ガラパゴス通信リターンズ

3文社会学者の駄文サイト。故あってお引越しです。今後ともよろしく。

Blaming the Victim2

2007-01-31 06:15:43 | Weblog
ぼくが疑問に思うのは、社会のなかに存在する条件反射のようなものだ。「給食費の未納が増えている」と聞けば、「かわいそうに。払えない家庭が多いのか」という反応もありうるものである。ところが「他人に寄生する怪しからぬ連中の増大」という反応しか生じてこないのは一体どうしたことか。相変わらず「日本に貧しい人はいない」という幻影が生きている証拠だと思う。また、困窮した人の側に立つのではなく、強い者の側、権力者の側にに立つ発想が優越していることに、この反応は由来しているのだと思う。

 給食費の未納で財源ピンチ、などという報道がなされている。ちゃんちゃらおかしい。日本の財政規模は一体いくらなのか?22億なんて、戦闘機一機買うのの、ちょうど10分の1程度のものである。やれ教育に力を入れるの、やれ食育は大切だなどというのであれば、給食費など当然無償にすべきではないのか。そうした国もたくさんあるというのに。

 全国最低の青森県の未納率は0.3%。テストの点に直せば、完全に100点満点である。全国最低の沖縄県でさえ6.4%。94点である。「なんくるないさー」。100点満点でないと許してもらえないのか!これはセンター入試のリスニングテストであらわれた人間絶対無謬思想の別の表現ともいえる。

 しかし0.3パーセントなどということが本当にあるのだろうか。いじめ自殺は文部省の統計では何年もゼロになっていた。その嘘が昨年の暮れに露見したばかりである。学校は自分に都合の悪いことは表に出さない。そのことを熟知しているはずのメディアが、何故数値の信憑性に疑問符を呈さないのか。

 給食費の未納などまさに重箱の隅をつつく類の問題である。こんな瑣末なことまで持ち出すことの意味は何か。権力者の側は、寄生虫が増大してこの国を傾けているというイメージを与えたいのだと思う。そして、22億円にめくじらを立てる姿勢は、教育になど金をかけるつもりはさらさらないという、政府の意思表明なのだろう。

Blaming the Victim

2007-01-28 09:40:44 | Weblog
給食費の未納が大きな問題になっている。データの出所は文部科学省の調査だが、未納が増えているのは親の側に問題あるという方向で世論誘導がなされている印象だ。この問題について「朝日新聞」には教育社会学者・本田由紀さんの注目すべき見解が載っていた。給食費の未納は近年急激に増えている。しかし「給食費はきちんと払うべきだ」という人々にもたれていた規範意識が短期間で急激に変動することなどありえない。これはやはり、給食費を払うこともできない貧しい人が急激に増えているとみるべきではないのか、と。

 なるほど。給食費の減免措置はあるだろうが、そこにはハードルがある。その基準に足りていないが困窮している人も大勢いるだろう。また減免の根拠となる所得証明は前年のものだ。今年に入って急激に所得が減れば、やはり給食費は払えなくなる。給食費未納問題は、貧困の急激な拡大の問題として語られるべきものだ。それが「心がけの悪い親」の急増とすりかえられてしまっている。

 外車を乗り回しながら生活保護を受けている人間もいるだろう。だからといって生活保護を受給している人のすべてがそうした不正を働いているわけではない。学校側が発表する極端な事例をうのみにして、それがすべてであるかのようなマスコミ報道のあり方はどうかと思う。学校が親を悪者にしたいという下心をもっていることはみえみえだ。そうすればこの問題だけではなく、様々な自分たちの不手際を親のせいにできるのだから。どうしてメディア人どもは、そんなことにも気がつかないのか。資料批判の努力を放棄してしまった日本のメディアはジャーナリズムの名に値しない。

 以前、フリーターの増大が経済の悪化の原因で、彼らは働くことを忌避する怠け者だという言説が力をふるったことがあった。経済の変動の犠牲者に「諸悪の根源」のレッテルを貼り、石の礫を投げつける。こんなことを一体いつまで続けるつもりなのだろうか。こうした犠牲者を非難する(blaming the victim)言説が横行していることも、日本で自殺が極端に多い一因なのだとぼくは考えている。


ユージン・スミス

2007-01-26 18:05:16 | Weblog
 15年ほど前のことである。鳥取で新聞記者をやっている友人から電話がかかってきた。徳永進医師の主宰する文化施設、「こぶし館」でユージン・スミスの写真展をやる。ついてはスミスの解説を地元紙の文化面に書いてくれというのが依頼の内容だった。

 ホスピスムーブメントの旗手としての声価の高い徳永医師は、子どものころから「大きくなったらシュバイツァーのような偉大な医者になれ」とお母さんから言われ続けて育っていった。高校時代に徳永少年はユージン・スミスの写真と出会う。スミスが映し出したシュバイツァーからは、「偉大な人物」たらんとする彼の臭みを感じて好きになれなかった。むしろ「カントリー・ドクター」という一連の写真に描かれた、アメリカの田舎医者、エルネスト・セリアーニに徳永少年は強くひかれたのである。徳永さんは後に、セリアーニと同じ田舎医者としてのキャリアを選びとっている。

 自分の人生の方向付けを与えてくれたスミスに、徳永さんが深い思いを寄せるのは当然のことだ。何度かこうした作品展を徳永さんは鳥取で開いていた。この時ぼくが何を書いたかはいまは覚えていない。記事が新聞に載った数日後、父から電話がかかってきた。

 父はいう。「徳永さんのところの文章、読んだで。なかなかよう書けとった」。まずはぼくの文章をほめてくれた。「ただなあ、新聞は天下の公器なだけえ。軽々によそ様のことを『友人』ちゃあなんで呼んだらいけんだ」。?!一瞬ぼくは耳を疑った。「お前がなあ、なんぼ『友人』だと思とっても、あのスミスっちゅう人はお前のことを『友人』だとは思っとらんかもしれん。文化の違いちゅうこともあるだけえ。よう気をつけないけんで」。

 驚いたことに父は「ユージン・スミス」のことを「友人スミス」とぼくが書いたと勘違いしていたのだ。こうした不思議でとんちんかんな心配を、父は大真面目でする人だった。それから10年近くの後に、徳永医師のホスピス「野の花診療所」で、母のあとを追うように人生の幕を閉じることになるとは、この当時、ぼくにも父にも予想だにすることはできなかった。

号泣する準備はできている2

2007-01-22 21:03:27 | Weblog
4年生の卒論審査が終わり、今度はいまの3年生が卒論にとりかかる番になった。Hさんという学生のテーマは、「感動作品で泣く人たち」。彼女の話だと、ネット上に「みんなで集まって泣く会」というのがあるのだという。みんなで集まって「セカチュー」みたいな「感動作品」をみる。どこでどうやって泣くのだろうか。映画館の暗がりのなかで泣くのか。はたまた映画をみた後に喫茶店や居酒屋で集団で泣くのだろか。前者だとみんなで集まる意味がよく分からない。後者なら相当不気味だ。

 「死のう団」ならぬ「泣こう団」!なんだかネット自殺と似ていなくもない。彼女じしんも「感動作品」で泣くことが大好きなので、この人たちのオフ会に参加してみたいといっていた。参与観察大いに結構。だが怪しげな集団でなければよいが。

 何故「感動作品」で泣くことを求める人がかくも多いのか。ぼくはスポーツが現代社会に果たしている役割についての、ノルベルト・エリアスのことばを思い出した。現代に生きる人間は、大きな自己抑制を強いられている。日々の仕事のなかで感情を激発させることはご法度だ。公然と興奮することが許されるスポーツは、みるにせよやるにせよ、社会の「抑制解除の装置」とし大きな役割を果たしている、とアリエスはいう。

 現代人はみな感情労働者だ。ネガティブな感情を表出することは強いタブーとなっている。だからオフの時間には、思い切って泣きたいのだろう。笑いだけではなく、泣くことも身体にはよいのだと彼女はいっていた。『週末号泣のすすめ』という本まであるらしい。本のタイトルには驚くが、感情を不自然に抑制することが身体によいはずはない。

 「セカチュー」など腹がたつほどくだらない話だった。しかし、くだらないからよいのかもしれない。深みのある映画では、逆に考えこんでしまって感情を抑制してしまうだろう。くだらない映画なら何も考えずに泣くことができる。朝鮮半島では葬式で派手に泣くことが礼儀だから、涙をさそうために、フォンフェという催涙効果のあるエイの料理が出されると聞いた。Hさんいうところの「感動作品」は、現代日本における形をかえたフォンフェなのだとぼくは思う。

無知の涙2

2007-01-20 10:24:22 | Weblog
 1958年、東京の下町で一人の少女が殺された。犯人は同じ高校に通う李珍宇という少年だった。李は、彼女を殺した後、報道各社に自分の犯行を告白する挑発的な電話をかけている。事件の猟奇性といい、自らがメディアに登場する「劇場犯罪」的性格といい、酒鬼薔薇事件の先駆的事件ともいえるだろう。

 李はとても頭のいい少年だった。くりかえし盗みを働いていたが、盗品のなかには世界文学全集もあり、それらをすべて彼は読破していた。もちろんドストエフスキーの『罪と罰』も読んでいた。彼はラスコリニコフ的殺人者だった。在日のコミュニティからも差別されていた悲惨なまでの貧しさに耐えながら、自分の凶行を正当化する理屈を、そのよい頭と読書から得られた膨大な知識を駆使してこねあげていたのである。

 永山は逮捕されてから知に目覚める。差し入れてもらった辞書を頭から暗記して、その後モーレツな読書にふける。彼に決定的な影響を与えたのはヘーゲルとマルクスであった。獄中で彼は『無知の涙』という本を書く。貧しさと無知の故に自分は凶行を重ねた。それがこの本の内容であり、永山の法廷闘争を貫ぬく論理ともなった。彼はいわば「後づけ」のラスコリニコフだったのである。

 団塊の世代に属する永山の主張は、戦後日本の歩みを正当化しているように思う。貧しさが永山のような人間を生んだのだとすれば、貧困を根絶した高度経済成長は礼賛されなければならないだろう。「無知の故に」罪を重ねた永山は猛烈な勉学を獄中で重ね、有力な文学賞を受ける「作家先生」になった。永山のこの「出世」の過程は、身につけた知識の量によって社会的ポジションが決定されるという、学歴社会のグロテスクな戯画のように思える。

 無知の故に自分は罪を重ねたと永山はいう。しかし、かの博識なるラスコリニコフは老婆殺しという大罪を犯した。その彼を改悛させたのは、無知なるソーニャだったのではなかったか。この点で永山則夫は大きな間違いを犯している。表面的に永山は自分の犯した罪を悔悟しているかのような発言を重ねていた。しかし、彼はマルクス主義で理論武装することで自分の殺人を「階級闘争」にすりかえてしまった。

 永山は死刑執行に対して「徹底的に闘う」と宣言していた。ことばのとおり死刑執行に抗った彼の遺体は、傷だらけであったという。暴行の痕跡を隠滅するためであろう。永山の遺体はすぐに荼毘に付された。永山という男は、自分の犯した罪を深く悔いながらではなく、階級闘争の最前線で英雄的な死をとげる選ばれし者としての陶酔感を味わいながら、天に昇っていったのだとぼくは思う。

無知の涙

2007-01-18 12:03:31 | Weblog
 一度に四人もの死刑執行がなされたことには驚いた。昨年12月25日のことである。4人の同時執行は、97年の永山則夫たち以来のことだという。永山則夫が逮捕されたのは、69年の4月。ぼくの中学校の入学式の日だったからとても印象が強い。米軍基地から盗んだピストルで、東京・京都・函館・名古屋で4人もの人を殺している。

 永山は、青森県の貧しい家庭に育った。義務教育にさえ満足に通えない貧困のなかで育っていったのである。中学を卒業した永山は、集団就職で東京に出ていった。上京した永山は、貧困の記憶に彩られた忌まわしい過去をすて、「東京人」として生まれ変わろうとする。VANのブランドに身を包み、偽造した明治学院大学の学生証を持ち歩いた。都会のぼんぼん学生を気取ったのである。

 しかし、出自は消せない。東京人を気取って口を開けば強い東北なまりの交じったことばが出てくる。そしてヒッピームーブメント華やかりし時代のことである。ほんもののぼんぼんは、VANできめこんだ永山をあざ笑うかのように、ぼろぼろの身なりをしているではないか!東京人としての転生を拒絶された永山は強い絶望感を覚える。犯罪者への坂道を転がり落ちていった。

 ぼくも同じ地方出身者として、永山に大いに共感する部分がある。何故上京を強いられるのか。それは地方にいても将来がないからだ。いわばぼくも永山も地方から東京に「拉致」された人間だ。しかし東京に出たぼくたちは、東京人への転生を夢見ていた。そして背伸びして見栄をはるのだが、それはすぐに馬脚をあらわる類のもでしかなかった。東京人へのコンプレックスは、われわれ地方出身者のなかでは凄まじいものがあった(05年11月5日分参照)。

 永山という人物には、まったく共感できない部分もある。永山は自分の犯罪の原因を貧困に帰しているが、実は東京人への転生を拒絶されたことが犯罪の動機だったのである。そんなことで4人もの人間を殺すことなど許されることではない。また法廷闘争での彼の言辞にも強い違和感を覚えるが、それについては稿を改めて。


真実はいつも一つ!

2007-01-16 23:00:47 | Weblog
 かの名文「かっこよかったイルカショー」※を書いた太郎には、文才があるのではないかとぼくはひそかに疑っています。1年生の時にも、こんなカルタを作っていた。

く クリスマスツリーをかざっていたら ツリーがたおれた
さ さむさにこごえて こおりづけ
ね ねんがじょうをかいていたら いちねんがすぎた

 どうです。なんだか山頭火や尾崎方哉みたいでしょう。変てこな文章を書く才は、父親譲りか。

 自分でも文章力に自信をもったのか太郎君は、今度は小説を書くことにしました。タイトルは「名探偵巧(たくみ)」。主人公が密室殺人を解決する、推理小説です。少年探偵巧は、登場早々犯人を名指します。「犯人はあなたです」。「ど、どうしてそんなことが分かる!?」。「ひがいしゃのずがいこつにあなたの名前が書いてありました」。ダイングメッセージ?でもどうして自分の頭蓋骨に書けるの?!

 巧が乗り移ったのか、太郎も鋭い推理力を発揮します。歯科医の次男が妹を殺してバラバラにしたという事件がありました。まだ次男が逮捕されていない段階でわが家の「名探偵巧」は、「これはきっと自殺だよ」といっていた。自殺ならどうして死体がバラバラなのと聞くと、「自分で足を切って、胴体を切って、最後に首を切った。そうすればバラバラになる」。じゃあ何故バラバラの死体がクローゼットにしまわれていたのかと聞くと黙ってしまった。名探偵敗れたり!

 しかし子どもは学習するものです。新宿で上半身、澁谷で下半身、そして町田で頭部が発見される猟奇事件発生。被害者はエリートサラリーマン。加害者はその妻であるとのこと。わが家の名探偵巧こと、ぼくが太郎に「これも自殺かなあ」と尋ねると、「無理だよ。下半身なしじゃあ、歩けないもん」。そうだね。下半身がないと電車にも乗れないしね。

※06年10月7日分参照


鳥だ!スーパーマンだ!!いや、学部長だ!!!(もうすぐ別れの季節・声に出して読みたい傑作選17)

2007-01-14 09:02:57 | Weblog
 8年前の8月の20日過ぎ。大学病院に行くと、骨髄移植の日程が示されました。これまで病気のことは、大学関係者には伏せていました。しかしこの先、半年以上の休職はさけられません。私はその夜、学部長に電話をかけました。着任早々申し訳ないが、長期入院をすることになったと手短に用件を伝えたのです。着任してからの私は、ひどい貧血でドラキュラのような顔色をしていました。だから学部長も、長期入院ということば自体には、それほど驚いた様子はありませんでした。

 「どこが悪いの。消化器かい」と聞くので、「白血病です。骨髄移植を受けます」と答えました。彼は平素多弁な人です。その彼が完全にことばを失ってしまいました。「3千世界に沈黙がこだまする」という古風なことばさえ浮かびました。よほどショックだったのだと思います。学部長は大変な人情家です。入院する直前に町田のデパートのてんぷら屋で、お昼をご馳走してくれました。あなたはきっと治るはずだ、と私を励ましてくれました。大変に力づけられました。

 移植は成功し、私は無菌室を一月ほどで出ることができました。病状も安定したころ、学部長から見舞いに行くという連絡がありました。その旨を医師たちに告げると、彼らは何故か狼狽を始めました。「学部長が来られるのですか!こちらも学部長を呼びましょうか?」。医学部で教授といえば大変なステータスです。学部長ともなれば尚更でしょう。文科系は違います。年功さえ積めば誰でも教授になれるのです。学部長も、とりたてて特権はない。雑用係のようなところさえあります。カルチャーの違いを感じました。

 その日の午後、学部長が見舞いにきました。病室をのぞいた彼は、ぼくの名前を呼ぼうとしてそのまま絶句してしまいました。ぼくの頭に髪の毛が一本もないのをみて、びっくりしてしまったのです。恩のある先生を二度も驚かせて、悪いことをしたとぼくは思いました。彼が帰ってしばらくした頃、医学生が「いま学部長が来られましたね」といいました。どうして分かったのでしょうか。彼女はいいます。「エレベータを降りて来られた瞬間、あ、学部長だ!と思いました。あの方は絶対に大学教授以外にはみえません。きっとこの人がそうだと思ったのです」。そう、学部長は学者のイデアが服を着て街を歩いているような先生でした。その他の職業の人には絶対にみえないでしょう。


硫黄島からの手紙2

2007-01-11 07:18:59 | Weblog
 栗林中将への評価で、ある方から興味深いご指摘をいただいた。栗林部隊が米軍の勧告を受けて降伏をしていたら、捕虜の人道的処遇を求めたジュネーブ条約の遵守にこだわる米軍は、絶海の孤島での1万を超える捕虜への待遇に追われて、相当期間戦闘の手を休めなければならなかったのではないかと、その方はいっておられる。

 たしかにたかだか本土へのB29の空襲を1月ほど遅らせるために全員を殺してしまうようなやり方より、組織的投降によって時間をかせぐ作戦の方がよほど合理的だ。ドイツと日本とを国際法の侵犯者とみなして第二次大戦に参戦したアメリカは、戦争遂行の正統性を維持するために、ジュネーブ条約等の国際法に縛られる立場にあった。それを利用する戦略はたしかにあっただろう。

 栗林が米軍に大きな痛手を与えたことをいまの日本のメディアは誉めそやしている。しかしこの「敢闘」はまったく好ましくない結果を生んだのだとしか思えない。硫黄島のような小さな島でアメリカ軍はあれほどの犠牲を払ったのだ。これが本土決戦だと一体どうなるのか!アメリカ側に生まれたそうした危惧が、地方都市への無差別な爆撃や、広島長崎の原爆投下を呼んだともいえる。圧倒的に優勢な敵に徹底抗戦の意思を示すことの危険性に聡明な栗林は気がつかなかったのだろうか。

 栗林は投降すべきだったのである。「科学する心の欠如」が日本の悲惨な敗戦を生んだということが戦後にさかんに言われた。しかし日本は、ゼロ戦のような高度な戦闘機を作る科学力をもっていた。万歳突撃を禁止し、島内にくまなくはりめぐらしたトンネルを拠点にゲリラ戦を展開した栗林も、いささかも「科学する心」に欠けるものではない。しかし栗林にもそして戦前の日本の支配者にも、国際法に対する認識と敬意とが決定的に欠けていた。この悪しき伝統はいまに続いている。