁止を鳥取弁で語る他はない。「学校出たら東京や大阪に行くもんがよおけおるだけぇ。鳥取弁を都会で使うと、なんちゅうざいごべえ(田舎者)だいやちって、だらず(馬鹿)にされるだけぇな。鳥取弁を使わんでええように、よう練習しときんさいよ」。

 ざいごべえだと思われるのはいやだ。しかし標準語を話している大人などみたこともない。語尾に「ね」・「よ」をつけると標準語らしく聞こえるという者がいた。皆この意見に従った。「あまえなんちゅうだらずだいや、よ」。「あんたあ、そんなんしたらいけんがぁ、ね」。かくしてクラスのなかには、どこのものともつかない奇妙なことばが氾濫していったのである。

リーチ一発ツモ!

2006-04-13 06:17:40 | Weblog
 鳥取県がその人口に比べて多くの優れた人材を輩出している分野が二つある。一つは野球のピッチャー。そしてもう一つがマンガ家である。前者では米田哲也、福士明夫、小林繁、川口和久。後者では水木しげる、青山剛昌、谷口ジローらがいる。なんともすごい顔ぶれである。倉吉市出身の山松ゆうきちのマンガも、とぼけた味があり、ぼくは大好きだ。

 山松はギャンブルものを得意としている。そのなかに、仏陀とキリストと孔子とマホメッドの4聖人が集まって麻雀をやるマンガがある。この4聖人、性格がとても悪い。人をあしざまにののしる。いんちきをやる。すねる。恫喝をする。突然説教をはじめる。山松は麻雀の本質をよくとらえている。麻雀とは人間性の悪い部分を引き出す遊びなのである。

 三島由紀夫の自殺について、こんな評論を読んだことがある。三島は麻雀をやらなかったから自殺した。三島は自分の才能が枯渇することを恐れていた。才能が枯渇して酷評にさらされることを恐れていたのである。麻雀をやれば、いつもボロクソにいわれるから打たれ強くなる。だから三島も、才能の枯渇を恐れることなどなかっただろうという理屈だ。

 いまの若者は麻雀をやらない。みんな忙しいからなかなか4人そろわないのかもしれない。麻雀の卓を囲むと罵詈雑言が常にとびかう。このこともいまの若者たちにはガマンできないのだろう。小さな頃から大事に育てられた彼らはとてもプライドが高い。相手を傷つけまいとひどく気を使うカルチャーも根を張っている。麻雀におよそ向かない人たちだ。

 ぼくも麻雀を覚えたのは学部を卒業した後のことだ。まわりに強いのがゴロゴロいる。「現金輸送車」になることを恐れたのだ。大学入学直後、山上たつひこのこんなマンガを読んだ。麻雀を知らない4人が雀卓を囲んで、ひたすら牌を混ぜている。あげくに疲れ果て、「こんなことをやって何が面白いのか」と叫ぶ。ぼくは「本当にそうだなあ」と思った。

原稿用紙

2006-04-10 06:09:28 | Weblog
 一昨年の4月に亡くなったぼくの母は、短歌を詠む人であった。歌歴は70年に及ぶ。母が小学校6年の時、県立高等女学校受験のため、近所の塾に通わされていた。「学校始まって以来の秀才」の枕言葉とともに語られていた二歳上の叔母に比べて、母はひどくできが悪いと祖母は考えていたのである。その塾の先生は若い未亡人。歌を詠む人であった。一度母の勉強をみると、「あなたは何もしなくても受かります」と言って短歌の手ほどきを始めたのである。昔の塾とは優雅なものだ。

 少女時代が母の短歌の黄金期であった。彼女の短歌はしばしば、『心の花』の巻頭を飾った。戦死した自分の兄を詠んだ歌は、『昭和万葉集』にも収録されている。しかし、戦後の母には、短歌の天分を伸ばしていく暇はなかった。商家の家付き娘である母は、戦争で中断した商売を祖母と再興させながら、子育てにも追われていたのである。短歌の投稿はコンスタントに続けていたけれども、そこに大きなエネルギーを割く余裕など到底もてなかったのである。

 母が四〇歳になった頃のことである。旭川で雑貨屋を営む主婦が、『氷点』という小説を書き、テレビドラマの原作に採用された。1000万円の賞金を獲得したのである。当時の1000万円は、いまだといくらぐらいになるのだろうか。自分と同い年で境遇も酷似した女性の成功に母は刺激された。これからは、短歌ではなく小説を書くと宣言した。数千枚の自分の名前が入った原稿用紙を作り、週末ごとに近所の温泉にこもっては、「創作活動」に励んだ。

 短歌と小説とでは、勝手が違ったようだ。母の創作熱は一年もたなかった。一攫千金を狙うより、地道にもなかを売る方が自分の性にあっていると母は言っていた。一遍の小説も書きあがらないまま、後には膨大な原稿用紙の山が残ったのである。ぼくは、学校時代の作文の類をすべてこの原稿用紙に書いた。そして250枚の修士論文を書き上げたところで、原稿用紙の山はなくなった。ぼくは、学者としての第一歩を母の原稿用紙で踏み出したのである。



パチプロと乙女

2006-04-07 06:50:05 | Weblog
 学生の卒論には、ニートやフリーターを主題としたものが多い。自分たちにとっての切実な問題だからだろう。みな一生懸命に取り組んでいる。彼女たちは統計や文献にあたるだけではなく、当事者たちにインタビューをして論文を書いている。立派なことだ。この手の論文を指導していつも疑問に思うことがある。日本にニートって本当にいるのだろうか。
 彼女たちが「ニートに会いました」といってインタビューをとってくるのは、きまってパチプロの人たちだ。働く気力も、学ぶ意欲もない若者。それがニートだといわれている。パチプロは生産的な生き方ではない。しかし彼らは長時間パチンコの前で「労働」(?)をしている。台の研究にも余念がないのだろう。無気力な「怠け者」に務まる仕事ではない。
 若者の総人口から、学生と正社員、フリーター、そして求職中の人を控除した部分をニートと呼んでいる。日本のニートは統計上の残余カテゴリーである。だから60万人(鳥取県の人口に等しい)という膨大な数になる。フリーターも、たまたま働いていない時期に調査にあたればニートにカウントされる。パチプロもデイトレーダーもみんなニートだ。
ニートの「発祥国」はイギリスだ。イギリスは、日本より20年早く経済の停滞を経験している。若い頃に仕事に就くことができず、無業者のままで過ごした世代の子どもたちがいま若者になっている。若者の荒廃ぶりも日本とは桁違いだ。ニートということばには、イギリス現代史の暗部が刻印されている。安易に日本の現状にあてはめるべきではない。
 ところで皆さんは驚かないだろうか。良家のお嬢さんの「友だちの友だち」には、きまってパチプロがいるのだ。この国には、パチンコに溺れている途方もない数の人々がいる。だからサラ金が繁盛し、個人破産が激増しているのだ。ニートの幻影に怯えるよりもこの現実を直視してきちんとした対策をたてることの方が、喫緊の課題だとぼくは思うのだが。

蒼ざめた馬をみよ

2006-04-04 07:23:07 | Weblog
 卒業式から入学式までの一週間だけは、大学の雑事から完全に解放される。勉強に専念できる貴重な期間である。例年この時期には、選抜高校野球のテレビ観戦という誘惑が立ちはだかる。今年は大丈夫だと思った。WBCの後ではあんな子どもの野球見る気にもならないだろうとたかをくくっていたのだ。ところが早稲田実業と関西高校が、「アストロ球団」レベルの死闘を演じるではないか。かの国際陰謀組織(3月23日掲載分参照)の暗躍はいよいよ活性化してきている。

 この国際陰謀組織は、ぼくの家系をターゲットにしている。「(旧制)中学の試験の時にはなあ、必ず早慶戦か大相撲があるだ。ラジオの中継を聞かなあいけん。だけえわしは勉強せなんだ」。常々父はそういっていた。「聞かなあいけん」というが、誰もそんなことを命じてはいない。それをあたかも義務であるかのように感じさせてしまうところが陰謀の力であろう。もなかやの決算の時期と夏の甲子園大会の時期とが重なっている。決算は父の仕事だ。しかし野球もみたい。その煩悶が父の寿命を縮めてしまったようにさえみえる。

 父の孫の「ちょくさん」は、高校時代までとても勉強がよくできた。秀才の評判にたがわず彼は、東京の有名私大に入った。大学入学後、「ちょくさん」にも組織の魔の手が伸びてきた。彼は松坂投手の投球に魅了され、横浜高校のファンになった。自室にCSテレビをひいた。夏の大会期間中は朝から夕方まで生放送をみて、夜は「高校野球チャンネル」で全試合を次の日の朝までかけて見直す。こんな生活を続けているうちに、とうとう彼は大学を留年してしまった。

 決算が遅れようとも、ぼくが論文を書かなくても、「ちょくさん」が何年留年しようとも、世界の大勢に影響を及ぼすことなどありえない。いったいなんで日本の片田舎のもなかやの家系などにこの組織はとりついたのか。「世界征服」を標榜しながら、幼稚園バスを襲う以上の悪事をけっして働かなかった初代仮面ライダーの敵役「ショッカー」に、この組織は酷似している。

 意図不明の行為は人々のなかに疑心暗鬼を生み出す。それは成員相互の信頼を傷つけ、ひいては社会の紐帯を崩壊させてしまうだろう。了解不可能性ーわけのわからなさーほど恐ろしいものは他にない。ぼくの家系にとりついたこの組織は、人々のなかに不安と不信とを喚起するという陰謀の本質を実によくわきまえている。端倪すべからざる存在であるといわなければならない。