ガラパゴス通信リターンズ

3文社会学者の駄文サイト。故あってお引越しです。今後ともよろしく。

ブログ市長

2009-06-30 08:30:56 | Weblog
 公務員の給料を減らせと主張する輩はすきではない。人のねたみを誘って人気とりをするのは最低だと思っていたからだ。自分のブログで市の職員の給料をすべて公開した鹿児島県阿久根市の市長もそうした一人だと思っていた。しかし、このブログ市長の問題提起には、真摯に受け止めるべき部分があると思うようになった。そうであればこそ、真摯な地方議員やNPOの活動家の何人もがこの人物を支持しているのだろう。
 

 地方公務員の給与は国家公務員給与を基準に算定される。国家公務員の給与を大きく上回る自治体は、国からも批判を受けてきた。阿久根市の給与は国家公務員の平均を上回ってはいないはずである。しかし阿久根市民の平均所得は東京の半分程度ではないか。現行の給与が高すぎるという批判は根拠のあるものだと思う。すべて東京を基準とすればよいというものではない。

 では低い所得で阿久根市民の生活は貧しいのか。そんなことはないだろう。贅沢はできないだろうが、農業や水産業を営んでいる人が多いから、食べるものはほぼ自給できる可能性が高い。親から受け継いだ家があれば住居費がかからない。市役所の職員になる人は、地元に根づいているからそうした人が多いはずだ。食べるものはすべてお金を出して買い、高い家賃やローンを払っている都会の人とは大違いである。同じ年収でもその意味するところは東京のそれとはまったく違う。

 ただ公務員の給料を下げろとまでしかいわないのがブログ市長の限界だと思う。公務員給与を減らすだけでは地域の消費が減って、経済が落ち込む可能性が大きい。公務員の給与とその定数を削減して、そのかわり市民に公務員の担ってきた仕事をある程度肩代わりしてもらい、その分の所得保障を行う。ある種の参加型の所得保障を阿久根でやることはむりなのだろうか。所得の再配分という観点から問題を考えてもらいたいものである。

イージーライダー

2009-06-27 08:00:03 | Weblog
 東京都の足立区で、若者が夜中公園に集まって器物損壊行為を続けていた。それに業をにやして、区内のある大きな公園では、蚊を撃退するためのモスキート音を流しているというニュースが話題になっている。行政が若者を羽虫扱いしている。これはとてもいやな気分にさせられるニュースだ。

 そもそも本当に若者が器物損壊を行っているのだろうか。「給食費未納者の急増」と同じ、行政や警察のフレームアップではないか。私はそれを疑っていた。ところが件の公園だけで器物損壊行為の被害額は70万円に及ぶという。モスキート音は感心しないが、たしかに看過できない事態ではあるだろう。しかし若者は全体的に大人しくなっている。それなのに何故、こういう現象が起きるのだろうか。

 若者が騒ぎを起こすというと、暴走族が連想される。ところが最近暴走族というものをとんとみなくなった。暴走族研究は社会学のなかで山ほどあるが、「貧乏人は暴走族にはなれない」というのがその共通認識である。四輪や迫力のあるオートバイは相当に高価だ。しかも暴走族は特攻服をユニフォームとしている。さらにクルマを改造したりアクセサリーをつけたりとお金がかかる。暴走族は、ある種のどら息子カルチャーなのだ。更生した暴走族の頭が親の家業を継いで、かつての暴走族仲間を社員として雇っているという類の「美談」には事欠かない。

 暴走族は走ることで憂さを晴らせるから、公園の器物損壊などやらないだろう。マッチョであることをよしとする彼らなりの美意識に照らした時、子どもの遊ぶ公園を壊して喜ぶというようなセコイ悪事は許容されないはずだ。ところがいまの若者は総じて貧しいから、暴走族にもなれない。神奈川県の渡良瀬ダム周辺はその昔暴走族の聖地といわれた場所だが、いまは暴走族の影もないと近くに住む学生が言っていた。暴走族にもなれない若者たちが夜の公園で暴れている。これはなんとも物悲しい光景ではないか。

学問のするめ

2009-06-24 07:49:07 | Weblog
 ある方が、幕末の頃に寺子屋のテキストで使われていた「実語教」なるものの存在を教えてくださった。これを読んでみると福沢諭吉の『学問のすすめ』にそっくりである。その意味で福沢は、西欧思想家などではなく古い学問の尻尾をもった「腐れ儒者」であったとその方は述べていた。また本家の「実語教」の方は勉強して人間として立派になる(修養)ことに重きが置かれていて、それほど不快なものでもないとその方はいっておられた。

 学制公布の際に出された「序文(学事奨励ニ関スル被仰出書)」では、学問を修めればえらくなることができ、そうでなければ路頭に迷うことになると人民を脅しつけている。なんだかトーンが「学問のすすめ」に似ているな、やはりあの本の影響力は大きかったのだなと思ったものである。まあ、それもあるのだろうが、学問と立身出世を結びつけた考えは幕末から一般に広く流布していたというわけだ。それが身分制社会の時代にはまだ抑制がきいていたものの、その枠が外れたとたんにえげつない全面展開を始めたのだろう。

 明治維新の主役となった下級武士たちは、まさにその体現者だった。社会の変動期を、多くの日本人が立身出世の機会としてとらえていたのだろう。昔関曠野さんが、明治維新を「秀吉ルネッサンス」と規定していたことが思い出される。立身出世志向というパンドラの箱が開けられたのだ。

 学制公布に際して、明治政府は小学校の建設を人民に義務付けながら、学校の建設と維持の負担も人民に押し付けてしまった。なんとむちゃくちゃなと思ったものである。子どもに勉強をさせることは、子どもの出世のための投資なのだから、費用負担はお前たちがしろ。「序文」は暗にこういっている。日本の教育支出が先進国のなかで極端に少なく、親の教育費負担が極端に重いのも、「序文」以来の教育を子どもの立身出世のための私事ととらえる発想と関係があるのではないか。

父の日の贈り物(あれから10年・声に出して読みたい傑作選83)

2009-06-21 13:54:34 | Weblog
 1999年のことです。6月に入ると貧血はますますひどくなっていきます。貧血だと顔色が蒼白になりますが、妻によれば日に当たるともう透き通るようにしろくなってしまったそうです。6月のはじめには、輸血の量が増えていきいます。処置室のベッドに横たわって、恒例の「十勝アンパン」を食べながら、「ああ、もうおれは死ぬのだな」としみじみ思ったものです。

 それにしても、HLAの判定結果が届くのがあまりにも遅い。それを鳥取の病院に催促してみると、「ああ、申し訳ない。送るの忘れてました」。人の生き死にに関わることを「忘れていました」ですませるとは!怒鳴りつけたいのですが、何しろ貧血が進んでその気力もありません。ともあれ、これで次の検査の日には結果が判明しているわけです。

 父の日の日曜日は、その前日です。この日の夜は外食にしよう、びんちゃん(私のこと)の好きな店を選んでいい、と妻が言ってくれます。伊勢丹デパートの串焼やに行って、ぼくはお目当てのにごり酒を飲みます。妻からは、文房具の絵がたくさん入ったネクタイをプレゼントしてもらいました。

 翌朝、診察室に入ると開口一番、せんだみつお似の主治医がこういいます。「あっちゃいましたよ。いやあ、兄弟だと4分の1の確率でマッチするというけど、経験的には二人兄弟だとほとんどあわないものなのでね。あなたも駄目だと思っていましたが、これは案外運がありますよ」。 こいつおれが死ぬことに決めていたのかと、腹立たしくもありましたが、希望の光がみえてきました。一日遅れの大きな「父の日のプレゼント」ができたのです。

不敬罪

2009-06-19 09:07:27 | Weblog
 プロレスの三沢選手が試合中の事故で亡くなった。プロレスをみなくなって久しいが、彼が二代目タイガーマスクだという知識ぐらいはもっている。昭和30年代から40年代の前半にかけて、プロレスはものすごくよくみられていた。あの当時人気レスラーがリングの上で亡くなれば、大変なニュースになっていただろう。

 往年の名外国人レスラーにボボ・ブラジルがいた。頭突きが彼の必殺技だった。九州地方でこのレスラーの出現は、大変な騒ぎを引き起こしたらしい。リングの外で暴れたわけではない。彼の名前の一部が九州での女性器の名称と一致するからだ。

 ボボ・ブラジルが九州人に衝撃を与えていたちょうどそのころ、中国とソ連との間で国境紛争が起こっていた。「黒竜江の珍宝島」(ウスリー川のダマンスキー島)の領有権をめぐる争いである。紛争の一方に加担するわけにはいかないから、テレビニュースのアナウンサーは、中国側とロシア側の両方の名称をいう。しかし、中国側の方はなんとなくそそくさという感じですましていた。やはりアナウンサーたちも「ちんぽう」ということばを口にすることに抵抗があったのではないかと思われる。

 それから数年の後。昭和天皇夫妻がヨーロッパ諸国を歴訪した。その時、オランダの有名な保養地スケベニンゲンを訪れたのである。テレビニュースのアナウンサーは重々しくこういった。「スケベニンゲンの天皇皇后両陛下は…」。「あっとろしだわ。なにをいうだろうかこのもんは。戦前なら不敬罪で捕まるで」。このニュースを聞いていた父のことばである。アナウンサーに罪はないと思うのだが。

 


「600字以内で答えなさい」

2009-06-16 12:03:12 | Weblog
 妻が国語の小論文の添削のアルバイトを始めた。1枚2~300円ぐらい。慣れていないと一枚Ⅰ時間以上かかるから、経済的にはナッシングである。推薦やAOで大学に行こうという生徒たちのためのもので、おそらく教室でやるのだろう。学校単位で送られてくる。送られてくる「作品」をみていると首をかしげるところが多い。

 たとえば「あなたはフリーターになることに賛成か反対か」という設問がある。フリーターは死語とは言わないが古い語感がある。非正規雇用の労働者は増加の一途をたどっている。若者だけの話ではない。「賛成か反対か」などという次元の問題ではないはずだ。

 妻が担当するのは、偏差値50前後の高校が多い。「フリーター」になる生徒も多いだろう。それなのに彼らは「フリーター」に冷たい。「フリーター」とは、まったく仕事をしていない怠け者だと思っている人も大勢いる。個人のレベルでも収入が安定せず経済的に損だし、フリーターの増大は社会保障にとっての脅威となるからフリーターにはなるべきではないというのが「正解」のようだ。

 少子化対策についての設問もあった。少子化の原因を指摘して、それを解決するための実現可能な政策的提言を行えというものである。偏差値40代後半の高校の女子生徒たちがそれについての小論文を書いていた。ヤンママになる生徒も少なくないだろう。そんな高校に通う人たちに、どうして東大出のエリート官僚と同じ目線で「少子化」問題を論じさせようとするのか。

 自分が本当に切実に知りたいと思っていることを調べ、それについて考えたことを文章にまとめる。そうした「小論文」指導なら意味があると思う。たとえば「山びこ学校」のような。何の関心ももてなければ、まったく知識もない事柄について、権力者と同じ目線に立った紋切の解答を書かせようとする。高校生の知的成長に資するものだとはとても思えない。

歯医者さんのこと(昭和は遠くなりにけり・声に出して読みたい傑作選82)

2009-06-13 15:36:26 | Weblog
子どもの頃、近所に歯医者さんが2軒あった。一軒は小奇麗で「近代的」な、高度成長の時流に乗った医院である。ここは子どもの患者にチョコレートやチューインガムをみやげにもたせていた。子ども心にも、患者を拡大再生産しようという邪悪な意図を感じたものである。もう一軒は、おじいさんがやっている歯医者さん。相当な高齢で、診察中も手がブルブルと震えていた。思い出すだに恐ろしい。偏屈で、患者をどなりつける昔気質の医者だった。

 「近代的」歯科は流行っていた。門前市を成す盛況である。おじいさんの歯医者にかかるものは少なかった。手が震える歯医者などに、誰も診てもらいたくはないだろう。だが、ぼくはこの歯医者に通っていた。この医院のロビーには、カラーテレビが置いてあった。東京オリンピックをはさむこの時代に、カラーテレビなどまだT市では大変な貴重品だったのである。大好きな「ひょっこりひょうたん島」をカラーで観る。それが「恐怖の報酬」だった。

 T市の真中に広い地所をもつこの歯医者のことを、ぼくの周りの大人たちは「あの先生は分限者(ぶげんしゃ)だけえ」と言っていた。「分限者」とはつまりブルジョアのことである。土地を所有し、医者という人々の尊敬の的となる職業についていた彼は、まさにブルジョアであった。そして、その特権を生かして好き勝手に生きた人生でもあった。70を過ぎてから人妻を孕ませ、大騒ぎになったこともあった。「バイアグラいらず」の艶福家である。

 しかし彼は硬骨漢でもあった。大戦末期、町内の30代後半の男性に「赤紙」が来た。肺を病んでいて応召が遅れていたのだ。町内会長をしていた歯医者は、壮行会でこんな挨拶をした。「みなさん。もういけません。この戦争は負けです。この人は死にぞこないですで。そんなもんまで兵隊に取る国が、なんでアメリカに勝てましょうに」。憲兵や特高の刑事もそこにいた。だが歯医者に手出しをしなかった。多分、彼らも度肝を抜かれていたのだろう。

♪青春の勲章は くじけない心だと♪

2009-06-10 11:44:04 | Weblog
太郎は中学校では吹奏楽部ではなく剣道部を選んだ。歴史好きでサムライ好きが高じた結果だが、新しいものにチャレンジしたい気持ちもあったのだろう。小学生のころより格段に明るくなった感じがある。まだ防具もつけていないが、素振りを繰り返して逞しい身体になってきた。目つきも鋭くなってきたように思う。

 小学校の吹奏楽団はめちゃくちゃ厳しかった。特に6年生は完全な怒られ役。そこから解放されて、いまは下級生の気楽さを満喫している感じだ。身体を動かすのも発散になるだろう。ただ太郎の演奏を聴きにいくのが、ぼくたち夫婦の大きな楽しみだった。それがなくなるのは正直さみしいと思っている。

 顧問の先生も丹沢山系のふところで「動物とともに暮らしている」という大らかな人だ。「中学の部活は楽しくやるもの」というのが信条。勝利至上主義ではないのが好ましい。朝練の日に太郎の忘れ物を届けにいったら、練習とは名ばかりで部員たちはみんなで鬼ごっこをやっていた。呆れもしたが、自分が中学のころの部活もこんなものだったなと思った。

 剣道部の部室は体育館の2階の目の届きにくいところにある。それをよいことに先輩たちが「エロ本」をもちこむのが部の習いなのだという。「エロ本」といっても「週刊プレーボーイ」ぐらいだというからかわいいではないか。顧問の先生も黙認しているようだ。この部室には80年代の「エロ本」もあるらしい。大宅壮一文庫並みの充実ぶりである。

 「青春の巨匠」こと現千葉県知事は、長く「剣道二段」を売り物にしていた。しかしそれが真っ赤な嘘であることが最近明らかになった。われわれの世代であれば、彼のドラマの影響を受けて剣道を始めた人も多いのではないか。この人物には様々な経歴詐称の疑いが生じている。かつての若者たちの夢を踏みにじったという点では、この段位の詐称がもっとも罪深いといえよう。 

勘合貿易

2009-06-07 10:29:42 | Weblog
 骨子が小学校の高学年の時のことである。同級生の小夜子ちゃんが、骨子ともう一人の仲良し、梅子ちゃんに向かってこういった。「骨子ちゃん。梅子ちゃん。うちにものすごくエッチな本があるの。今度の土曜日、うちの親二人ともいないから、みにこない?」。骨子はびっくりした。小夜子ちゃんは資産家のお嬢さんで大変な美少女である。ご両親はともに非常に厳格な方だ。いったいどんなエッチな本があるのだろうと骨子は不思議に思った。

 土曜日。約束どおり小夜子ちゃんの家を骨子と梅子ちゃんは訪れた。二人の前に、小夜子ちゃんが差し出したのが市の教育委員会が作った「さわやか」という性教育読本である。男の子ヴァージョンのようである。小夜子ちゃんのお父さんが中学生だったころのものなのだろうか。勃起射精等々、男の子の生理的メカニズムが詳細に書いてある。小夜子ちゃんたちにとってはそれが「ものすごくエッチ」に映るのだろう。

 性器を清潔に保つために包皮は早く剥いた方がいいとその本には書かれていた。欧米諸国では幼児期に割礼を施すのが一般的であるとも。この記述に骨子はものすごく強い印象を受けた。「割礼」ということばをいち早く覚えたのである。しかし骨子にはそれが「かつれい」とは読めなかった。彼女は最近まで「わりふだ」だと思い込んでいた。

 中学生ぐらいの男の子は自分の性器の大きさや形状に悩むものである。「さわやか」には、擬人化された男性性器たちが手をつないで輪になっているイラストが載っていた。その「キャラクター」たちの形状は大きかったり小さかったり剥けていたりいなかったり毛が生えていたりいなかったりと様々であった。一人一人顔が違うように性器の形状も違うのだから、まったく気にする必要はないといいたいようだ。そのイラストの下には、こう書かれていた。「みんなちがってみんないい」。金子みすずはどう思うのだろうか。


大学教育の無償化を(日本海新聞コラム潮流・5月29日掲載分)

2009-06-04 15:02:28 | Weblog
日本では貧困世帯が全体の約15%を占めている。この貧困率は、先進諸国のなかではアメリカに次ぐ高さである。新聞やテレビの報道で、このデータはかなりよく知られるようになってきました。しかし、本当にそんなに貧困は増えているのかと疑問に思っておられる方も多いのではないかと思います。たしかにみすぼらしい身なりで街を歩いている人などほとんどみかけません。食べ物であれ、服であれ、ハイテク機器であれ、店頭には安価で良質な商品があふれています。貧困の増大がリアルに感じられる状況ではありません。

 娘の高校の吹奏楽部に、高価な楽器を自分でもっているおしゃれな先輩がいました。その先輩は、去年の暮れごろから部活を休みがちになりみんなが心配していました。彼女のお父さんが突然病気で倒れて仕事を失い一家は無収入になっていたのです。家計を支えるために彼女は、いくつものアルバイトをかけもちします。部活に出てこられる状況ではありません。引退式で彼女は、涙ながらにそのことを部員たちに告白しました。「受験勉強などとてもやっていられない。それ以前に大学に行くお金もない。私はどうしたらいいの」。

 「自己責任」ということばが、小泉政権の時代に流行しました。不遇な状態に陥るのは、その人の能力や努力が欠けているからであり自業自得である。そうした思想がこのことばの背後にはあります。もしこの先輩が大学進学を断念しなければならないのだとすれば、それも「自己責任」なのでしょうか。大学を出るためには数百万円の学費がかかります。貧困家庭には、それをまかなう資力などありません。親の資力の有無という、本人の能力や努力とは何の関係もない要因によって大学に行けるかどうかが決まってしまうのです。

 90年代に始まる財政難のなかで大学への補助や奨学金のための支出が次々と打ち切られていきます。学費は高騰し奨学金の多くが利子つきのものになっていきました。大学進学の可否が親の資力よってきまる仕組みが強化されていったのです。かつてイギリスは、子どもが親と同じ職業に就く比率が高い典型的な階級社会であるといわれてきました。ところが近年では日本の方がイギリスより階層の流動性が低くなってきています。「公正な競争」を重んじる改革が、出生によって子どもの将来が決定される社会をもたらしたのです。

 ヨーロッパ諸国では、高校大学の学費は原則的に無償です。そして若者たちは、親の世話になるのでも、アルバイトをするのでもなく奨学金を給付されて大学に通います。日本もそうなっていれば、あの先輩の涙もなかったはずです。お父さんの病気は心配でしょう。しかし、そのために彼女の将来が損なわれることなどありえないのですから。また高額な教育費の圧力は、住宅ローンとともに親たちを苦しめています。大学教育が無償になれば、不条理に未来を断たれて泣く若者も、自殺をする中高年も大きく減るに違いありません。